細菌戦の系譜!!

2022-12-07 12:34:50 | Weblog

  日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

『細菌戦部隊』

731研究会編

 Ⅰ 731部隊

生体解剖をやらされた

意識がはっきりとしている“マルタ”の手足を解剖台に縛り付け・・・

 

鎌田信雄(かまたのぶお)

731部隊・少年隊

(経歴)

1923年生まれ

1938年 731部隊入隊

1940年 新京の防疫でペスト感染

1943年 病気療養の為帰国

■この証言は1994年6月、1995年10月ほかの聞き取りをまとめたもの。

帰国後
 
海軍は横須賀から離れた武山に入隊になりました。そこで新兵教育を受けたのですが、ペストがすっかり治っていなかった為に銃剣術の練習の時に血を吐き、横須賀海軍病院、そして霞ケ浦航空隊病院へ送られたのです。その後、高崎の日赤病院で療養しながら看護婦に環境衛生の教育をする仕事をしました。終戦を迎えたのは大湊でした。

日本軍政下香港(1997.7.27)

 

 

●『論争731部隊』
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行
 
 
 
第2 731部隊に関する研究状況
 
三 1984(昭和59)年以降の731部隊に関する研究状況
 
 
3 731部隊作成資料発見の反響

(2)外国での反響
 『タイムズ』も前後3日間報道し、『デイリー・メール』『デイリー・テレグラフ』等有力紙も、第2次大戦中の満州で、旧日本軍が英米連合軍兵士、中国人捕虜を使って細菌兵器の人体実験を行っていたと報じた。『タイムズ』(8月12日)は第2面の半分を割いて取り上げ、「英国人戦争捕虜がいかにして細菌実験のモルモットになったかを語る」という見出しのもとにドキュメンタリーに出てくる元英国兵捕虜ら3人の証言を引用し、日本軍が満州国で外国人捕虜に行なった生体実験の残虐行為を報道した。ドキュメンタリーのビデオを制作会社が日本との外交関係悪化を懸念して事前にイギリス内務省に提出していたことが、事前検閲に当たるかどうかをめぐっても注目を集めた。
 
 
 

 

●毒ガス戦

『毒ガス戦と日本軍』

吉見義明  (2004年発行)

Ⅱ 満州事変と毒ガス問題 1931―1936

2 ジュネーブ一般軍縮会議での毒ガス問題討議

 

一般軍縮条約案の運命

 こうして、軍縮会議はなんらの成案を得ることなく崩壊への道をたどる。しかし、もしそれ以前に一般的軍縮条約が成立していれば、日本の毒ガス使用は困難になっただろうし、敗戦直前にアメリカ軍の焼夷弾や火焔放射器で大きな被害を受けずに済んだであろう。

 

 

 

 

 

      海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)

日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!

 

 

 

 

 

 

 

 
 
略史
昭和 5年  海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年  平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年  海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年  特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年  相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年  終戦、廃廠
 第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
 
 

 

 

 

 
 
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。 
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内) 
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内) 
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)

 

 
 
 

 

 
 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳
明石書店 1995年発行)

第13章  毒ガスは消えず

苦しかった過去を回顧する、忘れ難い調査

 

日本軍が遺棄した化学兵器の被害者、崔英韻先生と証人周乃栄先生を訪ねる

 今年1月、私たちはハルピンの師範大学に、かつてチチハルで毒ガスの被害を受けた先生がおられるということを聞いた。これはとても重要な消息なので、私たちはすぐに仕事をやめて、何はともあれお目にかかって事情をお聞きしたいと考えた。



 



 
 
 

 

 

 

 

 

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