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この世の地獄!原発・登戸・731・南京!!

2011-11-28 10:55:28 | Weblog


日記@BlogRanking
日本政府は、先の侵略戦争を真摯に反省し、アジア・日本の被害者に対し謝罪すべきである!!

きけ!!「マルタ・アジアの被害者」の悲痛な叫び!! 
  「怨」
No More 731!! No More Nanking!!
No More Noborito!! No More War!!
No More Fukushima!!
武器よ!原発よ!さらば!!
沖縄の米軍基地撤去!!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
9条を世界に!!

新しい日本!! 

世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!!
昭和天皇の戦争犯罪・戦争責任を問う!!
政府は戦史資料を全面公開せよ!!


沖縄を米軍の基地にしたのは誰なのか。

城山三郎著『落日燃ゆ』には広田弘毅が、南京大虐殺当時の外相として事件の処理にあたり、軍部に対しても強く抗議した模様が描かれているが、外相・首相と務めれば日本軍が中国で何をやっていたかを熟知していただろう!!もちろん731部隊の残虐な実験や作戦についても!!東京裁判では広田は何も弁明していないが、日本がアジア諸国に及ばした加害の事実はよく知っていたのではないのか?
 
広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 


福島に限らず放射能汚染に悩む全世界の人々の悲痛な叫び!!
ふるさとを返せ!!自然を返せ!!
日常を返せ!!  脱原発!!

日本は、“平和を愛した?”「昭和天皇」・“原子力の未来を明るく描いた”「鉄腕アトム」・“アメリカと結託して原子力を推進した”
「中曽根・正力」・“今現在でも原子力を推進しようとする「石原」に騙され続けているのでは?と強く思う!!


福島4号地震で傾斜修理中! 1.2.3号機メルトスルー!5/13ガンダーセン(字幕)
東電のカネに汚染した東大に騙されるな!
日本を導く頼もしい学者先生方
医学は水俣病で何をしたか(抜粋)
水俣病のときは、東大の学者を利用して世論操作を行い、被害を拡大させてしまって...
「原爆報告書」は、毒ガス戦・731部隊の隠蔽と国体護持のために、アメリカに少しでもいい心証を与えるために国策として作られ、当の苦しんでいる被爆者には活用されなかった!!なるほど、天皇は原爆忌に広島・長崎には行けないわけだ!!
731部隊を隠蔽する目的の取引!NHKスペシャル 封印された原爆報告書

封印された原爆報告書
2011年11月6日[7 /9] 小出裕章助教「未来のために!原発事故が教える現実」

バスビー教授「莫大な放射能を隠蔽する原発産業」



福島の子供達を救おう(←署名は、ここをクリックして行ってください!!)
2011年11月10日更新情報: 今日、補償に関する会議は、同会議の管轄外として、福島の子ども達を守る行動を起こしませんでした。しかし、総理大臣には行動を取る権限があり、私達の嘆願書は爆発的な勢いで広がりを見せています。総理大臣を動かす数の署名を集め、総理大臣が緊急行動を起こしてくれるまで、大臣とメディアに、署名数を発表していきます。今すぐ署名してください!

【海外】放射性廃棄物輸送巡り市民数千人と衝突 列車でフランスからドイツへ(ゴルレーベンでの抗議行動に福島の方々と山本太郎さんも参加)
【汚染】葛飾区 12月1日から放射線対策室を設置へ
【放射線】数値が高く出ることに怯えた文科省は、線量計の数値が低く出るよう仕様変更することを強硬に要求(事実なら記者会見を!そして600台の落札額も知りたい)


●陸軍登戸研究所
・陸軍登戸研究所とは
1937(昭和12)年、新宿にあった陸軍科学研究所の実験場が登戸に移され、電波に関する研究と実験が行なわれた。その後、秘密・謀略戦の研究所として本格的に拡充された。
 陸軍参謀本部直属で、1942(昭和17)年に正式名称が「第9陸軍技術研究所」とされたが、軍の法規にすら記載されずにその存在は最後まで秘匿され、ただ「登戸研究所」と俗称されていた。
 登戸研究所の任務は、秘密戦・謀略戦に関わる研究・開発だった。毒物、細菌などの生物化学兵器・他国紙幣の偽造・風船爆弾・憲兵隊やスパイ(特務機関員)などが使う武器・器具などを開発、製造した。したがって単なる研究所ではなく、数多くの地元住民を含めて約1000人が働く巨大な秘密兵器生産工場でもあった。
【「陸軍登戸研究所見学のしおり」より:登戸研究所保存の会】

