国家犯罪!731・原発・南京!!

2013-05-18 10:34:27 | Weblog

日記@BlogRanking

 

No more war!
No more 731!
No more Nanking!
No more Fukushima!




まだ、民主党から返事が来ていません。
5/15、テレビで国会中継を見ていたら、民主党の大河原議員が安倍総理に侵略戦争のことを質問していました。
ちょっと質問内容が物足りなかったので、今日、民主党にメールを送り、以下のことをいつか質問して下さいとお願いしました!!
でも、以前民医連でも公開質問状を出したようですが、時の民主党の野田総理は「知らない」とか言ったらしいから、あまり期待できませんが。

質問
【昨日〔5月15日)、民主党の大河原議員が侵略戦争について、安倍総理に質問をしていました。
そのとき、安倍が父方のおじいさん(安倍寛)の例を出して、大政翼賛会に属さなかった議員であったと話しました。
そのとき、なぜ、大河原さんは母方のおじいさん岸信介のことを聞かなかったのですか?
岸は、傀儡国家満洲にいたときは「満洲5カ年計画の」策定に中心になった人物であり、国策731部隊の設置にも大いに関係があると思います。また、日本に戻って、東條内閣では商工大臣を務め、「中国人の強制連行」を実行した中心人物です。
今度、民主党の誰かが戦争のことを問いただすときにそのことを質問して下さい!
安倍首相は、盛んに正確な戦争の情報が世界に伝わってないといっています。ぜひ、岸おじいさんのことを自らの口で語ってほしいものです。
ブログ「ノブのノート」にこのことを書きますので是非参考にしてください!!】
以上。
果たして、どんな返事が来るか楽しみです!!
もちろん、このブログに民主党の返事を公開します。
もし、民主党が質問しなかったら、どの党の議員でもいいです。
質問して下さい!!
いや、日本にはこんなことを訊く議員はいないかな?
【参院予算委】集中審議 大河原議員が村山談話、TPP等に関し総理の認識質す

カバさんから貴重なコメントをいただきました。
旧満州地方(現中国東北部)で麻薬ビジネスをやって莫大な資金を手にしていた岸信介だけでなく、児玉や東条英機など右翼勢力の多くはこういった悪質な商売?で財をなした連中が多いみたいですね。今、世の中は右傾化が進んでいると言われていますが、背後でこういった連中がマスコミを操作して、・・・若者たちをネット右翼に仕立てたりして、『戦争の出来る国』への第1歩を進めていますね。
自民党の改憲案を見ると『天皇は元首』という記述があり、「日本を君主国にするつもりか?民主国家としての体裁を潰すつもりか?」と本気でビックリします。
日本人中国抑留の記録7(アヘン・731・無人地区)


高杉晋吾が語る「戦争・原発!!」
20130316 UPLAN 高杉晋吾 国策としての731部隊と原発


<安倍首相>歴史認識正しい理解へ情報発信…参院予算委

安倍さんのおじいさんは岸信介ですね。
岸信介は満洲の「開発計画5カ年計画」の策定の中心人物であり、そのとき関東軍の参謀(板垣・東條ら)とも懇意にしていた!!
国策731部隊設置に関しても、熟知していましたね。
また、東条内閣のとき、「中国人の強制連行」の策定者でしたね!!
安倍さんは「731部隊の人体実験及び中国各地で行われた細菌戦」、そして「中国人の強制連行」について、おじいさんが実際何をやったのか国民の前で語って下さい!!

この「強制連行」を策定した岸信介(当時、商工大臣、A級戦犯)は戦後首相になったが、この国の意識レベルを示している。


中国人強制連行1


闇に消えた虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月




東条英機略歴抜粋(ウィキペディアより)
関東軍時代
1935年(昭和10年)9月21日には、大陸に渡り、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任[10]。このとき関東軍将校の中でコミンテルンの影響を受け活動を行っている者を多数検挙し、日本軍内の赤化を防止したという[11]。1936年(昭和11年)2月26日に二・二六事件が勃発したときは、関東軍内部での混乱を収束させ、皇道派の関係者の検挙に功があった[12]。同年12月1日に陸軍中将に昇進。

1937年(昭和12年)3月1日、板垣の後任の関東軍参謀長に就任する[13]

日中戦争(支那事変)が勃発すると、東條は察哈爾派遣兵団の兵団長として察哈爾作戦に参加した。チャハル及び綏遠方面における察哈爾派遣兵団の成功はめざましいものであったが、自ら参謀次長電で「東條兵団」と命名したその兵団は補給が間に合わず飢えに苦しむ連隊が続出したという[14]。


