「2083―ー欧州独立宣言」日本語版

グローバル極右界の「共産党宣言」、現代世界最大の奇書

個人の人生(p1386~)

2013-03-11 21:23:25 | 北欧
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 Q:汝はどんな幼少時代を過ごしたのか?
 A:私の生まれる前に、外交官の父は先妻との間に3人の子を、母上は父との結婚前に娘を産んでいました。両親は1歳の時に離婚し、私は母上と共にオスロ西部に帰還し、陸軍大尉の継父と共に暮らしました。継母と父(後に同僚と再婚)はその後、外務省内で出世しています。
 両親は消極的でも労働党の支援者でした。義父は穏健右派でしたが、母上と継母はフェミ系統でした。
 父は私の保護権を獲得しようと裁判しましたが、敗訴しました。それでも、私は父の下にも定期的に通いました。しかし、父は12の時新妻とも離縁された上に、私を含む4人の子供全てと絶縁しました。これは与否なく父の責任でしょう。私自身も13~16の頃は、噴青していましたが。
 義父は好漢でしたが、退役後の今はタイでイアンフに囲まれる日々を送っています。ですが、私は義父のことは非難いたしません。総じてみると、私は恵まれた知的環境の下、順調に生育してきたといえます。4人の兄姉も基本的には保守系です。兄上の女友にはマルクス系の超フェミ娘がいますが。

 Q:汝はどのような性格をしていると思うか?
 A:楽観派で寛容な性格だと思います。私も多文化主義の伽藍の中で成長しましたから、人種主義者には成り得ません。名付け親はチリからの社会主義系亡命者でした。パキスタン、トルコ、エリトリア、チリ、パキスタン、ソマリア、コロンビア、インド人の友達もいます。
 
 Q:汝は純ノルウェー人でない友人に恵まれておるな?
 A:彼らの倫理律や矜持に魅かれたのです。彼らは危機から逃散する純ノルウェー人と異なり、例え不利な状況でも朋の危機に駆け付けてくれます。何より大事なのは矜持ですから。ムスリムの方がずっとこうした行為に敏感です。私は光頭系のロックも好きになれません。

 Q:ムスリム噴青の問題が近年浮上しているが、汝の思春期におけるオスロ多文化街道での経験を聞かせて欲しい。
 A:私は12歳以降、オスロ切ってのヒップホップ狂になりました。あの頃は落画(グラフィティ)を街に描きまくり、無慈悲であればあるほど賛美されたものです。オスロ市の反落画闘争で半年くらい収監される程に。あの頃はブリッツや人種主義SOS団といった極左組織までガタス会議といったヒップホップ組織をつくるほど、ヒップホップが流行していました。
 実をいうと宗教への関心を惹起させたのはムスリムの友でした。和諧の宗教イスラムという教科書の内容は諧謔そのものでしたが、その友はノルウェーなどの西洋文化を信仰ゆえに嫌悪していました。湾岸戦争の時は、米兵が導弾の標的になる度に喝采していましたし。私はそれに反発して、文化身份に目覚め、キリスト教に改宗して同塵するよう言ったものですが。
 しかし、あの頃の私は不逞ムスリム集団とも連携し、身を守ったものです。パキスタン系墳青の団体は当時から凶暴で、貧困なる東オスロから富裕なる西オスロまで遠征して、白人先住民の「じゃが芋イアンフ」たちから「ジズヤ」を徴収していました。彼らはマルクス主義者とも連携していたことを証言できます。
 そんな噴青たちを左翼集団は称揚し、被害者をファッショ扱いしました。私は最強の偽善者たる彼ら「寛容の徒」の二重基準を目撃したのです。私も「じゃが芋」の一人でしたから。左翼集団はヒップホップの音階を略取し、「マルクス・ジハーディ青年」の一部にしてしまったのです。聞いた内、彼ら人種主義者たちの9割の標的は無防備な白人青年でした。私はこの風潮に直面して、「制度こそ我が病」と実感しました。

