2015-04-28 05:00:55 | Weblog



・「鉄証如山」・・・731の残虐行為の証拠は山の如く存在する!!
・川田龍平さんが現在の医療問題を熱く語っています!!
・石田勇治氏(東京大学大学院総合文化研究科教授、ドイツ近現代史)が、日本とドイツの謝罪の違いについて語っています。
「歴史を踏まえた日本の医の倫理の課題」などより浮かぶ数々の疑問!!
2015/04/12 【京都】医の倫理-過去・現在・未来- 日本医学会総会2015関西並行企画「歴史を踏まえた日本の医の倫理の課題」(動画)
封印された真実1 

上記の動画などからの抜粋や想像。
・731部隊や100部隊は、昭和天皇(大元帥)の裁可をうけて軍令陸甲第7号が出され、平房や長春に設置された。
・731部隊では、日本の大義(お国、医学の進歩)のため、医の倫理は全く無視され、人体実験(生体実験・生体解剖)が日常的に行われた。
・お金東京地方裁判所 が余りない日本にとっては、その人体実験を通して、日本軍は細菌爆弾・細菌兵器を作ることが急務であった。
・1999(平成11)年9月22日の東京地裁の判決・・・731部隊については、「…1938年、満州国ハルビンの平房に731部隊のため数十棟の建物を備えた研究所と付属の飛行場が建設された(…細菌兵器の大量生産、実戦での使用を目的としていたものであり、そのため、『丸太』と称する捕虜による人体実験もされた。…〈証拠略〉が具体的であり、右の存在と人体実験がされていたことについては、疑う余地がないと認められる。)。」と認定した。
・1997年の細菌戦の訴訟が起きて、一審、二審の裁判では、細菌戦による原告らの被害事実と日本の国家責任を認定している。時効が成立しているので、賠償と謝罪は認められなかった。その判決文の中で、これ以上の高次な判断は国会の場でやって対処してもらう。という結論を出している。
裁判所が、事実認定して、最高裁で、国会で高次の判断を出しなさいと言っているのに、政府の方は何の動きもしない!!
・細菌戦を実施したことを示す金子順一論文発見(2011年)
七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問主意書
・731の番組を作るとき、日本からの情報が出てこないので、アメリカや中国、ソ連の情報を使って、モザイクをしていくような作業で確定して行く。
・敗戦時、日本の将官が命令を出して、日本軍の証拠を2晩かけて焼却処分した。
・習近平体制になってから731部隊の資料(関東憲兵隊の資料)も500ページ平均のものが84冊出している。政府が督励している、国家プロジェクトとしてやっている。日本は隠すばかり、国家間の差がはげしい。日本政府はずっと無視している。ごくわずかの研究者しか検討していない。
・日本政府は731部隊の存在は認めているが、そこで人体実験が行われた事も、中国で細菌戦を行い、被害者が多数出た事も認めていない。
・人体実験が行われて、細菌兵器を作っていたことが全世界にばれると、戦犯として昭和天皇(大元帥)が裁かれるので、日本は、ソ連が参戦するとすぐに731部隊を完全に破壊して、証拠湮滅を急いだ。マルタ(被験者)は全て殺して焼き、松花江(しょうかこう)に捨てた。隊員家族は真っ先に日本へ帰還させた。(多くの残留日本人がいるにもかかわらず)
・マッカーサーは、厚木の飛行場に降りる前から日本軍が生体実験、細菌兵器の開発をしていたのをある程度知っていた?アメリカは日本の文化の特質を研究していた。「菊と刀」の文化より、天皇に対しては忠誠を強いられていることを知っていた。その天皇を使って占領政策を円滑にしようとした。
だから、帝銀事件が起き、731部隊員に捜査が及ぶ事になると、国民に731部隊のことがばれるので(その結果、天皇にもその責任が及ぶ事にもなりかねない)マッカーサーはGHQ法務部の731部隊の調査はやめさせた。極秘に731部隊の事を調べ、データ収集する中で、731部隊員を全員免責にした。軍医であった増田知貞も、取調べ後、公職追放を解かれて大学教授の夢が見えてきたが、直後にオートバイ事故で死亡した。
1945年6月の報告書

・サンダースが平房を視察しようとするとマッカーサーはやめさせた!!(天皇の責任にかかわるから?)

