日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅱ 関連部隊・支部
シンガポールの細菌戦部隊にネズミを輸送
“難民区の華僑を虐殺”
大快良明(たいかいよしあき)8604部隊
<経歴>
1917年生まれ
1938年 臨時召集により輜重兵として第14連隊に入隊。第7防疫給水部に編入
1940年 現地召集解除。雇員として中支那派遣軍防疫給水部“原善部隊”に転属
1942年 南方軍岡第9420部隊に編入
1946年6月 帰国
◆この証言は1993年6月~95年までの聞き取りをまとめたもの。
ネズミの繁殖
しばらくしてから、私はマレー半島南部のクアラピアというところで、細菌戦用のノミを作るための動物飼育に従事することになりました。隊長は漢口で私を慰留した高貝衛生大尉で、星子曹長と私と6人の軍属で、クアラピアにある中学校を接収した建物を使いました。1993年に現場に行きましたが、驚いたことに私たちがネズミ飼育に使っていた校舎が、きれいに塗り直されていたものの、今でも「TUNKU MOHAMED中・高校」として使われていたのです。
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
4 日本軍の行なった毒薬・空気注射など残酷な手段による中国人民殺害
大野泰治供述書(1954年)
問:大同晋北〔山西北部〕自治政府〔1937年10月、大同に樹立された日本の傀儡政権〕在職期間中に犯した罪悪を述べよ。
答:1941年6月、警務庁は私の応県公署参事官再任を決定した。私は喬日成部隊を消滅させるために、大同警察署に拘禁中の4名の喬軍兵士を麻縄で縛り、車に乗せて大同城西南2㎞の墓地へ運び、麻酔薬の実験を行った。彼らに強制的に麻酔薬を吸わせたが効果が小さいので、警士に命じてその場で3名殺させ、残りの1名には喬軍に潜伏するという条件を強引に承諾させ釈放した。
*訳注:喬日成ー抗日戦争期、山西省応県の農村自営部隊の長から日本側に投じ、その傀儡軍の「雁北剿匪司令」となった。だが一方で国民党軍とも通じていたため、1941年、日本軍の攻撃を受けて抗戦の末敗北。日本の敗戦後、再び応県を支配したが、46年、共産党軍との交戦で戦死(丁尚斎「喬逆日成横行応県的概略」『山西文史資料』第8輯)。
●毒ガス戦
第8章 戦後史の中の日本軍毒ガス兵器問題
1、日本の敗戦と毒ガス兵器の廃棄・遺棄
日本の敗戦と日本軍の武装解除
毒ガス兵器の廃棄① 国内
③連合軍へ引き渡されてから海洋投棄されたケース
連合軍による処理の例をいくつか挙げてみよう。銚子沖の場合は、銚子市役所による住民などに対するヒアリング調査によれば、関東各地や長野、福島、静岡から集積された通常弾薬とガス弾(うちガス弾は450トン)を、アメリカ軍の指示で1945年10月ないし11月から翌年5月までに海洋投棄したという情報が得られている(銚子市役所「銚子沖イペリットガス弾に関する調査資料」)。
相模海軍工廠の元関係者によれば、残存する毒ガスとイペリット爆弾の特薬缶はアメリカ軍に引き渡したが、アメリカ軍から銚子に運搬して海中投棄することを聞いたというので(元海軍大佐鶴尾定雄「相模海軍工廠設立経緯及び始末」)、銚子沖の廃棄は海軍の毒ガス兵器が主体である可能性が高いと言える。
第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。
百年の悲劇は、ここから始まった1
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第9章 戦犯の証言
戦犯たちの戦後50年
絵鳩さんの話が終わるとすぐ、隣の金井貞直さん(旧姓田村)が立ち上がった。前に出ているなかで彼は比較的健康そうで若く見えたが、既に76歳であった。彼は中国で戦犯として再教育を受けていた1954年10月8日、毒ガス使用について次の証言を行った。
「1942年7月中旬、第59師団第54旅団独立歩兵第110大隊(兵力約300名)は山東省萊蕪県旧寨鎭西北の九頂山山麓の村落に進攻しましたが、八路軍とは戦火を交えることができず、村人を虐殺しました。私は大隊長、藤崎秀一中佐の命令により、歩兵砲中隊長、手塚好雄中尉とともに連隊の砲兵小隊にくしゃみ性ガス弾3発を発射するよう命じました。弾は村の中央の民家に命中し、老人、婦人合わせて15名を殺害しました」
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く
加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用
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