細菌戦の系譜!!

2022-02-20 10:19:12 | Weblog

 日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 ●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

Ⅱ 関連部隊・支部

シンガポールの細菌戦部隊にネズミを輸送

“難民区の華僑を虐殺”

 

大快良明(たいかいよしあき)8604部隊

<経歴>

1917年生まれ

1938年 臨時召集により輜重兵として第14連隊に入隊。第7防疫給水部に編入

1940年 現地召集解除。雇員として中支那派遣軍防疫給水部“原善部隊”に転属

1942年 南方軍岡第9420部隊に編入

1946年6月 帰国

◆この証言は1993年6月~95年までの聞き取りをまとめたもの。

ネズミの輸送

 私達3人は、それぞれ1機ずつに分乗しました。私は通信士の席に座りましたから、機内の様子はよく覚えていません。ネズミは縦40㎝、横30㎝、高さ30㎝ぐらいの金網の篭にギュウギュウ詰めに入れられて、重爆の胴体部分に積み込まれたわけです。1機に5000匹ぐらい、3機で1万5000匹を運びました。

 

 

 
●証言

生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)

中央档案館

中国第2歴史档案館

吉林省社会科学院編

 

江田憲司

兒島俊郎

古川万太郎編訳

 

 

 

 

4  日本軍の行なった毒薬・空気注射など残酷な手段による中国人民殺害

市毛高友自筆供述書(1954年10月26日)

1940年3月、私は41師団団山砲兵41連隊第2大隊第5中隊第2小隊長の身分で、山西省曲沃県田村鎮に駐箚し、情報・治安・宣撫などの職務を担当していた。ある日、第2大隊軍医大上初治中尉が医学実験に必要ということで、彼に1歳に満たない中国人の女児を与えたところが、過量の薬剤を注射してこの女児を虐殺してしまった。被害者の父母は田村鎮に住んでいた。

(1)119-2、521、1,第5号

●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第8章 戦後史の中の日本軍毒ガス兵器問題

 

 

1、日本の敗戦と毒ガス兵器の廃棄・遺棄

日本の敗戦と日本軍の武装解除

 

毒ガス兵器の廃棄① 国内

 

②詳しい経緯ははっきりしないが、日本軍関係者が密かに遺棄・投棄したと思われるケース

 

これは、敗戦時に日本軍が存在していた地域の付近から少量の遺棄毒ガス兵器が発見されていることからこの様に推測されるものである。例えば、1970(昭和45)年6月5日に千葉県千葉市の工事現場(旧陸軍防空学校敷地内)からイペリット缶大小計8本が発見された事件や(『毎日新聞』1970年、6月9日)、1976(昭和51)年7月30日に静岡県浜松市内の工事現場(秘密戦教育を担当した陸軍中野学校の分校と飛行教育隊の跡地付近)からイペリット缶1本が出土し、作業員6名と住民2名が被災した事件がある(『朝日新聞』『読売新聞』1976年7月31日)。海軍の事例でも、1983(昭和58)年6月2日に神奈川県茅ヶ崎市の学校敷地内の工事現場から(戦時中、海軍砲術学校が学校を借用)300発以上の催涙性ガス手投弾が発見された事件がある(『朝日新聞』1983年6月8日)。

 
 

第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。

百年の悲劇は、ここから始まった1

 
 

 
 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

 

第9章 戦犯の証言

戦犯たちの戦後50年

梅さんはまず、左端の絵鳩毅さんを紹介した。彼は「中帰連」の常任委員長で、上背があり、声は少し鼻にかかっていた。81歳になるというが、話し声の力強さは十分である。彼は「中帰連」会長の富永正三さんの委託によって証言するためにやって来た。この日、富永さんが熊本市の「12・8反戦平和会議」に参加していたためだ。

 
 

SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く

 

加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用



 



 
 
 

 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題


 

 

 

 

 

 

 

 

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