 Q:汝もそうした風潮に参与したのか?
 A:していません。ムスリム噴青と左翼集団は「治安同盟」を締結し、世上から同路してもらえる訳ですが、白人先住民が同様のことをすると、ナチ扱いされます。当時は知識不足で気付けませんでしたが、その実践作法をみて嫌悪しました。
 ヒップホップから私が離れたのも、ヒップホップが彼らに略取されたからです。しかし、私の友人はその後もヒップホップから悪の道を奔りました。後で訣別しましたが。学業成績はそれでも良い方でした。

 Q:その頃は右派集団とどんな関係にあったのか?
 A:右派といえばメタル・ロックですが、私はそれが嫌いなのです。同級生に7人程度そうした人間がいましたが、彼らは国家社会主義者ではないただの目立ちたがりでした。彼らは遵法的な善人でした。パキスタン系の旧友とは衝突していましたが。
 しかし、彼らは遵法していたのに、ヒップホップ系サヨクより人種主義などと殴光されていたのです。ヒップホップ系の方が反白人という意味でより人種的なのに、マスゴミは人種主義SOS団などヒップホップ集団の方を「寛容」と評します。そんな組織に国が補助金を与えるとは何という偽善でしょう。
 それを見た私は、16歳の頃「反非西洋移民」の「反人種主義者」になりました。しかし、PC主義の戒律によれば、反非西洋移民即ち人種主義なので、その頃は沈黙していました。
 ヒップホップに嵌まり切りの友と訣別してからは、純ノルウェー人系の噴青集団と交友しました。安全を提供してもらう同盟相手を変更したのです。北オスロの純ノルウェー人地区にモロッコ系の不逞集団がやってきた時は、宴会を打ち切って地下鉄駅に行き、ここでジズヤ作戦を展開するなとゲンメイしました。すると、自尊心と自衛心持つ者を畏敬する彼らはやって来なくなりました。
 17~18歳の頃、治安が大きくカイゼンすると、激変が生じました。不逞ムスリムの友たちは落ちこぼれ、実技学校の方へ進学するようになりました。西オスロの名門校へ行けた者はごく少数でした。学業隔離が起きたのです。
 白人先住民がムスリム蕃城から逃散するのは自然なことです。東オスロには既に全員ムスリムの蕃城地区が形成されてますから。15~16の頃、非ノルウェー人が多数の学校は1つか2つでしたが、当代では50近くの学校がそうなっています。私は17~18歳の時、奇蹟的にも一回たりとてムスリムに襲撃されませんでした。ムスリムによる人種主義が放任される当代を生きる新世代の皆さんは本当に大変でしょう。不逞ムスリムの討滅行為は基本的にスルーされますから。
 15歳の時に白人先住民により人種的動機で殺害された[ガーナ系の]非白人がいます。4万の市民がその死に異を唱え、2002年、彼の名を冠して反人種主義のベンジャミン賞が創設されました。被害者が白人先住民で加害者がムスリムだった時、こうした賞が誕生しうるでしょうか?
 8割の議員はムスリム蕃城とは無縁の場所で生育し、オスロに移住してもムスリムとは無縁の場所に居を構えます。彼らは不逞ムスリムの醜悪なる真名から無縁なのです。しかし、ムスリム蕃城と本格接触した新世代は、反移民の進歩党の方を支持することでしょう。他国でも同様の傾向が出る筈です。
 多文化主義のテーゼにより、安寧だったオスロは紅世の破綻都市になってしまいました。私自身はムスリムに討滅されたことはありませんが、20人以上の知人が被害を受けています。ムスリムの凶暴度は国籍を問わず同程度です。確かにジハーディ系のムスリムはごく少数ですが、パキスタンでは一部タリバンが国を騒擾の大地に変えたではありませんか!ディミテュードの破綻社会こそ多文化主義の継続する限り存続する新現実の真名なのです。
 以下に直截遭遇させられた事件を挙げていきましょう。

 (具体例略)
 
