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この世の地獄!南京・原発・登戸・731!!

2011-12-22 09:41:47 | Weblog


日記@BlogRanking

1937年12月13日
南京陥落!!

南京大虐殺   

南京事件から74年 追悼式典

1937年12月12日・・・日本海軍機、アメリカ砲艦パナイ号を撃沈。南京防衛軍司令長官唐生智(とうせいち)、撤退命令を出す。深夜、南京陥落
    12月13日・・・日本軍、「残敵掃蕩」を開始。
    12月14日・・・昭和天皇、南京占領を喜ぶ「御言葉」
    12月17日・・・南京入城式
    12月22日・・・中支那方面軍司令官松井石根、南京を去り上海に向かう。
    12月24日・・・日本軍による「査問工作」(敗残兵狩り)が始まる(~38年1月5日)
【南京事件:笠原十九司著:岩波新書より】
   

「この事実を・・・・」
(「南京」市民に仕えた宣教師証言集:章開沅/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2200+税)
フォースター
フォースター
夫人への手紙
(1937年11月23日~1938年2月13日)
僕に分かった情況はこうだ:日本兵2人が、浦鎮からやって来ていた中国人司祭の蒋の部屋に入って、シャツと手袋一足とを盗っていった。2人は蒋さんの奥さんを見かけて、つかまえに戻ってくることにした。けれども奥さんは何とかして、浴室の出入口から逃げて行ったんだ。そこで兵士の1人が3階に駆け上がって、未婚の娘さんに強姦しようとした。娘さんが反抗し、うまくこの兵士をねじ倒してから、逃げていった。その後日本兵が2階で、既婚の婦女2人を襲撃した。僕らはその2人を、治療に病院に送り届けた。1人の兵士が、そのうち1人の婦女をかばおうとした周さんの奥さんとを、銃剣で突っついて傷つけた。
 湯山と東流との中国人助手の盧さんは、明らかに自殺したのだ。12月31日の朝早くから、ずうっと戻って来ていない。隣の人たちが僕らに、近くの沼で屍を1つ見たけど、きっと彼だろうと思われると、言うんだが、僕らにはまだ当局から、屍をさらいに行く許可が得られていない。これは何とも悲しいことだ。彼には早くから、いろいろな考えがあったみたいだが、南京陥落後の民衆の苦しみが、その決心を強めたんだ。

12月17日 南京入城式
『南京城頭日章旗翻る』&『南京入城式』

・映画やテレビの時代劇ではクライマックスにチャンバラシーンがあるが、斬られた方のその後の苦しみ・悲惨な光景は省略されることが多い!!日中戦争でも多くの捕虜や市民が日本刀による「据えもの斬り」にされ、殺された。最近のテレビでは日本刀を伝統文化だといって取扱っている番組があったようだ!!恐ろしい!!
・なぜ南京軍事法廷では皇族の朝香宮(当時上海派遣軍司令官)は皇族ゆえ裁かれなかったのか?
南京戦犯裁判軍事法廷の設立と経緯

南京大虐殺マギーフィルム)1

南京大虐殺

日中戦争 (1937-1938)

南京大 ( Nanking Massacre )

兵士たちが記録した南京大虐殺1

「南京!南京!」が見られる映画サイト
映画「南京!南京!」日本語字幕版全編1/14

日本の戦争 2




日本政府は、先の侵略戦争を真摯に反省し、アジア・日本の被害者に対し謝罪すべきである!!

きけ!!「マルタ・アジアの被害者」の悲痛な叫び!! 
  「怨」
No More 731!! No More Nanking!!
No More Noborito!! No More War!!
No More Fukushima!!
武器よ!原発よ!さらば!!
沖縄の米軍基地撤去!!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
9条を世界に!!

新しい日本!! 

