●731部隊(1)
●731部隊(2)
●731部隊(3)
●731部隊(4)
●陸軍軍医学校50周年記念行事について
●南京大虐殺
●昭和天皇
●教科書問題
●陸軍登戸研究所
●日航123便の怪
●日本とドイツの違い
●原発・水俣病にみる学会の原因隠蔽の構図!!
●あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか?
●731部隊展
●ニュース
「広島に来て良かった」オバマ氏側近、専用機から電話
<ビキニ被ばく>福竜丸以外10隻 健康被害「確認できず」
伊方原発 住民が運転しないよう求める仮処分申請
高浜原発1・2号機 来月にも運転延長認める見通し
全国市議会議長会、地位協定改定を決議 名護市議長が米軍属事件説明
地震で不明大学生、地上から捜索 1カ月ぶり、熊本県警と消防
<世耕・官房副長官>釈明 首相のリーマン前発言「なかった」
元慰安婦支援の財団 10億円拠出時期など調整難航
アベとかいう変な人…国民をナメたら大変なことになるぞ!(*`ω´*)
新潟水俣病 感覚障害だけで認定命令 7人の訴え認める
安倍首相は南京・731部隊跡にもいかないのか??
安倍首相が真珠湾に来なければ驚き…米政府高官
オバマ米大統領広島訪問 中国外相「南京も忘れるな」
広島スピーチ
オバマ大統領の広島訪問 所感の全文
Obama’s speech in Hiroshima オバマ大統領 広島でのスピーチ
暴虐
高速実験炉「常陽」 再稼働は出力抑えて運転の考え
学術会議会長「自衛目的の研究許容を」 軍事否定から転換の可能性
「もんじゅ」根本から検討すべき 複数委員が意見
「もんじゅ」の運営主体の議論 「勧告に沿っていない」
「核のごみ」処分場 適した地域 10月以降に提示
STAP細胞の特許出願、米ハーバード大学が世界各国で…今後20年間、権利独占も
ドイツ環境・原子力大臣、「原発は費用がかかり将来世代に責任を持てない」=2020年の原発全廃を強調―東京で会見
・ロナルド・レーガンは地震の時どこにいたのか??人工地震の影響??
・小泉氏はなぜこんなにも、アメリカには敏感なのか????日本の被曝者には基金は作らない??
小泉氏が涙 トモダチ作戦の健康被害「見過ごせない」
20051215 小泉首相 「イラク戦争を支持した判断は正かった」と強調
???
ロナルドレーガンの乗組員が被曝してるのに何故それより近くにいた東電職員が被曝しないんでしょうか?
自然は人類の都合とは関係なく動いている…だ・か・ら…(;´д`)
何で、情報開示しない??
特定秘密の運用監視 情報開示促進で意見聴取へ
軍事費が国を滅ぼす!!
トランプ氏の「日本防衛費全額要求」について。-2016.05.05
●脱原発!!
20160328 3.28松本アクション~小出裕章氏
税金の無駄遣い!!やめてもらいたい!!
「もんじゅ」根本から検討すべき 複数委員が意見
もんじゅ改革めど立たず 報告書案、新運営団体は未定
「もんじゅ」の廃炉求める提言 市民団体がまとめる
「核のごみは浜岡敷地内で処理すべき」 最終処分で川勝・静岡知事
ドイツ環境・原子力大臣、「原発は費用がかかり将来世代に責任を持てない」=2020年の原発全廃を強調―東京で会見
地震大国日本!これでも原発を動かすの??
活断層、日本に2千以上 どこでも大地震が起こる恐れ
「熊本地震は南海トラフ地震の前兆」専門家が緊急警告
「高浜原発の運転は不安」が最多 意見公募、規制委に 審査書案は修正わずか
甲状腺がん「チェルノブイリの多発傾向と酷似」~疫学専門家
福島の癌→子供の甲状腺がん増加地図をチェルノブイリと比較する
母ちゃんの嘆き…子どもの叫び…過去を心に刻もうとしないモノへ…(¬_¬)
福島の甲状腺がんの患者に対していつ国は賠償をするのだろうか??
以下『NNNドキュメント THE 放射能 人間vs 放射線 科学はどこまで迫れるか?』
のビデオの冒頭の部分起こし。
「放射能は怖くない」。そう教えられていました。第2次大戦後、アメリカは爆心地の近くで人間はどこまで戦えるのか人体実験していたのです。その数25万とも言われるアトミック・ソルジャー(Atomic Soldier)、アメリカ政府が責任を認め、兵士たちに賠償するまで40年かかりました。
また、チェルノブイリ原発事故で多発した子どもたちの甲状腺がんが、放射能が原因だと認められるまで20年の歳月がかかりました。
5年前に起きた東電福島第一原発事故、100ミリシーベルト以下の低線量被曝を受けた作業員たちも病魔に襲われています。・・・・
NNNドキュメント THE 放射能 人間vs 放射線 科学はどこまで迫れるか?
・放射能の被害が深刻化しているのに、なぜ日本の医学界は“脱原発”と叫ばない??
731部隊でも放射線をマルタに浴びせて人体実験をしていた。
科学者は、治療よりも、やはり新兵器に夢を託すのか?再び大日本帝国を目指して。
毒ガスの製造が明らかになったんだから、それと並行して生物兵器、核兵器も勿論自衛隊、国立感染症センターなどでは研究しているだろう。
731の秘密を隠すために、放射能の被害については、何も言わない??
「心証を良くする為にとは、何のために心証をよくするんですか?」
「731のことなんかもあるでしょうね」
※ヒロシマ・ナガサキの被爆者たちの治療よりも原爆の威力の調査が優先された。
国体護持のために。
今のフクシマの現状も同じではないか?
なぜ、日本は原爆投下直後、調査をやったのか?
放射能の危険性
トリチウム処理「慎重対応を」 県と県漁連
トリチウムについて!!
核融合はやるべきではない!!
トリチウム含む汚染水 海洋放出が最安で最短の評価結果
川内原発は不安「すぐ止めて」 首相官邸前で緊急デモ
原発運転反対の弁護士団体 川内原発停止を申し入れ
M7.3地震 約50キロの断層が2m近く横ずれか
地震回数が過去最多ペース 気象庁、活発な活動続く
「川内原発の運転停止求めた」 共産・小池氏
「川内」運転 住民ら不安 政府、地震域拡大でも静観
【熊本地震】丸川担当相「川内原発停止の必要なし」について。- 2016.04.16
●731問題
特定秘密保護法撤廃!!
国民は「知る権利」を行使し、軍事増強を阻止しよう!!