 私がこうした事件でどれだけ貢献したかを知りたいでしょうが、実を申しますと自ら暴力を振るったことはありません。暴力は無意味です。しかし、無意味にオスロ市内の行動範囲を自粛するのは拒否します。当局はムスリムと共学するよう促しますが、その結果固有の校風なき学校で悪玉系のムスリムが同級生を攻撃する機会を提供しているのです。政府はそれでも足りず、非イスラムの西オスロにムスリム用の集団住居を購入し、紅世化を進めています。
 私は1968年革命世代の子息たるジェネレーションYの一員ですが、私の世代はディミテュードなイスラム多文化独裁の下に暮らす第一世代なのです。私はムスリム個人でなくイスラムの教義に矛先を向ける者です。彼らの討滅行為は飽く迄イスラムの教義によるものなのですから、教義を封絶せねばなりません。2020年までにどうかキリスト教に改宗して戴きたい。今の体制が継続すれば、新世代の白人先住民たちが我らの大義に参じるようになるでしょう。

 Q:青年時の経験が汝の今のムスリム観の原点なのか?
 A:直接ではないです。あの頃はイスラムについては学校での和諧的教義以外知りませんでしたし、イスラムや政治に関心を持ったのもムスリムの朋が発端でした。

 Q:高校以降の汝の遍歴を述べよ。
 A:ヒップホップから離れた後は進歩党の青年部に入りました。16~21歳の頃にはマルクス主義やイスラムを含む大思想を深く研究し、自由経済派の文化保守になりました。個光主義(リバータリアニズム)には大いに啓発されましたが、個光主義の自己チューが跋扈しては世上が衰滅してしまうと結論しました。個光主義は伝統主義的な文化身份とは決して共存できません。党活動には積極的に参与しましたが、民主闘争では変革不能と判断し、離党しました。
 高校では経済学に燃え、熱心に勉強して1年早く科目を修了しました。その後は非公式な手段も用いて「起業活動」に関係ない科目を圧縮し、小企業運営等を勉強しました。その後は義挙のための資金を貯めるべく、PC主義の伽藍の中にある大学を修了することは止めて、各種企業活動を行いました。

 (中略)

 ジャスティシア・ナイトとなった翌年、進歩党からオスロ市議会に出馬しないかと連絡されました。もう少しで出馬できるところでしたが、党略上予選落ちしました。そのことを恨む気はありませんが、民主闘争を続ける進歩党への親和感は次第に薄れていきました。進歩党がPC主義のマスゴミに封絶されれば、より穏健な保守派が次に迫害されることでしょう。そうなれば、武装起義の時はより近づきます。

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敬愛する偉人と非西洋人への伝言(p1384~)

2013-03-11 21:13:46 | 理想の西洋世界
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 Q:汝は全ての多文化主義を拒光するのか?
 A:いえ、非ムスリム諸国、イスラエル、キリスト教国との統合は支持します。日韓台でのように、同化してくれるなら非ムスリムの移民は放逐しません。ただ、今の移民制度を一時停止し、欧州に貢献できる非ムスリムに限定して、今よりずっと厳格な統制策を採るべきでしょう。
 イスラムはファッショ帝国主義のジェノサイド政治思想として孤立化したイスラム諸国内に封絶されねばなりません。

 Q:師範とする民族主義の政治家はいるか?
 A:人物としては、チャーチル公とビスマルク公です。しかし、真の模範は、偉大なる過去の民族闘争です。EU植民地帝国の欧州人への差別に苦しむ我らは、1950年代アフリカの「変革風」を研究せねばなりません。中華復興を成就させた毛沢東も当代では右派の模範となりうるでしょう。毛主席は果たして共産主義者だったのでしょうか?
 ドイツならヒトラーよりビスマルク公を学ぶべきです。イタリアなら、リソルジメント運動の中で生まれたエマニュエル国王とガリバルディの右左合作も良いでしょう。アタテュルクのトルコ復興もアイルランドやイスラエルの民族闘争も模範です。「シオン主義の父」テオドール・ヘルツールは不遇の内に亡くなりましたが、彼の霊夢は国家を形成しました。
 英国の場合、蜘蛛糸の如く粘り強きロバート・ブルースのスコットランド闘争も模範です。ローマ帝国の支配を脱した古代イングランドの勇猛なる王たちも模範です。ただし、ボウディッカ女王のような敗将は模範となりえません。模範は他にも多数います。決して降伏してはいけません!

