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国家犯罪!731から福島まで!!

2014-09-16 09:27:14 | Weblog
秘密保護法撤廃!!撤廃!!撤廃!!
“過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる”
日常/ #3ドキュメント2013.12.6 

グーグルクロムで見るとスムーズに画面が動きます。

権力側の都合の悪い情報を「国益を損なう」と言って隠すことはあってはならないことだと思う。
情報をもっとオープンに公開せよ!!

「日本では戦争について反省をしていない人々が権力を握っており、これが日本とアジアの人々にとって非常に深刻な問題になっている」

安倍さん!!72年の日中共同声明を完全に忘れたのですか?

共同声明は、「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と明記している。

※今の日本で「命の教育」などできるのか、疑問だ。過去の日本の残虐行為を全て日本政府からして隠し続け、「日本を取り戻す」、「美しい国」とか、天皇制の強化を唱えている。大人がきちんと過去と向き合っていない!!

第1次世界大戦から100年、安倍首相への10の質問―中国メディア

ドイツは、過去と真剣に向き合い、ヨーロッパの国々から信頼されている!!
日本は、過去と向き合うのをずっと避け、汚い出来事は隠し続け、特に中国・韓国から全く相手にされていない!!

日本の医学界の未来は暗い!!山中教授がいくらiPS細胞で業績をあげよと、京大が過去の謝罪をしなければ、いつまでも、731の暗い影はつきまとう!!

文科省は道徳の強化を進めているが、自民党のいう道徳では、過去の日本軍の罪業をどの様に扱うのか?
道徳とは関係ない?過去は無視しろとでもいうのか?

なぜ、731部隊の事実がこれほど明らかになっているのに、日本政府、天皇・皇族、日本医学界、京大・東大のが学者の誰一人、謝罪しない?
2013シンポ731吉中講演 


731シンポジウム奈須講演 


知ってるつもり「731部隊と医学者たち」より、「ある医学者の生涯2」 


京大・東大は真理を探究する大学ではない!!近現代史、原発の危険性をを追究するものは、冷遇されるか、追放される!!学問の世界も権力・お金に支配されている。地獄の沙汰も金次第!!
斑目「最期の処分地の話は、最後は結局はお金でしょ!!」
斑目春樹と小出裕章
 


●731部隊
防疫研究室・731部隊及びアジア各地にあった細菌戦研究所は、現人神・大元帥であった昭和天皇の承認のもと、莫大な国家予算を使い、生体解剖・生体実験等をして、細菌兵器の開発や、毒ガスの研究、凍傷の研究などが行われた。
731部隊には、日本の各大学から優秀な若い教授候補の医学者が集められ、研究が進められた。その人集めに一役買って出たのが石井四郎の恩師、清野謙次だった。
731部隊にも、清野謙次(京大教授)が度々訪れ、いろいろとアドバイスをしていた!!
京都大学は、731部隊の中核を担い、清野をはじめ、その他の教授たちも多くの弟子たちを口説いて731に送り込んでいた!!
京都大学が731部隊の資料を隠すのには訳がある!!
きちんと京大は731部隊のことを展示してほしい!!
「731部隊」展示撤去 京大医学部資料館


随筆・遺稿(故清野謙次先生記念論文集より)

