日本鬼子(リーベンクイズ)
映画『『日本鬼子(リーベンクイズ)』のDVD発売中
税込価格 5184円 (カラー160分)
購入をご希望の方は「中帰連発行所」に連絡ください。
申込先メルアド tyuukiren@yahoo.co.jp Fax 03-3954-6142
「日本の一番長い日」は「日本のいちばん醜い日であった」
野中 だいたい安倍さんは「戦後レジームからの脱却」と言うが、それは自分の祖父である岸信介元首相がA級戦犯(容疑者)にされた東京裁判を否定したいということなんだ。
共産党:衆院選で議席増 84歳の元「プリンス」に聞く (毎日新聞 ...
●日本医学界は、731・原爆・水俣・福島の経験を反省して、脱原発の先頭に立つべきだ!!
●日本政府は、被爆国の立場から、脱原発・核兵器廃絶の先頭に立て!!
●日本は、憲法9条を遵守し、非軍事でいくべきだ!!
731部隊展開催のお願い!!
731部隊映像コンテスト作品募集!!
●東京大空襲・重慶大爆撃
・3月10日
焦土と化した東京。本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもの。右側にある川は隅田川。
もしも周辺国が「東京大空襲」に喝采を送ったら―中国紙
東京大空襲70年 記憶の継承は
・重慶大爆撃
日本人の多くが知らないか、忘れていること?
日本各地で空襲があり、多くの人が犠牲になりましたが、日本軍は戦時中中国各地を同じく無差別に空襲をしていました。
重慶大爆撃もその一つです。
重慶爆撃の謝罪と賠償を!東京地裁は中国人原告団188人の訴え退ける―日本
東京地裁の判決に中国の法律専門家が反論
「重慶爆撃」訴訟、遠路はるばる訪日した原告団への判決言い渡しはわずか1分弱―中国紙
(朝鮮日報日本語版) 重慶市の光復軍総司令部ビル、中国が原形保存を決定
旧日本軍による重慶爆撃、史料整理事業に国から助成金 西南大学の教授らが申請―中国メディア
1941年6月5日、日本軍が重慶市に対する連続5時間余りに及ぶ大規模な爆撃を行い、較場口の防空トンネルにいた多くの市民が窒息死し、「六五大トンネル事件」となった。
「侵華日軍重慶大爆撃殉難同胞記念園」の設立、専門家が呼びかけ―中国メディア
重慶大爆撃
重慶大爆撃 対日民間賠償請求訴訟
重慶大爆撃とは①
もちろん、無差別爆撃もあった!!
陸軍航空隊の爆撃行(日本のプロバガンダ映画)
乙女の祈り
●ニュース
・731部隊
地下鉄サリン事件前に強制捜査の機会も
地下鉄サリン事件20年 今も続く苦しみ、悲しみ 霞ケ関駅で慰霊式
日本が731部隊の反省をしないからこのような事件が起こるのではないか?警視庁は、元凶の「731部隊展」・「帝銀事件展」などをやったらどうだ!!
地下鉄サリン事件20年 警視庁が企画展
防疫の美名の下、いろいろなウィルスが人工的に作られてはいないのか?
731部隊などの「医学犯罪」企画展、京都で開催―中国メディア
<戦中の「医学犯罪」>731部隊など…医師ら独自に企画展
日本は731部隊の暴行について正式に認めてはいない。
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア
米国が731部隊から学んだ生物兵器を朝鮮戦争で使用?英学者のレポートに「米国は天使ではない」「80年代まで存在した米軍慰安婦は…」―韓国ネット
(参考)中国では731部隊は生体実験、生体解剖、細菌戦をやり、中国にあった日本の陸軍病院では当たり前に手術演習として麻酔もかけずに生体手術演習が行われていた(残酷)!!
消せない記憶「元軍医たちの謝罪の旅」
・医薬業界
STAP問題、理研の調査経費8360万円 小保方晴子氏への返還請求は60万円のみ
群馬大附属病院長 学長への就任を辞退の意向
群馬大医学部 学外委員に聞き取り内容知らされず
エボラ出血熱 死者1万人超える
厚生労働省 群馬大病院への補助金交付を見送り
群馬大病院 虚偽の診断書作成を警察に報告
群大病院8人死亡 「執刀医は相当下手」専門医示唆 腹腔鏡に精通せず?
・脱原発
福島、2号機も炉心溶融を確認 名古屋大、ミュー粒子使い
原発は全部廃炉にしよう!!