※中国の731罪障陳列館から特移扱で731部隊に送られ、人体実験されて亡くなった人の写真が届きました。犠牲者は3000人以上とされています。
その「特移扱」というのは、憲兵隊及び偽満州国警察が、中国人民を不法に逮捕し、「重罪にあたる者」と決定したならば、裁判をおこなわないで、憲兵隊から石井部隊に移送して、細菌実験材料としてなぶり殺しにすることであった。
李厚彬(りこうひん)さんの特移扱資料1
封印された真実2
4月12日(火)15:00から東京地裁419号室で『衛生学校記事』の情報公開裁判がありました。
10回目の法廷で、初めて傍聴席52席が満杯になり、熱気を帯びてきました。
なぜ、自衛隊衛生学校で作った『衛生学校記事』がきちんと保管されていないのだろうか?
衛生学校と言っても、国民の税金で作られた公の施設である。自衛隊だから戦後、物品の管理はしっかりやっていると思うのであるが、不思議である。自分たちの大事な研究をまとめた機関誌である。寄贈資料も所在不明、よほど、管理が杜撰なのか??
季刊誌『ふかみどり』がきちんとあるのに、なぜ、その前の『衛生学校記事』ない??
原告の陳述より
3 彰古館を見学して判明したこと
(1)私が、見学した彰古館内の配置などを示す図面は、別紙2のとおりです。
(2)彰古館には、展示コーナーには戦前の元軍医学校時代からの軍事医療の器具や史料を収集展示され、他方、書庫には明治、大正、昭和時代、日清、日露戦争から第一次大戦、日中戦争の陸軍衛生史や軍事史料が保管されていました。中には頁をめくる事も出来ない位、古く貴重な史料も保管されていました。
なんとか、この防衛省の内部研究誌を公開させたい!!
※尚、情報公開・個人情報保護審査会の答申が3月にあり、「『化学学校記事』と『衛生戦史資料の体系化』も不開示決定は妥当」としたことに対しても、裁判で公開を求めることにしたという。
※特定秘密保護法が施行され、TPPはじめ、各省の情報開示が困難になってきている昨今、マスコミはこういう裁判を積極的に報道し、国の隠蔽体質を明らかにするべきだと思うが、一社も取材しないとは、どういうことだろうか?嘆かわしい!!
日本は「核兵器の非人道性」を主張する前に「731の非人道性」を謝罪せよ!!
<G7外相会合>「核兵器の非人道性」盛らず 広島宣言
歴代日本政府は、天皇制護持の為、いつも情報を隠蔽している!!
TPP文書だけではない!!
ビキニ事件 周辺で操業の元乗組員などが国を提訴へ
内部文書「黒塗り」の中… TPP内幕本の出版未定に
開示された文書「何で黒塗り?」
歴史を繰り返さないための海外の取組み!!日本もパナマ文書等、情報を開示せよ!!
<パナマ文書>中国2.8万件 日本関連800件
パナマ文書 民進が調査チームを発足
ヒトラー生家収用へ法案 オーストリア内務省
守秘徹底、法人設立も容易=「文書」発端の租税回避地-パナマ
特定秘密の国会監視 実効性高められるかが課題
何で、行政が後押ししない??
高知県、731部隊講演の後援断る 「事業に該当せず」
731部隊の設置許可、人体実験、毒ガス戦・細菌戦実施の許可した昭和天皇とそれに協力せざるを得なかった日本医学界の責任、戦後、その人体実験、毒ガス戦・細菌戦を全く裁判にかけなかったマッカーサーとアメリカ政府の責任、1990年代から2000年代にかけて行われた裁判において、事実を認めながら、それを放置している司法の責任、全く無視している政治の責任、731に対する国民の認識は?
戦後70周年、中国の人々から日本の我々に届いた重いメッセージ!
虐殺された人々(日本人を含む)の声なき声にどう応えるか?
日本人はこの731問題にどう向き合うか?重い課題!!
日本には本当に三権分立があるのかが問われている!!
汽車が背陰河(はいいんが)駅を通過するとき、まずはカーテンを下して、車内の人に外の状況がわからないようにしている。中馬城(背陰河の実験施設)から途切れ途切れの悲鳴が背陰河の夜を恐怖の色に染めた。その中で起きていることは、誰も知らない・・・・日本の『大日本帝国憲法』に「天皇は神である」と書かれています。実は神ですから、神の元に日本は統治、コントロールされていました。ですから世界で一番優れた民族であると教育で習っている。・・・石井四朗のような人物は偶然ではないですね。たくさん同じような人間が日本にたくさんいました。人を人とも思わない、特に他民族に対しては、中国人に対して、あるいは朝鮮人に対して日本は非常に蔑視をしていました。・・・・
731(1)
・731部隊は我が大日本帝国最大の機密であり、今後はこの機密保持がどこまでなされるかが最大の問題である???
黒い太陽№15
※「機密」とは、秘密の保全が最高度に必要であって、その漏えいが国の安全又は利益に重大な損害を与えるおそれのあるものをいう。
戦前の刑法には、「敵国ノ為メニ間諜ヲ為シ、又ハ敵国ノ間諜ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ5年以上ノ懲役二処ス 軍事上ノ機密フ敵国二漏泄シタル者亦同シ」(第85条)という規定があった。
朝枝繁春の証言
●水俣病
新潟水俣病 感覚障害だけで認定命令 7人の訴え認める
水俣病の被害が拡大した時も、医学界の権威者が、一時、チッソ水俣工場の有機水銀説を否定した。
原因が工場排水中の水銀らしいと見当がついた1959年夏以降は、熊本大学医学部の研究班は企業や通産省、御用学者の集中砲火を浴びることになる。
水俣語り部、金子スミ子さん死去 一家で経験の苦しみ伝え
「出生年の線引きはおかしい。確かに症状があるのに。認めてほしい」
<水俣病>46歳、認められぬ苦難…公式確認60年
水俣病公式確認60年 未曽有の被害 全容未解明
水俣病
水俣病を引き起こしたチッソと皇太子妃雅子様は
日本の公害
●イタイイタイ病も賠償まで50年かかった!!