・1945年の敗戦の年の11月に行方不明のはずの石井はアメリカ人将校にディナーを振舞っている。
・天皇を戦犯訴追すると、アメリカの交渉相手がなくなってしまう。天皇家の資産は相当だった。
天皇家の財産
・マッカーサーと天皇の会談は11回極秘に行われ、沖縄の事、731の事、原爆の事さまざまな事について話し合われ、すべて内容は極秘??
密約は731部隊についても存在する?
・731部隊は「バターン死の行進」で生き残った捕虜に奉天監獄で、生体実験を行った。
・奉天監獄で捕虜だったアメリカ人がアメリカ政府に訴えた公聴会の記録も非開示。その事が全米にばれると、731の事が問題になる?アメリカ政府自体が責任を問われる。天皇の事も。だからアメリカと日本を密約を結んだ。情報の非開示。
・クリントン政権では、戦時中のアメリカや日本の情報が情報公開などによって、結構見られたが、ブッシュ、オバマになってからは情報を出していない。日本とアメリカが非開示ということで密約している?
・フェルレポートに列挙された19本のレポートの1つも出ていない。アメリカ政府も開示していない。
・防衛省は衛生学校校長だった金原節三(きんばらせつぞう)が寄贈(2028点)した文書の一部を、市民が裁判を起こしてやっと出したが、肝心な部分は出さない!!最初の3年間のところは4冊しか出していない。金原節三は1941年当時陸軍省医事課長で細菌戦に関与していた。裁判は継続中。
・日本政府にアメリカが返還したとする731部隊の文書を問い合わせても行方不明としてきちん資料を出さない。
・戦後、731で研究されて書かれた論文が、京大や東大などで公然と認められ、博士号が授与されている事実!!(もちろん人体実験のことがあからさまに書かれている。)以下は、西山勝夫氏(滋賀医科大学)の『731部隊関係者等の京都大学における医学博士の学位の授与過程』より

・日本医学会は731の犯罪を追及しようとしている人たちの意見を無視し続けている!!
(『日本医療の原罪』(高杉晋吾著)p16より

・鬼塚氏などの書物を読むと、天皇は2発の原爆投下のことはあらかじめ秘密のルートから情報を得ていた。東京大空襲の情報も得ていたのかもしれない。
アメリカは、取引相手を初めから天皇にしていたのでは。だから、東京大空襲では皇居は狙わなかった。(一部は損害を蒙ったが)
・日本医学界の縦社会を、(体育系)を象徴する例。(教授の言ったことには逆らえない!)
九大生体解剖事件で若い研究生が米兵を採血した後、石山教授が「海水を注射しろ」と言うと、「もうその実験はウサギの実験でやっていますからいいじゃないですか」と返すと、教授は「ウサギじゃ意義?がない」と言って、強行させた。
・中国では戦後70周年ということで731部隊跡の世界遺産への申請に向けて準備が進んでいる。また、細菌戦被害地では、細菌戦の検証ということで「史料集」などがたくさん出る予定!!中国へ行ったときに日本人は過去に中国でどんな事が行われたかを知らないで行くと、驚くことばかりかもしれない。
中国で出されている細菌戦の一般向けの本(表紙)
1941年に日本軍は大量のペスト菌で汚染されたノミ、米、綿を空中投下したため、常徳権県庁所在地及び郊外農村でペスト病の大規模な流行を引き起こした。


将来、こんな記念碑が建つかもしれない?

・医学部に入学すると1年生から解剖に入る。結局人間をモノとしてみて「人と人とが接する」医学教育ではない。
・日本政府は、日本とドイツは全く違うから比較する必要はないと言っているが、違うから比較する必要がある。それぞれのケースをより深く比較しなければならない。
・外務省のホームページ
歴史問題Q&A
問8.ドイツに比べて、日本は過去の問題への取り組みが不十分なのではないですか。

日独両国ともに、「過去の問題」に対して誠実に対応してきています。
一方で、ドイツと日本では、先の大戦中に何が起きたのか、そして戦後どういう状況下で戦後処理に取り組んだのかといった歴史的経緯が全く異なります。例えば、日本は、当時の国際社会によって一般的に受け入れられていた方式に則り、サンフランシスコ平和条約等に従って国家間で賠償等の問題を一括処理しましたが、ドイツは戦後、東西に分断されていたことから、我が国のように国家間で賠償等の問題を一括処理することが出来なかったことなどにより、結果的にナチスの犯罪の犠牲者への個人補償という形をとったものと承知しています。
このように、日本とドイツは、それぞれ異なる方式により戦後処理を行っており、両国の取組みを単純に比較して評価することは適当ではありません。
・石田氏の評価 点数40点・・・大事な事はほとんど触れていない。どのように過去と決着をつけてきたのかきちんと比較する事が大事。
・ドイツは謝罪をしていないという声があるが、それは90年代まではいえたが、その後は指導者が謝罪している。
94年 ローマン・ヘルツォーク大統領・・・ワルシャワ蜂起を鎮圧した50年目の記念日、ポーランドの国会で「ドイツがポーランドに与えた全ての苦しみに対してゆるしを請います。
次の大統領であったヨハネス・ラウは強制労働の補償基金の設立の交渉の始まりに遅すぎた補償を詫びて「私はドイツ支配下で奴隷労働、強制労働を行わなければならなかった全ての人々に思いを馳せ、ドイツ国民の名においてゆるしを請います。私たちは彼等の苦しみを忘れません」という声明を発表している。
・また、ドイツは植民地支配と関係ないだろうと言われることがあるが、2004年シュレーダー政権時の経済開発大臣(女性)がナミビアに出かけて行って、100年前に起きたドイツ帝国軍が現地のヘレロ族の反乱を鎮圧した際、その鎮圧が残虐で20世紀最初のジェノサイドという歴史的評価が与えらたが、それに対して、謝罪をしました。


