核・戦争のない世界!!

2024-07-14 08:06:21 | Weblog
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。

 

南京大虐殺 
 
南京大虐殺(マギーフィルム) パネー号撃沈



        
 重慶爆撃               
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

  




 原爆    

 
広島に原爆投下された理由は?
原爆に関するよくある質問
原爆によって人間やモノはどうなってしまうのか
原爆の被害は爆心地からの距離によって概ね決まります。長崎の事例で説明します。
1キロ以内 人間や動物は爆発圧力や熱気で即死
家屋その他の建物は粉砕
爆心地付近は焼失
植物はなぎ倒され炎上
2キロ以内 人間や動物は一部即死、大部分は重軽傷
建物の80%は倒壊し、各所で火災
コンクリート柱や鉄柱は倒壊しない
植物は一部炎上
2~4キロ以内 人間や動物は爆風による飛散物で負傷
輻射熱線で一部やけど
家屋半壊、木柱の一部は焼失
4~8キロ以内 人間や動物は飛散物で負傷
家屋は半壊または一部損壊
8~15キロ以内 相当な爆風により、家屋の窓ガラスや扉、障子などが破壊
出典:ながさきの平和*15)
また、爆心地に近い広島市の旧住友銀行広島支店の入口階段には腰かけていた人が原爆の強烈な熱線によって焼かれて亡くなったことを示す「人影の石」がありました。現在は広島平和記念資料館に寄贈されていますが、原爆の威力のすさまじさを物語っています。*16)

 
 
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原爆が使用されたのはなぜ?

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日航123便の怪(1985年8月12日)
 
     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
                     宮川米次
 
(ヌ) ウィルス感染と食養
又ウィルス感染と食養的観察に於いてSpeucer(Stud, Rock. Inst.Med.Res. 1937) は燐酸塩、加里塩等の不足があると早く感染するし、過剰の方が予防的効果があるとさせ言っている。一方面の研究方法であって、本邦に於いては余り注意せられておらないことである。
 
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変
 
同夜遅く、天皇は、奈良のもとに侍従を遣わし、ふたたび奈良の見解を確かめさせた。奈良は、内閣は天皇を通じることによってのみ軍隊を統制できるということを完全にわかっていた。しかし、奉答書の中で奈良は「内閣以外にて之を中止せしむるは不適当なり」とした。天皇は消極的に同意した。引き続き、斎藤内閣は熱河作戦を承認し、2月12日、天皇は「万里長城を越ることは絶対に慎むべき旨注意し之を聞かざれば熱河作戦中止を命ぜんとす」との条件付きで、熱河作戦に2度目の裁可を下した。これは非常に苛立った大元帥の言葉であり、軍首脳部の指示に無条件に従った人の言葉ではなかった。
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




























 





































































































































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