岸信介の略歴抜粋(ウィキペディアより)
1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には 総務庁次長に就任。この間に計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5ヶ年計画」を実施。大蔵省出身で、満州国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに、満州経営に辣腕を振るう。同時に、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、里見機関の里見甫の他、椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、十河信二らの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の5人の大物「弐キ参スケ」の1人に数えられた。また、長州出身の同郷人、鮎川義介・松岡洋右と共に「満州三角同盟」とも呼ばれた。

東條内閣の閣僚時代

内閣総理大臣東條英機(最前列中央)ら東條内閣の閣僚と岸(前から2列目左から2人目)

伍堂卓雄商工大臣が当時の商工次官だった村瀬直養の反対を押し切って岸の次官起用を決定し、1939年(昭和14年)10月に帰国して商工次官に就任する。その後、商工大臣に座った小林一三と対立、直後に発生した企画院事件の責任を取り辞任する。1941年(昭和16年)10月に発足した東條内閣に商工大臣として入閣。太平洋戦争中の物資動員の全てを扱った。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙で当選し、政治家としての一歩を踏み出した。1943年(昭和18年)、戦局悪化への対応として商工省が廃止され軍需省へと改組。軍需大臣は東條首相の兼務となり、岸は軍需次官(無任所国務相兼務)に就任。半ば降格に近い処遇により、東條との関係に溝が生じた。


安倍晋三 - (20130422) 村山談話をそのまま継承することは無い


村山談話すべて踏襲…菅長官、首相答弁を修正?

安倍内閣:村山談話「全て踏襲」について。- 2013.05.10



安倍政権の歴史認識は間違っている!!


韓国・朴槿恵大統領、米議会で歴史認識について日本を厳しく批判(13/05/09)

橋下氏の慰安婦必要、風俗活用発言について。- 2013.05.14
【慰安婦・風俗発言】橋下市長の辞任否定について。- 2013.05.16
<橋下徹氏>「国際感覚なかった」…風俗業発言、撤回はせず
米政府「言語道断で侮辱的」 橋下氏発言を厳しく非難
橋下氏に発言撤回・謝罪求める~女性議員ら
橋下氏発言を非難する米政府当局者のコメント(全文)
「暴言だ」橋下氏発言に韓国で反発

橋下氏発言の影響~橋下氏はこの危機を乗り切れるのか
維新・橋下代表「慰安婦は必要だった」 韓国は反発

【カマ吉さんにきく】橋下慰安婦発言、ドイツでも波紋について。- 2013.05.18


DGPPN会長  フランク・シュナイダー
訳:岩井一正

人間の尊厳は常に1人1人の人間の尊厳です。このことの軽視を、法が主導するするようなことがあってはなりません。グスタフ・ラートブルグは1946年に法と正義の間の矛盾例を次のように記載しています。定められた法は、原則的には正義に優先する。しかし実定法の正義に対する矛盾が耐え難い程度までに達し、法律が「正しくない法」として正義に譲歩せねばならない場合は別である。(・・・)正義が一度として求められず、まず正義の中核をなす公平性が実定法の制定の際に意識して否認される所では、その法律は、「正しくない法」であるだけでなく、そもそも法の本質を欠いている。

「南京大虐殺全史」出版、「慰安婦」を「性的奴隷」と表現=中国書籍で初

高市氏「齟齬のないようにしていきたい」



 安倍政権は96条を改正して、表現の自由を制限し、言論統制をはかり、戦争のできる国を目指している!!
日本はもっと過去の侵略戦争を学び、反省して、二度と戦争をしない決意を世界に示すべきだ!!


IMAGINE 9
03
想像してごらん、
おたがいに戦争しないと
約束した世界を。

Imagine,
A world that promises
not to fight wars with each other.

文 星川淳、河崎哲 合同出版より

映画『しかしそれだけではない。加藤周一幽霊と語る』予告編
日本国憲法が創り出した価値
日本国憲法が創り出した価値 井上ひさし
Roma,Citta Aperta (Japanese Subtitles) 『無防備都市』
自民党改憲案の粗悪な人権感覚
130312_自民党の憲法改正案についての鼎談 第4弾
講演会 『原爆・原発と憲法9条』 中継録画 
憲法と無防備地区



日本が国防軍を持つことになったら、自衛・中立を謳いながら、軍事力を強化するだろう。周りの国に負けじと核保有も辞さないだろう。かつての自民党が考えていたように。(今の自民党ももちろん考えているのではないか?)
戦争が起これば当事国には、甚大な悲惨な被害がでる。いや、全世界の環境を悪化させる!!
経済は軍事費の増大で圧迫され、国民生活は苦しくなり、深刻な状況を呈する!!非人道的な事件も起きる!!
それよりも、侵略戦争を真剣に反省し、被爆者の悲痛な叫びを世界に届け、核兵器廃絶、原発廃炉、非軍事をアピールした方が日本人はエネルギッシュになるのではないか!!