G7閣僚 高い関心 イタイイタイ病の教訓 世界へ/富山
1920年(大正9年)、当時の上新川郡農会長であった金岡又左衛門が農商務大臣山本達雄と富山県知事東園基光に神岡鉱業所の鉱毒除去の建議書を提出したのが神通川流域の鉱毒被害の表面化の始まりである。
1966年(昭和41年)11月、被害者の家族や遺族らがイタイイタイ病対策協議会(略称:イ対協)を結成した。 その後、イ対協は神岡鉱業所と交渉するも企業側の対応が冷ややかだったためイ対協の会長であった小松義久などは裁判で訴えることを決意する。 1968年(昭和43年)1月、全国から集まった20人の弁護士によってイタイイタイ病訴訟弁護団を結成した[8]。
1968年(昭和43年)3月9日、患者・遺族28人が三井金属鉱業を相手に総額約6億3000万円の第1次訴訟を起こす。 1971年(昭和46年)6月に第1審が原告勝訴の判決を下した。 1審判決を不服とする三井金属鉱業は控訴したが、第2審も1972年(昭和47年)8月9日に原告側勝訴の判決となった。 三井金属鉱業は上告を断念し、第2次以下の訴訟も判決内容にしたがって補償することを決めた。判決ではカドミウムの放流とイタイイタイ病とは因果関係があると断定した。 三井金属鉱業は第5次訴訟まで総額23億5633万円の損害賠償金の支払い、農業被害の賠償と汚染土壌の復元義務、住民の立ち入り調査権を認めた公害防止協定書の締結の3点を内容とする和解に応じることとなった。・・・・・
2014年(平成26年)9月末時点では認定患者は198人で要観察者が延べ408人となっており[15]、患者数は増加し続けている。
さらに、2014年(平成26年)9月の検査では従来行われてきた5歳刻みで対象年齢を決めていた流域住民への健康調査を全年齢を対象に切り替えたところ、1969年(昭和44年)の調査開始以来最多の精密検査対象者が出ており、健康調査への受診率が低迷していることも合わせると、患者数の正確な数字は把握できていない[15]。
患者に認定されると公害医療手帳が支給され、国から医療費・障害補償費・療養手当などが給付される。また、三井金属鉱業からも賠償費・医療費・入通院費・医療介護手当・温泉療養費が支給される[14]。
しかし、認定にハードルは厳しく、いまだに行政の救済を受けることができずに苦しんでいる人たちが残っている。現代での問題点は原因分析ではなく、患者認定・要観察判定の具体的な基準に移っている。行政側である県認定審査会は厳しい基準を課して却下する事例が多い。 具体的には、イタイイタイ病の認定の4要件の1つとなる骨軟化症の判定をおこなっている。
ドキュメンタリー:イタイイタイ病
「イタイイタイ病」全面解決??
萩野医師によって、原因究明がなされたが、日本医学界はこの問題にきちんと向き合ったのだろうか???
「カドミウム原因説」発表後、萩野を取り巻く状況は一変する。「田舎医者に何が分かる」「売名のためのPRだ」と罵声が浴びせられ、地元からも「嫁のきてが無くなる」「米が売れなくなる」と白眼視される。「萩野は砂利トラックに撥ねられて死ぬだろう」との風評が飛びかい、患者の元には白衣の男たちが現われて「鉱毒説に関わると大変なことになる」と脅迫した。萩野は荒れ、富山市内に繰り出しては飲み歩く日々が続いた。・・・・・
萩野昇の人生
萩野昇(富山のシュヴァイツァー)
病因の究明に乗り出す
萩野はこの悲惨な患者を救済するため、すべてを投げうってイタイイタイ病の研究に打ち込んだ。業病とされる患者を前にして、この患者たちに何の罪があるのだろうか、あるはずはない。病気には病気になる病因が必ずあるはずと考えていた。そして目の前の悲惨な患者を助けたい一心でこの奇妙な病気の解明に乗り出した。
萩野はもともと研究心が強かった。大学を卒業して病理学を専攻したこともその研究心の表れであった。病理学とは患者の解剖や動物実験によって病気の本当の原因を明らかにする学問である。病気の原因が明らかになって、初めて治療が可能になることから、病理学は医学の基本的な学問である。イタイイタイ病にも必ず原因があるはずだ。その原因が分かれば、治療法も確立し患者を救うことができる。萩野はそれが自分に課せられた使命であると信じていた。過労、貧血、栄養障害、寄生虫、あらゆる原因を想定して検査をしたが、この奇病の原因は依然として不明だった。治療法がわからないまま患者だけが増えていった。そして地獄の苦しみの中で患者は死んでいった。
●横浜「戦争と加害」のパネル
細菌戦(「戦争と加害」のパネル展in横浜)
毒ガス(「戦争と加害」のパネル展in横浜
参観者の感想
・人間としての心が全く感じられない。人の殺し合いが戦争です。これが良いと思う人がいるのでしょうか?平和を維持するんは、日々努力し続けなければならない!70代男性
「戦争の加害」テーマに 13日まで横浜でパネル展
●全世界!!脱原発!!核兵器廃絶!!どこで地震・テロが起こるか分からない!!
広島スピーチ
Obama’s speech in Hiroshima オバマ大統領 広島でのスピーチ
オバマ大統領の広島訪問 所感
犠牲になった人たちの魂が、私たちに語りかけています。
もっと内側を見て、私たちはいったい何者かを振り返り、今後、どのようになろうとしていくべきか、私たちに語りかけています。
戦争は広島だけが特別なのではなく、暴力的な紛争は古くから行われています。われわれの祖先は火打ち石で刃を、木片からやりを作る方法を覚えました。こうした道具は、ただ単に狩りのためではなく、人類を殺すための武器として使われてきました。
永田浩三さんの添削
でもこれでいいんですか、わたしはそれを言いたくてこの広島に来たんです。安倍の顔なんて見たくなかったんだけど、みなさんにまず謝るために来たんです。原爆投下はあまりに愚かで残虐だったと。許されるかどうかわかりませんが、わたしは許しを乞いたい。そこからしか始まらないのです。以前、わたしはノーベル平和賞なんて立派なものをいただきました。でも内心、後ろめたいものがありました。だって、何もしていないどころか、核の拡散だけでなく、アメリカの核兵器の新規更新までやっちゃっているんですから。でも、もう嘘やごまかしには飽きました。そこが安倍とはちょっと違うところです。どうかみなさん、わたしは、大統領を辞めた後は、ヒロシマに居を移し、たくさんのひとたちの知恵を借りながら、ほんとうの核兵器廃絶に取り組みたいと思います。みなさんどうかわたしを仲間に入れてください。」...
核廃絶へ松本で決議 非核宣言自治体協が総会
核実験・戦争・軍事演習こそが、地球環境を破壊する!!
核保有国は、環境破壊の責任を取ってもらいたい!!
この学術会議の動きは何なのだ???
日本学術会議 軍事技術研究巡り検討委設置へ
オバマ氏「道義的責任」言及へ 訪問時、広島・長崎の犠牲者追悼
広島原爆投下
戦中、日本は原爆開発をしていた。戦後もその動きが続いている!