石井・・・今紹介を受けました石井であります。親孝行したい時には親はなし、先生にまだ御恩を報ずることもできないで誠に残念であります。大学院学生時代に眠り病が起こりまして、各大学が行っているのに京都大学だけが居眠ってると京都大学が眠り大学になるから、一つ京都大学は奮発して、この眠り病の本態を突き止めて頂きたい、とこう申し上げました。先生膝を打って賛成して下されて、あの大編成ができて、丸亀に本拠を置き、香川県の二豊郡に本拠を置いて一切の資料、お墓の屍体まで集めて、渡辺遍さんと共に、この、朝から晩までシャンペランを濾(こ)しまして
、遂に動物実験に成功して、東京に於ける学会に発表して、あらゆる反駁をそこに受けたんでありますが、とうとうまあウィルスであるということが承認されまして、日新医学の原稿(?)になったのはご存知の通りであります。
それからお前洋行して来い、ということを言われ陸軍から外国へ行きました。その時の深い感銘は、学問は日本で出来る、しかしながら世界の大人に会って、この、その偉大な人間が如何なる条件でこういう偉大な事業を成したかというその着眼と、方法とを、ガッチリ握ってきて、日本でやれば必ず出来るという話でした。それから英・米・仏・露、ロシアまで入りまして永くこの観点で見たのでありますが、どうも日本にとっても、一つも手をつけない大きなデフェクトがあるという事がわかりました。即ち日本に於いては非常に日本が偉いと、日清、日露、日独、済南、シベリア、こういう事変を通じてぐんぐん興隆の一途を進んで、日本の中にいる我々は、日本中が一等国であることを自負してましたが、この観点から世界の内面に入って考えると丸で逆であったのであります。それでもう一年も延ばして、これを少し徹底的につかみたいと思いましたが、ひとまず日本へ帰ってきて、内閣の諸侯と軍の首脳に報告しようと思いまして、先生を訪ねました。そりゃいいことをつかんだと、つかめないとこをつかむのがいいんだと。しかしながら、連戦連勝の日本、万世一系の天皇を上に頂いて隆々たる日本の何人もこれを耳にする人はございませんでした。誰も相手にしません。しかし既に、第一、民族の潰されたのが御存知の通りアメリカインディアンであります。第二の潰された、ほとんど潰された民族はモンゴリアンであります。第三番目にジャップであります。先生はこの着想を非常に喜ばれました。これは一つの大きなつかみ所だから、これをものにして将来を計画するのが一番いいということであります。
それでも非常に有頂天になっている日本として一番難しいことでありました。
そこで、自分で中々取り付く島もありませんから、陸軍軍医学校の教官に補せられたのを幸いにして、先生と相談し、又長与先生にも相談し、それから荒木にも相談しましたが皆、この着眼は、出た杭は必ずたたかれることがあるんだから、或いは然らんという考えでございました。
それで、陸軍、内地で全大学にお願いして出来る事と、内地で出来ない事の2種に、軍の再々の会議の結果決定致しまして、そして、内地で出来ないものは何とか別に方法を考えると、その為には、まあ気温の変化、環境が違うから、まあ北極、南極、赤道と3つの大きな、地球儀の大きなものを作って環境の変化を作ってもらう約束をしましたが、日本の力では、当時昭和5年でありましたが、内地に作る技術も無ければ、資力も無いということで、一つは赤道の直下へ行くがいいし、一つは満洲の北端に行けばいいということで、遂に研究所をそこに設けることにしたのであります。それから次々と発展致しまして、まず、戦地が4千キロに発展しまして、北は北満より、南はアンダマン、ジャワ、スマトラまでゆきまして、1年中同時に戦争があるものでありますから、これに対応策として、まず将兵の身体を保護して死亡率罹患率をなくするという国家百年の計をたてることに廟議一定しました。それで如何にして日本の国力を維持するかが問題であります。そこでまず陸軍軍医学校に研究室を作り、それから満洲ハルピンに(ロックフェラー・インスティチュートを中心に)。又南支に中山大学を中心に、その他、逐次研究室を作って行って、遂に324の研究所を作ったのであります。この結果、伝染病並びに伝染病死の率が下がり、大蔵省は非常に喜んで、これではまだ継続できるという結論になったのであります。その為に、ハルピンに大きな、まあ丸ビル14倍半ある研究所を作って頂きまして、それで中に電車もあり、飛行機も、一切のオール総合大学の研究所が出来まして、ここで真剣に研究したのであります。その時に先生が一番力を入れてくれたのが人的要素であります。各大学から一番優秀なプロフェッサー候補者を集めていただいたのがここにたくさん御列席になる石川教授、それから東北大学の岡本教授その他10数名の教授連でございます。そうして先生が、鶴見先生と一緒でございましたと思いますが、研究室をご覧になりまして、これはどうしても国家的なものにして育てねばならんというので、非常に力を入れて頂いたのであります。
その都度簡潔に御報告しますと、今度は、次は、とどこまでも先生が拍車をかけられまして、段々に、最後に大東亜の全面にわたって、この民族線防御の第1次完成をみたのであります。
ところがここで不意に中立条約を破ってソ連が出て来た為に、この敗戦の憂き目を蒙りまして、部隊は爆発し、一切の今までの何十巻にのぼるアルバイトも、感染病理に関する心魂込めて作った資料も全部焼かざるを得ない、悲運に到着したのであります。しかしながら頭に残った経験、残ったこの研究は今病理学会で、岡本教授、石川教授、ちらほらと出ます、又細菌については各教授になられた方が細菌学会でその片鱗を発表しておられますので非常に心強く思っております。
清野先生の構想はどこを叩いてもそれに応ずる反応があったんでありまして、今はよくこれをまとめて国家に奉納して、そして最後の日本の防御、破壊の防御、生々発展、再建にするようにと、わざわざ茨城県から出ていらっしゃいまして、私のうちにお泊りになって、このことを始終案じておられたことであります。(昭和31年9月3日 録音)


●南京大虐殺!!
名古屋から世界へ向けてのメッセージ!!