侵略戦争の反省から憲法9条が生まれた!!
ある戦犯の謝罪4、遺骨送還1


貴重なコメントを頂きました!!
これは素晴らしいものを拝見させていただきました。大昔から領土を広げる戦というのには、このような痛みを伴っているのですよね。ただ、みな自分たちの功績ばかり、きれいな部分だけしか語ろうとしない中、土屋さんの行動には感銘を受けました。普通ならご遺族のかたには申し訳なかったと思うだけで実際に謝罪に行くことはできないかなとおもいますが、これこそが本当の勇気というものだなと感じました。最後に握手をしてくださった姿をみて、国は違えど人はみな分かち合えるんだなと感じました。これは本当に貴重な映像です。


すべての紛争を平和的な手段によって解決できないものだろうか?
憲法9条を世界へ!!


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。



日本政府・日本医学界はなぜ謝罪しない?
なぜ黙殺するのだろうか?
731の問題は過去から現在へ続いている!!
日本人の正義感・責任感はどこへいった?
闇に消えた虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月
 
●ドイツの日本の違い
ドイツの医学会の謝罪や脱原発はドイツ国民が「生命への畏敬の念」に目覚めたからか?
ドイツ精神医学会の反省

それに引き換え日本の派遣社員の現状は「お前のスペアはいくらでもいる。いやならやめな!」
会社に掲げられた標語には「かけがえのない一人ひとりを大切に!」
かつて軍人勅諭にこんな言葉があったっけ!!
「死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ!!」、
人間を人間として見ずモノとして扱う体質!!

日本医師会の歴史認識
Unit 731: Japan's biological force



70年間の沈黙を破って
ナチ時代の精神医学―回想と責任
ドイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)の2010年11月26日
ベルリンにおける追悼式典の談話

DGPPN会長  フランク・シュナイダー
訳:岩井一正

リューベック大学神経科病院の前の主任であったゲルハルト・シュミット教授は、1945年の11月20日にすでにラジオで、精神科患者と精神遅滞者に対する犯罪の講演を行っています―しかしこれに関する彼の本の原稿は、幾度も試みたにもかかわらず、20年の長きにわたって、出版社を見つけることはできませんでした。私は何年も前にこの本を読んで、非常に衝撃を受けました。しかし戦後ドイツの精神科医たちは、犯罪の詳細が公表されることで、ドイツ精神科医全体の再興と―当時まだ保たれていた―名声に傷つくことを恐れたのでした。誤った見解、致命的な見方です。自らの責任を認識するはずの学問的な共同体性の破綻です。シュミット教授はそのライフワークに対して、1986年にその年にはじめて授与されることになったドイツ精神医学神経学会(DGPN)のヴィルヘルム・グリージンガー賞を贈られました。ほとんど忘れられており、かつ遅きに失していましたが、われわれの学会の稀な輝ける歴史的瞬間でした。

T4作戦

ドイツ精神医学会の謝罪
ドイツ精神医学会は公式に謝罪しました。では、日本の精神医学会は


●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京」市民に仕えた宣教師証言集:章開?/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2200+税)
ステュワードゥ
日記の抄訳
(1938年12月10日~1940年3月23日)
1939年1月27日、金曜日 
太平門の外側で、邵さんのある農民の友達を家に訪ねたが、その人は戻ってきて、燃やされた元の家に替えて、新しい家を建てたところだ。そこの人たちは多様な農作をやっていて、その1つが絹糸の生産だ。桑の木を植えていて、その葉で蚕が育つ。婦女たちが糸を紡ぐのに熟練していて、それで薄い絹布が織られ、夏のガウンになる。彼女らの織機が焼かれてしまい、まもなく織布もやれるようになると、期待しているみたいだ。
過去20年から30年かけて育ってきていた、この町周辺の樹木がたくさん伐採されているのを、見るのが悲しい。門のところで、軍用トラックにいっぱい、燃料にする小さい木の幹を積んで運んでいたり、農民もたくさんありとあらゆる燃料を、町に運び込んだりしているのが見える。街路の両側に沿った木々もたくさん伐られ、ぼくらのところの管理者たちも、この辺りの農民のやっているのと同じように、ぼくらの所有地周辺部分の木を伐ってしまって、夜うろついて回る窃盗たちに、先に持ってかれないようにしている。窃盗はほとんどが中国人で、日本人は怖がって、かなりの数いっしょでないと夜は外出しない。石炭が供給不足で、値段がとても高い。


