細菌戦の系譜!!

2023-04-12 11:34:36 | Weblog

  日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

『細菌戦部隊』

731研究会編

 Ⅰ 731部隊

731部隊破壊と証拠隠滅作業

ロ号棟に書かれた血文字が一生忘れられない

 

篠原鶴男(しのはらつるお)

731部隊・教育部

〈略歴〉

1926年生まれ

1945年5月 731部隊入隊(教育部に所属)第8分隊

1945年8月 帰国

■この証言は鹿児島731部隊展(1994年1月)の『報告集』をもとに本人がまとめたもの

 

部隊の破壊と証拠隠滅作業

部隊員のほとんどが撤退していたので、爆破する時には数十名しか残っていませんでした。これで部隊も見納めになると思い、爆破の前に私はロ号棟の各部屋を見て回りました。どの部屋も何1つ品物はなく、整理されていました。ただ心に残るのは、ロ号棟の2階を登り詰めた真正面の窓際の机の上に、10名の将兵の“英霊”が、並べられたまま置き去りにしてあったのを見たことです。彼らはノモンハン事件の際に、腸チフス菌をハルハ河の支流のホルステイン河に流した時自ら細菌感染して戦死した人々でした。

日本軍政下香港(1997.7.27)

 

 

●『論争731部隊』
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行
 
 
速記録
(平成3年9月9日第11回口頭弁論)
 
「家永三郎が教科書に付け加えようとした、」云々「という程度の記述は学界の内外において、公知の事実だったのである。」という最後の文章ですね。
 
 その通りです。
 
この結論部分というのは、意見書の構成で拝見しますと、10ページ以下に、本件検定当時及びそれ以前の学界状況を詳細に述べられた、その結論部分になるわけですね。
 
 そういう位置づけになっております。
 
そこで、この結論に至る道行きの中で、詳細に述べられたことについていくつかのポイントを選びまして、若干立ち入ってお尋ねしたいと思います。本件では事実上、生体実験の事実の認定に関わる学界状況というものが一審以来大きな問題になってまいりましたので、いろいろ論点はあろうかと思いますが、私はその点に重点を絞ってお尋ねいたしますので、あらかじめお含みいただきたいと思います。まず、事実の認定にも関わる学界状況でございますので、史料、あるいは証拠、史料のことが問題になると思いますが、先ほど冒頭のあたりで伺いました、施設跡とか部隊の使った道具の残存物、こういったものは物的証拠という位置付けになりましょうか。
 
 その通りです。物的証拠が現にあるということです。
 
 

 

●毒ガス戦

『毒ガス戦と日本軍』

吉見義明  (2004年発行)

Ⅲ 日中戦争の全面化と本格的使用の開始  1937―1938

2 武漢攻略作戦



第2軍の戦闘 

 姫路第10師団(師団長・篠塚義男中将)、光州の占領と信陽方面への進出を命じられて、明治天皇の即位の日である8月27日に進軍を始めたが、29日から華氏110度(摂氏43.3℃)以上になる高温と携帯食糧の重さや水不足で多くの熱中症患者を出し、また悪路のため最初から行軍に苦労することとなった。

毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!
 

 

 

 

 
 

 

略史
昭和 5年  海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年  平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年  海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年  特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年  相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年  終戦、廃廠
 第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
 
 

 

 

 

 
 
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。 
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内) 
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内) 
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)

 

 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
大久野島の歴史
 
Ⅲ:大久野島毒ガス工場の稼働 
 
① 毒ガス製造の開始 
 
 
 イベリット製造は軌道に乗ってくるとそれに携わる工員に被害が急増するようになりました。眼、咽喉、手足などに傷害を受けるようになり、治療にも時間がかかりました。結膜炎や気管支炎は3週間から1ヶ月以上かかりました。眼帯を当てた工員、首に湿布した工員など負傷した大久野島の工員の姿が増えるにつれ、町民は不可解な目を向けるようになりました。しかし、大久野島のことは極秘であり、町民に真実を知らせることはありませんでした。仏式イペリット製造が軌道に乗ってから工員の被害者が急増したため、一時イペリット製造の工員を配置転換しなくてはなりませんでした。仏式イペリット製造とともに、工場を開設した時から製造に取り組んでいたのが催涙性塩化アセトフェノンの製造でした。日産100kg程度の小規模の設備でしたが、これも製造に軌道を乗せるまで様々な苦労がありました。

 

SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く - 未来に残す 戦争の記憶

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