世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!!
昭和天皇の戦争犯罪・戦争責任を問う!!
政府は戦史資料を全面公開せよ!!
原発・軍事偵察衛星・次期主力戦闘機・リニア・スパコンは要らない!!
税金を震災復興に回せ!!

※リニアモーターカーは膨大な電力を食い(原発3基分)、福島第1原子力発電所の事故ではスピーディー(スパコン)で計算されたデータは全く生かされなかった!!
沖縄を米軍の基地にしたのは誰なのか。

城山三郎著『落日燃ゆ』には広田弘毅が、南京大虐殺当時の外相として事件の処理にあたり、軍部に対しても強く抗議した模様が描かれているが、外相・首相と務めれば日本軍が中国で何をやっていたかを熟知していただろう!!もちろん731部隊の残虐な実験や作戦についても!!東京裁判では広田は何も弁明していないが、日本がアジア諸国に及ばした加害の事実はよく知っていたのではないのか?
 
広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 


福島に限らず放射能汚染に悩む全世界の人々の悲痛な叫び!!
ふるさとを返せ!!自然を返せ!!
日常を返せ!!  脱原発!!

日本は、“平和を愛した?”「昭和天皇」・“原子力の未来を明るく描いた”「鉄腕アトム」・“アメリカと結託して原子力を推進した”
「中曽根・正力」・“今現在でも原子力を推進しようとする「石原」に騙され続けているのでは?と強く思う!!


東電のカネに汚染した東大に騙されるな!
日本を導く頼もしい学者先生方
医学は水俣病で何をしたか(抜粋)
水俣病のときは、東大の学者を利用して世論操作を行い、被害を拡大させてしまって...
「原爆報告書」は、毒ガス戦・731部隊の隠蔽と国体護持のために、アメリカに少しでもいい心証を与えるために国策として作られ、当の苦しんでいる被爆者には活用されなかった!!なるほど、天皇は原爆忌に広島・長崎には行けないわけだ!!
731部隊を隠蔽する目的の取引!NHKスペシャル 封印された原爆報告書

封印された原爆報告書
20111218b福島第一原発20km圏内の光景『特命報道記者X 2011』


愛川欽也 パックイン・ジャーナル 20111217 

正義や道義はどこへ??

【食品】世田谷区12月の学校給食の牛乳検査、セシウム6.3ベクレル/kg検出
【食品】千葉県佐倉市の原木シイタケから660ベクレル検出、県内では暫定基準値超え4例目(8〜12月の千葉県のキノコの検査結果と土壌汚染マップ)

●陸軍登戸研究所
・陸軍登戸研究所とは
1937(昭和12)年、新宿にあった陸軍科学研究所の実験場が登戸に移され、電波に関する研究と実験が行なわれた。その後、秘密・謀略戦の研究所として本格的に拡充された。
 陸軍参謀本部直属で、1942(昭和17)年に正式名称が「第9陸軍技術研究所」とされたが、軍の法規にすら記載されずにその存在は最後まで秘匿され、ただ「登戸研究所」と俗称されていた。
 登戸研究所の任務は、秘密戦・謀略戦に関わる研究・開発だった。毒物、細菌などの生物化学兵器・他国紙幣の偽造・風船爆弾・憲兵隊やスパイ(特務機関員)などが使う武器・器具などを開発、製造した。したがって単なる研究所ではなく、数多くの地元住民を含めて約1000人が働く巨大な秘密兵器生産工場でもあった。
【「陸軍登戸研究所見学のしおり」より:登戸研究所保存の会】