◉ 特集 : 「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—
小路田泰直
歴史家伊藤隆の「日本民主党では副幹事長にされていますが、これはどういう役目なんですか」との質問に、中曽根が「三木武吉さんが私を副幹事長にしたんです。私は別に運動もしなかった。要するに、三木さんが保守合同をやろうというのに対して、私は私なりに持論をぶつけていたわけです。それを見て、三木さんは「あいつは面白いやつだ。あれを使え」と考えたんだと思います。…とにかく副幹事長になったことは、原子力政策を推進する上でたいへんプラスになりました。そういう意図もあって、三木さんは私を副幹事長にしたのではないか、 そして、その三木さんに知恵を付けたのは岩淵辰雄さんではなかったかと思います。」[★17]と答えているのは、そのことを裏付けている。
以上、戦後日本の原子力開発は、その成立の経緯からいって、明らかに戦前日本の原爆開発の流れを汲み、裏声で語られる安全保障政策としての側面をもっていた。
※今現在も、潜在的核保有国なのか、もう核兵器を持っているのだろうか?全ては極秘裏に進められている!!
水素爆弾の恐怖・ビキニ環礁 (アメリカ)
*謹書は吉田茂。墓右に朝永振一郎の墓が建つ。
彼の最後の公職は、1936年から1938年までの、駐英日本大使だった。それに、彼は南洋への進出の提唱者ではあったものの、アメリカへの攻撃を必ずしも必要とはしていなかった。1941年、アメリカへの攻撃はまだ回避できると考えていた。骨身を惜しまず丹精した結果、67歳にして、今や彼は、真価が認められようとしていた。マッカーサーや将官たちは彼を事のほか気に入り、1946年から1954年の間、5回にわたり首相となり、戦後日本の立案者として記憶されることとなった。
樺美智子さん(60年安保闘争の犠牲者)の墓誌 |
●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦) |
●毒ガス問題
日本や中国各地に毒ガスが遺棄されている!!生活に支障をきたさないのか?
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗
アメリカは日本の毒ガス施設を故意に過小評価した!!
(天皇を免責するために)
・自衛隊とサリン
自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?
死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)
1950年代に、自衛隊は秘密裡にアメリカ側のデータを下に毒ガス製造をはじめ、1964年(東京オリンピックの年)にサリンの製造に成功している。オウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの知識で果たしてサリンが製造できたのか?自衛隊のデータが漏れていなかったのか?それとも、自衛隊も事件に関わっていたのか??
「地下鉄サリン事件」ザ!世界仰天ニュース
・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。
週間金曜日 2013年5月24日号
自衛隊とサリン 第2回
元陸自化学学校長が毒ガス製造を認めた!
・サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
※国威発揚のオリンピックと戦争は大いに関係した。(1940年の東京オリンピック、日中戦争の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった。この年皇紀2600年の記念行事として準備が進められていた。)
・1973年、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。
毒ガス第2世代
第1次世界大戦(1914~18年)は「世界初の毒ガス戦争」とも言われる。・・・・
こうして1918年に終結した第1次世界大戦の中では、市民も含めて100万人以上が毒ガスを浴び、その1割に当たる約10万人が死亡したとされる。
その後も毒ガスの研究・開発は進み、第2次世界大戦(1939~45年)の前あるいは大戦中にナチス・ドイツが相次いで開発した毒ガスが「第2世代の毒ガス」と呼ばれるものだ。殺虫剤研究の中で1936年発見された「タブン」、そのタブンの2倍の毒性を持つと言われる「サリン」(1938年)、極秘に開発され第2次大戦終了後まで知られることはなかった「ソマン」(1944年)などである。
※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。
戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!
日本は現在も毒ガスを製造している!!
・非核3原則も嘘だった!!
ノーベル賞自体が、おかしくないか??(原爆開発者や毒ガス開発者にも贈られている!!)
佐藤栄作の遺族は早く故人のノーベル平和賞を返上しろよ
本来、アメリカが出すべきお金を、日本政府が肩代わりして出していた現実!!
こんな問題もあった!!沖縄密約
沖縄毒ガス
日本軍の毒ガス被害
昭和天皇の“沖縄メッセージ”
●マレーシアの旅
マレーシア番外編(2) -自転車の旅
8月17日(月)~9月2日(水)
鈴木和良
8月24日(月)
展示の中で最も目を引きつけられたのは、
さらし首の写真(↑)でその形相からは、旧日本軍の残虐非道ぶりが骨の髄まで響いた。その背景にあった、差別的民族観や厳しい軍紀・刑罰で縛られた日本軍特有の体質、天皇を頂点とした過った国家体制など、これらが総体して成せたことではないかと思いました。これらの展示はそっくり持ち帰って、日本各地で開催できたら素晴らしいなと思いました。時間の都合もあり、まだ途中でしたが、皆さんと記念撮影をしてその場を後にしました。別れ際、劉先生から、30日なら案内して頂けるとのこと。先生のご好意に甘えさせて頂くことにしました。
●多磨霊園と大日本帝国
・多磨霊園・・・・多磨霊園(たまれいえん)は、東京都府中市および小金井市をまたいだ場所にある都立霊園。日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。面積は都立霊園で最大の128万平方メートル『40万坪』『東京ドーム27個分』。
関東大震災直前の1923年(大正12年)、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称された。
緑の多い公園墓地であり、被葬者の絶対数が多いこともあり有名人の墓地も多い。
大島 浩(おおしま ひろし)
1886年(明治19年)4月19日 - 1975年(昭和50年)6月6日)
日本の昭和期の陸軍軍人である。最終階級は陸軍中将。
第二次世界大戦前から戦中にかけて駐ドイツ特命全権大使を務め、日独伊三国同盟締結の立役者としても知られる[1]。終戦後の極東国際軍事裁判ではA級戦犯として終身刑の判決を受けた。
生い立ち
後の陸軍大臣・大島健一の長男として、岐阜県恵那郡岩村町に生まれた。
