●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅰ 第1次世界大戦の衝撃 1915―1930
2 毒ガス使用禁止国際条約への対応
ヴェルサイユ平和条約
その第1歩は1919年に締結されたヴェルサイユ平和条約であった。その第171条には「窒息性、毒性、その他の瓦斯及び之に類似する一切の液体、材料又は考案はその使用を禁止せられあるに因り、ドイツ国内に於て之を製造し又は輸入することを厳禁す」とある。これは直接的にはドイツの再軍備を制限するための規定の一部である。しかし、その条文の前半の宣言的規定(「その使用を禁止せられある」まで)は、あらゆる有毒ガスの戦争での使用を禁止する国際慣習法の存在を改めて確認したものとみなすことができる、極めて重要なものであった。
えていた!!
略史
昭和 5年 海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年 平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年 海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年 特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年 相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年 終戦、廃廠
第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内)
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内)
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第12章 癒しがたい傷
付記・忠海病院及び行武正刀院長訪問記
忠海は、広島県竹原市のそばにある小さな町で、大久野島と海を隔てて向かい合っている。実際のところ、大久野島の後方「基地」でもある。基地というのは、大久野島の現在の全ての生活用品がほとんどみな忠海から来る、という理由からではなく、又今、大久野島で働いている人もほとんどが忠海から来る、という理由からだけでもない。さらにもう1つ、より深い意味があるのだ。ここのある忠海病院は今、大久野島の毒ガス工場で働いていた被害者全ての治療センターである。まさにこれゆえに、小さな町にある病院が広く名を知られるようになったのだ。
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