『陸軍登戸研究所の真実』(伴繁雄著:芙蓉書房出版)
第4章 対生物兵器の研究

2、植物謀略兵器(2科6班)
〔松川仁の手記〕
 私が東京農大を卒業したのは昭和11年で、昭和の初期から続いていた不況のさなかだった。2・26事件があったのもその年である。大学は出たけれど、という自虐的な雰囲気の中で、これといった就職先がないままくすぶっていた。翌12年には盧溝橋事件が起き、8月に召集令状が来たが、翌日帰郷になった。そんな時、陸軍技術本部で写真の技師をしていた知人から、科学研究所に勤めないか、という誘いがあった。たいして前後のことも考えず応募したのは昭和13年も押し詰まった頃だったと思う。
 陸軍科学研究所は戸山ヶ腹の大久保寄りの一角に位置し、門は技術本部から入って右側にあった。部屋は一室だけで、東大農学部植物病理学研究室の小川隆助手が嘱託として週2度出勤するほかは、毎日出勤するのは私だけであった。当時、東大植物病理学研究室には教授はいなくて、下等菌類の研究で知られる草野俊助名誉教授、講師に明日山秀文農事試験場技師(後に教授)、ほかに助手が3名、副手が1名だった。



秘密戦関係
秘密戦関係
記念写真
記念写真(中央 三笠宮)
偽札
偽札(登戸研究所で作っていた)
風船爆弾
(模型)登戸研究所で製造していた!!




●731部隊
「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第2部
最初の犠牲者
 ガス壊疽菌や破傷風菌、ボツリヌス菌(秋田県八郎潟附近にも時々発生する腸中毒菌)などの嫌気性細菌について、所属の違う私はほとんど知識を持たなかった。しかし、緊急作業としてそれから間もなく、その培養に動員された。部隊には、それぞれの班に作業目標があり、私達は必要に応じて雑務に転用されがちであった。そしてそれが私達の入隊以来初めての不祥事を生む結果となったのである。
「君たち、嫌気性病原菌の講義を受けているか?」
 その日の朝、佐川技手が尋ねた。
 皆、きょとんとしているので、いつの間にか新入りの代表者みたいになってしまった私が答えた。
「はい、あまり良く覚えてはおりませんが、教わった事はあります」
「そうか。・・・・まあいい、勝手は違うがすぐ覚えるだろう」
 私達は自班の8号室に連れて行かれた。他班からも阿部と大津が手伝いに来て、珍しく私達5人が1室で仕事をすることになった。佐川技手は私達を預けたきり出て行き、3人の見知らぬ雇員が作業の指図をした。

731部隊員の証言 1

細菌戦の新発見資料について
精魂塔(表)

精魂塔(裏)

精魂塔(これは一体誰を供養しているのだろうか?裏側は何か消したようにも見える!!)
731部隊・細菌戦731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
黒い太陽731部隊
殺人工廠(1)
731の最後 死亡列車0
「前事不忘 後事之師」(前の経験を忘れず、後の教訓とする)
“戦争を語る”人々

日本人中国抑留の記録9と中国再訪の旅

証言ー侵略戦争1

北朝鮮による拉致も大きな政治課題だが、戦時中に日本軍が行なった大規模な強制連行(拉致)に対しては戦後日本はきちんと対応したのであろうか?
中国人強制連行1

全国各地で奮闘する語り部たち
悼みの列島2
(相模湖・大久野島・花岡・・・・で戦時中何があったのか?)
必見!!「戦争を語り伝える人々」のガイドブック!!
『ルポ 悼(いた)みの列島』 あの日、日本のどこかで
室田元美
もう過去のことなんて、いいんじゃない?と思う人もいるかもしれないが、私の胸のなかには、石川啄木「韓国併合」のおり詠んだ「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」が常に引っかかっている。(「はじめに」より)

[戦跡] 貝山地下壕 探索
[戦跡] 貝山地下壕の上部壕
夏島海軍壕     貝山海軍壕
私たちの取り組み
地下壕・強制連行(9)貝山地下壕(2)
「戦争遺跡」
貝山地下壕
貝山地下壕

アジアとの友好のために(1)

消えた日の丸1



中国に咲いた一輪の花!!
朝日新聞より   2011年7月9日15時30分
中国の731部隊跡地に謝罪の碑
731謝罪の碑
日本人の募金で設置731部隊の旧跡に建てられた日本人の募金による記念碑=9日、ハルビン、西村写す

(日本政府が正式に謝罪すべきだ!!)


