「2083―ー欧州独立宣言」日本語版

グローバル極右界の「共産党宣言」、現代世界最大の奇書

3.152 殉教と自殺(p1346~)

2013-03-09 12:58:14 | ジャスティシア・ナイト
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 原則として、自殺は地獄で永劫に焼光されるべき草泥馬な最大級の大罪である。自殺はカトリックにとって、「最神聖の贈物」たる生命を放棄する最悪の原罪なのだ。
 しかし、プロテスタントの多くの宗派がこの掟を無効化してしまった。例えハラキリしたとしても、死の前にキリストのことを思えば許されることにしたからだ。これは殉教した聖人たち、例えばリッダの聖ゲオルギウスらを恋童殺人犯と同列に置くものだ。これでどうして苦難の行軍の末に殉教する者が現れるだろう。プロテスタントはキリスト教版のマルクス主義だ。
 それなら、我らジャスティシア・ナイトが義挙の最中または義挙の後に已まれぬ理由から「自決」すると、天国に行けなくなるのだろうか?ここには以下のような差異が出る。

 1、体制より受けた傷が原因で殉教した
 2、爆発など自己の行動が起こした行為が原因で殉教した
 3、囚われて拷問され、情報を吐かされるのを拒むために意図的に傷を治さず殉教した
 4、体制による拷問や処刑が怖かったから自決した

 1~3はカトリック教会法も認める殉教だが、4は少し議論が分かれるだろう。欧州基督政体を護るための義挙を成就させる前に、ジャスティシア・ナイトは入会儀式等を通して、その全てを至聖なる神に捧げている。つまり、我らは既に賜物たる命を神の歓喜する作法で使用したのである。ムスリムの猖獗する多文化監獄では体制より間接拷問されて死ぬまでの刑期を過ごすだけとなるかもしれない。
 
 我らと殉教
 リッダの聖ゲオルギウスはキリストの信仰と祖国と人民のために、自らの行動が死に繋がることを知りつつ行動し、殉教した。ゲオルギウスの殉教は無私のものだったが、自殺はただの利己心にしか基づいていない。しかし、我らジャスティシア・ナイトは家族、友人、祖国、人民、文化、欧州基督政体防衛のために神聖なる命を捧げて殉教するのだ。これは人類無上の至福である。我らの行動は聖ゲオルギウスに匹敵するものなのだ。
 我らは入信儀式を通して神への服従を宣誓したので、片足を既に天堂に踏み入れている。この時点で自由を放棄せし我らは既に教会の殉教者であり、義挙の最中または後に戦術的理由から自決したとしても、決して「最神聖の贈物を放棄」した訳ではない。全知全能の神は必ず我らを祝福して下さる。
 文化マルクス体制より解体攻勢を受ける教会も我らの殉教を教会法に従って認証して戴きたい。前途は多難だろうが、数十年経てば義挙のために無私で殉教したジャスティシア・ナイトが公式に列聖されるはずだ。

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3.151 ウケミの無神論者などいない――殉教への準備(p1341~)

2013-03-09 12:46:48 | 左翼思想批判
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 欧州基督政体とは、個人と神との関係には止まらない最強文明全体を包摂する倫理身份である。名のある無神論者がこのキリスト教を廃絶しようとしたが、すべて挫折した。

 リチャード・ドーキンス
 『利己的な遺伝子』のドーキンスは、英国国教会で育ったにも関わらず、万物万理は進化論的な唯物論のみで(自己の2度の離婚歴も含め)説明できると説く。人間は遺伝子により本質的に利己的と説き、人間以外の倫理基盤を認めない。しかし、神概念こそ人間の病の根源と説いている。

 トマス・ペイン(1737~1809)
 トマス・ペインは反奴隷精神の下、セカイ平和機構と老貧福祉の概念を先駆けて提唱した。しかし、宗教観ゆえに離反者が相次ぎ、葬式に参列した者はごく少数だった。コモン・センスで米国独立戦争に貢献したペインは宗教観ゆえに名声を失ったのだ。

