核・戦争のない世界!!

2024-06-21 12:04:58 | Weblog
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。

 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

 

 
南京大虐殺 
 
南京大虐殺(マギーフィルム) パネー号撃沈
        

       

 重慶爆撃               



原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

    
      



    

      



 
 原爆    

 

 
 

原爆投下にまつわる「俗説」を検証する【広島原爆から76年】

 
古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
2021/8/6(金) 10:29
 
1.原爆投下により日本は終戦を決断した→嘘
YAHOO!JAPANの過去拙稿で示した通り、広島・長崎原爆によって日本が連合国への降伏を決断した、という説は原爆投下を正当化させたいアメリカ側の保守的イデオロギーが後背にあり、正しくはない。  私たちは歴史を後から振り返るので如何に原爆が悲惨かを知っているが、当時の日本政府や軍部にも原爆について正しい知識を持つものはほとんどいなかった。まして原爆による放射線の影響を予期できたものなど皆無に等しかった。日本の降伏を決定づけたのは、原爆ではなくむしろソ連参戦(1945年8月9日)である。日本は当時中立国であったソ連を仲介して連合国と講和を探っていた。そのソ連が参戦したから、日本政府も軍部も万策尽きてポツダム宣言受諾に傾いた。原爆投下は日本降伏の決定打では無かった。  軍部は、広島市に原爆が投下された直後、陸海軍合同の調査団を空路・広島市に派遣した。猛火のため調査団は広島市中心部に入ることは出来なかったが、翌日以降本格的な調査を開始した。そこでは「白い服を着ていたものは助かった」「防空壕に入っていたものは無傷であった」などの事例から「新型爆弾恐るるに足りず」という結論になり、それが「新型爆弾への対処法」として新聞等に掲載された。「肌の露出を抑えること」「B-29が単独飛行していてもこれを疑い、防空壕に入ること」などと原爆についての対処法が縷々喧伝されたが、残留放射線の影響については全く触れられていなかった。当時の政府も軍部も、原爆被害を軽視していたのである。日本降伏の決定打は、皮肉なことに二発の原爆ではなくソ連対日参戦であった。
 
 
 
<iframe style="height: 100%; left: 0px; overflow: hidden; position: absolute; top: 0px; width: 100%;" title="Dailymotion Video Player" src="https://www.dailymotion.com/embed/video/x90ctf6" width="100%" height="100%" frameborder="0" allowfullscreen=""> </iframe>
 
 
 

原爆が使用されたのはなぜ?

<iframe style="height: 100%; left: 0px; overflow: hidden; position: absolute; top: 0px; width: 100%;" title="Dailymotion Video Player" src="https://www.dailymotion.com/embed/video/x9017m2" width="100%" height="100%" frameborder="0" allowfullscreen=""> </iframe>
 
 
日航123便の怪(1985年8月12日)
 
     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
                     宮川米次
 
3、興味ある細菌学的所見
「コクチデイォイドミコ―ジス」Cocciⅾioidlmycosis 
 米国Californiaの特にSan Joaquin Va1leyに特種の気管支性肺炎に引き続き結節性紅斑、又は多形成性紅斑を伴う疾患がある。急突に発熱し、咳嗽を伴い相当高い発熱がある。診断に種々の考慮を払っているうちに解熱し、上記の紅斑が先ず向脛に現われ、臀部、大腿、上膊等にも現われ多くは何等の故障なく治癒するのである。その原因は多年不明であったが、Dickson(J. Am. M.Ass.111,1938)の観察によるに、氏の若い一助手がFungus Coccidioidesの長い培養の蓋 をとった時に、「ぺトリ―」の皿より煙状をなして、胞子が飛散し、これを吸引して全く上記と同様の症状を喚起し、その喀痰より上記 のFungus が出たという。この喀痰より得た菌及び一般にこの菌を海猽に接種すると、特有なる肉芽腫、Co㏄idioidal granuloma が発生するともいう。 尚氏は皮膚反応を診断に応用している。本邦に時々見らるる此種の発疹性疾患は如何なるものであろうか。
 
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変
 
 
 
 1932年5月15日、海軍の青年将校が犬養を首相官邸で殺害し、他の暗殺を目論むふたつのグループ(陸海軍の軍人と民間人とからなる)が政友会本部、日本銀行、警視庁、さらに重大なことには、内大臣牧野の官邸に爆弾を投げ入れた。彼らはロンドン軍縮条約の全廃を掲げ、「宮中側近の浄化を求めるビラを撒いた」のである。
 
 
 
 
 
 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 核・戦争のない世界!! | トップ | 核・戦争のない世界!! »

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事