「今回の裁判では、企業秘密だとして九州電力側からデータが十分に提出されなかった経緯がある。そうしたなかで、原告の訴えを退けるのは、不当だ」
MOX燃料訴訟 原告の訴え退ける 佐賀
加藤典洋(かとうのりひろ)
過去の自分の国が為した間違いを「謝る」こと、自分たちの「誤り」を認め、それと向きあうことが、戦争の死者の「無駄死に」に応え、自分たちの道義の「強さ」「まっとうさ」「未来性」のカギとすることで、彼らの「死」を弔うことにもつながる。
慰安婦、日韓併合、中国侵略…「謝罪は戦争の死者たちを哀悼する行為でなければならない」―日本を代表する思想家
歴史を否定する国が尊敬を勝ち取ることはできない
●日本の真相 鬼塚英昭
●天皇の陰謀 はじめに
●『天皇の陰謀』
天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ 著
松崎 元 訳より
著者より読者へ
もはや私は、日本人びいきではなくなっていた。私が少年へと成長する間、私の周囲で接した、物静かで、思慮深く、思いやりがあって親しみのもてる人々は、いま、おぞましくも、また、もっとも不可解にも、変貌をとげていた。ここ戦場では、日本兵はただ戦闘をしていただけでなく、えばりくさって人の横っ面を張り飛ばし、飢える人から食料を、家を失った人から寝具を、貧乏人から銅貨を徴発し、少女を強姦し、妊婦の腹を裂き、赤ん坊を空に放り上げて銃剣で突き刺し、拷問による告白以外の真実を認めず、その統治は脅迫以外の手段を持っていなかった。私は、どうして日本人がそのようなことをするのか理解できなかったが、やがてそうした日本人の行為を、当たり前かのごとくみなすようになっていた。父の友人たちは、それを明らかな「日本人の劣等感」のゆえとしていた。近くに住んでいた中国人将軍は、それは日本の指導層に責任があると言っていた。彼によれば、日本は世界を征服しようと望む尊敬すべからぬ天皇によって統治されていた。私は、この将軍の見方を、そのシンプルさゆえに、受け入れていた。
まやかし裁判
堀江貴文 「天皇は戦争の責任を負うべき」神をも恐れぬビッグマウス!そして池上彰ディスり!!
日本人を大量虐殺した天皇家の皇太子妃・雅子の一族
水俣病Q&A
水俣病
●南京大虐殺
司法の場においては事実認定はされている!!
家永教科書裁判
第二審〈平成元年(ネ)第3428号・平成2年(ネ)第2633号〉
判決(川上判決)は、検定制度自体は合憲としながらも検定における裁量権の逸脱を一部認め、草莽隊に加え南京大虐殺、「軍の婦女暴行」の記述に関する検定も違法とし、国側に30万円の賠償を命令した。
第三次訴訟
上告審〈平成6年(オ)第1119号〉
判決(大野正男裁判長)は、検定制度自体は合憲としながらも検定における裁量権の逸脱を7件中4件認め、草莽隊による年貢半減の公約、南京大虐殺、中国戦線における日本軍の残虐行為、旧満州731部隊の記述に関する検定を違法とし、国側に40万円の賠償を命令した。(原告の訴えの中で却下された検定は、「日清戦争時の朝鮮人民の反日抵抗」「南京戦での日本軍の中国人婦女暴行」「沖縄戦」である)
百人斬り競争
百人斬り競争(ひゃくにんぎりきょうそう)とは、日中戦争(支那事変)初期、大日本帝国陸軍将校の野田毅少尉と向井敏明少尉が、南京入りまでに日本刀でどちらが早く100人斬るかを競ったとされる行為である。
戦中は前線勇士の武勇談として賞賛されたが、戦後は南京大虐殺を象徴するものとして非難された[1]。今日、事実か否か、誰を斬ったのかを巡って論争がある。また、遺族を原告とした名誉毀損裁判が提訴されたが、訴訟については毎日新聞、朝日新聞、柏書房、本多勝一の勝訴、原告敗訴が確定している。
・外務省ホームページ
問6.「南京大虐殺」に対して、日本政府はどのように考えていますか。
1、日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。
2、しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。