●あの戦争を起こした昭和天皇の誕生日が「昭和の日」として休日にされるのには抵抗がある。
昭和天皇の戦争責任を感じる者にとって、なんともいたたまれない!!
天皇「裕仁」は、戦争を起こした人だからヨーロッパでは有名だろう!!
安倍は侵略戦争の反省をしないからアジアで有名?
欧米は昭和天皇、アジアは安倍首相=「知っている日本人」1位―新聞通信調査会[時事]
やはり、安倍首相と天皇家はつながっていた!!
天皇と親戚の安倍晋三首相


●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より

第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦

1938年 御前会議

御前会議は、1938年1月11日から1941年12月1日までの間に、少なくとも8回開催された。出席者は、天皇をはじめ、参謀総長・次長、軍令部総長・次長、陸相、海相、首相、蔵相、外相、枢密院議長、企画員総裁だった。
・・・御前会議は、通常、大本営政府連絡会議のあとに開かれ、連絡会議ではあらゆる利害関係者が合意に達していたため、昭和天皇は御前会議で「裁可」すべき案件の内容を事前に知っていた。御前会議とは、天皇自らの行為に責任を負うのではなく、側近の助言にしたがい裁可しているに過ぎず、あたかも真の立憲君主であるように見せかけることを本来の目的としていた。・・・
御前会議は「天皇の意思」を「国家の意思」に正式に変換する装置であった。・・・


●天皇と731の関係は?
・天皇は生物兵器に関心があった。(『死の工場』シェルダン・H・ハリス著(p229)

1925年9月赤坂御所に生物学研究所設置「昭和天皇」p61ハーバード・ピックス著(講談社)

1925年、ジュネーブ協定締結・・・毒ガスの禁止だけでなく、ポーランド代表の提案を入れ、細菌兵器の使用禁止もうたっている。・・日本とアメリカは批准しなかった。石井四郎、遠藤三郎に細菌戦の重要性を主張!!「医学者たちの組織犯罪」p60 常石敬一著より(朝日新聞社)

細菌戦、略年表「消えた細菌戦部隊」p238常石敬一著(ちくま書房)


天皇の神格化1928(昭和3)年即位の礼(天皇:大元帥27歳)(約1年間かけて行われ、最後は大嘗祭)裕仁は現人神(あらひとがみ)になる。
27歳の若さで現人神?頭の中では大日本帝国の夢が膨らんでいたのであろうか?

大日本国憲法では
第三條
天皇ハ聖ニシテ侵スヘカラス
第四條
天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ
第十一條
天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
となっている。天皇が神で神聖であり、元首であり、陸海軍に責任を持つことになっている。

ところが戦後補償裁判では「国家無答責」の法理によって、国・天皇の責任が一切追及されない。
何で、戦後も旧憲法が生きているのか?
(参考)国家無答責の法理(こっかむとうせきのほうり)とは、国家無答責の原理ともいわれ、大日本帝国憲法のもとでは官吏は天皇に対してのみ責任を負い、公権力の行使に当たる行為によって市民に損害を加えても国家は損害賠償責任を負わないとする法理をいう。

1925年・・・治安維持法制定(国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。)
昭和3年(1928年) 昭和天皇 即位の大礼


・1928(昭和3)年、昭和天皇の即位式・・・ほぼ1年かけて現人神・大元帥になった。(27歳)
日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台もこの時期に築かれた。1928年、田中内閣は化学・生物兵器禁止国際議定書〔1925年調印の「窒素生ガス、毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」のこと。日本の批准は1970年〕の批准を見送った。翌年には枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎてとても実行できないと言う。・・「昭和天皇」p170ハーバード・ピックス著(講談社)
・1929(昭和4)年、昭和天皇、陸軍軍医学校視察、どのような目的があったのか?(軍医学校の中に1932年に防疫研究室が設置され、33年に規模を拡大。多くの京大や東大の教授達が嘱託として働き、731部隊などにいろいろな指令を出した。)「陸軍軍医学校50年史」より
軍刀には不思議な力がある?