■証言/戦後のことについて
「昭和31年に結婚してその数年後に、柏屋(登戸に昔から続く料亭)での『登研会』に夫が初めて出席したときのことである。帰ってくるなり私に『2度と出席しない』と怒りをぶちまけた。その日は戦後アメリカに渡ったという上官たちが同席していた。
 同じ研究所に勤めていても、戦後、自分たちのように放り出されて苦労した下級の者達の前で、何の反省もなくアメリカに協力し、高給で苦労もなく良い暮らしをしている話をする上官の無神経さが許せなかったと言う。実際、その後も何度か『登研会』の通知はきたが、夫は2度と出席しなかった。
 同じく結婚して間もなくの頃、研究所時代の別の科の上官が突然訪ねて来た事があった。顔を知っている程度の上官だったので夫は驚いていた。その姿から、生活に困って知り合いを訪ね歩いている様子だったので、夕食をふるまって1泊してもらい、翌朝にはおにぎりを渡して見送った。
 夫は平成16年に入院。病気のせいで幻覚が出始めた最初は『上官に殴られた』といったことだ。亡くなる少し前に、夫にいきなり左頬を殴られた。『痛いじゃないの。何で殴るのよ』と聞いたら、『俺が殴ったんじゃなくて、上官に俺が殴られたんだ』と言い返された。そのとき私は、『この人の戦争はまだ終わっていなかったんだ』と深く思った」〈故K・T夫人〉
(「フィールドワーク陸軍登戸研究所」より)


秘密戦関係
秘密戦関係
記念写真
記念写真(中央 三笠宮)
偽札
偽札(登戸研究所で作っていた)
風船爆弾
(模型)登戸研究所で製造していた!!




●731部隊
「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第1部
731の編成と生い立ち
「おい、お前の所は何をやっているんだい?
「何って、・・・・そんなことをしゃべってはいけないって、言われているじゃないか」
「構いやしないさ。どうせここだけの話なんだもの、びくびくすることもないよ」
 こんな会話が、消燈後の床の中で交わされるようになった。岩手の森島が一番口が固く、自分から話しかけるということは滅多にない男だった。しかし、同じ屋根の下、同じ部屋にいて、お互いに秘密を持っているというのは息の詰まるような苦痛である。まして、何の楽しみもない営内生活なのだから、話し合うことが、うさを忘れる唯一の方法なのだ。もう1ヵ月半も同居して、そのわりに親近感が湧かないのは、1人1人が秘密を持つ者の重苦しさを抱いたまま孤立しているからであった。しかしついに、その重さに耐え切れなくなってきたのである。
 私達は、こうして、直接教えられはしない部隊の内容を察知すると同時に、自分が置かれた、苛酷な運命に対する諦観を徐々に身につけていったのである。
*   *   *   *   *   *

731部隊員の証言 1

細菌戦の新発見資料について
精魂塔(表)

精魂塔(裏)

精魂塔(これは一体誰を供養しているのだろうか?裏側は何か消したようにも見える!!)
731部隊・細菌戦731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
黒い太陽731部隊
殺人工廠(1)
731の最後 死亡列車0
「前事不忘 後事之師」(前の経験を忘れず、後の教訓とする)
“戦争を語る”人々

日本人中国抑留の記録9と中国再訪の旅

証言ー侵略戦争1

北朝鮮による拉致も大きな政治課題だが、戦時中に日本軍が行なった大規模な強制連行(拉致)に対しては戦後日本はきちんと対応したのであろうか?
中国人強制連行1


全国各地で奮闘する語り部たち
悼みの列島2
(相模湖・大久野島・花岡・・・・で戦時中何があったのか?)
必見!!「戦争を語り伝える人々」のガイドブック!!
『ルポ 悼(いた)みの列島』 あの日、日本のどこかで
室田元美
もう過去のことなんて、いいんじゃない?と思う人もいるかもしれないが、私の胸のなかには、石川啄木「韓国併合」のおり詠んだ「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」が常に引っかかっている。(「はじめに」より)

タチソ その1
タチソ その2
戦争遺跡「タチソ」 高槻地下倉庫
【彼は戦争末期,そこで強制労働させられていた親の世代の子ども】
「タチソ」と朝鮮人労働者たち
タチソの碑
大阪府が建てた「タチソ」の記念碑。
近くの住宅地入り口にある「タチソ」記念碑の碑文。


タチソ地下壕跡


成合の山間部に散在する三十数本のトンネル群は、高槻地下倉庫タ・チ・ソの暗号で呼ばれ、崩落が続いているが、今なお当時の面影を残し、戦争の愚かさと悲惨さを語りかけています。このトンネル工事には、周辺の地元民、動員学生のほか、強制連行その他の手段で集められた、3500人ともそれをはるかに超えるともいわれる朝鮮人労働者が投入され、多くの死傷者が出たともいわれています。アジア太平洋地域の人々に大きな災禍と苦痛をもたらしたことを忘れず、恒久平和への誓いをあらたに戦後50周年大阪府記念事業として銘板を設置する。


