「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
1995年8月15日
平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
南京大虐殺
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)
731部隊
ニュース257号
1946年にピューリッツァー賞を受賞したこの本により、アメリカが隠蔽しようとした事実が慎重に、そして確実に、世に公表されました。
※本記事は「Esquire」UK版のコンテンツディレクター、ウィル・ハーシーが寄稿した記事を抄訳したものです。
史上最も偉大なジャーナリズム、
『ヒロシマ』に記された衝撃とは?
最大の難関「占領軍」にはトロイの木馬作戦で臨む
そこでハーシー氏はその空白を埋めるため、広島に住む人々がどのように感じていたかを報告しようと、『ニューヨーカー』誌の編集長ウィリアム・ショーン氏と共に大まかな計画を立てたのです。そこでの最大の難関は、日本への入国許可を得ること…。つまり、ダグラス・マッカーサー元帥率いる厳格な占領軍の目をくぐり抜けることでした。
そんな2人は、トロイの木馬のようなアプローチを取ります。ハーシー氏は愛国心に満ちた模範的な特派員であり戦争の英雄であること。そして、イェール大学とケンブリッジ大学の卒業生であり、さらにはジョン・F・ケネディの元恋人と結婚した人物として紹介します。加えて履歴書には、『タイム』誌にマッカーサーの素晴らしいプロフィール記事を書いたことも明記。すると、その作戦が功を奏しました。
日航123便の怪(1985年8月12日)
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか?
精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
・実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
雑報1号(23巻、1939年)
学友会へ寄付
金25円74銭也 森下哲夫君
金16円56銭也 桑島謙夫君
金30円39銭也 中山髙志君
金16円28銭也 酒井皐二君
金19円24銭也 小栗一好君
金9円07銭也 岡本啓君
金87円80銭也 矢追秀武君
金19円80銭也 今村荒男君
金65円59銭也 荒川哲君
金41円09銭也 手塚悦郎君
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第3部 陛下の戦争
第7章 満州事変
30歳の天皇にとっていまや若槻内閣を支え、軍部を押さえ込み、そして事態の悪化を阻止する格好の機会だった。政治面では軍部はまだ弱く、満州をめぐり国論は二分されていたのである。天皇が専制君主ではなく、憲法にのっとったイギリス型の 「立憲君主」として統治することを望むのであればこれは良い機会であった。
9月22日、奈良侍従武官長の日記は、この重大な局面での天皇の行動をこう記している。
午后陛下の御召しに依り拝謁せしに、陛下は行動を拡大せざる様総長に注意したるやと御下間ありしを以て、注意も致したり、又注意を待たず総長は能く閣議の主旨も御意図も承知し夫々処置へを執り居れり、但し出先きの軍隊は騎虎の勢もあり脱線少からず、誠に遺憾且恐懼に堪へずと奉答し置きたり。・・・(その後)午后4時20分金谷参謀総長拝謁、朝鮮軍より混成旅団派遣の追認御允許を内奏し、陛下より此度は致方なきも将来充分注意せよとの御諚を拝す。