細菌戦の系譜!!

2020-08-26 11:12:09 | Weblog

●パネル展「戦争の加害」感想(2020年7月27日~31日)

 7月30日(木)

1、説明していただき良く分かりました。ありがとうございました。このようなパネル展を開いてくださる努力を感謝します。(男性、80代、市内)

 

 

大江健三郎著

「ヒロシマノート」岩波新書

 

 

挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年86日ポツダム書店発行)より

 

 

 

 

・・・・沈黙することの不可をほとんどあらゆる思想家、文学者が口にして、被爆者に口を割ることを勧めました。私は私たちの沈黙の感情をくめないこれらの人々を憎悪していました。私たちは8月6日を迎えることはできません。ただ静かに死者と一緒に8月6日をおくることのみできます。ことごとしく8月6日のために、その日の来るのを迎える準備に奔走できません。そういう被爆者が沈黙し、言葉少なに、資料として残す、それを8月6日、一日限りの広島での思想家には理解できぬのは当然です≫

 

 これは広島について沈黙する唯一権利を持つ人々について書いた僕のエッセイに対する共感の言葉として書かれた手紙ではあるが、僕はそれに励まされながらも、同時に広島の外部の人間である自分の文章全体に、最も鋭い批判のムチが加えられたことにも気付かざるを得ない。

 

 

 

 日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編

はじめに

 

 

 

 

松村友勝は11年4ヶ月という長い歳月、ソ連に抑留されていた。帰国したのは1956(昭和31)年のことである。それからおよそ20年後に、彼は『関東軍参謀副長の手記』(芙蓉書房)を出版した。そこで彼は

 

歴史の真実を究明することは至難の技である 。公式の資料は正しいものと思うが、裏面の経緯などは分からない。5人の手記は当時のものであれば、その人に関する限り正しいものであろうが、個人の得ている知識は必ずしも全般を尽くしていない。後日の記録となると、人間の記憶はそれほど信頼できるものではない。忘却があり思い違いがある。とかく自己に都合の悪い点は、悪意からではなくても忘れ去り、あるいは後日考えたことを王子から考えていたように思い違いをする。この意味で私の手記は、本格的な資料としての価値はすこぶる乏乏しいかもしれない。しかし全般的な空気を知り、傍証とするだけの意味はあると信ずる。世の軍事史研究者が広く資料を集め、比較対対照の上真実を究明するための参考ともなれば幸いである。

 

 

と書き記している。

 

 

 

・『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』


中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳

三 警察・憲兵の第731部隊への「特移扱」 

 

萩原英夫供述書(1954年9月25日)

問:老黒山憲兵分遣隊及び分隊で軍警班員、特高班員及び庶務主任をしていた際の犯罪行為について述べよ。

 

答:1942年1月、分遣隊の三浦卓伍長が、老黒山西村の国際運輸株式会社で、中国抗日工作員許某を逮捕した。当時私は分遣隊長の命令によって、三浦卓とともに尋問にあたり、その後、同人をハルピンの石井部隊に送って殺害に至らしめた。同年3月、三浦拓が再び老黒山第16野戦貨物場で中国抗日工作員1名を逮捕した。私と三浦卓の2人で一緒に尋問を行い、その後、三浦卓がハルピンの石井部隊に護送して殺害に至らしめた。

 

1942年8月、私は老黒山南村で偵察中に中国抗日工作員康永昌を発見した。彼は羅子溝に逃げたがそこで警察に逮捕された。私は分隊長米倉憲一の命令に従って、彼を連れ帰り、拷問を加えた後、石井部隊に送って殺害に至らしめた 。

 1943年5月、小川五男兵長が老黒山駅付近で中国抗日工作員1名を逮捕した。私は軍隊長の命令に従ってその男を監禁し、その後、石井部隊に送って殺害に至らしめた。 

 

(1)119-2、944、1、第4号

 

 

 

 

●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著
第1章 毒ガス兵器の研究と開発

 

 

5、アジア太平洋戦争と科学動員による毒ガス兵器開発の展開

 

科学者の動員による毒ガス開発の推進

 

 

 

 

1943年4月に、第6陸軍技術研究所は10名の科学者に研究事項を依託したが、担当者と研究内容は、東北大(応化)原龍三郎(青酸合成〉、北大(応化) 岡本剛〈アセチレンよりエチレン合成〉、東大(化学)木村健太郎〈毒物性状〉 、東大(化学) 水島三一郎〈毒物性状〉、東大(化学)鮫島実三郎〈煙の研究〉、東大(応化) 厚木勝基〈防毒衣材料〉、東大(応化)宗宮尚行〈検知研究〉、名大(医学)勝沼精蔵〈毒効力・治療〉、阪大(病理)木下良順〈毒効力〉、阪大(化学)呉祐吉〈毒物性状〉であった。(防衛庁技術研究所編『本邦化学兵器技術史』)。

 

 

 

 

 

 

  

  ・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

第13章

毒ガスは消えず

埋めるー中国の毒ガス弾に対する処理

 

隠れた災難はなお消えず

 

 

 50年代はじめに上記のような被毒事件が起きたのは、戦争が終わって間もない頃で、その危害がまだ続いており、予測は難しいものの、まだしも想像できるのだが、戦争が終わって30年、40年ないし50年を経過した後、再びあのような傷害事件が起こるとは、驚愕すべきことだ。だが事実をかくも冷酷無情である。 

 1982年7月17日、黒竜江省東部の牡丹江市のとある基盤工事現場で、労働者たちが忙しく施工に携わっていた。地表の土を掘り返すと 、鉄製の円筒が4つ姿を現した。上にはネジで締められた口があって開けられるようになっていた。労働者たちは中に何が入っているのか知りたくて、ネジをひねった。ところがなんと、開口部から突然3 m の高さまで液体が噴き出て、周りにいた5名の労働者の身体に跳ねかかったのである。彼らは翌日病院に送ら彼らは、今もなお重い後遺症が残っており、一人の労働者は既に失明した。

 

 

 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題

 


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