アジアとの友好のために(1)

消えた日の丸1


中国に咲いた一輪の花!!
朝日新聞より   2011年7月9日15時30分
中国の731部隊跡地に謝罪の碑
731謝罪の碑
日本人の募金で設置731部隊の旧跡に建てられた日本人の募金による記念碑=9日、ハルビン、西村写す

(日本政府が正式に謝罪すべきだ!!)

罪の重さを思うと言葉で「謝罪」は表せない!(ABC企画NEWSより)
 7月9日、ハルピン市平房区、731部隊本部遺跡内に建立した碑・『謝罪と不戦平和の誓い』除幕式典で、日本側代表挨拶を終え、壇上から降りた矢口仁也は“ああするしか思いつかなかった”とつぶやいた。
 今日、私たちはこの日を迎えるに当たって、これまでの道のりを回顧すると、裁判闘争に限界を感じ、日本政府の歴史認識の曖昧さに落胆し、怒り、“せめて市民の手で「謝罪」の碑を建てよう!”と決意し2004年、名称も碑文も決まらないまま『殉難烈士慰霊碑』(仮称)建立募金の呼びかけを開始した。
名称『謝罪と不戦平和の誓い』、わずか4行の碑文に加害者としての謝罪の言葉を記すことの難しさは6月、石碑に文字を刻む作業直前まで迷い続けた。私達の思いは果たして被害者の心に届くのであろうか?一抹の不安を抱えながら迎えた除幕式であった。
「731部隊によって虐殺された3000人以上の烈士の皆さん、夫を、父を、息子を奪われた遺族の方々、そして731部隊に住処を奪われ「労工」として強制的に働かされた多くの罪なき人々、1人1人にどの様に謝ればよいか申し上げるべき言葉はありません。」と言って矢口代表は碑の前にひざまずいた。参列者の私たちも思わず頭を垂れた。この謝罪碑は、731部隊によって亡くなった方々への謝罪と同時に、日本の侵略戦争によって侵された全ての犠牲者に対する謝罪の気持ちを込めた碑でもある。
落成式に参列したペスト被害者の故靖福和夫人、『特移扱』被害者遺族の朱玉芬さんは「市民の皆さんが建てた謝罪碑によって多少心が和んだ。皆さんの気持ちに感謝したい、しかし、それでも日本政府には是非謝罪を求めたい」と述べた。

新たな気持ちで次の一歩を!
碑を建設したことで“謝罪が終わった。許していただいた”ということではない。15年にも亘る侵略戦争によって語り尽くせないほどの被害を受けた中国人民に対し、世代が変わろうと、加害者である日本人としての責任は果たさなければならない。
私たちはその責任の1つに731部隊遺跡保存があると考えている。731部隊遺跡は平房区の住民にとっては本来“目の前から消えてほしいもの”。その屈辱の遺跡が今日まで保存されているのは住民の皆さん、歴代陳列館長を初めとする区、市、省政府の諸先生方の歴史認識の結果であると思う。彼らの努力に感謝するとともに、今日を新しい出発点として、友好を深め、平和を創造し、子孫の未来のために日本政府が正式に謝罪し、戦後補償を実現するまで私たちは運動を続けていくことを誓う。
今回、国会議員の参列は実現できなかったが、阿部知子衆議院議員、服部良一衆議院議員、今野東参議院議員、斉藤勁衆議院議員、川田龍平参議院議員、笠井亮衆議院議員の6人からメッセージを頂いたことは今後の運動への第一歩ともいえる。
最後に、除幕式開催にあたり特に協力、準備してくださった黒竜江省外事弁公室の諸先生方、金成民陳列館館長と職員の皆様に心から感謝します。

問題提起731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
 日本は中国に対する侵略戦争中に各地で細菌作戦を実行しました。細菌戦によるペストやコレラの流行によって、中国では多数の犠牲者が発生しました。1997 年と1999 年、細菌戦被害者計180名が日本国に謝罪と賠償を求めて細菌戦裁判を東京地裁に起こしました。

