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国家犯罪!731から熊本大震災まで!!

2016-04-17 10:45:52 | Weblog

●ニュース
南阿蘇村で村民ら8人と連絡取れず 熊本地震

<熊本地震>父「痛かったね」 娘が家屋倒壊の犠牲に






●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦)
中国では、現在、細菌戦の調査が着々と進められている。日本政府は反対に細菌戦に対し、全く無視し、過去を消し去ろうとしている。



細菌戦被害の人々


(毒ガス戦)
日本の毒ガス弾の処理


暴かれる毒ガス戦の真実


(毒ガス戦)
さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)


(細菌戦)
昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)


・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第2部
恐るべき遠足


死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。



「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦





細菌戦部隊731 


アメリカ政府の責任




●毒ガス問題
日本や中国各地に毒ガスが遺棄されている!!生活に支障をきたさないのか?
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗


「旧海軍の毒ガス」に新資料 1987年4月7日(朝日新聞)
本土決戦へ相当量備  米軍報告書

アメリカは日本の毒ガス施設を故意に過小評価した!!
(天皇を免責するために)









自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?

死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)

1950年代に、自衛隊は秘密裡にアメリカ側のデータを下に毒ガス製造をはじめ、1964年(東京オリンピックの年)にサリンの製造に成功している。オウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの知識で果たしてサリンが製造できたのか?自衛隊のデータが漏れていなかったのか?それとも、自衛隊も事件に関わっていたのか??
「地下鉄サリン事件」ザ!世界仰天ニュース


・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。

週間金曜日 2013年6月21日号
自衛隊とサリン 第5回 
「『防護』というなら国民を守ってほしかった」
・繰り返された毒ガス殺人と未遂(オウム事件)
1993年11月・・・創価学会の池田大作名誉会長をサリンで襲撃失敗
1993年12月・・・同上
1994年5月9日・・・滝本弁護士をサリンで襲撃
1994年6月27日・・・松本サリン事件
1994年9月20日・・・ジャーナリスト江川紹子さんに毒ガス「ホスゲン」噴霧。
1994年12月12日・・・浜田忠仁さん殺人事件(VXガス)
1995年1月4日・・・永岡弘行さん殺人未遂事件(VXガス)
1995年3月20日・・・地下鉄サリン事件
1995年4月30日、5月3日、5月5日・・・東京新宿の地下トイレでテロ未遂事件(青酸ガス)
・(地下鉄サリン事件)事前に漏れた強制捜査の日にサリンは撒かれた
・警察も自衛隊のサリン製造を知らなかった?
・(自衛隊の情報)闇に閉じ込めておくとチェックも出来ない!!秘密にするな!!

日本は現在毒ガスを製造している!!





※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。

それとも、自民党も毒ガスの製造、貯蔵のことを知っていたが、嘘を言って国民をだましているのか?
戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!








●『日本の国家機密』
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!

特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)

ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より


第二章国家機密の構造

3 外交機密の生態
暗号電報の仕組み
一般秘密通信の場合は、暗号機が使用される。普通の文章(平文)をタイプすれば、ただちに暗号化されて発信され、受信先では自動的に平文化されて出てくる。だが、こうしたテレタイプによる高速自動暗号方式は、大量の秘密通信には適しているが、システムさえ解明すれば容易に受信解読できる。もちろんシステムは、つぎつぎに変更していくが、解読可能だからこそアメリカ軍や自衛隊が、巨額の費用と兵力を投入して、コミント作戦に躍起になっているのである。




●南京大虐殺
・証言
1937年の冬月26日の午後、日本兵2人が曹家荘にやって来て、曹家荘の3部屋の家を火を放って焼いてしまい、火で空が真っ赤になり、すぐに又陳家荘にも来て、陳啓新の3部屋の家と呂祥金の3部屋の家とを火を放って焼いてしまいました。日本兵はラオパーイシン(老百姓=まったくの庶民、ごく普通の人たち)に銃の狙いを着け、ラオパーイシンに火を消しに行くのを許さず、行こうとした者は誰でも撃ち殺しました。



しゃべってから死ぬ!南京大虐殺





●731問題
・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!

中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!