その後は東京で育ち、愛日小学校(東京牛込北町)では、後に経済人として経団連会長も務めた石坂泰三と同級であった。1898年(明治31年)、東京府立四中入学、陸軍幼年学校入学資格である1年次修了後、1899年(明治32年)9月、東京陸軍地方幼年学校入学、1904年(明治37年)11月、陸軍中央幼年学校卒業。
幼少期から、在日ドイツ人の家庭に預けられ、ドイツ語教育とドイツ流の躾を受けた。軍人となった後に初めてドイツに駐在した際には、ドイツ人青年に付いてドイツ語を習い、教科書には『ロシア革命』(ローザ・ルクセンブルク著)や、『手紙』(カール・リープクネヒト著)などが用いられていたという[2][1]。
ドイツ駐在
1921年(大正10年)以降には、断続的にベルリンに駐在中し、1933年以降はドイツの政権を得ていたナチス党上層部との接触を深めた。当時、日本国外務省はナチス党とは距離を置く方針であり、独自の行動で同党とのネットワークを構築していた大島は、日独同盟の推進者となっていった。大島の外交思想は、同時期の駐イギリス特命全権大使であり、親英米派であった吉田茂とは対極であった。
その後大島は陸軍中央と提携、駐ドイツ大使であった東郷茂徳を退け、1938年(昭和13年)、自らが駐独大使に就任した。大使就任後には、政治家・外交官でありナチス党幹部のリッベントロップに接近、日独伊三国同盟(1940年締結)による枢軸外交実現のために奔走した。さらに、ナチス党総統 アドルフ・ヒトラーの信任を得るに至った。
ドイツ駐在中は「姿勢から立ち振る舞いに至るまでドイツ人以上にドイツ人的」との評価を受け、一貫して親独政策を主張した。これらのことから、アメリカのジャーナリスト ウィリアム・L・シャイラーは後年、大島を、「ナチス以上の国家社会主義者」と評している[3]。
ドイツ敗戦後
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)、日本政府は駐スイス公使阪本瑞男からのドイツ第三帝国瓦解との本国電を黙殺、大島による、なおもドイツ有利との誤った戦況報告を重用し続けた。ドイツを一方的に信じ続けた大島によるそれらの暗号電報は、全て連合国側に解読されており、米英の作戦遂行に有利に活用されていた。
同年4月、ソ連赤軍がベルリンに迫ると、大島は一部の高官らと共にドイツ南部の温泉地、バート・ガスタイン[4]に避難した[5]。ドイツ敗戦後、大島は連合国によって身柄を拘束されて日本に送還、A級戦犯として起訴されることとなった。
大島は1945年(昭和20年)暮、日本に送還途中のアメリカ合衆国・ニューヨークのホテルにおいて、所持していた日記や機密文書を水洗便所に流した。
極東国際軍事裁判
大島がA級戦犯として起訴された最大の理由は、日独伊三国同盟の推進にあった。しかし法廷において大島は、「ヒトラーやリッベントロップとは、ほとんど会わなかった」と、事実とは異なる証言をし、また三国同盟を主導したことなど、自身に不利になることには一切言及しなかった。
判事による投票の結果、大島は1票差で絞首刑を免れ[1]、終身刑の判決のもと巣鴨拘置所で服役した。大島は後年、政治家であった広田弘毅などが死刑となったことについて、「(自分のほうが戦争への責任が重いにも拘らず)こうして生きているのが、いつも申し訳ない気がしている」(1965年(昭和40年)頃の発言)などと述べていた[1]。
晩年
1955年(昭和30年)11月に仮釈放された大島は、神奈川県茅ヶ崎市に隠遁した[1]。
赦免後には、当時の政権政党だった自民党から、国政選挙への立候補を度々要請されたが、「自分は国家をミスリードした。その人間が再び公職に就くのは許されない」として断り続けた。公的な場所に現れることすら一切なかった大島は、著作や講演の依頼にも頑として応ぜず、編集者で歴史家の高橋正衛には、「私が語り、書いて、大島個人の主観で歴史家を誤らせるという、三国同盟に次いでまた国民に罪を犯したくない」と語っていた。
日独伊三国同盟の締結を推し進めたことに付いて大島は後年、当時はそれを最善と信じて行動していたが、結果的にはその見通しの誤りが敗戦という結果を招き、その意味で自らに日本国に対しての重大な責任があることを認めていた[1]。
ナチスとヒトラーへの心酔
大島は強くナチス党とそれを率いるヒトラーに心酔しており、言動や思想は常にナチス党政権及びドイツ寄りであった。そのことから、日本国外務省や大日本帝国海軍などでは大島を指して、しばしば『駐独ドイツ大使』と揶揄した。木戸幸一は戦後、「あのくらい、ドイツ一辺倒の男はなかったナ」「大使になっても依然として駐在武官のような頭だったんだナ」と大島を評している[6]。
大島のドイツ贔屓は終生続き、その晩年までヒトラーを「天才戦略家」と評価しており、蟄居先であった茅ヶ崎の自宅応接室にも、自身とヒトラーとが向かい合った写真が飾られていたという[1]。また、「国家の勢力拡大が最優先事項とされた当時の価値基準で測れば、ヒトラーはアレクサンドロス3世(大王)やナポレオン・ボナパルトに次ぐ天才であったことを固く信じる」と、ヒトラー死後30年を経た後にも語っていた[1]。
●情報公開(戦争への道を阻止するために!!
防衛省、外務省は積極的に国民に情報開示し、戦争を防止する義務がある!!
毒ガスを製造しているんだから、勿論、現在、生物兵器、核兵器の研究・開発・製造もやっているのでしょう。
情報開示への政府の姿勢が問われそうだ。
特定秘密の国会監視 実効性高められるかが課題
PKO陸自宿営地に着弾 南スーダン、政府公表せず
・2016年3月9日、東京都世田谷区にある三宿駐屯地の自衛隊衛生学校の彰古館(しょうこかん)に元衛生学校校長の金原節三氏の寄贈した『金原文書』を探しに行ってきた。私は前回1月に行ったので2回目である。戦前、戦中731部隊で生物兵器を開発し、実戦に使用しているので、戦後の自衛隊ではどうなっているのかを調べるためである。『衛生学校記事』の第1号には生物戦に関する翻訳記事が実際に載っている。
なぜ、『金原文書』を探すのかといえば、その中に、731部隊関連資料で私たちが公開を求めている『衛生学校記事』(「金原寄贈目録」には延べ冊数88冊)が含まれているからである。
『衛生学校記事』は、最初、「情報公開法」に基づき、開示請求したが、防衛大臣が、「保有していない」ことを理由に、不開示にした。こんなことが世間であるだろうか?
『衛生学校記事』を発行しているのは、自衛隊の衛生学校である。なぜ発行元が1冊も保有していない?おかしくないですか。
それで、公開されないもんだから、なんと裁判にまで、訴えて、公開を求めているのである。
1昨年(2014年)、裁判の途中で被告の防衛省側から「『衛生学校記事』の一部(28冊)が見つかりました。発見された文書には731の記述はありませんでした。」という回答が口頭であった。だが、見つかった場所は、発行元ではない「防衛医科大学の図書室」からである。これも色々考えると、さもありなんなんか?医科大学で生物兵器の研究?731 の記述はないが生物戦の記述はどうだったのか?文書での回答はない。
前回、1月に行って調べた時にも、「金原寄贈目録」2028点のうち防衛省は641は彰古館にあると回答していたが、我々が調べるとその他にも16点見つかった。そして昨日行ったらまた、何点か見つかった。資料の管理はどうなっているのだろうか?