3、日本は、過去の一時期、植民地支配と侵略により、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことを率直に認識し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みつつ、戦争を二度と繰り返さず、平和国家としての道を歩んでいく決意です。
・夏淑琴(かしゅくきん)名誉回復実現裁判
日本の民間団体が南京大虐殺記念館を視察、「全ての日本人に見に来てほしい」―中国メディア
旧正月に南京大虐殺記念館がブレイク、訪問客数が過去最高を記録―中国
昭和天皇の身代わりになって処刑された松井石根(君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?より)
・・・・
そして彼は、彼(松井司令官)の管轄下の将校を蘇州の病室に呼び、通常の指揮としては極めて異例な以下の命令書を手渡した。
帝国陸軍の外国首都への進入は、世界の耳目を集める、わが国の歴史における偉大な出来事である。しかるに、秩序を乱す部隊は、市内に進ませない。城市内に入る部隊は、この目的に沿って、所轄の師団司令官によって特別に選別されたものとさるべきである。そうした部隊には、留意すべき事項と、城市の人々の権利と利益の地位保全が前もって通知される。それらは、略奪者とはまったく縁のないものにさせなければならない。必要に応じ、見張り兵が配置される。進入部隊とともに、多くの憲兵、補助憲兵を城市内に入れ、これをもって不法行為を予防する
朝香宮は、彼の判を押し、「極秘、破棄せよ」と付記した一連の命令を発した(60)。それは単に、「すべての捕虜を殺せ」とあった。中国軍兵士は、姿勢の変化を察知し、南京の城壁内へと逃げこみ始めたが、少なくとも、四分の三の兵士が、もう一日、生きて戦った。残りの七万五千人は、南京城市内部に閉じ込められ、実質上、この首都強奪を目撃した欧米の観察者による犠牲者の統計に加わった。
朝香宮の諜報参謀の中佐(#)は、その「殺せ」という命令を自ら率先して偽造した〔訳注〕、と友人に告げている。もしそうだとすれば、彼が軍法裁判にかけられなかったことが注目されるが、1945年6月、沖縄の洞窟壕で中将として死ぬ〔自決〕まで、軍人としての経歴をまっとうした。
(#) 長勇(ちょう いさむ)。さかのぼる1931年、宮中の支援のもと、二件の擬似クーデタ〔1932年の三月(血盟団)事件と5.15事件〕の組織を助けた。これにより、情勢は混沌と化し、満州征服に伴う国内政治の危機の〔軍部主導による〕沈静化をもたらした。
〔訳注〕 この命令の作成にあたり、松井総司令官はそれを制止しようとしたが、長中佐がそれを無視したらしい。
天皇のおじ、朝香宮の命令は、すべての捕虜を殺せという厳格なものであった。
南京事件の波紋(『天皇の陰謀』下 バーガミニ著より)
南京での放埓きわまる行動が、現地の兵士たちから内地の人々に伝えられると、宣伝家たちがやかましく主張していた裕仁の「聖戦」を皮肉って、日本人たちはこれは「汚れた戦」だと言い始めた。
文部大臣を務めていた重臣の木戸は精力的に活動し、慎重に言葉を選んだ論説を大新聞に発表して、民衆に南京事件は不幸な偶発事件であることを納得させようと努めた。杉山陸相は、戦闘経験をしゃべりすぎた帰還兵に対し、機密保持に抵触したかどで重罪を課した。裕仁と閑院宮は対ソ戦想定計画に再び興味を示すことで、参謀本部を懐柔した。・・・
映像の世紀 南京大虐殺13 元日本兵の証言 東史郎1/13
南京陥落(朝日世界ニュース号外&特報)
・1937年(昭和12年)12月13日南京陥落
「南京事件」笠原十九司著 岩波新書より
中国映画-『南京!南京!』(日本語字幕版、HQ、高画質)
劇映画 映像の世紀 南京大虐殺1 地獄絵巻はこうして繰り広げられた
南京大虐殺:侵華日軍南京大 南京電影制片庁 21分
南京大屠城
南京大虐殺の犠牲者30万人は不適切との日本からの申し立てに「確かに少なすぎる」「中国に対する挑発だ」の声―中国ネット
●昭和天皇は極秘ルートで、広島・長崎の原爆投下、ソ連の参戦の情報を知っていた?
畑元帥と高野広島県知事はなぜ無事で、第2総軍は畑元帥の指示で8月3日から広島市内に出動していたのだ!?
・広島原爆投下時の真相(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
畑俊六は8月6日の原爆投下のことを知っていた!!
