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国家犯罪!731から辺野古まで!!

2016-04-08 11:54:50 | Weblog

●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦)
中国では、現在、細菌戦の調査が着々と進められている。日本政府は反対に細菌戦に対し、全く無視し、過去を消し去ろうとしている。




細菌戦被害の人々


(毒ガス戦)
毒ガス証言1


暴かれる毒ガス戦の真実



さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)


東京初空襲・浙かん作戦

淅贛(せっかん)作戦 


1942(昭和17年)浙贛作戦における細菌戦
1942(昭和17)年4月18日、日本近海のアメリカ空母から飛び立ったB25爆撃機は、浙江省衢州の飛行場を着陸基地として、東京・名古屋を初空襲した。これに驚いた陸軍中央は、浙江省の前線の飛行場を徹底的に破壊することを決定した。これが「大陸命(大本営陸軍部作戦命令)612号」による「浙贛(せっかん)作戦」である。大本営作戦参謀井本熊男大佐の日記によれば、5月30日には細菌戦実施を指示する「大陸指(大本営陸軍部作戦司令)」が、参謀本部第一部長田中新一少将から、石井四郎少将、増田美保少佐らの実戦指揮者に伝達されている。7月26日には贛州(かんじょう)、建甌(じぇんおう)で飛行機から細菌の撒布が実行されたことが記されている。
地上撒布は、日本軍に被害が出ないように、侵攻した日本軍が反転し、撤退した8月19日以降に実施された。「井本日記」8月28日には、井本大佐が支那派遣軍参謀の長尾大佐から、「ホ実施現況」として細菌戦の実施状況の報告を受けている。これは細菌撒布の地上戦に関する報告で、広信、広豊、玉山にはペスト菌、江山、常山に対してはコレラ菌を、衢県、麗水には腸チフス菌、パラチフス菌を撒布したと記されている。
※井本日誌には浙贛作戦の仔細な情報が記されていた。
『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行



(細菌戦)
昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)


・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第2部
恐るべき遠足


死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。



「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦







細菌戦部隊731 


闇に消えた虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送)


常徳細菌戦




●毒ガス問題
日本や中国各地に毒ガスが遺棄されている!!生活に支障をきたさないのか?
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗


一本土決戦に備える毒ガス部隊一
敗戦直前、湘南海岸に毒ガス兵器を装備した海軍砲術学校とその部隊は幻だったのであろうか。そして毒ガスはこれだけだったのだろうか?
昭和20年4月1日、海軍大臣内令第278号海軍省内に海軍化兵戦部発足(高田利雄少将)主に相模海軍工廠北里又郎中佐、館山砲術学校大川秀四郎少佐を中心に化兵戦実施部隊の編成・整備にあたるとした。敗戦前に毒ガス部隊が突如計画されたものではなく、昭和18年館山海軍砲術学校(睦戦及び陸上対空担当の術科学校)に化兵戦の研究・教育が行われていた。 






自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?

死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)

1950年代に、自衛隊は秘密裡にアメリカ側のデータを下に毒ガス製造をはじめ、1964年(東京オリンピックの年)にサリンの製造に成功している。オウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの知識で果たしてサリンが製造できたのか?自衛隊のデータが漏れていなかったのか?それとも、自衛隊も事件に関わっていたのか??
「地下鉄サリン事件」ザ!世界仰天ニュース


・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。

週間金曜日 2013年5月24日号
自衛隊とサリン 第2回
元陸自化学学校長が毒ガス製造を認めた!
・サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
※国威発揚のオリンピックと戦争は大いに関係した。(1940年の東京オリンピック、日中戦争の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった。この年皇紀2600年の記念行事として準備が進められていた。)
・1973年、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。

毒ガス第2世代
第1次世界大戦(1914~18年)は「世界初の毒ガス戦争」とも言われる。・・・・
こうして1918年に終結した第1次世界大戦の中では、市民も含めて100万人以上が毒ガスを浴び、その1割に当たる約10万人が死亡したとされる。
その後も毒ガスの研究・開発は進み、第2次世界大戦(1939~45年)の前あるいは大戦中にナチス・ドイツが相次いで開発した毒ガスが「第2世代の毒ガス」と呼ばれるものだ。殺虫剤研究の中で1936年発見された「タブン」、そのタブンの2倍の毒性を持つと言われる「サリン」(1938年)、極秘に開発され第2次大戦終了後まで知られることはなかった「ソマン」(1944年)などである。



※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。

それとも、自民党も毒ガスの製造、貯蔵のことを知っていたが、嘘を言って国民をだましているのか?
戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!













●『日本の国家機密』
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!

特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)

ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より


第二章国家機密の構造

3 外交機密の生態
底知れぬ外交機密
外務省の秘密文書は、電信、公信、調書に区分されている。その内容は明らかにされていないが、電信は在外公館から本省にあてた報告、暴露された沖縄密約電信のような情報伝達などが含まれていよう.。だが、こうしたものは、それほど重要な秘密ではない。在外公館からの電信は、すべて「秘」以上に指定すると政府は国会で答弁している(参院法務委72・6・6、竹下官房長官)。「在外公館は、現地新聞の記事を焼直して報告書に仕立てるのだが、これも秘扱いだし、レセプションに出席する場合の服装の注意まで秘印を押していることもあった」(『朝日新聞』72・4・9)。
こういう秘密体質にとどまるなら笑話ですむかもしれない。それはともかく、沖縄密約電信でさえ、国民には隠さねばならなかったが、アメリカにたいして秘匿しなければならぬものではなかった。その「対象事項は、沖縄返還にかんする対米交渉のかけひきの上で秘匿を要する性質のものではまったくなかったこと。たとえば、交渉者への本国政府からの訓電等とはその性質をことにしており、交渉の相手方に知られてもなんら支障のないものであった」(稲本洋之助「沖縄と報道の危機」、『別冊経済評論 裁かれる日本』335ページ)のである。