中国各紙、好意的に報道 鳩山氏の南京大虐殺記念館訪問


被爆者の叫びが聞こえないのか?
核兵器廃絶!・原発廃炉!!
「核の不使用」共同声明、日本の署名拒否について。 2013.04.25




CIAと通じていた正力によって1958年元旦に流されたプロバガンダ映画
『わが友原子力』(ディズニー映画)

参考)第5福竜丸等1000隻の漁船が被曝したのは1954年3月1日
正力松太郎(1885年ー1969年)・・・初代日本テレビ社長、初代原子力委員長、初代科学技術庁長官

非核三原則【(ひかくさんげんそく)は、「核兵器をもたず、つくらず、もちこませず」という三つの原則からなる、日本の国是】を提唱して、ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作元総理大臣は、裏では核兵器開発・製造を真剣に考えてその方策を探っていたこの事実!!当時の西ドイツ高官が核兵器開発の打診を日本から受けて、当惑したと言う!!
国連の核軍縮決議562件が出されたが、日本は、アメリカの核の傘の下で東西の冷戦下の時は、賛成率40%を切った時もあった。90年代以降は平均55%。
ヒロシマ・ナガサキでは核兵器廃絶に向けてのアピールが毎年出されているのに、日本政府はなんとも冷ややか!!

 メキシコの数多くの核軍縮決議を提案し、各国に協力を求めてきた軍縮大使の弁
「核実験や核兵器に反対する国を全世界から探すとすれば、日本しかありません!!日本は本来核兵器廃絶の先頭に立つべき国なのです!!」


日本政府は中国で行った731部隊の細菌戦・人体実験の負い目と天皇制維持の為に、アメリカの原爆投下を真っ向から非難できなかった!!
その後の日本は、ヒロシマ・ナガサキの原爆調査(治療ではない)を積極的に行いアメリカの機嫌をとりながら、第5福竜丸やその他の多くの漁船が水爆実験で被曝したにもかかわらず、原発導入へと進み、核兵器の開発を秘かに探っている!!もちろん、自民党政府、医学界は戦争の反省などするつもりは全く無い!!

NHKスペシャル核を求めた日本101003


原発問題

20130511 ラジオフォーラム 第18回 小出裕章ジャーナル

【保養の効果とその必要性】 河田 昌東氏&小出 裕章氏インタビュー

ラジオフォーラム#18 沖縄屈辱の日、辺野古・高江からの米軍基地問題レポート

放射性降下物と土壌汚染 ... 情報が途絶した中で / 武田 邦彦

恥を知れ!!(`・ω・´)q( ゜д゜)pブーブーブー

忌野清志の反原発の歌  RCサクセション サマータイムブルース~LOVE ME TENDER


問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。

【「荒れ野の40年」ワイツゼッカー連邦大統領演説全文(1985年5月8日) より】
ヴァイツゼッカーの演説【独語】1/4

戦争遺跡!「731部隊」
聞こえませんか?「マルタ」の叫びが!!


不帰の門
象徴的な事例をあげてみたい。今はもう無くなったが、数年前には731部隊遺跡の本部楼から「ロ号棟」を結ぶ回廊の一部が残されていて(それは現在も確認できるが)、「煉獄門」(「不帰の門」)と書かれた文章が壁の金網越しに中国語、そして英語、日本語、韓国語の訳が添えられてあった。
これは誰が考えた文章か、筆者は確認することができない。以下、原文のままを再掲する。

これは731部隊が設立した人生の「不帰の門」である。当時たくさんの被実験者は此処を経由して生命の終点に行った。そして生還者が1人もいない。この門の中で飽くことを知らない野心と喪失した人間性とを無情な殺戮が充満したことがある。ただ「人間」として自分の罪を反省する事だけ発見できない。「煉獄門」の前に立って誰かが何かを述べているような感じがする。誰かが悲惨な歴史と未来の平和を述べているような感じがする。

決して正確ではない日本語がここではよけいに現実的な情景として見る者に訴えかける。「被実験者」とは通称マルタのことで、ここを通ったが最後、生きて帰ることはなかった。「飽くことを知らない野心」と「人間性を喪失した無情な殺戮」とは当時の医学の倫理的破綻であろうか。彼らは人道を、罪という自覚を失した集団であった。「煉獄門」の前に立てば、そこから人間の叫びが聞こえる。私もまた耳をそば立ててみた。未来の平和ではなく、憎しみばかりが募った。・・・・・
(『戦争遺跡と歴史認識」』ー「731部隊」遺跡保存活動を通して私が学んだことー田中 寛著より)

731部隊の遺跡2

731部隊の遺跡1

731部隊施設を世界遺産登録へ!

