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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-03-10 05:33:58 | Weblog
 
 全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」
       「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
         7章 長春の死の工場・第100部隊
                
 50万の人口を誇る都市にふさわしく、長春には多くの公園や湖が点在している。新しい帝国満州国の急増する官僚を収容する為に、巨大な庁舎群が建造され、日本人「顧問」や中国人協力者向けに、瀟洒な屋敷が建てられた。新しい建物のほとんどは日本式または西洋式建築に倣ったもので、長春の外観は、中国の都市というよりむしろ西洋の都市だった。その広い大通りは並木が立ち並び、よく整備されていた。しかし、長春の建築上のハイライトで、広大な満州領土に対して統制力を振るうための中心拠点は、皇帝溥儀の王宮だった。1933年初め、日本は主要鉄道駅から車で2分足らずのところにある広大な土地を接収し、ここに関東軍司令部を設けた。そのすぐそばに、日本は傀儡皇帝にふさわしい王宮を建てたのである。王宮の建物は魅惑的な庭園に囲まれていて、その居住者の快適な生活ぶりが偲ばれる。日本は表向き、できうる限りあらゆる問題について皇帝に相談する素振りを装っており、溥儀は、日本人の助言を考慮の上、日本人の指示を従順に受け入れていた。世界各国は新しい満州国を承認することを拒否したが、溥儀とその側近にとっての毎日は、長々とした儀式、レセプション、パーティー、それと帝国の満州国領土を時折、視察する、その繰り返しだった。
※傀儡政権で、日本は満州を思うように扱った。資源の供給地として魅力があったし、日本が戦争で人出がなくなると中国人の強制連行も行われた。日中戦争当時、岸信介は満州で日本の占領政策を積極的に進めた。又、満州国皇帝溥儀は日本政府(軍?)の言いなりで、自分の意見すら言えなかった。その点、昭和天皇は、現人神であり、主権者であったため、部下に対して自分の意見を表明できたし、自分の意思をはっきり伝え、政策に反映させることができた!!
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」 (「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他の親族の被害
武采雲(女、66歳)の証言
 私は武采雲といい、今年66歳で、東武学園21号に住んでいます。一番上の叔母の一家はもともと建○路の角で、碁会所をやっていました。日本軍が南京を占領する前に、家中で陰陽営の難民区へ逃げて行きました。叔母はアヘンを吸っていて、家を離れると不便なので、1人で犬2匹と残って店を見ていました。日本軍が入って来てから、至る所で婦女を強姦し、人を殺し火を放ちました。道を人が通れるようになってから、一番上の兄の武金山が様子を見に家に帰ったら、犬2匹が叔母のベッドの前にかしこまっていただけで、叔母は既に殺されていました。
 夫の老いた母はもともと東武学園11号に住んでいたのですが、日本軍が来た時はやはり難民区に住まっていました。お隣と仲が悪く、しょっちゅう大声で言い争うので、いっそのこととばかり、又東武学園の家に戻り、穴に隠れていましたが、日本軍が入って来て戸別捜査をし、穴から年老いた姑を引きずり出して一太刀で斬り殺してしまいました。(劉創偉が記録)○は日本の漢字に変換できない字
日本政府は考えてください!!日中合同集団検診に国のお金を!!
毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!
化学兵器被害解決ネットワークからのお知らせ!
※以下、化学兵器被害解決ネットワークのリーフレットより転載!!
今こそ「解決」を!
~65年前の化学兵器で傷つけられた人々のために~
遺棄化学兵器問題とは?
化学兵器の製造と遺棄
 1929(昭和4)年に日本軍により製造が開始された化学兵器(マスタードガスなどの毒ガス)は、日中戦争の際、中国各地で使用されました。敗戦時、日本軍は国際法違反の化学兵器を隠ぺいするために、各部隊にそれらの遺棄隠匿(いきいんとく)を命じました。日本軍が遺棄した化学兵器は、日本政府が認めただけでも40万発あります。化学兵器禁止条約に基づき、日本政府は2012年までに廃棄事業を終了させることが義務付けられていますが、10年以上経過した今も遅々として進んでいません。
今も被害をもたらしている遺棄化学兵器
 毒ガスは液体の状態で砲弾やドラム缶に詰められていました。地中や川底に遺棄された毒ガス砲弾・毒ガス剤入りドラム缶が、開発工事などで掘り返され、工事現場や遊び場で、戦後つつましく暮らしてきた人々の日常を破壊しました。その被害は今も続いています。
化学兵器被害の苦しみ
 事故直後、皮膚がただれ、目は腫れ上がり、嘔吐、頭痛、激しい咳に襲われます。急性期症状が治まってからも気管支炎が治らず、一晩中続く咳に苦しむ人もいます。異常発汗や頻尿、性機能障害、免疫力低下の多くの被害者に見られます。
 また、「力が入らない」・「集中力が続かない」・「疲れやすい」など、他人には理解されにくい症状が彼らの社会復帰を阻んでおり、民間団体が行った検診の結果、自律神経・短期記憶・高次脳機能などの障害が指摘されました。