一審・二審の判決は、
1、731 部隊等が細菌兵器の開発の中で人体実験を行っていた事実、
2、731部隊等が陸軍中央の指令で、ペスト菌やコレラ菌を使った細菌兵器を中国各地で実戦使用した事実、
3、細菌戦によって浙江省や湖南省で1万人を超える中国の一般市民が殺された事実、
4、731 部隊等が犯した細菌戦が国際法(1925 年ジュネーブ条約等)に違反していること、
5、細菌戦を実施した日本国にはハーグ陸戦条約第3 条に基づく国家責任が成立したこと、
6、細菌戦は、その被害が悲惨かつ甚大で、非人道的な行為であること、
などの重大な事実認定を行いました。

ところが、日本政府は、判決後も現在まで細菌戦の事実を全く認めていません。これは日本政府が中国侵略に対する真摯な反省を全く行っていないことを意味しています。日中の真の友好とアジアの平和を実現するために、日本が犯した重大な戦争犯罪である細菌戦について、政府は一刻も早く加害と被害の事実を認め、被害者に謝罪と賠償を行うべきです。

731 部隊等の犠牲者に対する戦後補償の速やかな実現は、日本政府だけでなく日本の国民全体の責任です。

●戦後の医学界・薬学界・政界
 731部隊員は戦後、裁判によって1人も裁かれなかった!!考えてみれば、戦時中、国家総動員法が敷かれ、日本の大学の専門家も何らかの形で戦争に加わった。医学界であれば、嘱託として731部隊に係った。その数はかなりの数にのぼるだろう。
 戦後占領軍のアメリカは独占的に731部隊のデータを安く買い取り、自国の細菌兵器開発に役立てた。そして、731部隊員を裁くどころか、アメリカに協力させ、厚遇してしまった!!だから、医学界では731部隊に係った人間が巾を利かせ、長らく牛耳ってしまった。(今も影響を与えているのではないか?)
 戦後もアメリカの要請で人体実験は刑務所などで行なわれ、医学界は731部隊のことを反省するどころか、胸を張ってしまった!!人間を物として扱い、人命を軽視する医療は戦後長らく続いてしまった。(今も変わっていないのかもしれない?)
 医学界が中心となって時の政府に圧力をかけ、731部隊の秘密(細菌戦・生体実験等)を決して公式に認めさせないようにしているのではないか?
 テレビに出演する名医と呼ばれる大先生も、731部隊のことはよく知っているのだと思うのだが、医学界の“掟”『731部隊のことは公言するな!!』と言うのを忠実に守り通しているのではないか?もちろん、医学界・製薬会社・薬学界・政界で活躍している者、これから出世しようと思う者にはこの“掟”が厳然として生きているのではないか!!

●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京」市民に仕えた宣教師証言集:章開沅/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2200+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
フォースター
フォースター
夫人への手紙
(1937年11月23日~1938年2月13日)
 昨日は一日忙しく、僕ら外国人3人と中国人通訳1名とで、城内の日本軍最高司令官に会って、安全区と紅十字会の情況を了解してもらおうとした。聖ポーロ堂に近いホテルに泊まっていたので、僕ら車にまたがってそこへ様子を見に行った。教会堂は大丈夫だけど、窓がいくつか割れていて、塔の下の戸も1つ壊されている。砲弾が1発玄関と応接室の後ろの部屋の屋根に当ったのだ。梁はまだあって、僕は見には入らなかったけど、幸いなことに火はまだ出ていなかった。ロバーツの住宅に日本兵が2人いて、1人が手に斧を持ち、もう1人が3階から乳母車を1台引きずって、降りてくるのを見かけた。2人も僕を見るなりずらかった。引き出しがみんなひっくり返されていたけど、ロッカーは動いていなかった。僕らはロッカーから、ロバーツの銀と書類を取り出した。家屋も門も開けっ放しになっている。一段落したら、見てくれる人を探そう。

南京大虐殺マギーフィルム)1

南京大虐殺

日中戦争 (1937-1938)
南京大 ( Nanking Massacre )
兵士たちが記録した南京大虐殺1
「南京!南京!」が見られる映画サイト

●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも三笠宮をはじめ何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族(竹田宮)もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
そのためアメリカは、731部隊員に戦犯免責を与える代わりに731部隊のデータ全てを独占して買い取り、また、上級部隊員をアメリカ軍に協力させ、朝鮮戦争やベトナム戦争に開発した兵器を使用したようだ。
このような流れの中で、アメリカは東京裁判では731部隊の事は取り上げず、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

マッカーサーと昭和天皇
アメリカ大使館での昭和天皇(1945年9月27日フェレイス撮影3枚中の1枚)

 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?

※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】


●昭和天皇の戦争指導
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重慶大爆撃とは①

 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)

「今の状態でも危ないのに、これ以上原発再稼動・戦争・軍事演習・核実験を繰り返していたら、もっと早く地球は壊れてしまう!!」

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

●祈り1
●祈り2

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