「2083―ー欧州独立宣言」日本語版

グローバル極右界の「共産党宣言」、現代世界最大の奇書

2.33 生き残るために…アラブ世界よりエクソダスするキリスト教徒(p443~)

2012-12-06 22:40:31 | 中東
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アミラ・エル・アール他


 出典不明
 
 イスラム原理主義のテロルが中東のキリスト教徒を脅かしている。存亡の危機に立たされたキリスト教徒は決起か逃散かの瀬戸際に立たされている。
 新生バグダッドでの話をしよう。ある朝、五人の青年が起亜の小型車に乗って350km離れたクルド人地区へ避難していた。カルディア系カトリック教会の神学生たちだ。イラクでカトリックが無事でいられる場所はもうそこしかなかった。8月中旬から4人の司教が拉致され、遂には管理役のサミ司教まで誘拐された。そこで大司教のエマニュエル3世がバグダッドの宣教施設を他所へ移転させることにした。大司教を一人残して、弟子たちはバグダッドをエクソダスした。
 
 オスマン帝国以来の歴史
 イラク最初のカトリック系神学校ができたのはオスマン帝国時代だ。イラク独立後、モスルからバグダッドに移転し、[湾岸戦争中の]1991年ドーラに神学・哲学聖書学校ができた。この学校はカルディアの命運をなぞるかのように結局15年で閉鎖に追い込まれた。
 キリスト教徒はアラブ世界で2000年間暮らしていた。過去の大討滅期と比べればまだ穏健なのだろうが、それでも一部の国では生存の危機が迫っている。ローマ教皇でさえ、中東の「小勢」なる敬虔者が「微明なる闇」の中にいると認め、権利拡大を訴えた。
 中東のキリスト教徒に関する統計は僅少だ。政情に配慮している面もある。イラクで少数派のスンニ派だったサダム・フセインは統計調査を嫌ったし、エジプトでもコプト教徒の数は500~1200万まで流動する。
 近年の政変もキリスト教徒の減少に拍車をかけている。ヨルダンでは1967年の六日間戦争から20年間で数が半減した。2003年のイラク戦争の後、イラクのキリスト教徒はどんどん国外へ移住している。
 
 巨富
 中東のキリスト教徒は基本的にムスリムより聡明で富裕だが、出生率は低い。移民の波が何十年も続いた結果、彼らの大半は西洋諸国に親戚がいる。出国者の大半は医師や技師、弁護士などの精鋭階級だ。近年の移民は世俗主義の衰退とイスラム主義の昂揚によるところが大きい。
 「アラブ社会主義」の看板政党バアス党を1940年結党したのはシリア系キリスト教徒のミシェル・アフラックだった。六日間戦争で大敗したエジプトのナセルはカイロ郊外の聖母マリアの遺跡に詣でた。パレスチナのアラファト議長もベツレヘムの聖墳墓教会で一緒にクリスマスを祝うよう主張していた。
 しかし、キリスト教徒だったイラクのタリク・アジズ外相もアラファトの教育相ハナン・アシュラウィも消えた。ムスリム同胞団やハマスの選挙での勝利、イラクでのスンニ派とシーア派の械闘をみるに、中東でキリスト教徒が政治力を持つことはなくなったようだ。