・于景芝さんはチチハル市郊外で農業を営んでいました。2003年8月4日、庭の整地用に購入した土が毒ガスで汚染されており、被害に遭いました。ふくよかだった于さんはひどく痩せてしまい、咳の発作のため、一日中横になっています。検診では高次脳機能障害も指摘されました。子どもたちが出稼ぎをし、収入のほとんどを仕送りしていますが、彼女の医療費には足りません。
・チチハルに住む陳紫薇ちゃんは、外で遊ぶのが大好きな女の子でした。2003年8月4日、当時10歳だった紫薇ちゃんは、土山に登って遊びました。その土が毒ガスに汚染されていたのです。事故後、人一倍努力しましたが、学校の成績は落ち、得意だったスポーツもできなくなり、彼女の夢は失われました。
 お父さんの陳栄喜さんは、土の積み下ろし作業をしていて被害に遭いました。事故後、仕事に復帰しようと試みましたが、体力がついていきませんでした。定職に就くことが出来ず、十分な治療も受けられません。父子が毒ガスの被害に遭ってから、仲むつまじかった一家の幸せは、精神的にも経済的にも、破綻してしまいました。
裁判で問われているものは?
 現在裁判を闘っているのは、2003年8月に中国黒竜江省チチハル市で発生した事故の44名の被害者たち(うち1名死亡)と、2004年7月に吉林省敦化で発生した事故の2名の被害者たちです。
 裁判の中で原告(被害者)は、国(日本政府)が、自ら製造して中国に持ち込んだ大量の化学兵器が中国に遺棄されていることを知っていたにも関わらず、戦後約60年もの間放置して被害を発生させた責任を追及しています。これに対して国は、兵士が個々の判断で勝手に捨てたものであり、どこに捨てたのか分からないので捜せなかった、などと主張しています。
 しかし、今裁判で争われている事件の現場であるチチハル市や敦化は、戦争中に化学兵器が集中的に持ち込まれた場所で、遺棄されている危険性の高い地域です。金属探査技術も急速に発達しており、捜し出すことはできたはずです。国は、人々の命と生活を守る責任を免れようとしています。
遺棄化学兵器被害の解決のために
 旧日本軍が遺棄した化学兵器による被害者は、現在裁判を闘っている原告たちのみではありません。中国にはまだ数多くの被害者がいます。また、日本国内でも被害者が繰り返し発生しており、被害者たちが救済を求めています。
 「もう2度と健康は取り戻せない。でもせめて安心して医療を受けられ、生活できるようにしてほしい。」―被害者たちの共通の願いです。私たちは、裁判で化学兵器を遺棄し放置し続けた日本政府の責任を明らかにするとともに、裁判を契機として、日本政府が、日中両国の被害者の救済のため、医療保障・生活保障の政策を作ることを求めます。
解決のためのアクション!
ACTION 1 5万人署名へのご協力をお願いします 
 早期解決を求め、5万人を目標として、内閣総理大臣宛の署名に取り組んでいます。ぜひご協力を下さい!(署名用紙の請求は下記の連絡先まで。HPからもダウンロードできます。)
 第1次集約 4月3日(土) 第2次集約 5月24日(月)
ACTION 2 リーフレットの配布にご協力下さい 
 このリーフレットを置かせて頂けるお店・配布してくださる集会をぜひご紹介ください。
ACTION 3  学習会・パネル展示を開きませんか? 
 中国の被害者は、「戦争が終わって65年経った今も被害者がいることを、日本の皆さんに知らせて欲しい」と言います。まずはご家族やお友達に話してください。ミニ学習会、講師派遣、ミニパネル展示なども出来ます。お気軽にお問い合わせください。チチハルやハルビンへ行くスタディー・ツアーの企画にもご協力いたします。
ACTION 4 遺棄化学兵器被害者の裁判を支援してください 
 2010年5月24日13時10分 チチハル遺棄毒ガス被害事件の判決が、東京地方裁判所103号法廷で言い渡されます。裁判所に公正な判決を求める声を寄せて下さい。
 ハガキや手紙の書き方は、チチハル裁判支援ブログに載っています。
ACTION 5 カンパのお願い
 被害者来日や署名活動、集会などに取り組みますが、運営・渡航・滞在費用は全て皆さんからのカンパで賄います。少額でも結構です。よろしくお願いいたします。
●連絡先●
東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3階
化学兵器被害解決ネットワーク
TEL 03-5379-2607 FAX 03-5379-2608
e-mail suopei@tky.3web.ne.jp
http://cweapon.sakura.ne.jp/mt/youcan/
カンパ振込口座
郵便振替口座:00170-0-650194
加入者名:チチハル8・4被害者を支援する会
(通信欄に「ネットワークカンパ」とお書き下さい)
イベントのお知らせ
No More 化学兵器
~今こそ「解決」を~
4月3日(土)13:30~16:30
東京ウイメンズプラザホール
資料代:¥500円
参加予定:高遠菜穂子さん、遺棄化学兵器の被害者・医師 以上転載終了!

●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●昭和天皇と731
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 (以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
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