・小泉元中将と助教授を結び付ける唯一の“接点”も細菌戦部隊だった。小泉は陸軍省医務局長時代、細菌戦準備を提唱した石井四郎元中将の最もよき理解者の1人であったし、後援者でもあった。小泉元中将の支援なくして日本の細菌戦部隊はありえなかったと言ってもよい。
その細菌戦部隊とかかわり、そこで人体実験を強いられたのが、自殺した助教授である。彼は医学者としては、手を染めてはならない人体実験を繰り返し、その良心の呵責から死を選んだのである。
小泉元中将を、日本の細菌戦を推進し、大きな流れを作った人物と位置づければ、助教授はその流れに巻き込まれ、のみ込まれた1人といえよう。・・・
(『細菌戦部隊と自決した2人の医学者』常石敬一・朝野富三著より)
小泉親彦・・・1932年(昭和7年)、近衛師団軍医部長に就任。1933年、陸軍軍医学校校長。1934年(昭和9年)、陸軍軍医総監(陸軍中将相当官)となり陸軍省医務局長に就任。1937年(昭和12年)、官名が陸軍軍医総監から陸軍軍医中将に改められた。階級としては、軍医中将は軍医として最高位である。1940年(昭和15年)、勲一等旭日大綬章受章。1941年(昭和16年)、第3次近衛内閣で厚生大臣に就任、次の東條英機内閣でも留任した。
1945年(昭和20年)、連合国軍の取り調べを拒否し、割腹自殺を遂げた。
軍医時代の小泉の大きな仕事
1、厚生省設置の推進  2、日本における毒ガス戦の基礎を築く  3、防疫研究室新設に協力し、この近衛師団軍医部長を兼務していた時、近衛師団の土地約5000坪の土地を「譲与」した。(1933年10月、新たな防疫研究室完成)
・厚生省とは国民の健康を増進するために作られたのではなく、強い兵隊を作るために作られたのか?
・毒ガスの人体実験は平房の731部隊の施設で516部隊と合同で行った。
・陸軍軍医学校と防疫研究室は、地下道でつながり、その地下道には、コンクリート製の水槽があって、ホルマリンの中に死体が、15、6体浮かんでいた。(『証言731石井部隊』郡司陽子著)(731部隊で、生体解剖したものを飛行機で研究室まで運んだのか?)
小泉親彦(こいずみちかひこ)

1933年防疫研究室完成(731部隊の司令塔)、1936年(陸軍軍医学校50周年)遂に防疫機関(731部隊)の新設をみるに至れり。
ここで、防疫研究室新設の理由として、欧米各国と比べ「我が国に之が対応施設なく」と述べられている。しかしすでに軍医学校にはこの研究室より規模も大きく、名称も似かよっている「防疫部」が設けられていたのである。対応施設云々こそ、細菌戦研究の研究室である事を、暗に認めたものであろう。この表現でも、一般に公開することを予定した文書においては、ぎりぎりの線であろう。(『消えた細菌戦部隊』常石敬一著より)
『陸軍軍医学校50年史』P184 

防疫研究室『陸軍軍医学校50年史』より

731部隊全景(『続・悪魔の飽食』森村誠一著)

・4宮殿下、陸軍軍医学校50周年式典にご臨席・・・731部隊(細菌戦)・毒ガス戦にかける思いも強かったのでは?
閑院宮(かんいんのみや)・・・1931年~40年陸軍参謀総長
梨本宮・・・元帥、敗戦後、神宮祭主であったことから国家神道の主体的な頭目であったとみなされ、皇族としてただ1人A級戦犯容疑者に指定されて、巣鴨プリズンに拘置された。
朝香宮・・・1937年(昭和12年)12月2日、上海派遣軍司令官を拝命し、直後の南京攻略戦に参加。南京大虐殺に関与。
東久邇宮(ひがしくにのみや)・・・太平洋戦争時は防衛総司令官・陸軍大将に就く

・4宮殿下陸軍軍医学校の50周年の式典に臨まれる。

久邇宮(香淳皇后の父親)・・・生物学戦争についての情報を提供し続けた?