戦前・戦中、国家神道は日本の精神的支柱となり、国民は教育で洗脳され続けた!!
そこでは、天皇は絶対的な存在だった!!神であった!!
戦後、一旦は「国家神道」は占領軍によって廃止されたが、天皇制が存続したため、その「国家神道」の思想は今でも多くの国民に影響を及ぼしている!!
それも国歌・国旗が正式に制定されてからは、一段と強くなった!!「思想・信条の自由」は侵害されている!!
式年遷宮、年始の参拝等には、多くの政治家、国民が伊勢神宮を参拝し、天皇を崇拝している人が多い。
今のほとんどの政治家、企業家、学者等多くは今も「天皇は神である!!」ことを固く信じ込んでいる!!
神は悪いことをしない!!いやしてはいけないのだ!!天皇制の存続も危ぶまれる!!
だから、天皇・軍部の犯した罪を、歴史の真実を「秘密保護法」を作って隠す!!
「南京大虐殺はなかった!!」「731部隊は存在したけれども、生体実験、細菌戦等は資料が無いのでわかりません!!」等々、しらばっくれている!!(ノブ)


新野和暢氏講演!!
あの傑僧、沢木興道もこんなことを書いていたのか!!
「杉本五郎中佐はこの煩悩という2字を朝敵と訳したが痛快である。時局がらこういう工夫も悪くない」と書いた。
〔確か、沢木興道は日露戦争へ従軍して、金鵄勲章をもらっている。〕
「禅と戦争責任」 
澤木興道 (ノブ)






(参考)
『生きている兵隊』(石川達三著=中公文庫61ページ)より
いま、夜の焚火にあたって飯を炊きながらさっきの殺戮の事を思い出しても玄澄の良心は少しも痛まない、むしろ爽快な気持ちでさえもあった。従軍層はどこの部隊にもついているが、彼ほど勇敢に敵を殺す僧はどの部隊にも居なかった。
「片山さんも帰ったら一つ金鵄勲章をもらわんといかんな」と通訳が笑うほど彼の戦闘は勇敢であった。しかも彼は拳銃も剣も持たない、武器はいつも有りあわせのものであった。北支の戦場で彼が殺した人数は20人を下らなかった。
北支に居たころ、西沢部隊長から問われたことがあった。
「従軍僧はなかなか勇敢に敵を殺すそうだね」
「はあ、そりゃあ、殺(や)ります」と彼は兵のように姿勢を正して答えた。
「ふむ。敵の戦死者はやはり一応弔ってやるのかね」
「いや、やっている従軍僧もあるようですが自分はやりません」
「生きているのは殺さなきゃなるまいが、戦死した兵は弔ってやってもいいだろうじゃないか」
「はあ、しかし、自分にはどうもそういう気持ちになれませんな。やっぱり戦友の仇だと思うと憎いですな」
・・・・・・・・
従軍僧自身にあっては、自分の寺で平和に勤行をやっているときにはこの宗教が国境を超越したものであることを信じていた。印度において支那において日本において、同じ宗教が同じように信仰されて来たことはそれを証明すると思っていた。簡単な信じ方であった。また従軍を志願して寺を出るときには支那軍の戦死者を弔ってやるつもりはあった。しかし戦場へ来て見るとそういう気にはなれなかった。
戦場というところはあらゆる戦闘員をいつの間にか同じ性格にしてしまい、同じ程度のことしか考えない、同じ要求しか持たないものにしてしまう不思議に強力な作用をもっているもののようであった。医学士の近藤一等兵がそのインテリジェンスを失ったように、片山玄澄もまたその宗教を失ったもののようであった。ただ彼に残っている宗教家の名残りは、経文を知り葬式の形式を知って居るというだけである。彼は僧衣を脱いで兵の服を着ると同時に、僧の心を失って兵の心に同化していたのであった。
しかしそれは必ずしも片山従軍僧の責任とは言えないものであった。平和な時には彼の宗教は国境を越えるだけのひろさをもっていた。戦時にあってそれが出来なくなったのは、宗教が無力になったというよりも、国境が越え難く高いものになって来たのであった。

※石川がこの本を昭和13年に出すと、すぐに内務省は発売禁止を通告してきた。その後「虚構の事実をあたかも事実の如くに空想して執筆したのは安寧秩序を紊すもの」との理由で、「新聞紙法違反」と罪に問われて起訴されてしまう。判決は2回の公判で早くも下され「禁錮4年、執行猶予3年」の刑であった。





●憲法9条!!
「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会 Executive Committee for “The Nobel Peace Prize for Article 9 of the Japanese Constitution”さんがキャンペーンの進捗報告を投稿しました: 
署名40万人を突破しました!! 署名拡散にご協力お願いいたします。
世界各国に平和憲法を広めるために、日本国憲法、特に第9条、を保持している日本国民にノーベル平和賞を授与してください


●昭和天皇実録!!
権力側が情報を操作して「遅すぎた聖断」の弁明をいくらしても、何にもならないのでは。
本当に真実の歴史を書こうとすれば、情報を全て公開し、第3者が書かなければならないと思う。
もちろんこの本には秘密部隊731については一言も書かれていないだろう?

