●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』
五月三一日
明日は初年兵が入ってくる。入営者はこれが最後に。この次は愈々僕たちが送ってもらうんだ。あと六ヶ月営庭のポプラの木でもゆすりに行こうかしら。葉さえ散れば満期になるんだからな。満期 草を見て喜んだのも最早一月前のこと 今は此の青さのなくなる満州の寒さを心から祈っている。五月も終わった。六ヶ月も終わったという様になりたいものだ。午後六時大隊本部当番として上番し 一月以来初めてだ。何のことはない、上番したら中隊では演芸館に活動見に行くんだって。なんと運の悪いことだ。僕は中隊からいったことは一度もない。致し方無しか、来年の正月はゆっくりできるから。
●大江健三郎著
Ⅳ 人間の威厳について
Ⅴ 屈伏しない人々
米沢貞二氏(舟入本町、1.4㎞)
舟入本町にて被爆。両手背、前胸、下肢に切創を受けた。舟入国民学校にて8月6日より8日まで吉沢秀夫医師(10日間救護の後原爆症死)とともに救護に当たった。
国友国民氏 故人(白島九軒町、1.7㎞)
白島九軒町の自宅にて被爆。家屋の下敷きとなったが這い出て(家屋資材全部焼失す)、自宅裏の河岸に避難し、一夜を明かした。翌7日より血染めのシャツのまま神田橋詰の救護所にて被爆負傷者の救護に従事した。その後約4か月して江田島に移った。なお、被爆後全身倦怠、食欲不振、脱毛、全身に強度の掻痒症を来たした。23年春より全身各所に赤紫色の皮疹及び潰瘍を発し種々治療したが、その後24年3月原爆症にて遂に他界した(家族よりの回答)。
唯一の戦争被爆国 日本政府は核兵器禁止条約に署名・批准してください!
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅰ 731部隊
731部隊を破壊する
1945年8月14日に行った事
溝淵俊美(みぞぶちとしみ)
731部隊・教育部
〈経歴〉
1922年生まれ
1943年 731部隊入隊。教員部配属
1945年 教育助教勤務。ソ連侵攻時部隊警備隊指揮班長
1945年8月 帰国
■この証言は手記『平房燃ゆ』からの抜粋で、本人の了解を得てまとめたもの。
8月14日
午後7時。列車は発車した、大部分が石炭を満載した無蓋列車(屋根のない貨車)で、中々スピードは上がらなかった、指令車からの命令で、全員が小銃に弾を込めた。暗くなった“北満”の広野を、列車はひた走った。
注 1945年6月、「満州第731部隊」の秘匿名は「満州第25202部隊」に変更された。同時に支部の秘匿番号も以下のように変更になった。
関東軍防疫給水部全体ー満州第25201部隊
同 ハルピン本部ー満州25202部隊
同 牡丹江支部 ―満州25203部隊
同 林口支部 ―満州25204部隊
同 孫呉支部 ー満州25205部隊
同 ハイラル支部ー満州25206部隊
●中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』1991年初版発行
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳
解説
松村高夫
5、本書が明らかにした新事実
言うまでもなく、本書に収録された供述に記憶違いや事実と相違する可能性は否定できない。証言や告発に登場する個人名を原著に忠実に訳出したのも、既に中国で公刊され国際的にも周知のものとなっている原著を、その一部分であれ日本語訳で秘匿することは、かえって国際的に誤解や疑惑を与えかねないからである。もとより本書に収録された供述は、今後の研究の素材であり、それは豊富な素材なのである、したがって、読者は本書から様々な論点を引き出すことが可能であろう。次の6点の整理は、そのような試みの一つに過ぎない。
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第5章
日中全面戦争と毒ガス戦の展開
2 積極的侵攻作戦でのくしゃみ性・嘔吐性ガスの使用
武漢・広東攻略作戦
先ず、作戦開始前の毒ガス戦教育では、ガス放射後に突撃して、「戦闘不能に陥れる敵に対し止めを刺すことが肝要なり」と指導していた、そして実際に、中国軍が激しく抵抗する陣地に対して「あか筒」を使って突撃し「多数の敵兵を刺殺し殲滅的打撃を与ふるを得たり」(10月8日、第3師団によるもの九店付近の戦闘)とか、放射後中国軍は退却を開始したが「瓦斯の為戦闘不能となり刺殺せるもの三百を下らず」(8月22日、波多支隊による城子鎮付近の戦闘)とあるように、ガスを吸って苦悶する中国兵を銃剣で皆殺しにした使用例が登場する。また、中国軍の抵抗で兵士の数が大幅に減少している部隊が、9月23日に「あか筒」約1250本を使用して一気に6㎞突破したことを目撃した岡田資(たすく)少将(歩兵第8旅団長)は、今までの毒ガスについての否定的な発言を全部取り消すと明言したというエピソードまで記されている。
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第5章 陸軍習志野学校
隠蔽と反宣伝
1930年に、英国はかつて議定書中に規定した「窒息性、毒性その他毒ガスに類似する一切の液体」の記述について、その中に催涙性毒ガスを含むかどうかという疑問を提起し、各国の意見を求めた。当時の日本の国連事務の責任者は佐藤尚武事務局長であったが、彼はこのために陸軍省、海軍省及び外務省に手紙を出した。その結果、三省が皆回答して催涙性毒ガスも攻撃性の毒ガスに入る、使用は禁止されるべきだといったきた。しかし実際は、日本軍はすでにこの種の毒ガスを含めた化学毒剤の研究を重要な1プロジェクトとして、毒剤の生産工場さえ建設していたのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます