「はだしのゲン」巡り揺れる広島 教材から削除、販売は急増―原爆忌
「香川の子どもと教科書ネット」通信
第68回会議報告(2024年3月10日・日)
【二】 「はだしのゲン」
【7巻】
(28P)
ゲンの友達の年男の伯父の家の前
伯父「年男、おじさんがわるかった。許してくれ~~・かんべんしてくれ~~たのむ~~た
のむ~~」
のむ~~」
「おじさんがおまえの財産をとったのも、おまえにつらくあたったのも、国に裏切られ
たからじゃ」
たからじゃ」
「わしらは、日本国の繁栄と日本人のすべてのためになると信じてどんなに苦しくても
必死で歯をくいしばって日本の長い15年間の戦争に協力して、自分の青春もすべてを
犠牲にして戦ってきたんじゃ」
必死で歯をくいしばって日本の長い15年間の戦争に協力して、自分の青春もすべてを
犠牲にして戦ってきたんじゃ」
「神州不滅(しんしゅうふめつ)の大日本帝国は神様の天皇陛下が守ってくださるから
日本は絶対に戦争には負けないと信じて戦ってきたんじゃ」
日本は絶対に戦争には負けないと信じて戦ってきたんじゃ」
「ところがあれよあれよと言うまに」
「日本は焼け野原にされて」
「広島、長崎は ピカドンであっというまに消えてしまい何百万人の日本人が死んで日
本は戦争に負けてしもうた」
本は戦争に負けてしもうた」
「いままで日本を守る神様だった天皇陛下は、あっという間に人間様に変身して、わし
らにたえがたきをたえ,忍びがたきをしのべと知らん顔じゃ 」
らにたえがたきをたえ,忍びがたきをしのべと知らん顔じゃ 」
「わしゃ ナンのためにすべてを犠牲にして 必死で国のためにたたかってきたんじ
ゃ」
ゃ」
「わしゃ だまされたと気がついた時は、くやしゅうて くやしゅうて」
「それ以来権力者のやつの言うことは絶対に信じるもんか 人間は信じるもんかとき
めたんじゃ」
めたんじゃ」
「信じられるものは,自分と金や財産だけと決めたんじゃ」
「だからおまえがどうなろうと 自分の財産をふやすことだけに熱中したんじゃ」
「年男うらむなら、わしをだまして戦争を起こした奴らをうらんでくれ~~」
「わしの心を変えたやつらを」「どうかわしを殺さないでくれ~わしゃ 戦争でなくし
た青春をこれからとりもどしたいんじゃ」
た青春をこれからとりもどしたいんじゃ」
「まだまだ死にとうないわい たのむ たのむ」
戦争の加害も忘れるな!!
≪東京大空襲≫「あれよあれよという間に周りが火の海に」14歳で死生観が一変した昭和20年3月10日の夜
『文藝春秋が見た戦争と日本人』より#1半藤 一利2022/08/12
『日本のいちばん長い日』、『聖断』などのノンフィクションを記してきた半藤一利さん(1930~2021)の原点が、自らが体験した1945(昭和20)年の東京大空襲であった。
東京大空襲は、1945年3月10日の陸軍記念日(日露戦争時の奉天会戦に勝利した日)、下町が狙われ、死者は10万人を超えた。『文藝春秋が見た戦争と日本人』より抜粋して引用する。(初出:『くりま』2009年9月号「半藤少年がくぐり抜けた戦争と空襲」)
あの晩も警戒警報が鳴ったにもかかわらず……
いま考えると、私が初めて歴史と正面から向き合ったのがその時でした。つまり、昭和史“探偵”の原点がそこにある。昭和20年3月10日――。まずはその前の晩のことからお話ししましょう。
9日の夜、東京に警戒警報が鳴ったのは、午後10時半頃でした。この警戒警報というものにすでに慣れっこになってしまっていましたから、この日もさほど驚かなかった。
軍需工場じゃなければ爆弾は落とされない、さすがにあの頃はもうそんなことを考える人は誰一人いませんでしたが、逆に言えば、どこにいようが当たってしまえばもうそれまで、と覚悟を決めていたようなところもあったんですね。ですから、あの晩も警戒警報が鳴ったにもかかわらず、おやじと2人、呑気に寝ていたんですよ。
※カーチス・ルメイ・・・焦土作戦は東京・大阪・名古屋などの大都市を焼き払った後は、富山市・郡山市などの地方の中小都市も対象となった。これらの空襲は日本国民を震え上が
らせ、日本側から「鬼畜ルメイ」「皆殺しのルメイ」と渾名された。
勲一等旭日大綬章の授与
1964年12月7日に日本に返還されたばかりの入間基地で、勲一等旭日大綬章を浦茂航空幕僚長から授与された。理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためである。12月4日の第1次佐藤内閣の閣議で決定された。叙勲は浦がルメイを航空自衛隊創立10周年式典に招待したことを発端とした防衛庁の調査・審査に基づく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている。推薦は小泉純也防衛庁長官と椎名悦三郎外務大臣の連名で行われ、防衛庁から佐藤栄作首相・賞勲局へ叙勲が適当であるという説明があった。勲一等旭日章という種類の選定は大将という階級から慣例に基づいたものである。
授与への批判
ルメイが東京大空襲や原爆投下を行った部隊の指揮官だったことから授与に対して批判も大きく、現在でも「勲章は返還するべきである」と唱える者もいる。当時は日本社会党・原水爆禁止団体・被爆者などから国民感情として納得できないという声が上がった。
東京大空襲
死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲。この3月10日の空襲だけで、
罹災者は100万人を超え、死者は9万5千人を超えたといわれる。
なお、当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称されていた。
重慶爆撃
日中戦争の最中、中国の国民党政権の臨時首都となっていた重慶市にたいして、日本軍は、無差別爆撃をくり返し、多くの人々を殺傷しました。(中国人民政治協商会議四川省重慶市委員会文史資料研究会編『重慶抗戦紀事』によると、爆撃は1938年2月~43年8月にかけて218回、被害は死傷者2万6千人、焼失家屋1万7千戸。ほかに41年6月5日、
防空壕で数千人から1万人以上が窒息死したといわれる惨劇がある)