核・戦争のない世界!!

2024-08-07 09:47:11 | Weblog
 
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。

 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

南京大虐殺 
 
南京大虐殺(マギーフィルム) パネー号撃沈
           



 重慶爆撃               
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)







 原爆    

 
日航123便の怪(1985年8月12日)
 
     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
                     宮川米次
 
蕎麦摂食と肝硬変その他の病変
腎臓実質細胞に種々の変化があり、淋巴腺特に腸間膜腺が腫脹し、骨質硬化の減退があるということである。この実験的所見は鮮人の剖検所見に於いて胸腺の腫大を見たり。又骨軟化、頭蓋骨等の硬化減退等の所見と全くー致するものである。鮮人が、頭部の打撲等によって、頓死することがあるのも、頭蓋骨が非常に菲薄なることに何かー連の関係があるのではないかとさえ思われるということでもあり、加えるに彼らに特に多い肝硬変症はこの蕎麦の愛用と何らかの関係があるやにも思わるるのである。
 
 
 
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変

満州事変期、昭和天皇の私生活を伝える公刊文献は、河井弥八日記のなかの二頁にわたる記述と、非公式に天皇と会い、宮中の文書を見たと称する小説家小山いと子による秘話以外はほとんどない。  

1932年、昭和天皇と良子皇后は結婚して八年になっていた。皇后は4人の内親王をもうけたが、無事に育ったのは3名だった。そして、当時5番めの子どもを懐妊していた。この夏、彼らは満州情勢の緊迫化のため葉山御用邸への避暑旅行を取りやめ、東京に留まることを余儀なくされた。天皇夫妻は日々長時間、それぞれの側近と念入りに整えられた日々の仕事をこなしていた。天皇は、規則正しく7時半に、皇后はそれよりも少し早く起きていた。天皇夫妻は召使の手を借りずに着替えをし、通常、ふたりの女官により用意された食事をミルクとともにとった。食事が終わると、侍女のひとりがベルを鳴らし、当直の侍従に、部屋に入り挨拶をしてもよいことを知らせた。

 
 
 
 

 

 

 

 



 

 

 

 

 




























 
































































































































































































































































































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