 被差別の歴史
 エジプトのコプト教徒は最低500万人と中東最大のキリスト教小勢を構成する。福音書のマルコを聖人とし、西暦284年を元年とする暦も持つこの宗派は、[2012年まで]高齢のシェヌーダ3世総主教に率いられていた。コプト週刊紙ワタニのユスフ・シドハム編集長によると、今日では1970年代のような械闘はないが、瘴気なるイスラム原理主義との闘争が深刻化している。
 [旧]ムバラク政権期の2005年の総選挙で、[絶対与党だった]国民民主党の議員の内、コプト教徒は2人しかいなかった。閣僚級のコプト教徒が財務相になっているだけだ。これが宗派に基づく公正な選考結果だろうか。
 ナポレオンの軍隊がエジプトに入寇した時も、コプト教徒への差別はあった。女は青の靴と赤の靴を一足ずつ履かねばならず、男は後ろ向きにしか騎乗できなかった。フランス軍はこれをみて、「コプト教徒は第三階級」と診断したものだ。今日でも、ムバラクが関連法を廃止するまで、コプト教会の修築・新築許可が下りるかどうかは一大問題だったのだ。ムスリムと登記されるコプト教徒もいた。
 ヒジャーブを拒否する女は恒常的に嫌がらせを受け、男の上司も宗派ゆえに不快感を味わう。2005年10月には、イスラムへの改宗を後悔するコプト教徒の演劇を発端に、アレクサンドリアで暴動が起きた。それでも、毎年1000人程度のコプト教徒がイスラムに改宗している。

 レバノン・マロン派の憂鬱
 アッシジの聖フランチェスコはかつて、「神は言われた、汝は狼の中の子羊として宣教へ赴く。決して喧嘩・論争する莫れ」と言った。この言葉がムスリムの改宗活動で用いられてきた訳だが、レバノン山岳部の砂岩宮殿からベイルートへやってきて、喧噪の前に帰郷したマロン派のナスラッラー・スフェイル司教の活動にはその影もない。確かに砂岩宮殿でスフェイルはヨハネ・パウロ2世の肖像画を前に政治家の相談を受けている訳だが、既に疲労困憊したスフェイルの口から出てくるのは、レバノンを戦場化したシリアやイラン、それに国家内国家を形成したヒズボラへの批難文句だけだ。スフェイルは「我らは中東一のちび国家なり」と嘆く。
 キリスト教徒の人口流出は止まりそうもない。内戦期の73万人に加え、今夏にも10万人が国を逃れた。スフェイルは「有り得ぬだろうが、もしヒズボラが政権を握ったら、より多くのキリスト教徒が出国するだろう」とする。12世紀以来カトリックの傘下に入ったマロン派に絶滅の危機が迫っている。

 シリアとイラクのクルド人地区のみが希望
 多くのキリスト教徒が希望の地としているのがシリアだ。イラク戦争後、多くのキリスト教徒がシリアへ避難した。バアス党の超宗派的性格が久々に見直されたのだ。12歳の娘をカルディア系教会への襲撃で失った土産物商人も、シリアでは同胞とみて貰えると語る。
 シリアでは、バアス党内にも政府内にもキリスト教徒の党員が多い。バッシャール・アサド大統領は最近、「父祖の地は万民の者、されど宗教は神のもの」と述べた。これはイスラム色の濃い国では不可能だ。サウジではキリスト教の国民は一人もいないが、実際には相当数のキリスト系労働者がアフリカやインドからやってきている。しかし、彼らのために教会を建てると、厳罰に処される。聖書や十字架は頻繁に没収の対象となる。
 他国はまだ穏健だが、西側諸国の視点で見ると、信仰の自由は存在しない。非合法だったシリアのムスリム同胞団は国内のキリスト教徒を「無神体制崇拝者ども」と呼び、糾弾する。
 北イラクのクルド人地区もキリスト教徒の自由度が高いところだ。首府のアルビルでは最近、自治区東部のニネヴェ州をアッシリア系等のキリスト教徒の自治区とする案が討議されている。ここは現在クルド系のペシュメルガ戦隊に支配されている。
 民兵団ハムダニヤ集団はイラク国内の教会警備に当たっている。モスル近郊のバルタリャでは、キリスト教徒の入植活動が活発だ。教会撮影は禁止だが、ムジャヒディーンの暴虐を考慮すればやむを得ない。
 冒頭の青年たちは銃兵の厳戒の下、防壁聳えるアルビルの聖ペテロ聖堂で入寮式を行った。クリスマスの典礼で用いられたのは古代言語のアラム語ではなく、アラビア語だった。バグダッドからの避難民が400人もいたからだ。シザル神父の締めの詞は「アッラーの恩寵あれ」だった。
 
 34章は省略
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