「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
1995年8月15日
平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
南京大虐殺
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)
原爆
原爆の仕組み
ここでは原爆の仕組みについて解説します。
原爆に不可欠な核物質はウランとプルトニウムです。自然界に存在するウランのほとんどは核分裂が起きにくいウラン238ですが、わずか0.7%のウラン235は核分裂を起こしやすいという性質を持っています。そこで、ウラン235だけを集めるウラン濃縮をおこない、高濃縮ウランをつくりだします。
一方、プルトニウムは自然界に存在しない元素であるため、原子炉内でウランに中性子を当てることにより生成されます。
これらを踏まえて、原爆の仕組みを理解するには、原子力発電にも利用されている核分裂反応について理解する必要があります。ここでは、人工的に核分裂反応を起こす原子炉内で起こっている事柄を取り上げます。
【原子炉内の中で起こっている現象】
核分裂を起こしやすいウラン235に人為的に中性子をぶつけると、ウラン235が核分裂反応を起こし、大きなエネルギーと新たな中性子を生み出します。新たに生まれた中性子が核分裂反応を繰り返すことでエネルギーを生み出し続けるのです。*2)
原爆が使用されたのはなぜ?
●東京帝国大学伝染病研究所
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
宮川米次
(ロ)第四性病の病原体
これ等の小体の外に稍々大なるものがあり、それが分裂して小体が出来ると言うてもいる。要するに顆粒小体を病原体と断言しているのである。その4は本所における真鍋清明氏(実験医学雑誌、22 13年)のそれである。同氏はマウスの胎児の組織を用いて、組織培養を為し、極めて優秀なる所見を得ている。やはり眼の組織等に著しい親和性が認められ、これに次ぐものは睾丸、肺、腎、脳、胃、脾、心臓、皮膚、胸腺の順序であった。一般に幼若なる細胞ほど発育が良く、細胞内に於いて核に近く先ず空胞状に小体の集団が現れる。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第3部 陛下の戦争
第7章 満州事変
Ⅱ
斎藤は直ちに満州国承認の準備に着手した。それは諸条約への違反を必要とし、米国との従来の関係を危険にさらさなければならなかった。いまや日本の政治家、ジャーナリスト、将校、知識人は国際連盟、国際法、西側諸国に強烈な批判を浴びせていた。日中間の紛争に対する連盟の決議は、1895年の三国干渉に擬せられた。それは明治政府に遼東半島の断念を余儀なくさせたものだった。スティムソンの不承認政策を支持し、日本の行動をケロッグ・ブリアン協定〔不戦条約〕や連盟の規約に反すると裁定した連盟を荒木陸相は、非難した。荒木は同時に、白人西洋国家によるアジア抑圧論を述べ立てた。
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