 Q:西欧の非ムスリム弱勢の責務は何か?
 A:欧州内のユダヤ人、仏教徒、ヒンドゥー教徒には反イスラム闘争に参与する権利と義務があります。我ら白人先住民は彼らの援助なしでも勝利できるでしょうが、欧州大内戦に中立という選択肢はありません。どうか「新右派」を支持し、忠義を尽くして下さい。参与せねば信用が問われます。

 Q:報道機関は汝らの右派統合作業を妨害し続けるのか?
 A:マスゴミは我らをナチや人種主義者と烙刻し続けるでしょう。フョードマン同志はマスゴミ攻勢を「降伏猿かナチかの二分法」と明晰に分析しました。この攻勢は経世が安定している限り健在でしょうが、20~70年以内にその基盤は完全破綻するに違いありません。

 Q:先軍細胞が持つべき資質を7つ挙げよ。
 A:思想上の確信、忍耐、鼓舞力、重要情報の記憶、資金力、洞察力、実用性です。

 Q:無欠欧州に必要とされる文明目標は何か?
 A:合理的な集団思想です。個人には敢えて理性思考を求めません。その代わり、科技開発や福祉体制を国家ぐるみで整備するのです。ただ、これが上手く機能するためには単一文化が必須です。極平主義によってフツー者や弱者を讃えるようになった「被害者階層」の文化は改造されるべきです。ただ、将来の移民政策によれば、非欧州人が市民権を得るのは実質不可能となるでしょうが。
 
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個人信条(P1376~)

2013-03-11 20:52:08 | 北欧
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 Q:どのようなきっかけがあって、汝は今の活動に従事するようになったのか?
 A:私のチングにアーサランというパキスタン系のムスリムがいました。ウルドゥー語を特別施設で学んだ彼は12歳になってからモスクに通うようになり、次第に同塵を拒んでノルウェー世上を反イスラムと看做すようになりました。彼の不満は傲嬌故ではなかったのです。訣別した後、彼はパキスタン噴青とつるむようになり、私の友クリストファー等を暴行しました。
 彼らはジズヤ代わりに白人先住民を襲撃しため、半年間服役しました。ただ、強姦事件が目撃者不足故に不起訴になりました。ムスリム娘にお手付きするのは禁則事項故に、彼らは白人先住民を「イアンフ」にするのです。寛容たるよう躾けられた白人娘は軟弱そうな白人青年より屈強なムスリム男児に喝采するわけですが、ムスリム男児は彼女らを劣等イアンフとしてあしらいます。そして、彼らは20を過ぎるとイアンフを捨て、「優秀なる」ムスリム処女と結婚する訳です。イアンフは元の「部族」に戻るのです。
 ムスリムの親は挙って、「ムスリムと結婚するのなら、ノルウェーのイアンフと遊んでもいいよ~」と男を躾けます。イアンフと結婚する場合は、イアンフを改宗させます。一方、娘がイアンフと同様のことをすると、名誉殺人するかイスラム国で「再教育」します。子供を産ませて「束縛」することもします。イスラム国なら、「矜持復興」の名の下で娘をポアしても黙認してくれるからです。娘の欧州化を防ぐため、親は頻繁に娘を母国へ送還します。
 私の小学校にも途中で不自然に送還され、ポアされたかもしれない女が3人います。2人はパキスタン人、1人はトルコ人でした。内一人は近所でも顔を見たことがなかったですが、1人は遊び仲間でした。その仲間は「ノルウェー化」し過ぎと判定され、トルコに送還されたと聞きます。学校から不自然に送還された後の経緯は分かりませんが。この頃、イスラムはキリスト教と同じ和諧の宗教とのみ教わっていました。
 16~17歳の時、私はノルウェー進歩党の青年組織に加わりました。市場主義の進歩党は反移民故に「ファッショの豚」とマスゴミやサヨクから糾光されていましたが、世上の欺瞞を既に熟知していた私は、唯一の反多文化主義政党だった進歩党に魅かれたのです。
 その頃より私はPC主義の伽藍の中にあるイスラム主義や社会主義、平等主義の連結に自覚的でした。2000年ぐらいになると、民主的に欧州イスラム化を止めることはもう不可能と判断するに至りました。
 しかし、国家社会主義や人種主義を否定しつつ、武装闘争を肯定するキリスト系の反ジハード組織はどこにもありませんでした。ですが、電網経由でセルビア人の文化保守と接触した時に転機が訪れました。彼らが思想背景を精査した上で、私に加盟を許可してくれたのです。ロンドンで訓練も受けました。リベリアのモンロビアまで行って、ムスリムを大量討滅したセルビアの十字軍ネ申と面会したこともあります。その直後にロンドンで新生テンプル騎士団ジャスティシア・ナイトが結成されました。
 私は当時23歳で、創設者の中では最年少でした。本宣言文の話題の大半はこの時提示されたものです。ロンドンでのテンプル騎士団復古に立ち会ったのは5人だけですが、バルティカムでの部会では欧州全域より30名程度が出席しました。その後、我らは一切の通信を途絶し、決して交信せぬことを取り決めました。我らの情報を宣布するのが中心で、特定の制度を設けた訳ではありません。
 我らは皆、光頭(スキンヘッド)貧民でなく、世上で成功した人間でした。我らは皆、欧州の猶督伝統を守護し、非西洋の異教徒と連帯できます。私の師は英国人でした。このリチャード(仮称)さんこそ、本宣言文の第一版を記した最初の「無欠騎士」です。この宣言文は第二版です。誰かが第三版を書いてくれることを期待しています。