「昭和天皇実録」公表 太平洋戦争終結への思いなど克明に
「人民を破局より救い、世界人類の幸福のために、ポツダム宣言を受諾することを決心した旨を仰せになる」と記している。終戦を、自らの声で伝えた昭和天皇。

社説[昭和天皇実録]戦後史の理不尽を正せ
沖縄に関係する記述の中で注目されるのは「天皇メッセージ」について触れている点だ。
1947年9月19日、昭和天皇と面会した宮内庁の寺崎英成御用掛は、その日に連合国軍総司令部(GHQ)のシーボルト外交局長を訪ね、米国による沖縄占領について天皇の意向を伝えた。シーボルトは翌20日、その内容を文書でマッカーサー最高司令官に報告した。これが「天皇メッセージ」と呼ばれているものである。・・・・
実録で昭和天皇の生の言葉が紹介されているわけではなく、新事実が盛り込まれているわけでもないが、シーボルトの報告書が存在することを正式に認め、その内容を引用したということは、大きな意味を持つ。

昭和天皇実録 資料公開に注目
近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「天皇に関する資料は公益性が高く、内部資料であっても公開し、記述の検証や今後の研究に使えるようにすべきだ。日記など個人の資料も所有者の理解を得たうえで、なるべく早く公開してもらいたい」と話しています。

日本は自国の歴史を書く事が出来るか
「昭和天皇実録」が公開された。全61巻1万2千ページに及ぶ昭和天皇の記録である。実録を見た専門家の話によると、これまでの歴史観を覆すような新事実はないが、終戦直前まで戦勝を祈願していた事が明らかにされる一方、戦後に天皇が側近に戦争について語った「拝聴録」が行方不明とされ、詳しい内容が盛り込まれていないなどの問題があるようだ。
宮内庁は侍従日記などを「私的文書」として扱い、公開に消極的な姿勢を見せているが、実録を作成する基になった資料をできる限り公開しなければ、日本人は自分の頭で自らの国の姿を理解する事が出来なくなると思う。



なぜ、政府・自民党・教育委員会は歴史を塗り替えようとする!?
実教出版への弾圧をやめよ!!
(平和教育通信第113号より)




許すな!!教育委員会の不当介入!!
たしか、「日の丸・君が代」を国会で決めたとき、「国民の思想・信条は尊重する」と言っていたが、これも嘘だった。
神奈川県立高、実教出版の日本史教科書使用希望ゼロ
学習指導要領で指導を義務付けられている国旗掲揚、国歌斉唱を「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」と記述した実教出版(東京)の高校日本史教科書の使用を来年度に希望する県立高がゼロだったことが19日、分かった。

実教教科書 広がる自主規制 「校長指示で選定覆る」

気になるニュース
すべての大国と戦ったことがある日本・・これは特徴?の問いかけに「強烈な民族的優越感」「友だちいなくて敵だらけは…」―中国ネット

「中日は一戦を免れない」、半数の中国人が認識示す―香港メディア

憲法9条はどこへ行った?
NATOに女性自衛官派遣=PKO政策立案へ―防衛省

元慰安婦への日本政府の聞き取り 映像初公開=韓国団体

慰安婦問題で歪曲報道 文春を提訴へ=ソウル大名誉教授

国連特使「韓日の慰安婦問題、対話で解決すべき」



高校教科書(実教出版)に学ぶ
歴史のまど・・・1937年12月、日本軍は、国民政府の首都南京を占領した。その前後数週間の間に、日本軍は、南京市内外で捕虜・投降兵をはじめ婦女子を含む中国人推計約20万人を殺害し、略奪・放火や婦女への暴行をおこなった。当時の中島師団長は、12月13日の日記に、捕虜にはしない方針であり、佐々木部隊だけで約1万5千人を「処理」したと記している。 
南京での大虐殺事件は、日本国内には知らされず、東京・名古屋・大阪などでは「南京陥落」を祝って提灯(ちょうちん)行列がおこなわれていた。しかし欧米では『ニューヨークタイムズ』などによって「捕虜全員殺される」と報道され、国際的非難が沸き上がった。(※南京大虐殺)

※現在、中国南京市郊外の虐殺現場には侵華日軍南京大遇難同胞記念館(1985年8月15日開館)がある。中国側は、市民や武器を捨てた兵士など30万人以上の人々が日本軍によって虐殺されたと発表している。なお、日本国内では虐殺数について「10数万人」など他の説もある。


・・中国軍民の抵抗に直面した日本軍は、1940~43年にかけて、華北の抗日根拠地への攻撃をおこなった。この作戦は「焼きつくす、殺しつくす、奪いつくす」という意味で「三光作戦」と非難された。また、ハルビンの731部隊などでは、細菌戦・毒ガス戦の研究で、3000人ともいわれる中国人ロシア人を実験材料(マルタと呼んだ)にし、しばしば中国各地で細菌・毒ガスを使った作戦を実行した。さらにアヘンを生産して中国占領地で販売したりした。
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国家犯罪!731から福島まで!!