●南京大虐殺
・証言
日本軍が南京を占領した時、私が難民区の方へ逃げる道の途中で、日本兵が爆弾を投げていて、私は2歳の子を抱いていたので、息子がやられないようにと、体で息子をかばい、幸い傷は受けずに、直ちに難民所に駆け込んで住まいました。
難民所で、私は家のことが気がかりで、そっと駆けて来たら、小営路の角で屍を10幾つか見かけましたが、屍は全部近くの溝に投げ込まれていました。太平門の家に戻ったら、家屋が全部焼き尽くされていました。(呉玉燕と呉建野が記録)


南京大虐殺











●731問題
・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!

中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!

夏草をふみしめ遺跡の前に跪(ひざまず)く
オバケ煙突の下、不気味に笑う悪魔の目鼻
ここで焼却されたマルタは虚空に消えた
その無念の粒子を今なお人々は呼吸する
この空間には癒されぬ死の怨霊がくすぶり続ける
だが誰もそのことを声高に語ろうとしない
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より




・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第2部
明石氏と再び・・・・・・


「ちょっと、かりますよ」
明石氏が静かな口調で佐川技手にいい、私の顔を慈父のようなまなざしでのぞいた。
「どうぞ。今日はどうせ、これぎりですから」
と、佐川技手が答えた。
私は、皆の視線を背に感じながら、内心得々として、明石氏と一緒にそこを離れた。
「まだ暑いなぁ。どこへゆこうなか?・・・・俺の官舎へ行ってもご馳走はないな。女房を郷里へ帰してしまったあとだから」
「帰されたのですか?やはりここも危険なのでしょうか?」
と、私は、通化への移動をあわせ考えながらきいた。
「そんなこともあるまいが、第一、俺がここにいることが少ないんだからね。・・・この前、君と会ってから間もなく出かけて、昨日帰ったばかりだ」
「沖縄もとうとうだめでしたけど・・・今度はどっちへくるでしょうか?」
そうたずねる私には、果たして、世界中を驚倒させる新兵器が実際に使用されるのかどうかを知りたい下心と、何か希望的な予想をこの人から聞きたいという期待があった。
しかし、明石氏は、「ううん・・・・」と気のない返事をしたあと、
「この秋が決戦だろうかな」




真実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
レイテ海戦、特攻






●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第13章 遅すぎた降伏
7月28日、穏健派と目された重臣の米内海軍大臣は、秘書役の高木惣吉少将から、なぜ首相はこのようなばかげた声明を出すことを認めたのかと問われて次のように答えていた。
「声明はさきに出したほうに弱味がある。チャーチルは没落するし、米国は孤立におちいりつつある。政府は[ポツダム宣言を]黙殺でいく。あせる必要はない」
「あせる必要はない」とは、ポツダム宣言第5項(「吾等は遅延を認むるを得ず」)を真っ向から否定するものであり、そして、7月28日の日本政府の声明に関する当時の西洋の理解をさらに補強することとなった。すなわち天皇の指導の下に、日本は他面ではあいまいな和平の予備交渉を行いつつも、最後まで戦う決意を翻すことなく、その意志を緩めることはない、というものである。鈴木の意図が誤解されることはなかったのである。
こうして、アメリカは原爆の使用と、オリンピック作戦と命名された11月1日に開始予定の南九州侵攻作戦の準備を急いだ。8月6日午前8時15分、1機のB29が、ほとん無防備の広島を破壊し、推定10万ないし14万名を即死させ、さらに約10万名の命(その後の5年間に)を奪った。原爆の爆心は「太陽の3000倍以上の閃光」を放ち、火の玉が形成されて、熱放射線を放ち「人間、樹木、家屋を瞬時に焼き焦がした。熱せられた空気が上昇すると、冷たい空気を呼びこんで火炎の嵐となる・・・ (数時間後には)旋風によって燃えさかった炎は8平方マイル 〔20平方キロ〕を焼き尽くした。死の灰をたっぷりと含んだ黒く、ドロドロしたとした雨が降り始めた」。






●『天皇の陰謀』

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた


ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳より

第三章

敗戦
(その1)

マニラへの特使
1945年8月14日、日本の軍事統治への任命を聞くやいなや、マッカーサーは、マニラの部下や諜報部員に、占領の兵站を精査し、さらに、天皇を手なずけ活用するための構想と最適方法を提出するよう指示した。マッカーサーの諜報部長チャールス・A・ウィロビーは、補佐役と協議し、天皇は丁重にかつ時間をかけて活用されるべきだとし、裕仁は「リベラルな助言者」で包囲され、「日本の再生」の「シンボル」と感じさせるようにすべきであると助言した(28)。マッカーサー自身は、この問題には十分時間をかけて考えてきており、何が必要か、うがった見解をもっていた。彼は自らをフィリピン救済にあたる東洋専門家とは考えていなかった。彼は、近代日本史の詳細をほとんど知らず、それを欲しようともしなかった。彼は、過去のことは過去のことにすべき、と考えていた。アメリカ人が日本人の人を欺く狡猾さと戦おうとした場合には、日本側が勝利し、しかも誰も勝てるものはいないと彼は確信していた。日本の問題の解決はありえず、名医の権威によって裏付けられた処方以外に、その方法は存在していなかった。つまり。日本人は自分で自分を治療するしかないのであった。


全文は「ノブのノート」で!!

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