 フランソワ・ヴォルテール(1694~1778)
 ヴォルテールは生前、「聖書など1世紀以内に俺の著作集に取って代わられるさ」と語っていた。しかし、晩年のヴォルテールに立ち会った篤信なる物理学者はこう言った。「敬虔者の死を美麗閑静なる快晴とするなら、ヴォルテールの死は昏黒雷嵐だったね。僕は真実を告げたところ、ヴォルテールはよくこう言ってたよ。“ああ友よ、良き助言をしてくれたのは君だけだ。言うことを聞いてれば良かった。俺は煙だけを吸い込み、自ら毒に冒された。もう良い。医者を寄越してくれ!”と。僕は慄光した。自らの治療法が凡て逆効果となり、ヴォルテールは狂気に支配されたんだ」
 主治医はヴォルテールの叫びを聞いた。「俺は神にも人にも捨光された!半年の余命をくれるのなら、その半分を主治医にくれてやる。俺は君と共に地獄行きなのだから。ああ、偉大なるキリスト様!」
 ヴォルテールの死の5年後、ジュネーヴ聖書協会はヴォルテールの住居と印刷機を買い取り、居間に印刷機で刷った聖書の山を置いた。

 フリードリヒ・ニーチェ(1844~1900)
 「神は死せり。我らの手によって。我ら自身がネ申とならねばならぬのか?」と説いたニーチェは狂人となって死んだ。その最期に記した文字は「磔刑されし者」だった。ニーチェ哲学は後にナチスより称揚された。

 ディオクレティアヌス帝
 303年、古代ローマのディオクレティアヌス帝は史上最大のキリスト教迫害を開始し、全聖書の焼光を命じた。しかし、その僅か25年後、次のコンスタンティヌス帝が聖書の復古を命じた。ディオクレティアヌスの政策は完全転覆されたのだ。

 カール・マルクス(1818~83)
 マルクスはセカイ経済を完全統制するためには、宗教信仰の廃絶が必要だと信じていた。共産主義の障害となる私有権、自己保全、個人主義の根源が猶督信仰だと説いたのだ。マルクスはこの思想を利用したレーニン、スターリン、毛沢東の紅世を見ずに死んだのだが、マルクスは神否定故に死んだ1億人の魂をみて、誇ることだろう。

 シグムント・フロイト(1856~1939)
 モラビアのフライベルクという小町で生まれたフロイトはユダヤ人だ。フロイトは聖書が神でなく人間の執筆物だと説いた。しかし、その最期はモルヒネ中毒による安楽死だった。

 この他、どんな強硬な無神論者でも、死の直前になるとキリストに回心する。トーマス・カーライル、懐疑論者アルダモント、トーマス・スコット、エドワード・ギボン、マザラン卿、トーマス・ホッブズ、フランシス・ニューポート、セウェルス…

 ウケミの無神論者などいない
 俺は決して敬虔だった訳ではない。昔は「宗教なんか弱者の松葉杖だ。自負心を持つ者がどうして上位の権力を求めるのか?ウケミだなあ」と思っていた。
 しかし、俺にもそうした側面があることを白状しよう。それでも俺はこの義挙をやり遂げてみせる。(以下略)

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先軍なる聖書の戦句集(p1329~)

2013-03-09 12:34:53 | 十字軍
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 故に神に服従せよ。悪魔に抵抗すれば、悪魔はやがて汝より逃げる――ヤコブの手紙
 「我が掟と我が戒律を遵守し、実践するなら、我は汝らに平穏なる衣食豊饒の地を与えよう。邪獣はその地より一掃され、劍はその地を脅かさぬ。汝らは敵を追撃せよ。5人で100人を、100人で1万人を討滅せよ」――レビ記

 神は汝を聖別し、戦場力を授けられる
 父なる神に 全面服従すれば、神は必ず君を聖別し、戦地に赴かせることだろう。聖書によれば、我らはアダムの呪詛以来ずっと恒久戦争の中にいる。日々の信息(ニュース)がそれを証明しているではないか?
 全キリスト教徒はこのことを自覚し、主の力を帯びて真の聖戦士となるのか、それとも頭を砂の中に突っ込んで続々襲来する侵略者に踏光されるのかの選択を迫られている。
 以下の章句を読めば、神が敵に立ち向かう君を超自然的に聖別してくれることが分かるだろう。

 主は言われた。「汝に向けられし武器は無力なり。裁きの場で汝に向けられし罵語は汝自身により罪となる。これぞ我の下僕なる嗣業なり。我の天恵なり」――イザヤ書
 だが、神を知る民は屈強にして、偉業を成す――ダニエル書
 神の王国は言霊でなく、力の内にあり――コリントの信徒への手紙 1
 私は徴や奇蹟で以て使徒たることを忍耐強く証明しているではないか――コリントの信徒への手紙 2
 主に讃えあれ、私の巌、私の戦闘術、私の支え、私の砦、砦の塔、私の避難場、私の盾、私の服属民を与えて下さった主よ――詩篇
 主は私に力を授け、無欠化し、鹿の如き足を与え、高所に立たせ、青銅弓を弾く戦技を教えたもうた。…私は主の力によって反抗する敵を完膚なく討滅する――詩篇
 