夏草をふみしめてなおも歩き続ける
軒下にのぞく歴史に凌辱された眼光
住居を追われ悪魔に翻弄された暗黒の日々
長い年月に耐え声も叫びも枯れ果てた
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より


・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第2部
浜中の脱走


私はそれを見た瞬間、ほっとした安堵とともに、このようにして探しあてられた浜中に対して、死んでいたよりも惨めな感慨をいだいた。生きていてよかったというよりも、生き恥をさらした彼の苦痛のほどが、痛ましかった。
「この野郎、人騒がせをしやがって!」
「逃げられると思っていたのか、馬鹿野郎めが」
などと口々にののしりながら、雇員や傭員たちが憎しみをこめて、浜中を足げにしたり殴ったりした。
円く取り囲まれた中に、浜中は顔もあげず、ぐったりと、布袋のようにうずくまっていた。
「たて!たって、みんなにあやまれ。わびの一言ぐらい言ったって、罰はあたらんぞ」
近江属が、そう言って浜中の襟首をとって引き立たせた。見ると浜中は、全身ほこりにまみれ、メガネも帽子もない顔は、つぶされたようにゆがんで見えた。だが、よく見ると、それは顔を蹴飛ばされたときに吹き出た鼻血が泥と一緒に顔中に散らばっているのだった。
「貴様、逃げられると思ったのか!・・・・・ん、何とか言ったらどうだ」
近江属はなおも攻め続けたが、浜中は痴呆のようにぽかんとしているだけで、一言も口をきかない。


厚生省・国民健康保険について(消えた細菌戦部隊より:常石敬一著より)

医務局長としての小泉の実績は、確かに先の、「意欲・鋭さ・執拗さ」という言葉に見合ったものとなっている。すなわち今日の厚生省及び国民健康保険法を作ったのが小泉であった。・・・・・・
健兵対策の一環として厚生省は設立されたのだった。こうした設立の経緯が、今日の厚生省の弱者に冷たく、福祉行政に消極的な理由となっているのかもしれない。
小泉親彦(ちかひこ)

※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。



真実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
原爆投下、ソ連参戦








●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第13章 遅すぎた降伏
しかし、東郷は天皇の意向により繰り返し佐藤に対し、日本政府は講和案を事前に明らかにすることはできないこと、ソ連の意図を察知し、天皇の特使として近衛公爵を受け入れさせることに集中すべきことを伝えた。8月2日、東郷は佐藤に、「御上におかせられても本問題の推移に深き御軫念(ごしんねん)を有せられ総理、軍首脳部も目下此一点に関心を繋(つな)ぎ居る次第なり、就いては右の事情篤と御考量の上、御意見の次第あるも何とかソ連側をして特使派遣に対する熱意を起こさしめ、これを受諾せしむる様」にとさらに訓電を送った。東郷の訓電を受けた後、佐藤はふたたび外相にポツダム宣言即時受諾をうながす返電を送っている。
佐藤大使、元外相の重光葵、有田八郎のいずれもソ連の仲介で戦争終結ができるとは思っていなかった。東郷外相自身もこれに疑問を持っていた。しかし、東郷は、大権について国際的な保障を求めていた天皇の意に沿って事を処理しようとしていた。そのため8月4日、下村海南情報局総裁が東郷宅を訪問して、「ソ連だけを相手にしていたのではダメではないか。このままでは見込みがないから、米、英、中に裏道からでもいいからわたりをつけるべきだ」と説いたときですら、連合国と直接交渉することに同意しなかった。






●『天皇の陰謀』

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた


ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳より

第三章

敗戦
(その2)

米国の上陸
このアメリカ側の行動の早さに、日本側はびっくりした。最初の4日間に、ぼろを着、痩せ衰え、意識もおぼつかない五千人の捕虜が、東京および横浜地域にある収容所から沖泊まりしている連合軍の艦船に避難させられた(39)。また、厚木と横浜の間15マイル〔約24km〕に、油送パイプラインが新たに敷設され、一週間で稼働を始めた。8月29日は終日、米軍C-54輸送機が二分ごとに厚木基地に着陸し、日没までに、第11空挺部隊のすべてを移送し終えた(40 )。日本の航空隊員たちは、みじめな驚きとともに、ただたたずんでそれを見ているのみだった。その日の午後には、第4海兵連隊が横浜に上陸した。その隊員の一人はそれを、「どの海軍将官もマッカーサーより先んじて上陸しようとしている」(41)シーンだと描写している。




全文は「ノブのノート」で!!

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