7.7.集会 中国全面侵略戦争 80年と東京裁判(衆議院第1議員会館)
1937.7.7集会 ノーモア7.7
731部隊について
国家戦略特区に獣医学部か、戦時中の100部隊や731部隊を想起してしまう!!
現に安倍のおじいさん岸信介は、1936年当時、満州国国務院総務司長であり、軍馬や家畜に対する細菌兵器の開発を担当していた。
日本は「皇道精神の具現化」のために、毒ガス兵器、細菌兵器を使い、多くの人々を虐殺した!!
目指したのは、天皇中心の世界帝国 「八紘一宇」
教えてゲンさんより
防疫給水部(細菌戦部隊)
特移扱証拠文書(共謀罪もこういうものか???)
特移扱と言う言葉は分かりました。
では具体的に一人一人の人間をどのようにして特移扱にしたのでしょうか?
敗戦時に日本軍は全ての書類を焼却したので資料はないとされていました。
しかし焼却の焼け跡から焼け残りの貴重な憲兵隊の特移扱文書が発見されて中国に保存されていました。
黒龍江省档案館は1999年8月2日、保存していた資料の一般公開に踏み切りました。
その後2001年に吉林省档案館でも資料が発見されました。
その2つの資料から実際の憲兵隊の特移扱文書を転記します。
原資料はカナで縦書きです。
見やすく手直ししました。
*佳憲高第413号
ソ諜 王明春の抑留取調状況に関する件報告「通牒」
昭和16年7月4日 佳木斯憲兵隊長宇津木孟雄
関東憲兵隊長 原守殿
満洲第834部隊配属憲兵は6月17日13時頃鶴立県梧鎮軍工事地域内に於いて
旅行者に対する不審満人を発見し之を追及したるに
略々ソ諜たるの確信を得たるを以って興山鎮分隊に隠密抑留せり。
中略 状況左記報告「通牒」す
左記
1.省略
2.国籍 中国
原籍 河北省保定府青元県于家庄
出生地 右仝
住所不定
農業働夫 王明春
3.4.省略
5.身柄の処置 本名は入満直後抑留せられたるを以て何ら実害なかりしと言えども
ソ連指令を確実に実行する意図を有しありたるものなるを以て
時局の推移に鑑み「特移」と致し度に付認可相成り度し
以下省略
半分焼け焦げたこのような証拠書類が沢山発見されたのです。
これでもまだ一部でしょう。
生体実験の対象になる人間が足りないからという勝手な理由で(時局の推移に鑑み・・・・)、
特移扱いとして何千人もの庶民がいきなり731部隊に放り込まれたのです。
毒ガス/化学兵器
・中国には、日本軍の行なった細菌戦の影響と思われる?、原因不明の病気に悩んでいる人々が今も数多くいる!!
・731問題
・731部隊は我が大日本帝国最大の機密であり、今後はこの機密保持がどこまでなされるかが最大の問題である???
黒い太陽№15
※「機密」とは、秘密の保全が最高度に必要であって、その漏えいが国の安全又は利益に重大な損害を与えるおそれのあるものをいう。
戦前の刑法には、「敵国ノ為メニ間諜ヲ為シ、又ハ敵国ノ間諜ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ5年以上ノ懲役二処ス 軍事上ノ機密フ敵国二漏泄シタル者亦同シ」(第85条)という規定があった。
朝枝繁春の証言
日本は、あの侵略戦争の事を全く反省していない!!
裕仁は、東条や陸軍に、戦争責任を押し付け、
軍部・政府・医学界は、中国、アジア諸国で、その後戦争被害の後遺症に悩む人を無視している!!
遺棄毒ガス弾、炭疽菌、ペスト菌等による被害者、慰安婦問題、空襲・虐殺等でのPTSDなど。
・戦時中に起きた食中毒・赤痢の事件・事故と新宿の軍医学校(731)の関係は??軍医学校は強毒のゲルトネル菌の研究開発を進めていた??
実際に、中国広東の南石頭の難民収容所で、陸軍防疫研究室が製造したゲルトネル菌が使われ、多くの難民が亡くなっている。
1935年(昭和10年)・・・鳥取で食中毒発生(4人死亡)、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校(西俊英)
1936年(昭和11年)・・・浜松で食中毒発生(患者数は2250人、46人が死亡)、原因ゲルトネル菌、防研嘱託(731)小島三郎、石井四朗、北野政次、西俊英がこの問題に取り組む。
紅白の殺戮者
1937年(昭和12年)・・・大牟田爆発赤痢事件(患者数は12332人、712人死亡)以下の事は関係ないのか?