 神は迫り来る嵐雲に自力で立ち向かう勇者のみを聖別なされる。神はそうした勇者に敵を完全(半端ではなく)討滅し、大捷する力を授けられるのだ。
 ただ、その力を受けるには勇者が自ら精神力をつけることも必要となる。それなくば、神は敵に襲撃される勇者を決して援助しないだろう。箴言にも、「苦難の日に挫けるのなら、汝の力はちびなり」とある。つまり、神は草泥馬になるなと説いているのだ。それを克服してこそ、我らは皆キリストの兵士となることができる。
 
 神の参与
 時には神が御自ら我らの周囲に護衛墻を張って下さる。実際の戦闘に直截参与して下さることもある。以下の章句は神自らが「戦漢」となれることを示している。
 
 主こそ戦漢、主こそ主の真名。至聖なる主は右手で以て手向かう敵を討滅なされ、敵を葦の海へと磊の如く沈められた――出エジプト記
 主は勇者の如く飛び出し、戦漢の如き熱情を昂揚させて鬨の声を上げ、敵を圧倒なされた――イザヤ書
 急いで前進する莫れ、逃走する莫れ、主は汝らの先陣にして、殿軍なるぞ――イザヤ書
 我は汝らを祝福する者を祝光し、呪詛する者を呪光する――創世記

 (以下省略)
 すると、主を讃えなかった者を主の天使が打擲した。その者は蟲に食べられて死んだ――使徒行伝

 上の言は人の姿をした天使が文字通り君の前に顕れることを示唆している。有事に助けてくれた天使は、すぐさまその姿を消してしまうが。

 使徒行伝には「我らは人より神に服従せねば」とある。また、ルカ福音書では、「劍なき者は服を売ってでも買いたまえ」と自衛闘争を認めている。マタイ福音書には「劍を取る者は劍により滅びる」とあるが、これは武器使用に伴う無上の責任を説いているのであって、自衛についてはその限りでないのだ。

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3.149 聖書と自衛(p1327~)

2013-03-09 12:25:37 | 左翼思想批判
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 多くのキリスト教徒が自衛権は非聖書的と看做しているようだが、それは与否なく誤りだ。旧約聖書から反例を引こう。出エジプト記によれば、

 盗人が壁に穴を開けたところを見咎められ殺されたとしても、殺害者は無罪である。但し、太陽が昇っていた場合は身売りしてでも補償する責任が生じる。

 つまり、家に入った盗賊をその殺意など関係なく殺しても良いのである。これは自衛肯定そのものだ。だから、イスラエル人もまた自衛権を認められていた。

 ダビデは兵士に告げた。「劍を帯びよ」そして、各自劍を採り、400名がダビデに同行し、200名が荷物置き場に留まった(サムエル書 帯劍の肯定)

 新たに多神を選ぶと、城門に戦火が迫った。イスラエル4万人民は盾や鑓を見ていたのか?(士師記 これは自衛を放棄し、非武装平和した愚国への警鐘だ)
 
 主に讃えあれ!我が手と我が腕に戦闘術を教示せし主を (詩篇

 これのどこが反戦的だろう?神は旧約聖書中で一貫して自力による先軍精神を説いているし、信者も当時最新鋭の武器を手にしている。
 その武器が劍だ。新約聖書でも、イエス・キリストは劍を購入して武装するよう使徒たちに教示している。

 「財布や袋のある者はそれを持って行きなさい。劍なき者は服を売ってでも劍を買いなさい」――ルカ福音書
 「劍を納めよ。劍を取る者は皆、劍により滅びる。私が父に請願できぬとでも思うのか?父は即座に十二の天使軍団を派遣できる。だが、それでどうやって必定を定めし聖書の言葉を顕現できようか?」――マタイ福音書
 