そもそも、自衛隊の衛生学校の元校長が寄贈したものを、衛生学校が一部を廃棄するとは考えられない。国民の税金で、運営されている機関であれば、そんなことは絶対あってはならない。縦社会の厳しい自衛隊で、元校長が寄贈した物を簡単に廃棄するとは考えられない!!
ましてや、外務省や防衛省などは、色々な情報を国民に積極的に開示しなければならない機関だと思う。戦争を防ぐためにも。
※金原節三は戦時中、1941年当時陸軍省医事課長として731部隊細菌戦に深く関与していた軍医大佐であり、戦後自衛隊衛生学校の校長にもなった。
※『衛生学校記事』は1957(昭和32)年7月~1959(昭和34)年まで月刊で18号出版され、その後、1961(昭和36)~1967(昭和42)年までは季刊本で24冊、出版された。
その後は、誌名を『ふかみどり』に変更し、1971(昭和46)年からは、衛生学校にきちんと保管されている。しかし、『ふかみどり』の1~15巻は、無い。「30年保存なので、満期になったものから徐々に廃棄しました」という回答。何で廃棄する?
※衛生学校に行ったら、教範(自衛隊の教科書)は情報公開請求しないと見せてくれないと言う。何で自国民に見せてくれないのだろうか。「武器の性能などがばれると、まずい」と言う。自衛隊は、サリン等の毒ガスを作っておきながら、それも伏せていた。影で、化学兵器、生物兵器、核兵器開発の「防護」のためと言って、何をやっているのか、国民は全く知らされていない!!
いや、シビリアンコントロールするはずの政府でさえ、自衛隊が何をしているのか、詳しくは知らないのではないか?
・防衛研究所 戦史史料室
先日、防衛研究所に行って来た。閉架式図書室である。コピー、写真撮影は係員が有料でやるとのこと。後日郵送。貸し出しは出来ないとのこと。全く不便である。お金がかかる。
三宿の彰古館では、自分で写真撮影が出来たのに、なぜここでは出来ない。
担当者の話では、戦後、日本軍の史料は、証拠隠滅のため、重要機密書類はほとんど焼却されたと言う。戦後も、史料は大事にされず、管理が杜撰だったと言う。
「寄贈資料一覧はあるんですかと」、聞くとあることはあるが、「それは市ヶ谷の防衛省の情報公開室に行って、情報公開の手続をしてください」との答え。
戦史史料室に一覧がありながら、それは見られない。そして最後には一覧は行政文書だから保存期間10年で処分してしまうと言う。それでは、大事な過去の資料の履歴が分からなくなるではないか。どうしてこうまでして資料を隠す!!全く、過去の戦争のことを反省していない。過去を消そうとしている。
寄贈した資料は廃棄することはないという。登録はしない資料もあるという。部内者が見ることはあるという。
なんで、寄贈された資料はすべて登録しない!!おかしい!!
※防衛省は、自分でところで研究した文書(勿論国民の血税で作られた文書)を、いとも簡単に廃棄しているというのは本当なのか?国民には軍事上の機密として、全てが伏せられているのではないか??この審査会も税金の無駄遣いではないのか!!
この下記の審査会の答申には全く納得がいかない!!年々、着実に日本は毒ガス研究、生物戦研究・核兵器研究を深めている!!
情報公開・個人情報保護審査会の答申
審査会の結論
「『化学学校記事』1号ないし最新号」につき、これを保有してしていないとして不開示として決定は、妥当である。
審査会の結論
「『衛生学校30年のあゆみ』衛生学校30年のあゆみ編さん委員会編(1982年10月)第4編の資料中の『研究の実績』の昭和55年度(265頁)の『衛生戦史資料の体系化』と題する論文」(以下「本件対象文書」という。) につき、これを保有していないとして不開示とした決定は、妥当である。
思うに、審査会が独自の権限で、内部を調べられないことが残念である!!防衛省の見解をそのまま踏襲。異議を申し立てて4年かかってこの回答。審議は2回だけ??
「国家政策の中で国防機関の発言力が強化され、軍事的観点が占める比重が高まるに伴い、軍事機密は外交、治安、経済など国政のあらゆる分野をおおい尽くすにいたる。この過程に照応して国民は政治の意思決定過程から排除されていく。参政権は骨抜きにされ、知る権利と表現の自由が抑圧される。国会は国権の最低機関に転落する。これこそ軍国主義の発生と成長の一般的法則なのである。最後に来るのは戦争である。
戦争を始めるかどうかの決定に、もはや国民はまったく参加することができない。戦争準備は極秘裏に進められ、ある日突如として戦争の火蓋が切られる。国民はただ肉弾として運命を甘受する他なかったのが、かつての軍国主義日本であった。いや、政府や参謀本部の決定さえ無しに、関東軍が勝手に戦争をおっぱじめ、その「既成事実」を否応なく追認させられつつ、破壊的な侵略戦争にエスカレートしていったのであった。アメリカのベトナム戦争もまた、そうであった。」(『日本の国家機密』藤井治夫著より)
※柳条湖事件も、初めから作戦の一環で、昭和天皇も知っていた。決して軍の独走ではない。
●『日本の国家機密』
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!
<特定秘密>新たに61件 記録文書27万2020件に
特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)
ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より
第3章 秘密保全の機構と体制
秘密保全のシステム
厳重な保管体制
アメリカの場合は、行政命令により47人の各省長等に指定権が与えられ、うち34人は下級への権限委譲を認められており、合わせて千単位にのぼるという。それにしても日本はとくべつ指定権者が多く、この点は公明党などが国会で追及している。秘密主義の一因となっているからである。
秘密文書の保管も、ますます厳重になってきている。陸上自衛隊「秘密保全に関する達」は、「機密」および 「極秘」の文書等は、3段式以上の文字盤付き鋼鉄製金庫、特殊書庫、耐火キャビネットの中に保管するよう定めており、庁秘訓令よりも厳しくなっている。文字盤カギは毎年2回以上、組合せを変更しなければならない。保管関係者が代わったときも同様である。開閉には2人以上の将校が立ち会うことになっている。「秘」および「取扱注意」は、カギのかかる鋼鉄製の箱に収める。
(番外編)長沼ナイキ基地訴訟裁判長に聞く
(新聞と9条:258)長沼裁判:30
※南京大虐殺があったことは国民に知らせず(これも国家機密であったのか?)、陥落を喜ぶニュース映像!