事件当日の三井三池染料工業所における爆発事故
また当時の新聞記事や調査において、
三井三池染料工業所において、事件発生当日の午後6時と26日午前0時20分の2度にわたり爆発事故があったこと
2度目の爆発では市消防組が消火に駆けつけたが会社は消防組の入所を拒否したこと
患者はまず咽喉を侵されたこと(赤痢ならば咽喉がやられることはない)
市内で人々が次々と倒れた時間帯と工場で爆発事故があった時刻が符合すること
などが分かっている。
当時の時代背景として、2ヶ月前には満州事変が勃発して戦下の色が濃くなってきており、事実この工業所では枯葉剤、合成染料など軍需製品の製造を行なっていた。このため、軍と三井が工業所内で秘密裡に赤痢爆弾を製造しており、それが間違って爆発したのではないかとする説がある。
しかし、仮にクシャミ性毒ガスの製造工程で爆発事故があったことが原因としても、住民の便から赤痢菌が検出されており、また調査に参加した各大学が患者の便から検出した赤痢菌がそれぞれ異なった種類であったことが分かっており、疑問が呈されている。
一方こんな説もある。毒ガス爆発をカモフラージュするため、軍医学校が、赤痢予防錠を配ったというもの??
(参考)『陸軍軍医学校50年史』(1936年)
・三井という会社
毒ガスを、戦前は大量に作り、戦後も枯葉剤を作っていた!!
ベトナム戦争の枯れ葉剤の原料を三井東圧が大
イタイイタイ病を究明した萩野医師に圧力をかけた三井財閥とそれに協力した医学界の権威者たち
萩野 昇 (※戦争中、軍医としてどんなことをやっていたのだろうか?)
2015年
偉人医 ・ 萩野昇
萩野昇(富山のシュヴァイツァー)
富山平野の中央部を流れる神通川は昔から「神が通る川」として地元の人たちから崇められていた。住民たちは神通川のサケやアユを食べ、神通川の水を農業用水として利用し、また水道が普及するまでは生活用水として住民たちの喉をうるおしていた。この北アルプスから流れ下る神通川が、いつしか「毒の通る川」に変わっていたのだった。イタイイタイ病はこの神通川上流にある神岡鉱山から排出されたカドミウムによって引き起こされた公害病であった。
共同研究の結果
昭和30月10月、河野稔と萩野昇の名前で研究成果が発表された。そしてこの奇病の原因を「栄養不良、過労、ビタミンD不足、日照時間不足」と結論づけたのである。さらに産後の休養期間が短いこと、夫婦生活の多いことも要因として付け加えられた。もちろん、萩野にとってこの結論は納得できるものではなかった。もしこれらが原因であればイタイイタイ病は全国の農村で見られるはずであった。
御用学者は、民衆の立場に付かず、国・大企業の側に立つ!!
細谷省吾
※軍医学校防疫研究室は731部隊に、実験などの指令を出していた。細谷省吾は戦争当時、東大伝染病研究所教授で防疫研究室の嘱託研究者だった。
※金沢は731部隊に縁が深い!!731部隊長の石井四郎、その右腕だった増田知貞、生体解剖を多く手がけた石川太刀雄は、金沢四高から京都帝国大学医学部へ進学した。
731部隊で性病や結核の研究をして、戦後『政界ジープ』という右派の時局雑誌を発行した二木秀雄は金沢医科大学出身である。
護衛艦などを作る!!軍需会社!!
三井造船が建造した船舶
三井造船、防衛省から新型潜水艦救難艦を受注 = 日本工業新聞
・パネル展(731細菌戦)
中国は生物兵器を持っていないが、かつて生物兵器の被害国である。
「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦
2016年10月24日(月)衢州
2016年10月25日(火)麗水(1)
2016年10月25日(火)麗水(2)
2016年10月26日(水)四路口
2016年10月27日(木)武義・金華石門
2016年10月28日(金)金華市街
2016年10月29日(土)義烏市崇山村
話は今につながっている!!