「悪魔の飽食」


黒い太陽731部隊



731部隊で行われていた残虐行為はアウシュビッツ以上だ!!(医学者の道を捨てた男もいた!!)
医学犯罪、今どう考える…?731部隊の“闇”を振り返る
2000/3/5 放送「731部隊と医学者たち」(医学者の道を捨てた男・秋元寿恵夫の生涯!!)
知ってるつもり 731部隊

 

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国家犯罪!731・原発・南京!!

2013-05-18 10:32:06 | Weblog

日記@BlogRanking

 

パネル集「戦争と医の倫理」
パネル集「戦争と医の倫理」
最前列に帝大教授クラスが軍刀を持つ士官とともに並んでいる。1列目左から5人目が石井四郎、その左が大連支部長の安東洪次、1列目右から4人目が北野政次、日本は細菌戦を医学界の総力を結集して、国策として遂行していたことがよく分かる!!
1938年には国家総動員法が発令され、帝大教授の勧めにより若き医学者たちが731部隊に送られた!!
日本は731部隊の負い目から、アメリカの原爆調査に国を挙げて医学者が参加し、放射線の影響や原爆の威力を調査した。そうした過程で医学界は、アメリカの原子力政策に加担した。その流れの中で今の医学界も「脱原発」とは言えない空気があるのではないか?

【 以下は細菌研究に従事した〔三谷班)における上田弥太郎の自筆供述書『人体実験』からの一部抜粋である。
「私が必要だったのは彼が死ぬことではなく、死の前の、この生きた人間の体内に流れる(ペスト菌に冒された)血液であった。・・・『10ccの血液が採取できればそれでいいんだ』これが研究者の喜びと使命というものであり・・・人が死ぬ際の苦痛など同情に値しなかった」
目的遂行のためならどんなことでも障害にならなかった。医学者たちは人間が死んでも生き続ける菌にこそ生命を求めたのであり、人体の抹殺にはまるで抵抗を感じなかったのである。

細菌兵器の開発は満州侵略が帝国の生存戦略だったように、米ソとの究極の戦時戦略であった。731部隊の非人道的遺産は朝鮮戦争でのアメリカの細菌戦を皮切りに、現代を覆うバイオ、ウイルステロ攻撃の下地を作った。野田正彰氏は「731部隊の戦後は日本の医学がどれだけ生物兵器部隊に汚染されているかを知らせている。またアメリカ政府は、石井部隊関係者を免責することによってアメリカ社会に欺瞞と細菌テロの悪を内向させた」と述べている。さらにエボラ熱の数倍もの感染力や殺傷力をもつウイルス兵器が多くの国によって秘密裡に開発されているとすれば、過去から現在・未来への戦慄すべき悪の連鎖である。】
『ある展覧会の憂鬱 「731部隊展」をめぐる人々』より
※鳥インフルエンザ、サーズ、エイズ、口蹄疫などは人為的に作られていないのだろうか?
2010/02/10 (Wed) エイズウィルスは人工的に作られた

シンポの開催趣意書
パネル集はじめに
日本政府は、731部隊の存在は認めるが残虐行為があったことや、細菌戦を実施したことに対しては沈黙を続けている!!
莇昭三さんの講演より
(質問)ドイツが裁かれて、日本が裁かれなかったのはダブルスタンダードだと思うんですが、よく言われる「日本に原爆が落ちて、ドイツに原爆が落ちなかったのは人種的差別だ」とか言う人がいるんですけど、これとは逆の意味で「ドイツ人には厳しくて、日本人には甘い」と思うんですが。
(莇)日本の国会が感知しない問題なんだということにしましょうという事に決まったんですよ。だから、731部隊に関しては未だに日本国政府は知らないんですよ。「知らない」、「あったそうだ」、「そういう噂は聞いてます」というのが野田総理大臣の答えです。
(会場)え!

(質問)石井部隊は、実際は、天皇「裕仁」直属だったという点と、あと731部隊の生き残りが医学界を支配したということから、だから医師会は自民党支持だし、自民党議員の中山太郎が憲法改正論者で巾を利かせているのはそういう背景があるのでしょうか?
(莇)非常に重要な問題です。天皇とGHQ、日本政府の約束がございますね。これはもう免罪にしましょうと。それがずっと続いている。日本医学界も日本医師会も同じで免罪になっているんですね。「今頃どうしてそんなことを言うの?」というのが学会の幹部が私達に対して言われた答え。ただ唯一、最近京都大学の病理学の教授が初めて「非常に残酷なことをやったんだ」というようなことを我々の雑誌に投稿してくれました。
私達が言っていることは、こういう事実があったことを日本国民が正当に知るということでだと思うんです。どこが悪かったとかそういう問題じゃなくて、そういうようなことがあったんだ、日本は反省している。どうしていくのかということさえ、はっきりしていけば問題は解決すると思うのですが。

これまで、「証拠がない」として細菌戦の実施を認めてこなかった日本政府の根拠が、崩れた!!