2014-09-16 09:26:18 | Weblog

実教出版の教科書、都教委「不適切」 日本史の記述で
「不適切」とするのは「高校日本史A」と「高校日本史B」。国旗掲揚や国歌斉唱に関して「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」という記述について、都教委は「国旗掲揚と国歌の起立斉唱は教員の責務であるとする都教委の考え方と異なる」としている。

高校教科書から学ぶ(東京書籍)
戦争裁判・・・(東京)裁判を通して、戦争中の日本軍による侵略行為、残虐行為の実態が、はじめて国民の前に明らかになった。他方でこの裁判には多くの問題点もあった。昭和天皇の責任をこの裁判で問うかどうかは、国際的に議論されたが、天皇制維持による占領政策の円滑な遂行を進めようとしていたアメリカの意向もあって、結局不問にふされ、また731部隊の関係者はアメリカへの資料提供とひきかえに訴追をまぬかれた。連合国側のアメリカによる無差別爆撃や原爆投下、ソ連軍の行為などは問題にされることもなかった。
極東国際軍事裁判とは別に、通例の戦争犯罪の容疑で、BC級戦争犯罪裁判が1945年10月から1951年4月まで、アメリカ、イギリス、オーストラリア、フィリピン、フランス、オランダ、中国の各国の法令によって実施され、死刑984人、無期刑475人、有期刑2944人の判決が下った。この裁判では、残虐行為を命令した上官ではなく実行した部下のみが責任を問われたり、誤認で刑が下ったこともあったといわれている。有罪となった者の中には、朝鮮人約150人、台湾人約180人が含まれていた。


なぜ、日本政府は731部隊のおこなった生体実験・細菌戦を認めて謝罪しない!?
高校日本史Aの教科書、実教出版を希望が最多 来年度 静岡
高校教科書から学ぶ(?)
731部隊・・・日本陸軍は、細菌戦準備のため1932(昭和7)年に関東軍防疫班を設立し、38年から39年にかけて、中国ハルビン郊外にその本部と実験施設を移転した。ノモンハン事件ではじめて細菌戦を実施した軍は、防疫班の規模を拡張して40年から関東軍防疫給水部と改称した。この細菌戦部隊は731部隊と呼ばれ、ペスト・腸チフス・コレラなどの病原菌を兵器にして、42年からは中国戦線で細菌戦を実施した。また、中国人などを「マルタ」とよんで人体実験をおこない、敗戦時までに3000人あまりを死亡させた。
敗戦後、アメリカは731部隊が開発した技術を入手するためにこの部隊の幹部を免責したため、彼らが公的な責任を問われることはなかった。









▼数え切れない戦争犯罪 

これら1000人余りの戦犯による犯罪を単純に足しただけでも驚くべき数字となる。直接殺害された中国の民間人と捕虜は85万7000人余り、焼却・破壊された家屋は7万8000軒以上、略奪された食糧は3700万トン、石炭は2億トン以上にのぼる。1931年の「満州事変」から敗戦・降伏まで日本の帝国主義は数多くの悲劇を生み出した。平頂山虐殺や南京虐殺、潘家峪虐殺、劉店郷虐殺、四一二虐殺、重慶大トンネル虐殺、北[田童]虐殺などその犯罪は枚挙にいとまがない。 

日本人戦犯45人の「更生」はいかにして行われたか―中国メディア

考察団代表は「日本帝国主義の罪は明らかで、731部隊史跡はその明らかな証明である。中韓両国は心を一つにして、全世界の人民に日本軍国主義の罪を示し、二度と同じ過ちが起きないようにしなければならない」と発言した。

「日本の侵略者による罪を公にし、被害者を偲ぶと同時に、若い人たちに歴史の真相を脳裏に刻んでもらい、世界の平和的発展を推進するものだ」
韓国の国会議員視察団、旧日本軍731部隊遺跡を視察―中国報道 

中韓合同で「侵略」写真展=ハルビンの731部隊跡地

<慰安婦問題>韓国国会議長「日本に全力で謝罪と賠償求める」=訪日し国会議長に談判方針―韓国メディア




安倍のお爺さん、岸信介と731の関係は?情報公開せよ!!
日本人が忘れても、マルタの怨霊は日本の罪業を訴え続けている!!

安倍の行けない中国・韓国では731部隊の研究が盛んになってきている!!
「秘密保護法」の施行を急ぐ安倍政権の閣僚に世界からメッセージが届いています!!
とくとご覧下さい!!

侵華日軍第731部隊罪障陳列館(ハルピン)

中国が教える731部隊


生きた人を人体実験、日帝731部隊の恐ろしい蛮行


鉄証:731部隊の罪業

日本人の証言もありますよ!!
語り部フォーラム 


韓国人「中国が731部隊の残虐行為証拠資料を公開、幼い子供にも人体実験していた日本」


731部队的真相(英文)2/5 731部隊の真実 the truth of Harbin Unit 731(English Narration)


731部隊のことは、アメリカのCDC(アメリカ疾病予防管理センター・・・1946年に創設され、アメリカ国内・国外を問わず、人々の健康と、安全の保護を主導する立場にある連邦機関。)のビデオでも紹介され、世界では公然の事実とされている。
インターネットエクスプローラーのグーグルで(グーグルクロームでは映りません。)
http://www.bt.cdc.gov/agent/plague/trainingmodule/1/02wmp.htmをご覧下さい!!