・永田鉄山・・・石井の特に細菌戦研究についての主張は、陸軍省や参謀本部において次第に支持を集めて行った。彼の意見を支持した人間のうち最も有力な人物が、1931年当時陸軍省軍務局軍事課長(陸軍中佐)で、1934年には実質的に最も力を持っていた局長である軍務局長(陸軍少将)に就任する永田鉄山だった。ちなみに、後に石井部隊が創設されてから、部隊長の石井の部屋には永田鉄山の胸像が飾られていたという。国家総動員を唱えていた。(『消えた細菌戦部隊』常石敬一著)

・1937年(昭和12年)・・国民精神総動員【第一次近衛内閣が1937年(昭和12年)年9月から行った政策・活動の一つで、「国家のために自己を犠牲にして尽くす国民の精神(滅私奉公)を推進した」運動。】「国体の本義」(神勅や万世一系が冒頭で強調されており、国体明徴運動の理論的な意味づけとなった。)
・1938年(昭和13年)・・国家総動員法発令【総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したもの。】
・1941年(昭和16年)・・「臣民の道」7月の第3次近衛内閣時に文部省教学局より刊行された著作である。欧米の個人主義思想を否定し、ただ国体の尊厳を観念として心得るだけでなく、国家奉仕を第一とする「臣民の道」を日常生活の中で実践する在り方を説いている。
戦陣訓発表 (生きて虜囚りょしゅうの辱はずかしめを受けず、死して罪禍ざいかの汚名おめいを残すこと勿なかれ。)


1940年(昭和15年)皇紀2600年?に東京オリンピックを開催する予定だった。

道徳の強化、「日の丸」・「君が代」の強制、秘密保護法で隠す動き、軍事力強化、集団的自衛権を行使可能にする流れは
何か昔の動きと似ていませんか?

オリンピックよりも、脱原発、福島・東日本の復興にお金をかけたらいかがですか!!



日本の真相 鬼塚英昭



●『天皇の陰謀』

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた

ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳より

著者より読者へ

アメリカ占領軍に入手された第二の日誌は、『西園寺・原田回顧録』として知られるものである。これは、表面上は日本のもっとも著名な自由主義政治家、西園寺候――彼が91歳の1940年11月まで、天皇に代々の首相を指名するにあたっての助言をする役にあった――のノートである。ただ実際は、この回顧録は、西園寺の政治秘書であった原田熊雄男爵――西園寺の部下として天皇の密使として動いていたゴシップ好きで陰険な便宜主義者――がまとめたものである。
この『西園寺・原田回顧録』の英語版は、25巻からなり、国際軍事法廷の弁護側が使用する目的で、1946年から47年の間に、自発的な日本人チームによって作成された。その翻訳は名文ではるが不正確である。たとえば、幾箇所かで、内大臣――天皇の主席民間輔弼――が内務大臣――警察行政にあたる内閣官僚――と訳されている。
その日本語版は、1952年から1956年の間に、『西園寺公と政局』との書名のもとで、八巻にわたって出版された。欧米の学術界に代わってそれを読んだ英国人学者は、明らかに通読したのみで二冊の本を書き、その中で、国際軍事法廷の弁護目的で用意されたその不注意な翻訳をもっぱら引用していた。
1956年、この回顧録は、さらに、9巻のシリーズとして、限定版で再出版された。それは、原田のノートも含み、8巻が本文で、最後の1巻は索引となっている。これはたいへん有用である。私が知る限りだが、私を別にして、ほとんどの欧米学者は、この入手の困難で高価な第9巻を活用していない。





731部隊展開催のお願い!!





●日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!

中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!

夏草をふみしめ引込み線を歩いた
視界が不意に三角形に切り取られ
やがて歴史の暗渠(あんきょ)に足を踏み入れる
見上げれば天を突く巨大な残骸
ただれ崩れ落ち、悲しみの肉塊のように
灰色の空の下で泣いている
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より



混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)



・『731部隊 細菌戦の医師を追え(今も続く恐怖の人体実験)』(高杉晋吾著 徳間書店)

Ⅵ 米謀略資金とツツガ虫病人体実験

米軍援助資金の契約の窓口・元石井部隊研究者


話を戻すと、私はこの調査で浅沼と流行性出血熱と北野政次とのつながりを調べたのだが、はっきりと浅沼が731部隊の研究に加わっていた事を突き止めたのは、東大医学部図書館で文部省資源科学研究所彙報(いほう)「満州産野ねずみの巣内における生態」についての研究報告のなかで「稿を進めるに先立って、当時ご鞭撻(べんたつ)を賜った北野政次博士・・・ら諸氏に厚くお礼を申し上げたく・・・云々」と浅沼が書いていることからであった。

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