生物兵器による攻撃についての新資料
軍医として戦地に赴いて
発行「戦争と医の倫理」の検証を進める会
発売三恵社より



「細菌センター」総会より
731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(1)西里扶甬子

国策としての731部隊・原発(7) 高杉晋吾


20130316 UPLAN 高杉晋吾 国策としての731部隊と原発

モンゴルで行われた生体実験
モンゴルで行われた生体実験
戦争を反省しない学者たち!!
・1949年1月22日、上野公園内の古めかしい青色の建物のホールで1人の男が何事か叫んでいた。
「国が戦争に突っ込んでしまったら、われわれ科学者はですね、国のために協力して、これに尽くすというのは当然じゃないでしょうか?今ごろ、戦争中のことを持ち出して、戦争に科学者が協力したのを反省しろと言うが、そんなことでよいのだろうか?第1、戦争なんてもう過去のことじゃないか?憲法が戦争を放棄している以上、それはもう問題外のことではないか?将来の戦争のことを考えて、声明に戦争の反省などを書き加える必要はない。第7部会はこれに反対します」
集会は日本学術会議の第1回総会であった。立ち上がって叫んでいた男は、名古屋大学教授の久野寧(くのねい)であった。

・私は、この南極観測に731部隊員が登場したことについて、最近の取材で当時の学術会議会長であり、南極観測特別委員長でもあった茅誠司氏に意見をたずねたことがある。茅誠司氏はその時、私に電話でこう答えた。
「北野政次?その人がどんな人か知らない。私は記憶していない。しかしいま、反体制といわれる人でも、戦争中はずい分いろんなことをやっていますよ。戦争中のことはあんまり採り上げない方がよい。それに例え、それが関東軍の経験であっても、昔、南極観測を白瀬中尉がやったように、いまの学術に役に立つものなら取り上げてよいのではないでしょうか?」
【『日本医療の原罪』(人体実験と戦争責任)高杉晋吾著より】

子どもを守りたい~年7㍉シーベルトの被曝で息子を失った母、語る



フクシマに原発推進団体が圧力をかけている!!(日本財団・IAEA・ICRP・アレバなどなど)
「脱ひばく移住法」制定の提言(3) 松井英介



「原爆報告書」は、731部隊の隠蔽と国体護持のために、アメリカに少しでもいい心証を与えるために国策として作られ、当の苦しんでいる被爆者には活用されなかった!!なるほど、天皇は原爆忌に広島・長崎には行けないわけだ!!
731部隊を隠蔽する目的の取引!NHKスペシャル 封印された原爆報告書

封印された原爆報告書

被爆者の叫び!!
「わしはモルモットか!!」
いつまで受忍しろというのだ!!

原爆報告書は2年以上の歳月をかけ、国策として作られた。
そこには被害者救済はせずに被爆の調査だけをし、アメリカとの関係を優先させた姿が浮かび上がる。(治療はせず、被害の実態、原爆の威力を明らかにした。)

※思えば、日本と言う国は、世界で初めて米国からの原爆を落とされ、20万という人命をその年のうちに広島と長崎で失い、その後も後遺症に悩まされる人々が現在も数十万いる中、日本政府と米国政府が当時ABCCという機関を創設し、多数の学者や医師らが参加して、被爆者への治療を施すわけでなく、被爆者の体で研究をしました。
実際、広島第一陸軍病院宇品分院では、原爆投下1ヶ月後から1ヶ月間米国の医学者の調査団が日本の医師団に連れられてやってきましたが、日米の両方の医師たちは、生存者の治療よりも遺体解剖を優先し、患者の救援活動に従事したのは多くは看護婦や衛星兵だったと言う記録も残っています。(
XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より

この時点で医師は原子力産業に取り込まれていく!!原爆投下後アメリカは原爆の治療研究を禁じた!!
内部被爆が人体に及ぼす影響!!脱原発宣言!!
原発ゼロをめざす7・2交流集会 肥田舜太郎さん



小出策郎中佐に出された極秘命令:
「敵に証拠を得られることを不利とする特殊研究(731部隊等)はすべて証拠を隠滅せよ!」


1945年8月アメリカは広島・長崎に原爆投下!!
その年だけで20万を越す人々が死んだ。
投下直後、国は大号令をかけ、1300人を越す医師・科学者を動員して2年以上の歳月をかけて1万ページ181冊に及ぶ原爆報告書を作成させた。作成過程で200人以上の死者の解剖も行った。対象は20000人を越えた。
最初の調査は原爆投下後の2日目から始まり、陸軍省医務局の小出策郎軍医中佐が取り仕切った。
目的は、原爆の威力を調べ、アメリカに渡し、有効な取引きカードにすることだった。