南京陥落 東京の風景
※しかし、溥儀が恐れるほど関東軍が強くないことを証明したのが、1938年の張鼓峰(ちょうこほう)事件と1939年のノモンハン事件である。いずれもソ連との国境紛争で、関東軍は惨敗した。両事件ともソ連軍の戦車・航空機・大砲・兵員が、質量とも圧倒的に勝っていた。日本軍は2度の敗戦をひた隠しに隠した。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)
※日本は、ノモンハンの敗北を封印することに腐心する。帰還した将兵には緘口(かんこう)令を敷き、戦闘に参加した将校を自決させ、作戦を立案した参謀を更迭した。
●現在の日本
日本は、アメリカと情報交換しながら、生物兵器、化学兵器、核兵器を、秘密裡に開発しているのではないか??
全く戦争の反省をしていないのだから。
戦後、全く裁かれなかった731部隊員の上級隊員は、大学教授や国立予防衛生研究所(現在の国立感染症研究所)、製薬会社などで、重要なポストに就いていた。
また、原爆製造に関わった研究者(ニ号研究・F研究)の後継者なども、そのまま反省することなく、核融合などの研究を続けているのではないか。
731部隊→ABCC(被爆者は治療もされずに、原爆の影響を調べられた。・・・731部隊員の協力)→放影研→重松逸造・・チェルノブイリ原発事故について・・・汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない。→福島原発事故・・原子力を進めてきた人たちは、福島で今、甲状腺がんが多発しているけれども、それは被曝との因果関係はないと主張している。
日本の原爆開発
核融合はやるべきではない!!
この施設ではいったいどんな研究が行われているのか?水爆の開発??
核融合科学研究所
原子力開発と核開発 ミサイル発射とロケット発射 日本の野心とは!?
”核”を求めた日本ー被爆国の知られざる真実ー(内容全て書き出しました)
どんな生物兵器を作るのか??「周辺住民の理解を得ながら進めていきたい」と話しています。周辺住民が納得するのだろうか??
国立感染症研究所 「レベル4」施設で5月から実験
国立感染症研究所の危険性!!
科学者・軍隊は、戦争になる前から殺人兵器の開発に夢中になる!!
『「盗まれた最高機密~原爆・スパイ戦の真実~」』
●南京大虐殺
ベイツはティムパレイ『日本軍の中国での凶暴な行為』(1938年6月)の主たる企画者であった。日本を7回短く訪れインドを1回訪れて会議に参加したほかは、ベイツは1937年から1941年までずっと南京に留まり、日本当局の暴虐行為に、とりわけ麻薬貿易に挑戦した。彼は南京国際救済委員会を代表してパンフレットを2冊書いたが、1冊が『南京地域の食料調査』、もう1冊が『南京の人口』で、両者ともに我々が南京大虐殺を了解するのに役立っている。戦後に彼は召し出されて東京裁判に証人として出席し、引き続き中国の日本戦犯に対する裁判に出席して証言した。
12月23日 木曜日
何日も私は、皆さん方にさらにご面倒をお掛けすることのないようにと、自分を抑えようとしてきました。けれども毎日面倒なことがたくさん出て来て、今日の劣悪さたるや、これまで以上に尋常さを超えています。規律と上官(による制約)のない、新たに来た、群を成してうろつき回る兵士たちが、至る所で盗みを働き、婦女を強姦したり拉致したりしています。以下は若干の事例です:
(1)ちょうど今このとき、日本兵が無理矢理キャンパスに闖入し、難民にお米を供給するためのトラックを奪い去っていった。
(2)わが校の養蚕系の辺りで、平均して毎日10件以上の、婦女を強姦したり拉致したりするケースが発生している。
(3)日本の兵士たちが依然として、夜を日についで我々の住宅に侵入し、婦女を蹂躙して、自分たちに必要な物を盗み取っている。ここで言う住宅は、アメリカ人が現に居住しているものを含んでおり、他の住まいと同様である。
(4)日本の兵士がいつも、貴国の憲兵が貼り出した告示を引き破っている。
(5)今朝わが校のアメリカ人職員1人が、日本人将校1人に殴打されたが、将校は突然彼に近づき、貴大使館が交付した腕章を引きちぎろうとしたのだった。
(6)これまで言及していない建物にも、日本兵が毎日、貴館側の告示を無視して何度も侵入し、略奪したり婦女を捜したりしている。
(7)騒擾(そうじょう)は全く兵士たちが造成しているものであるが、我々にはいかなる警備員もいないし、我々の近くには憲兵も派遣されていない。
しゃべってから死ぬ!南京大虐殺
南京大虐殺:侵華日軍南京大 南京電影制片庁 21分
昭和天皇・皇族はすべてを知っていた!!
ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より
第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦
日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台がこの時期に築かれた。・・・・・
1929年には、枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約(1929年調印の「捕虜の処遇に関する条約」)の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎて実行できないという。陸海軍大臣と外務大臣の主張を容れたのである。・・・p171
・・・・・・・・
(南京大虐殺)
皇族は皆、大虐殺があり、軍紀が崩壊同然にあることを知っていた。そして、この皇族には、松井大将指揮による南京攻略戦で司令官を務め、虐殺が最も激しかった時点で南京駐在の最高級将校だった、皇后良子の叔父で50歳の朝香宮、関東航空本部長で、やはり皇后良子の叔父にあたる49歳の東久邇宮、参謀総長を務める71歳の閑院宮が含まれていた。もとより、杉山陸相も知っていた。大本営の多くの中級、上級将校も知っていた。衆議院議員で予備役の江藤大将も知っていた。外務省は確実に知っていた。外務省東亜局長の石射猪太郎(いしいいたろう)はその日記に、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦目も当てられぬ惨状とある。嗚呼(ああ)之れが皇軍か」と嘆いている。外交官であり、老練な中国通であった重光葵(しげみつまもる)は、その後、戦時中に特命全権大使として南京に駐箚(チュウサツ)した際に「南京占領当時の罪科を償ふ為め支那に善政を布くことを極力努めた」と記している。
したがって、近衛内閣は南京での強姦や強奪を知っていたが、多くの報告を受けていた天皇は知らなかった、というのはありそうもないことである。昭和天皇は指揮命令系統の頂点にあり、たとえその指揮系統にどんな欠点があろうとも命令のまさに初期の起点に位置する天皇が、上位、中位の段階での決定を知らずにいることは容易にありえないことだった。天皇は、あらゆる日本軍の動静を詳細に追っており、外信に目を通し、毎日、新聞に目を通し、そして、そのようにして知ったことについて、しばしば側近に質問をしていた。南京奪取と占領を裁可した最高司令官として、日本の精神的な指導者―中国の「膺懲」に正当性を与えた個人―としての天皇は、公にではないにせよ、軍紀崩壊に少しは関心を持つ義務を、憲法上はもちろんとして、最低限の道義的義務として負っていた。天皇は決してそれを行ったようには見えない。p290より
※南京事件の悪評に苦慮した日本軍上層部は、杉山元陸相、梅津美治郎(よしじろう)中将、今村均(ひとし)中将らを中心に1938年3月4日、日本軍のいる所に「慰安所」の設置を決め、通達した。しかし、日本内地の娼婦だけでは到底間に合わず、ついには朝鮮半島の若い女性たちが生贄(いけにえ)にされた。その発端は、「朝鮮の若い女性は性病がなく、危険が少ない」という麻生軍医の上申書であった。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)
世界初の「南京大虐殺辞典」出版される
●中国残留孤児問題!!(中国残留孤児の書いた奇跡の書「この生あるは」)
映画化したら、過酷な運命・そして中国人の人間愛がよくわかる!!
