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731からフクシマまで!!

2016-07-15 12:27:27 | Weblog



赤坂離宮内の生物学研究所【1925(大正14)年】
・昭和天皇は生物に関心があった!!勿論、細菌にも関心はあっただろう!!
・日本は富国強兵を目指した!!

1921年昭和天皇フランス視察

1929年11月7日陸軍軍医学校(731部隊に指令を出していた防疫研究室はこの中にあった)視察





・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!

中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!



聞け、この沈黙の慟哭を
平房の涙、地底の叫びを
見よ、この虐げられた大地を
名も知れぬ鳥たちが番人のように私を見下ろしている
記憶は人間の地底を永劫に流れ続ける
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より


日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア


混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)




・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

解説
―この作品の信憑性について―
編集部       竹村 一

(5)

この作品の信憑性を証明する資料はこの他に無数にあるが、これだけでも十分読者は信憑性を確認してもらえると思う。

ソヴェト軍事裁判における被告たちの判決は次のようであった。( )内は刑期である。
山田乙三   大将       関東軍司令官    (25年)
梶塚隆二   軍医中尉     関東軍軍医部長   (25年)
川島 清   軍医少将     第731部隊製造部長  (25年)
西 俊英   軍医少佐     第731部隊教育部長  (18年)
柄沢十三夫  軍医少佐     第731部隊製造課長  (20年)
尾上正男   軍医少佐     第731部隊      (12年)
佐藤俊二   軍医少将     関東軍第5軍軍医部長 (20年)
高橋隆篤   獣医中将     関東軍獣医部長   (25年)
平桜今作   獣医中尉     第100部隊研究員   (10年)
三友一男   軍曹       第100部隊員     (15年)
菊地則光   上等兵      第731部隊衛生兵   ( 2年)
久留島祐司 (階級不明)    第731部隊衛生兵   ( 3年)
人道上許しがたき細菌戦における犯罪について1名も死刑がない点に、種々憶測がなされている。
1つは、12名の被告がその行動を深く反省し、細菌戦、人体実験に関する秘密を全部軍事法廷で供述したからであるという。これは裁判記録を読み、昭和26年1月2日のモスクワ放送による被告の叫びを聞く限り、根拠ある説だと思う。川島少将は、「人類に対する日本の犯罪は、徹底的に暴露されるべきだ」と言い、平桜中尉は「細菌戦争の責任をもちながら被告席にいない天皇、また石井四郎の厳罰を望む」と言い、菊地上等兵は「細菌戦に関する主要犯罪者がこの席にいないのが残念である」と言い、久留島は「私を細菌戦に駆り立てた日本軍閥に限りない憎しみをもつ」と言う。




※下記の“コラム”の記事にあるように、90名を裁判もかけずに捕まえ、30人をハルビンの731部隊で人体実験に供し、残りの60人は、孫呉で下車させられ、習志野学校(毒ガス部隊)と石井部隊(731部隊)の協同による毒ガス弾効能実験にあてられ、その特別演習用に供せられた。つまり、90人全員が生体実験され殺されたわけだ!!!!





小泉親彦(ちかひこ)



※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。






・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第2部
恐るべき遠足

死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。



・パネル展



瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」






「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦




話は今につながっている!!幽霊が出る!!

石井隊長の戦後2 




筑紫哲也さんはガンで死んだのではない。
ガン治療のウラ 3/8




「ミドリ十字」という会社




内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。

厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。

命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような
医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう
医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する

千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した

平成11年8月  厚生省


碑を建てても薬害は続く!!

イレッサ判決・大阪高裁で原告の逆転全面敗訴


イレッサ訴訟
子宮頸がんワクチン接種後の症状





国はワクチンの承認や定期接種などに積極的に関わった責任があり、グラクソ・スミスクライン、MSDのメーカー2社は製造物責任がある!!


子宮頸がんワクチン 国とメーカー2社へ集団賠償訴訟へ



以下、ウィキペディアより
ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。
・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。



ヒロシマからフクシマへ
戦後放射線影響調査の光と影
堀田伸永

参照文献・サイト一覧(本文中に出典を明記したものは原則的に除く) 
『昭和31年版原子力白書』(1954年、原子力委員会)
『原子力年鑑1957年版』(1957年、日本原子力産業会議)
第五福龍丸平和協会編『ビキニ水爆被災資料集』(1976年、東京大学出版会)
日韓関係を記録する会編『資料・細菌戦』(1979年、晩聲社)
広島原爆障害対策協議会編『第20回原子爆弾後障害研究会講演集』(1980年、広島原爆障害対策協議会) 
三宅泰雄『かえれビキニへー原本爆葉止運動の原点を考える』
(1984年、水曜社)
川名英之『ドキュメント 日本の公害 第4巻 足尾・水俣・ビキニ』
(1989年、緑風出版)
核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会編『医師たちのヒ口シマ―原爆災害調査の記録』(1991年、機関紙共同出版)
中川保雄『放射線被曝の歴史』(1991年、技術と人間)
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典」(1991年、東京大学出版会)
笹本征男『米軍占領下の原爆調査―原爆加害国になった日本』
(1995年、新幹社)
『金沢大学50年史 通史編』(2001年、金沢大学創立50周年記念事業後援会)
岩垂弘『「核」に立ち向かった人びと』(2005年、日本図書センター) 
古畑徹「731部隊と金沢」(2006年12月16日、金沢大学サテライトプラザにおけるミニ講演、金沢大学学術情報リポジトリKURA) 
科学技術庁原子力局『原子力委員会月報」各巻一覧
(内閣府原子力委頁会ウェブサイト内)
ヒロシマ平和メディアセンターウェプサイト(申国新聞社)
国会会議録検索システム(国立国会図書館)           以上

福島 南相馬の避難指示 大部分が解除




・日本の科学者の核兵器への執念の系譜
戦中、日本は原爆開発をしていた。戦後もその動きが続いている!
◉ 特集 : 「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ
小路田泰直

しかもこれは、「思想により戦争を地球上から追放すること」「人の心底に「戦争は罪悪である」という観念を堅く植えつける」こと (「第一の方法」[★11])は本質的に不可能だという認識の上に放たれた言葉だった。


1950年11月11日、当時はアイオワ州立農工科大学にいたG.W.フォックスから仁科芳雄宛に、次のような書簡が送られているが、 この書簡は逆に、仁科からフォックス宛の「いまアメリカで弾みをつけつつある再軍備プログラム」への積極的協力の申し出の存在を窺わせる。当然「再軍備プログラム」とは、冷戦と朝鮮戦争の勃発を機に始まった水爆開発のことを意味していた。



※1956年(昭和31年)原子力委員長の正力松太郎の要請で原子力委員になる。しかし湯川は、正力の原子炉を外国から購入してでも5年目までには実用的な原子力発電所を建設するという持論に対して、湯川は基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反発、1日で委員を辞めようとしたが森一久らになだめられ踏み止まった。しかしその後も対立は深まり、結局体調不良を理由に翌年には在任1年3か月で辞任した。
※今現在も、潜在的核保有国なのか、もう核兵器を持っているのだろうか?全ては極秘裏に進められている!!



海の放射能に立ち向かった日本人 ~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~/NHK・ETV特集



開示された文書「何で黒塗り?」



原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)



放射能汚染地図「川で何が起きているか?」



原爆報告書を書いた科学者は、原爆の威力を調べ、調査に参加した医学者は、原爆が人体に与える影響を調べ、治療はしなかった。アメリカとの取引を有利にするために為に。被爆者は???
封印された原爆報告書








全文は、「731からフクシマまで!!」で!!

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