渡邊あきさんは満州の731部隊から無一文で引き揚げたのち、夫婦で食料品店を営みある程度繁盛したという。商売に忙殺され、子供たちを育て、戦後を必死で生きていく中で、部隊の事を思い出す間もなかったが、一方子どもたちにはそのことを隠し続けてきた。
石井隊長の戦後3
石井四郎の戦後
日本の医療の原点 731部隊の関係者のその後の職業・役職 及び厚労省との関係 フクシマと731部隊
筑紫哲也さんはガンで死んだのではない。
ガン治療のウラ 3/8
厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。
命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような
医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう
医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する
千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した
平成11年8月 厚生省
碑を建てても薬害は続く!!
8月24日を「薬害根絶デー」とし、毎年要望している。
薬害根絶求め要望書 エイズなど被害者12団体
内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。
・内藤良一は戦後、他の731部隊員と共に、日本ブラッドバンクを立ち上げ、1964年に社名をミドリ十字改称した。
「ミドリ十字」という会社
ミドリ十字の変遷
以下、ウィキペディアより
・ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。
・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。
・731部隊と原爆・原子力の関係
国から派遣された日本の医学者は原爆症患者を救わず、アメリカに協力して原子爆弾の威力・効果を調べた!!
ABCC委員会と731部隊
・・・・ABCC[には、731部隊の顔ぶれやいくつかの関連事実が登場してきます。731部隊の凍傷研究班の班長であり、同時に特移扱いにされたマルタの管理を行っていた班の班長でもあった吉村寿人、後に京都府立医大の学長になる病理学者もその1人です。この吉村寿人が度々ABCCに出入りし調査をしていた記録が残っていますし、これを裏付ける関係者の証言もあります。
ABCCと旧731部隊の関係についてですが、ABCCが最初に広島の北の方、高台の所に出来たときの施設には、石井四朗の叔父の家が提供されて、その建物を使っています。今調べていますが、ABCCの当時の職員名簿を見ると、日本側の職員の中に731部隊の旧隊員が何人もいます。その1人貞政昭二郎が私の取材に「吉村さんはABCCによく来ていた」と話しています。
1948年の終わりから49年という時期に、職員にそういう人たちが出てきます。ちょうど日米の取引の成立直後くらいです。48年の終わりというのはヒル・レポートもできる頃で、その頃には協力体制が出来上がっており、旧731部隊とABCCの共同で動き始めていたのかも知れません。しかし戦後に共同という形で調査をしていたという動きは今のところ記録上ははっきりとはしてません。(『戦後の犯罪につながる細菌戦の隠蔽』近藤昭二著より)
ABCCと国立予防衛生研究所(予研)の関係・・・ウキペディアより
米国科学アカデミー(NAS)が1946年に原爆被爆者の調査研究機関として設立。当初、運営資金はアメリカ原子力委員会(AEC)が提供したが、その後、アメリカ公衆衛生局、アメリカ国立癌研究所、アメリカ国立心肺血液研究所(en:National Heart, Lung, and Blood Institute)からも資金提供があった。1948年には、日本の厚生省国立予防衛生研究所が正式に調査プログラムに参加した。
施設は、広島市の比治山の山頂(元々比治山陸軍墓地があった地)に作られた。カマボコ型の特徴的な建物であった。
ABCCは調査が目的の機関であるため、被爆者の治療には一切あたることはなかった。ここでの調査研究結果が、放射線影響の尺度基本データとして利用されることとなった。
1975年、ABCCと厚生省国立予防衛生研究所(予研)原子爆弾影響研究所を再編し、日米共同出資運営方式の財団法人放射線影響研究所(RERF)に改組された[4]。
・731部隊の罪業をアメリカは不問に付した結果、日本は731部隊の反省を全くしなかった。戦後、731部隊員は国立予防衛生研究所(予研→国立感染症研究所)に入り、研究を続けた。!!
エボラやAIDSは生物兵器として開発されました。
人工的に作られた生物兵器【エイズウィルス】|怖いBLOG - アメブロ
一体、国立感染症研究所は、どんな仕事をやっているのだろうか??
国立感染症研究所
国立感染症研究所
どんな生物兵器を作るのか??「周辺住民の理解を得ながら進めていきたい」と話しています。周辺住民が納得するのだろうか??
国立感染症研究所 「レベル4」施設で5月から実験
国立感染症研究所の危険性!!
加計学園 獣医学部校舎に安全基準に満たないBSL3の研究施設の建設計画があった
長崎大学のBSL4施設設置計画は白紙撤回を!
感染研村山庁舎BSL4施設関連事象の時系列
帝銀事件の犯人は平沢貞通ではなくて、731部隊ではないのか??
731細菌部隊と帝銀事件との真相1
防御と称して、生物兵器開発を進めてはいないか???
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