この調査は敗戦後の戦争犯罪(731部隊等)を隠蔽するためにも、そして国体を護持し、新たな日米関係を築く上にも重要なものだった。

この調査では被爆者の治療はせずに、放射線の影響を調べる検査だけが行われた。

自ら開発した原爆の威力を知りたいアメリカと、戦争に負けた日本の国の利害が一致した。

原爆投下から2ヵ月後、アメリカの調査団が現地に入ると小出中佐に替わり放射線医学の第1人者 都築正男が調査の中心となり一層力を入れた。
第10回日本医学会総会№2
発行「戦争と医の倫理」の検証を進める会
発売三恵社より

アメリカが一番知りたい情報
№14 原爆がどれだけの範囲の人を殺すことができるか?
17000人の子どもたちが70ヶ所の地点でサンプルにされ原爆の殺傷能力が調査された。
例)0.8km 560人全員死亡。

アメリカはこのデータを元に爆心地からの距離と死者数をグラフに表し、死亡率曲線と呼んだ。
被爆者はアメリカの核戦略に利用された。

また、200人以上の死者が解剖され、放射能の影響が調べられた。治療とは無関係。(731部隊員の得意とする分野か?)

治療とは関係ない人体実験も行われ、被爆者にアドレナリン(血圧を上昇させるホルモン)を注射した場合の反応などが調べられた。
№23
そのほか、どの様な人体実験が行われたのであろう?

また、原爆投下後に広島に入って原爆症になった医大生の日記もレポートにあり、入市被爆のの実態も明らかにされていた。

入市被爆者の最後の叫び!!

「私は末期ガンで余命いくばくもないことを医師から知らされました。国は私のような入市被爆の実態を分かっていません!!」
この方の勝訴判決が出たのは亡くなってから3ヵ月後でした!!

ところが、戦後の原爆症の裁判ではこのことは利用されず、入市して被爆した人が、長い間原爆症と認められず、苦しんだ!!

※しかも徹底的に内部被曝の影響を隠ぺいし、急性被曝で死んでしまった者、また原爆の落とされた半径2km以内に住んでいるもの以外への健康被害はないものとして長年されてきました。ようやく2008年になって、ある一定の距離以上離れたものでも、放射性物質の微粒子を体内に取り込んだことによる原爆症を発症したことが裁判で認められてきたのです。原爆が落とされて半世紀以上、広島・長崎の医師たちが患者側ではなく、国側について隠ぺいに加担していたことは特筆すべき事実です。
XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より


アメリカはドイツの人体実験については厳しく裁いたが、なぜ日本の人体実験について裁かなかったのか?調査中に、アメリカの人体実験もばれたのか?

※第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。

2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。原爆投下後に行われた日米合同調査団への参加には、元731部隊で病理解剖が専門の石川太刀雄丸が、米軍による厳戒な統治下の中、1945年12月に原爆被害を詳述しています。731部隊の司令塔「陸軍軍医学校防疫研究室」嘱託の緒方富雄東京帝大名誉教授、同嘱託の木村廉京の名前があり、米国からもプルトニウム注射による人体実験をしたスタッフォード・ウォーレン医師、後にUNSCEAR創設時のメンバーであり、被爆者疫学研究で有名になるシールズ・ウォーレン医師が合同調査団として来日し調査したのでした。
このように米国の人体実験にかかわった医師と日本の人体実験に関わった医師らも協力して、被曝研究を進めていったのです。1946年にはオースチン・ブルースらABCC人体実験医が、東京、京都、大阪、広島、長崎を含む日本の主だった大学病院を廻り、元731部隊の研究員と会って、ABCCに協力する人々の人脈づくりをし、翌年ABCCが正式発足したというのです。
XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より


「米軍の調査団の中には陸軍のスタッフォード・ウォーレン大佐、フリーデル中佐、海軍のシールズ・ウォーレン大佐のように、米国国内の放射能・放射線の影響を調べる人体実験に関係した者が含まれていた。
米側の医学者にとっても日本側の「特殊研究」の医学者の免罪が必要だった。
徒に日本側の犯罪行為を追求すれば自分の医療犯罪の発覚にも繋がる畏れがあった。「特殊研究」に従事してきた者どうし、戦勝国と敗戦国の違いを超えて、研究成果を分かち合うために米軍側の医学者たちは、日本の「特殊研究」者たちを許すことにしたのかもしれない。」

『ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影』
堀田伸永著より
ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影【無料版】堀田伸永