敗戦時3歳、この中国残留孤児の過酷な運命に対して、国はきちんと補償したのだろうか?
この本の中に、米軍が1950年代の朝鮮戦争時、北朝鮮に行った細菌戦に神経を尖らせている中国の一般民衆の生活や反核運動の様子が描かれている。
中国の恩に報いたいー半生記を出版した残留孤児 中島幼八さん
2016年1月18日記(武漢大学客員教授・日本記者クラブ会員)
残留孤児の一冊<本澤二郎の「日本の風景」(2238)
<「この生あるは」(中島幼八著)>
中国・新華社通信の友人に紹介された残留孤児・中島幼八さんの記録「この生あるは」(幼学堂)の日本語版を読んだ。その悲しい運命から、気が重くなる厳しい内容ゆえに、同じ時代を日本で生きてきた者には、とても興味を引く本である。人間は一人では生きられない、そのことを痛切に教えてくれる人間性のあふれる内容である。同時に「2度と侵略や戦争を起こしてはならない」ということを、日本の為政者に訴えている。全国の図書館に置いて、多くの国民が読むべきである。
<戦争を知らない世代の必読本>
日本の歴史教育は、特に近現代史のそれはあまりにも問題がありすぎる。多くの日本人は、日中戦争や侵略について、ほとんど理解しないまま大人になっている。
このことが、隣人との友好の阻害要因となっている。残留孤児について知らない若者が多いだろう。この中島本を学生に教えるといい。歴史を教える教師の副読本にしたらいい。
発売元 亜東書店 03-3835-7091
中国語版 北京三聯書店「何有此生」
●731問題
・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!
中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!
聞け、この沈黙の慟哭を
平房の涙、地底の叫びを
見よ、この虐げられた大地を
名も知れぬ鳥たちが番人のように私を見下ろしている
記憶は人間の地底を永劫に流れ続ける
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア
混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)
・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第3部
斬り込み決意のとき
夕方、尾藤属が命令を伝えた。
「軍属の身分を証明する物は、全部燃やしてしまえ。みな、大事な物ばかり残してきただろうが、この際、生命にはかえられない。おそらく、これが、我が部隊にとって最後の危機なのだ」
あわただしさに髪の毛まで硬直しそうな私達には、憎らしいほど赤い夕陽であった。線路から降りたところの、どぶ溝ののそばで、私達は身分証明書、日記、貯金通帳、入隊直後に正門前に並んで撮った写真などを焼いた。まさかのときにいたっても、これだけあれば何とか生きられるだろうと考えて、持ってきた物だけに、来るところまで来てしまったのだという、みじめさがわく。だが、その反面、すべてを賭けて、さいころを投げたあとのような投げやりで透明な感情が芽生えていた。おそらく、こんな感情のときこそ、人間は苦もなく死んでゆけるのかもしれない。
4月から私の軍事貯金は、千円を少し超えていた。つらかった4ヶ月余の報酬が、今眼の当たりで夢と化し灰となってゆく様を眺めながら、私は残してきた戦友、来住野の、母からのハガキを手に、燃やそうか燃やすまいかと、惑いあぐねていた。
小泉親彦(ちかひこ)
※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。
真実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
日本軍の毒ガス被害
ガン治療のウラ 4/8
「学校狂育で、人生つぶされてはいけない」 船瀬俊介の船瀬塾
「悪魔の飽食」から「小食へ」(体質改善への道)
医師 甲田光雄1/6 ラジオ深夜便
●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年
第十四章 創り直された君主制
Ⅰ
昭和天皇は軍部の強硬派との同盟関係に終止符を打ち、宮中グループを再統合しながら、一時的な武装解除と外国による占領というひとつの時代に適合しようとしていた。8月15日の終戦詔書に基づき、君主制維持のための「精神的動員」と、そのメッセージを〔国民に〕納得させる、新たなキャンペーンが、いまこそ明らかに必要であった。次期総理は、当惑し、混乱し、打ちのめされた国民に対して、いったい何が起こったのか、また、なぜ忠良な臣民たちが皆、いまから思考を変えなければならないのか、なぜ丁重に敵を受け入れなければならないのかを説明し、国民自身が身をもって体験している恐ろしい苦境をもたらした責任を詮索しないように説く必要があった。次期内閣の焦眉の課題は、アメリカ軍を主体とする占領軍を平和裡に受け入れるための準備をし、過去との連続性を印象づけながら国民を鼓舞することにあった。そして次期内閣の長に据えられた皇室の親族の一員だけが、これらの使命を達成することができたのである。
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」
●『天皇の陰謀』
天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ 著
松崎 元 訳より
第三章
敗戦
(その2)
裕仁の外出
裕仁は、宮中の車庫で最も旧式なリムジンの一台、第一次大戦時のモデルの暗紫色のダイムラーに乗って、アメリカ大使館に到着した。彼は、数週間前に、陸軍の制服を脱ぎ棄て、今は、随行員の最下級の侍従のように、着古した戦前のモーニング服を着けていた。大使館の入口で、彼はボナー・フェラーズ准将に迎えられた。フェラーズを驚かせたのは、裕仁が彼に握手の手を差し伸べたことで、准将は反射的にその手を握り、大きくそれを振った。そして裕仁とその随行員は玄関ロビーに案内され、一団のマッカーサーの側近に紹介された。アメリカ側の将校たちは、天皇がひどく緊張し、震えているようであること――あたかも早朝の気付け剤を飲んだかのように――に気付いた。それは、彼の付添いの一人が、お抱えの内科医であると紹介されることで、より注目されることとなった。事前の打ち合わせでは、裕仁自身の希望により、その会見は完璧に個人間のものとし、裕仁と通訳のみが、マッカーサーのもとに案内された。