疾病管理予防センター(CDC): 谷川透訳

医学博士、科学博士 ジョアンヌ・コノー

人は中世以来、敵を殺し、敵の能力を奪うため、自然界に存在する生命体を用いてきた。
初期の例の一つは、14世紀にタタール軍が黒海沿岸の城郭都市カファを包囲攻撃したときに起きた。
腺ペストが発生してタタール人に猛威を振るい始めたとき、彼らはペストに罹って死んだ者の死体を投石器で市内に投げ込み、城壁の内部で腺ペストを勃発させることを決めた。
その後まもなく、城市の中で虐殺から身を守っていた人々は、突然ペストに襲われ、イタリアへ逃がれた。
彼らはこの伝染病を、彼ら自身でヨーロッパに運び、それが恐ろしい黒死病の大流行の始まりとなって、ヨーロッパの人口を激減させたのであった。
ペストの流行に関する今日のわれわれの知識によれば、ノミは人体が冷えるとすぐ人体を離れるので、人体を離れたノミによって元々市内に住んでいたネズミが感染し、市内で突然発生したペストが現実にカファ全域に広がった可能性は非常に高い。

日本帝国731部隊は、日本が戦争に動員され準備が整った1930年代と40年代に仕事をした。
この恐ろしい計画の立案者である石井四郎中将は、病気を殺人兵器に変える任務を帯びていた。
石井は特にペストに魅了されていたが、それはペストによる細菌戦攻撃が自然発生的な伝染病の様相を呈するからであった。
さらに、人から人への感染拡大は、最初に用いる(細菌戦)発動物の量に応じて、病気を発生させることが出来るからであった。
731部隊は、ペスト菌を霧状に散布したり、水に溶かして散布したりすることが出来なかった。そこで彼らは、ペストを感染拡大させるために、天然の病毒媒介昆虫――通常のノミ――を用いた。
感染ノミを搭載した陶器爆弾が中国本土の幾つかの都市に投下され、その住民に多数の感染を引き起こした。
ペストは恐怖心を生み、容易に感染拡大し、人々を迅速に殺すので、兵器として魅力的である。

合衆国の攻撃計画でもペストに関して若干の調査研究を行なったが、同国では完全に武器化することは出来なかった。
ペスト菌を大量に増殖させた時、人はその毒性を持った細菌を保有しつづける魅力に打ち勝つことが出来ない。

ペスト菌は武器であって、伝染力を持っている。われわれは過去を振り返って、そのことを強く感じる。さらに、ペスト菌をエアロゾルにして持ち歩かないよう管理することも問題だし、気象条件によってペスト菌が変異しうることも問題だし、細菌の形をとらなくても非常に感染性が強いことも問題だし、最後にペスト菌がどういう形をとってお終いになるのか、誰もコントロールすることが出来ない。
ペスト菌はきっと、帰ってきて、あなた方に噛みつくことでしょう。
あなた方の軍隊だけでなく、あなた方の友軍や同盟軍にも噛みつくことでしょう。

しかしながら、ソビエトの兵器工場では、ペスト菌はその伝染性ゆえにお気に入りの生命体である。
ソビエト軍は、米軍の経験した毒性の問題を克服した。
ソビエトの亡命者アリベック博士とのインタビューによれば、彼らは1,500トンのペスト菌をいつ如何なる時でも手にしており、それを大陸間弾道弾に搭載する準備が出来ているとのことである。
保管の問題のため、彼らは頻繁にペスト菌の備蓄を廃棄して、新しいものに替えるという。
われわれはテロリストによるペスト菌の使用に非常に関心がある。というのは、ペスト菌が自然界に見いだされるだけでなく、世界中の数多くの生物学資料供給所で入手できるからである。

「生物兵器による戦争とテロリズム;軍事上および公衆衛生上の対応」(アメリカ食品医薬品局発行、1999年)から脚色



<動画>日本軍の細菌戦の遼寧省で唯一公認の被害者が病死


中国(瀋陽)日本戦犯審判の特別軍事法廷旧跡陳列館が開館

日本人戦犯の中国侵略の罪の直筆供述書

<動画>郵便検閲書類が日本軍の細菌戦を実証





(転載)
中国からのメッセージ!!
細菌戦に関与したのは、石井部隊だけではなく、関東軍主力が関わっていた。国際法違反は日本軍全体の問題である。日本側の検証を望む。

日本戦犯・三宅秀也:“指導”して楊靖宇を殺害した


三宅秀也の供述書公開 細菌戦に備えペスト研究を指示(三)

2014年7月29日原文:人民ネット―国際チャンネル
公開資料の22番目の日本戦犯は、三宅秀也の罪業供述書である。三宅秀也は、抗日英雄・楊靖宇等の犠牲に関与している。
1954年8月~1955年4月の供述書は、三宅が1902年、兵庫県生まれ、傀儡満州国熱河省警務庁警務課課長・傀儡奉天省警察庁庁長を歴任したと示している。