 この御言葉を文脈通りに解釈すれば、自衛肯定であることが分かるだろう。イエスはペテロに対し、ここで戦闘したらハラキリすることになり、十字架で自らを磔刑させ復活させる神の計画が台無しになると説いたのだ。鞘に納めよとは劍を捨てよという意味ではない。イエスは使徒に自衛するよう説いた。つまり、「ペテロ、今は戦う時ではありません」と説いたのだ。
 これを我らの対イスラム多文化主義戦争に置き換えた場合、これは自衛のスゝメとなる。我らは街が灰燼になろうとも勝利し、再建を進めねばならない。エルサレムの城壁を再建したネヘミヤの兵士のように。

 城壁を再建する者は、片手に武器を持ちながらモッコ運びをした。建築作業者も腰に劍を帯びて作業した。

 キリスト教と先軍なる自衛
 ダビデのゴリアテ弑逆を筆頭に、神は戦争や暴力を賛美している。イスラエル人に対して、神は約束の地での三光を命じたものだ。
 しかし、そこには賢明さも必要だ。前項のイエスの自衛肯定文は自身が連行される直前のものだ。つまり、使徒に自衛権を与えたのだ。「劍により滅びる」という警句もイエスを連行しようとした官吏の耳をペテロが斬った時に発せられた。何故か?戦うべき時ではなかったからだ。自衛闘争は適時に行われねばならない。これは前項の出エジプト記の泥棒死罪の箇所にも当て嵌まる。日中でも自衛闘争は可能だが罰せられる。しかし、夜間に自衛闘争した場合は罰せられない。

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3.148 全十字志士に与えられしウルバヌス2世とイノケンティウス3世の免罪符(p1324~)

2013-03-09 12:15:54 | 十字軍
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 闘争のための基督の大義
 起て。どうか主が敵を討滅し、面前より掃光せしめんことを――詩篇

 
 1095年のクレルモン公会議で、ローマ教皇ウルバヌス2世は第一次十字軍への参与者に対して、その原罪を赦免すると宣言した。12世紀、イノケンティウス2世は免罪の対象を十字軍への支援者にも広げた。
 カトリック教会の教会法は必要要素を全て揃えた素晴らしき体系法だ。JCB、JCL、JCDといった専門の学士号制度も整備されている。
 教会法典では、免罪符のことを992~97章で定めている。免罪符とは原則として教皇の権威の下だけで発行できるものだ。一定の時に一定の所業を成した個人だけが免罪される。
 
 十字軍を呼び掛けた2人以外の教皇
 1453年のコンスタンチノープル陥落直後、ニコラウス5世は即時反撃を呼び掛けた。その6年後にもピウス2世(アエネーシス・シルヴィウス)が十字軍を宣言したが、実施されることはなかった。

 非公式な十字軍
 直近の「非公式十字軍」は帝政ロシアが19世紀にオスマン帝国に対して行った自衛戦争だ。ディズレーリがオスマンの側に立っていなければ、コンスタンチノープルも光復できたことだろう。トルコが自称「世俗共和国憲法」を採用して以来、キリストの土地を光復する防衛戦争という案は輿論受けしなくなったが、トルコは今日もキリスト教徒へのジハードを継続している。

 ベネディクト16世に十字軍宣言を期待できるか?
 期待できない。教皇は確かに2006年9月、最も十字軍的なことを行った。1391年行われたビザンツのマヌエル2世パレオロゴスとペルシアの学者との議論を引用したのだ。マヌエル2世はこう言った。

 預言者ムハンマドが齎したものを見せてみよ。そこには劍と共に弘められた邪道な教義しかないじゃなイカ?

 この引用の結果、ムスリムは侮教されたと火病し、中東の教会への討滅行為に走った。引用部の「ペルシア人との激論27話」においてマヌエル2世はこう続けた。

 神は灼血を歓ばぬし、非理性は神の摂理に反する。信仰は肉体でなく霊魂に宿る。恫喝でなく理性をもって信仰へ導く言霊力こそが宣教に必要なのだ。そこに死を以て脅迫するための屈強な拳などいらない。[一部は教皇自身の言葉]

 しかし、ベネディクト16世は討滅行為を受けて、間接的に謝罪してしまい、以降は欧州へのイスラム植民地主義を放置してしまった。これではヨハネ・パウロ2世らと同じく草泥馬だ。教皇は嫌欧州流を真名とする多文化主義体制に対して、反正を呼び掛けられるようでなければならない。しかし、反正を軍に呼びかけてくれる教皇はいないのだ。
 それなら、我ら文化保守が政権を掌握した後は、カトリック教会でも腐敗根絶に務めねばならない。非西洋キリスト教徒の自衛権を保証するためにも。

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