果たしてこの181冊の報告書の中で元731部隊員はどの様なことをレポートしたのであろうか?
吉村寿人、宮川正、在田勉、岡本耕造、石川太刀雄丸・・・
2013年度731事業計画
宮川正の軌跡
1944年3月4日、宮川は、関東軍防疫給水本部に配属され、731部隊のレントゲン担当となった。第1部細菌研究部第3課の吉村寿人の下には、レントゲン担当の二つの班ー宮川が班長を務める宮川班と在田勉(任期・1939年4月5日~1944年8月25日)が班長を務める在田班があった。
西野瑠美子が取材したレントゲン班の元隊員の証言によれば、男性用の収容棟と女性・子どもの収容棟にそれぞれ1ヶ所ずつレントゲン室があったとされる。細菌に感染させるマルタ(被験者)の健康診断のためのエックス線撮影が主な仕事で、部隊敷地内の隊員と家族のための診療所でもレントゲン診断を行った(西野瑠美子「731部隊―歴史は継承されないのかー元隊員を訪ねて」『世界』1994年4月号掲載)。健康なマルタの病変の経過を見ることが部隊の関心対象だったため、健康診断を受けさせ、健康と判定されたマルタだけが人体実験の対象になった。
レントゲン班でも、人体実験が行われていた。西野が取材したレントゲン班の元隊員の証言によれば、「レントゲンを肝臓に当てる実験に立ちあった」といい、レントゲン班では、細菌に感染したマルタのレントゲン撮影を一定の期間をおいて実施したとされる。
これと似通った匿名の731部隊班長の証言が吉永春子の書き下ろし『731 追撃・そのとき幹部達は」(2001年、筑摩書房)に収録されている。肝臓にレントゲンを照射して致死量を確認する実験を行ったという証言は、TBSテレビで1976年8月15日に放送されたドキュメンタリーのために吉永らが行ったインタビューの中で行われたものだった。内容から、匿名の証言者は宮川ではなく、もうひとつのレントゲン班の班長と推察される。
宮川は、戦後、亀井文夫監督の記録映画「世界は恐怖するー死の灰の正体」(1957年)の撮影に協力している。この映画には、宮川も理事を務めていた日本放射性同位元素協会(後の「日本アイソトープ協会」)や山崎文夫、村地孝一らの科学者も協力していた。映画には、放射線を長時間、実験用のマウスに照射して死に至るまで観察する実験が記録されている。ネズミへの放射線照射の映像は、映画の中では、あくまで放射線の恐ろしさを実感させる素材として使われているが、一面で731部隊が死に至る人体実験の様子をフィルムに記録したという証言を彷彿させるものだった。1960年8月には、茨城県東海村の日本原子力研究所で宮川らがネズミにガンマ線を照射し、被曝時の生体変化を観察する実験を実施すると報道されたこともあった。
宮川が731部隊でレントゲン班の責任者だったことは消せない事実だが、宮川が直接行ったとする人体実験の具体的な証言や記録は今のところ確認されていない。

・・・・これらの事例とは対照的に、宮川が公職追放を受けなかったのはいったいなぜなのだろうか。

・・・宮川正は、1949年「科学朝日」8月号の皆川理らとの座談会「放射能とは何か」に国立東京第一病院の医師として登場し、放射線の医学的な利用等について説明している。国立病院の勤務医になったことは、731部隊時代の行動について「お咎めなし」のお墨付きが得られていた証だろう。
・・・宮川は1953年に横浜医科大学の教授となり、やがて放射線治療の分野で名が知られるようになっていった。
・・・宮川と731部隊の関係者の繋がりは戦後もある時期まで、維持されたものと考えられる。
・・・第5福竜丸事件が起こると、宮川は4月から5月にかけて横浜・川崎両港に入港した民間船の放射能汚染調査と、5月からの横浜市内の上水道の放射性物質の測定を開始した。此れが評価されたためか、宮川は、10月に厚生省に設置された「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」の環境衛生部の委員に任命されることになった。
・・・1956年4月、宮川が東大医学部放射線医学講座の主任教授となった。宮川は、5月16日、原子力委員会の「国立放射線医学総合研究所設立準備小委員会」の5人の専門委員のひとりに任命された。
・・・宮川は、1956年に日本学術会議原子力問題委員会の放射線影響調査特別委員会委員に選ばれたのに続いて、翌年5月25日には原子力委員会の放射能調査専門部会(部会長・都築正男)委員にも任命された。宮川は、1958年9月1日、ジュネーブで開かれた第2回原子力平和利用国際会議にもアイソトープ・生物学関連のふたつのグループの責任者のひとりとして出席している。
731部隊関係者の中で、原子力行政にこれほどまでに、食い込んだ者は、宮川以外には見当たらない。そうした意味で宮川は部隊の元関係者の中では特異な存在だった。
『ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影』
堀田伸永著より

 

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