重要な罪業:
1936年には、偽熱河省と偽錦州省で共産党員や反満抗日思想を有する中国愛国者ら7066人を検挙し、「内一五〇名を『厳重処分』(死刑)に附して居ります」
1938年11月には、防疫本部の会議において、「偽新京のペスト防疫の完避を期するため偽農安県城をペスト病源地として、偽警察力を以て包囲し、外部との交通を完全に遮断することを決定しました」。「関東軍が石井部隊をしてペスト防疫業務を直接担当せしめたる主なる目的は、偽新京にペストの発生せるを好機とし、他日の細菌戦に備へ、石井部隊をしてペスト病菌に対する種々なる研究及実験をなさしめんとするに在りました。石井部隊は偽農安県城に於ても、偽警察の包囲下に於て、人民をペスト病菌に対する研究と実験の用に供して居ります」
1939年9月から1941年3月までは、所属の各偽警察機関を指導し、抗日聯軍第一路軍の「消滅」に協力し、「抗日聯軍約二千名を射殺し、約一千五百名を誘降し」、射殺された中には楊靖宇や陳翰章などもいた。
1942年8月3日には、偽慶安県警察隊に命令し、該県青風嶺附近で抗日聯軍第三路軍の許享植軍長を射殺した。
1944年7月から1945年8月まで偽奉天省警務庁庁長として在任中、部下に命令して刑法違反者を逮捕し、「一市六県のみにて中国人民一万二千一百八十名を『検挙』し四千五百六十五名を偽検察庁に送致致しました。偽検察庁に送致せられたる者の中、十四名は死刑を宣告せられ、偽監獄に於てせられました」(編集MA)


初めて知った戦争「大久野島」「731」 

毒ガスのほとんどは大久野島で製造され、中国で大量に使用され、多くの中国人が犠牲になった。
使用前には、731部隊と516部隊(化学戦部隊)が合同でマルタ(=被験者)をトーチカに入れての人体実験や野外実験などで、効果を調べ、その結果をもとに実戦に使用した。
そして、敗戦で引き揚げる時にその毒ガスを中国に遺棄したため、今、中国ではその被害に多くの人が悩んでいる。
遺棄毒ガス訴訟、請求棄却 中国の少年2人が被害

鈴木啓久供述書:毒ガスを使用した!!

重要な罪行は次の通り。
1934年6月頃、錦州で「中国人の農民2名を殺害した」。
1935年3月上旬頃、高木大佐を援助し、「上板城附近で約300戸のある村二つを焼却し、多数の中国人民を殺害した」。
1940年9月、安徽省宣城作戦において、屋内に退避した抗日軍人約50名に「毒ガス攻撃で全員惨殺した」。
1941年、安徽省巣県に慰安所を設置したうえ、20名「中国の婦女及び朝鮮の婦女を誘拐して、慰安婦をなさせた」。
1941年11月、河北省棗強で八路軍を攻撃し「八路軍約10名を殺害し、約600戸のある村二つを焼却し、中国人の農民100名を虐殺した」。
1941年12月、「長城線附近2キロメートル内の」「住民を移転させ、無人地帯となさせた」。
1942年1月、唐山一帯で田浦大佐に対して掃蕩を命令し「約八〇〇戸のある村を焼却し、中国人の農民1000人を虐殺した」
中央檔案館が日本戦犯、鈴木啓久の中国侵略罪行自供抜粋を公開


日本人戦犯1人目・鈴木啓久の供述書を公開
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」 


榊原秀夫(731部隊林口支部長)
榊原秀夫の供述書公開 731部隊の細菌戦に協力(一)

榊原が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
「林口支部の任務に従って私は在職間、細菌戦準備の為に第一課長細矢少佐に命じ細菌保存培養を実施せしめました」。当時の生産量は、「中蘇国境の東部地面に撒毒し、極めて大量に蘇同盟軍隊のみならず中蘇両国の平和人民をも毀滅せしめるに充分な量」だった。
「細菌戦準備の為の捕鼠」では、「私は部隊全員を動員して捕鼠に従事致しました」。「間所少尉を長とし約二五名の捕鼠班を常時設置」し、「捕鼠により第七三一部隊に送附致しました鼠の総数は一九四五年四月に一〇〇〇匹、五月一〇〇〇〇匹、六月八〇〇〇匹、七月七〇〇〇匹総計二六〇〇〇匹」にのぼった。
1945年3月上旬,「私は第七三一部隊の命により」「支部の保存培養中のチフス菌、A型パラチフス菌の試験管二本を第七三一部隊第一部毒力検定班」に提出した。「両菌種共に第七三一部隊第一部保存菌中の標準毒力」に適合しており、「細菌戦の準備の為の保存培養に適」していた。「井戸水には効力の確実を期するために大体一・二本の試験管でし得ると計画したものであります」。「私は此の効力実験によりて四名の中国愛国者を殺害したものであります」
1945年4月には、黒竜江省安達県で、「私は安達に於ける殺人実験に参加致しました」。「中国愛国者の方四名」が「安達演習場に二五米―三〇米の間隔に地に打ち込んだ丸太の棒に縛りつけられました」。「軽爆撃機が演習場の上空に飛来し約一五〇米の高度より素焼製爆弾(陶器の一種)を投下し五〇米上空で炸裂しました」。「私は完全予防衣をつけ五・六〇〇米位の距離から此の惨行を見たものであります。此の爆弾は恐るべき炭疽菌を充填した爆弾で鼻咽腔より吸入せしめ当時絶対に生きることの見込のない肺炭疽に、或は破片により皮膚炭疽を起させる全く酷悪の罪行であり、私も此に参加したものであります」
1945年8月、「蘇聯軍開戦をラヂオに依り知り、直ちに自動車の出動準備を命じ、同時に一切の馬を除いた動物、即ち捕鼠した鼠、白鼠、モルモット、兎、蚤、及保存培養せる細菌を第七三一部隊に送附せしめました」。「部隊建物に藁を積み石油を準備し建物の焼却準備を実施し、更に部隊専用の水源地の給水ポンプの破壊を命じ破壊せしめました」。「細菌戦準備の為の一切の証拠物件を煙滅破壊したものであります」。(編集MA)
「人民網日本語版」2014年7月11日)

瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」 




齋藤美夫の供述書 中国人を集団虐殺(二)

重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
1937年11月初旬、新京北、南分隊及び首都警察庁の厳重処分に付すべき中国人約30人を新京北東北方約20キロの刑場に押送するよう命令。途中、全員が射殺された。
1939年8月8日、「河北より石井細菌化學部隊に引渡すべき中国人九〇名を哈爾濱、及孫吳に押送」する命令を下達した。1956年6月17日の訂正・追加自供書で彼は「被押送人員三〇名は哈爾濱に下車せしめられ石井部隊の細菌化学生体実験に、孫吳に下車せしめられた被押送人員約六〇名は習志野学校(瓦斯部隊)と石井部隊の協同による毒瓦斯弾効力実験特別演習の用に供せられたものなることを白濱大尉の事後報告により知りました」と記した。
1940年8月~1942年6月、広州市内および周辺村落で約200回捜査を行い、勾留人員は約1000人、検挙人員200人に達し、うち5分の1の40人を厳重処分に付した。
1941年6月~1942年6月、「私は派遣軍憲兵隊長として命令を以て約三回に亘り廣東憲兵隊をして同隊の検擧したる中国人民を『嚴重処分』として『集体(銃殺)』せしめました」「約一二〇名に達し」た。(編集NA)
「人民網日本語版」2014年7月23日)

飛びゆく雲 最後の戦犯は語る

日本人戦犯の中国侵略の罪の直筆供述書



戦時中、中国で731部隊員はこんなせりふを言い、たくさんの中国人を殺していたのですか?
「近くでペストが発生しました。予防薬をみなさんに飲んでいただかなくてはなりません。」
「さあ、どうぞ!!」

【安倍首相】731部隊・マルタ部隊を連想させるパフォーマンスを行ったって本当なの?


731部隊!!

夏草をふみしめ引込み線を歩いた
視界が不意に三角形に切り取られ
やがて歴史の暗渠(あんきょ)に足を踏み入れる
見上げれば天を突く巨大な残骸
ただれ崩れ落ち、悲しみの肉塊のように
灰色の空の下で泣いている
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より

混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)



731部隊展(群馬)
7月25日、26日、27日の展示会に430人が見に来ました。
地方紙にも小さく記事が載りました。



(感想)
50代 女
戦争に進む道には反対します。

731部隊は初めて知ることも多く、ショックを受けました。




【真相】
石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言
郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)

Ⅴ私は中国軍の捕虜だった
―総務部調査課翻訳(情報)班 H・M

命令、満州第731部隊ニ転属ヲ命ズ


8月12日だったと思う、遠く平房の方向から、鈍い爆発音と黒煙が上がるのが、ハルピン市内から認められた。石井部隊本部の最期であった。
私は、そんな中で、白樺寮の庭で、残された厖大な部隊関係の極秘書類の焼却を行なっていた。8月21日、最後まで留まって撤退処理にあたっていた、中村准尉以下の30数名が、トラックで、朝鮮を目指して、ハルピンを脱出した。ソ連軍先鋒部隊を目前にしての、あわただしい脱出であった。中村准尉は、奥さんとも会えず、私に彼女宛の行李を託して行った。
私を除いて、ハルピンには、石井部隊員は誰もいなくなった。
8月23日、ソ連極東軍司令官マリノフスキー元帥麾下(きか)の戦車隊が、ハルピン市内に姿を現わした。
なぜ、私が石井部隊の将校でありながら、脱出もせず、ハルピンでソ連軍を迎えることになったのか、不思議に思われる人もいることと思う。そこには、きわめて人間臭い、ささやかな私なりのドラマがあったのである。そのことを語るために、私の経歴から話を始めなければならない。




続きは「ノブのノート」

あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか?

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