この原爆で、第2総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。
8月6日朝8時頃に、多数の第2総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。有末精三は畑俊六元帥のことを書いている。
山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥(俊六、第12期、元侍従武官長、支那派遣軍総司令官)に敬意を表し、今夕、仁科博士等の到着を待って調査に着手する旨申告した。将軍は被爆当時日課として朝のお祈りで、神棚に向かっておられたため、幸いに被害はなかったとのことであった。
有末精三は「それぞれ頭や頸元や胸に包帯をしていた岡崎清三郎参謀長(中将、第26期)、真田穣一郎少将(参謀副長、第31期、前大本営陸軍部作戦部長)、井本熊男作戦主任参謀(大佐、第37期、後の陸将)、同参謀橋本正勝中佐(第45期、後の陸将)などが草の上に胡坐(あぐら)をかいたり横になったりして論議しているところへ挨拶否見舞に行った・・・・」と書いている。生き残った第2総軍のトップクラスも全員負傷して、草の上で胡坐をかいていたのである。
この日、間違いなく、第2総軍の全員は、8時頃に集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第2総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。
ひとり、畑元帥のみが理由はともあれ、この総司令部に行っていないのである。
「山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥」と有末精三は書いている。
私は東郷茂徳外相の依頼か、他のヨハンセン(吉田反戦)・グループの依頼を受けた松本俊一次官が原爆投下前のある日、秘かに畑元帥と会談し、8月6日午前8時すぎころの広島に原爆を落とす計画を打ち明けたと思う。そのときに松本俊一外務次官は、この日の8時過ぎに、第2総軍の全員が集合するようにして欲しいと依頼したとみる。この第2総軍を全滅状態におけば、陸軍の反乱の半分は防げるからである。・・・・
・・・・・・・・・・・
学徒を殺し、一般市民を殺し、第2総軍の軍人を殺し、木戸幸一は大井篤の尋問に答えている。
陛下や私があの原子爆弾によって得た感じは、待ちに待った終戦断行の好機をここに与えられたと云うのであった。特に皇室や上流階級にも身命の危険が及んで来たからではない。
※ウキペディアには 畑俊六は「昭和20年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、国鉄広島駅付近で被爆するも奇跡的に難を逃れた。被爆直後から畑は広島市内で罹災者援護の陣頭指揮を執り、広島警備命令を発令した。その職にて終戦を迎える。」と書いてある。真実を書いていないのではないか?
高野源進広島県知事は県下福山に出張中だった。
これも天運であると共に明治大正を通じて温醸された弊害が積り積って潰滅した結果に外ならない。
※どんな因縁があるのか知らないが、ご両人とも福島県出身。会津藩は幕末には薩長にやられ、敗戦間際には天皇の命令により第2総軍の壊滅計画の役を買わされ、その後の原爆被害の対応、そして2011年には最悪のレベル7の福島原発事故!!
(畑は、南京大虐殺後の昭和13年(1938年)には松井の代わりに中支那派遣軍司令官となり、徐州戦、武漢作戦を指揮している。)
(参考)
大木操の『大木日記』の8月7日を見ることにしよう。大木操は当時、衆議院書記官長であった。
8月7日(火)晴
10時半登院、間もなく警報、小型機空襲。
議長、副議長と雑談。
正午過ぎ、岡田厚相来訪。広島に原子爆弾を6日午前8時半頃投下。十数万の死傷の報、大塚地方総監爆傷死、畑元帥健在、高野知事は出張中にて助かる。成層圏より落下傘にて投下、地上2,3百メートルにて爆裂、直径4キロ全滅全焼、エライことなり。
直ちに依光代議士は日政の幹部会にこれを伝える。一座愕然。
では、『広島県史(近代Ⅱ〕』の「原爆と敗戦」を見ることにする。
広島地区司令部の強い要望により、中国地区司令部の強い要請により、中国地方総監および広島県知事は8月3日から連日義勇隊約3万人、学徒隊1万5千人の出動を命令した。
この2つの本を読んで、私は次のように推論する。
8月初旬に広島県庁に入った畑元帥は、高野源進広島県知事と中国地方総監を説得した。第2総軍を動員し、8月3日から連日、義勇隊3万人、学徒隊1万5千人を出動させよと命じた。畑はひそかに、高野知事に真相を打ち明けた。高野知事は広島を去った。こうした中で8月6日の朝8時15分を迎えた。第2総軍の軍人たち、義勇隊、学徒隊の多くが死んだのである。
・・・・・
もう1度、米内海相の直話を記す。天皇も木戸も、この米内の話に賛意を示したのである。
私は言葉は不適当と思うが、原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めるということを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなくて収拾出来るというのがむしろ幸いである。(「米内海相直話」昭和20年8月12日)
まさに、米内海相が語るがごとく、数十万の死者を出した原爆より、ソ連参戦で満洲で数十万の軍人や民間人が死んだことより、国内情勢の憂慮すべき事態が重要であると、天皇や米内たちは考えたのである。その1つが広島にある第2総軍であったというわけである。
その第2総軍は壊滅した。西日本の軍の反乱はこれによって鎮圧された。残るは関東一円となった。その中心の皇居を舞台に、偽装クーデターを起こしたというわけである。
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