 Q:どんな出来事が汝を義挙へと駆り立てるのか?
 A:祖国がセルビア空爆に参与したことです。アルバニア系のムスリムを母国へ送還しようとしただけのセルビアの朋を、欧米が空爆したのです。セルビア人の民族自決権が壊光されたのです。これでは将来、小パキスタンが近くに形成された時、同様の措置を採れなくなります。
 この他、預言者戯画騒擾、アラファトへのノーベル平和賞、ラシュディ事件への対応でも私は祖国に失望しました。

 (中略)

 Q:ジャスティシア・ナイトを国家・地域組織でなく、汎欧州規模のキリスト組織とした理由は何か?
 A:実用性故です。北欧神話等の地域・民族文化が基盤では支援者の数が限定されます。3人に1人が受容できるよう、我らの綱領は穏健化されています。これで南欧や中欧の民にも受容されることでしょう。国家主義に奔る余り、十字架を忌避してはいけません。白人至上主義といった嫌悪思想や陰謀論などが象徴では、民心に受容されません。嫌悪に嫌悪で報復するのは間違いです。民心に受けることが第一なのです。ただし、これは義挙の規模を縮小するという意味ではありませんが。
 国家社会主義者はこれを背信行為と看做すことでしょう。しかし、彼らはその信条ゆえに民心から受容されないのです。

 (中略)

 Q:汝は多文化マルクス人材やイスラムへの憎悪を原動力に、8年以上準備に専念していたのか?
 A:違います。多文化人材が過去の罪科を認めて2020年までに我らの側に転向すれば、罪科を問う心算などありません。しかし、何も反省せぬなら、義挙の標的になります。
 ムスリムを憎悪している訳ではありません。今も敬愛しているムスリムがいるのですから。しかし、だからといって欧州イスラムの存在力は認めません。私は欧州文明を愛しています。自文明のハラキリにならない限り、多様性も容認します。

 Q:汝の15年前の信条をどう評価するか?
 A:その頃は無知でした。しかし、PC主義でない情報の真名に触れれば、皆さんも私と同じく覚醒するでしょう。人民をジェノサイドより護るのは、最根幹の人権的行為です。今の道に後悔はありません。機会があれば、躊躇なく同じ道を辿ります。

 Q:如何に汝らが義挙を正当化しようとも、汝らの行為を民心は基地外としか看做さぬだろうが?
 我らの作法は確かに、極端すぎると看做され、与否なくマスゴミから揶光されることでしょう。しかし、義挙が続けば、我らの主張を公論に挙げねばならなくなる筈です。第二次段考においてムスリムの数が更に増えれば、より多くの民が我らの資料を読み、我らの正当性を理解することでしょう。
 例え糾弾されても、これは親が無知な子供を殴るようなものです。子供たる民心もやがては成長し、親たる我らの行動を理解してくれる筈です。

 (中略)

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