問題提起731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
 日本は中国に対する侵略戦争中に各地で細菌作戦を実行しました。細菌戦によるペストやコレラの流行によって、中国では多数の犠牲者が発生しました。1997 年と1999 年、細菌戦被害者計180名が日本国に謝罪と賠償を求めて細菌戦裁判を東京地裁に起こしました。

一審・二審の判決は、
1、731 部隊等が細菌兵器の開発の中で人体実験を行っていた事実、
2、731部隊等が陸軍中央の指令で、ペスト菌やコレラ菌を使った細菌兵器を中国各地で実戦使用した事実、
3、細菌戦によって浙江省や湖南省で1万人を超える中国の一般市民が殺された事実、
4、731 部隊等が犯した細菌戦が国際法(1925 年ジュネーブ条約等)に違反していること、
5、細菌戦を実施した日本国にはハーグ陸戦条約第3 条に基づく国家責任が成立したこと、
6、細菌戦は、その被害が悲惨かつ甚大で、非人道的な行為であること、
などの重大な事実認定を行いました。

ところが、日本政府は、判決後も現在まで細菌戦の事実を全く認めていません。これは日本政府が中国侵略に対する真摯な反省を全く行っていないことを意味しています。日中の真の友好とアジアの平和を実現するために、日本が犯した重大な戦争犯罪である細菌戦について、政府は一刻も早く加害と被害の事実を認め、被害者に謝罪と賠償を行うべきです。

731 部隊等の犠牲者に対する戦後補償の速やかな実現は、日本政府だけでなく日本の国民全体の責任です。

●戦後の医学界・薬学界・政界
 731部隊員は戦後、裁判によって1人も裁かれなかった!!考えてみれば、戦時中、国家総動員法が敷かれ、日本の大学の専門家も何らかの形で戦争に加わった。医学界であれば、嘱託として731部隊に係った。その数はかなりの数にのぼるだろう。
 戦後占領軍のアメリカは独占的に731部隊のデータを安く買い取り、自国の細菌兵器開発に役立てた。そして、731部隊員を裁くどころか、アメリカに協力させ、厚遇してしまった!!だから、医学界では731部隊に係った人間が巾を利かせ、長らく牛耳ってしまった。(今も影響を与えているのではないか?)
 戦後もアメリカの要請で人体実験は刑務所などで行なわれ、医学界は731部隊のことを反省するどころか、胸を張ってしまった!!人間を物として扱い、人命を軽視する医療は戦後長らく続いてしまった。(今も変わっていないのかもしれない?)
 医学界が中心となって時の政府に圧力をかけ、731部隊の秘密(細菌戦・生体実験等)を決して公式に認めさせないようにしているのではないか?
 テレビに出演する名医と呼ばれる大先生も、731部隊のことはよく知っているのだと思うのだが、医学界の“掟”『731部隊のことは公言するな!!』と言うのを忠実に守り通しているのではないか?もちろん、医学界・製薬会社・薬学界・政界で活躍している者、これから出世しようと思う者にはこの“掟”が厳然として生きているのではないか!!




●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも三笠宮をはじめ何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族(竹田宮)もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
そのためアメリカは、731部隊員に戦犯免責を与える代わりに731部隊のデータ全てを独占して買い取り、また、上級部隊員をアメリカ軍に協力させ、朝鮮戦争やベトナム戦争に開発した兵器を使用したようだ。
このような流れの中で、アメリカは東京裁判では731部隊の事は取り上げず、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

マッカーサーと昭和天皇
アメリカ大使館での昭和天皇(1945年9月27日フェレイス撮影3枚中の1枚)

 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?

※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。

●昭和天皇の戦争指導
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重慶大爆撃とは①

 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)

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