リンとキョータロー “大航海時代Ⅳ ~PORTO ESTADO~”より

男伊達 恋と友情
バーケンティンGet! 海賊からの戦利品にも注目! HD版情報も追記

画像:海をわたった日本人

第12章 決戦!

2012年07月25日 | 日記
9月10日 杭州 (鼈甲1144→2481 綿織物456→1864 銀1850→3298)
・漢方医の聖典を譲った。
・イスカルが東南アジアから北上してきた。
・クルシマ家に戦線布告状を送った。
・布告状が届く前に、クルシマの鉄甲船が入港してきたので襲撃した。
 ナオ型のエスペランサは、カノン砲搭載だが、人員が少ないので、ドックに預け、
 ジャンク船2隻と大型ジャンク船2隻で、切り込んだ。
 ナガヨシとの一騎打ちでは、ユキヒサが豪快にばっさばっさと斬り進んだ。

  16日 杭州 独占契約 戦利品の茶は2557x2で売れた。
  27日 那覇 独占契約 (陶磁器1142→3363)
・イスカルを討伐に来たのだが、どこかですり抜けられたようだ。

10月3日 泉州 独占契約 (砂糖750→3162)
・酒場の老人から布銭を受けとった。

  11日 杭州 (生糸484→2404)
・紫禁城で、家宝と布銭を使って、扉を開け、「唐代の竹細工」を手に入れた。

  18日 長崎 独占規約 (麝香1100→2650)
・ユキヒサとクルシマの一騎打ち!

  27日 大阪 シェア98% (鼈甲1134→2650)
・1泊した後、沖でクルシマと対戦、勝利してクルシマ家を解散させた。

11月5日 大阪 独占契約
・前回の投資の結果、象嵌細工が交易品として登場。
・鉄甲船の工房を見たマヌエルが、追加装甲を考え出した。
・俺は、拿捕した、鉄甲船が重カノン砲を装備していることのほうが気になる。


     画像 : 鉄甲船 http://www2.memenet.or.jp/kinugawa/ship/2300.htmより

 ・鉄甲船の発注者は織田信長
 ・信長公記・多聞院日記・宣教師オルガンチノからルイス・フロイスへの手紙(報告書)に記述あり

 ・厚さ3ミリの鉄板で表面を多い、乗員5千人 長さ20m 1500石積み大型安宅舟
  大砲3門搭載

 ・信長の石山本願寺(今の大阪城があるところ一帯・上町台地)攻めにあたり
  本願寺への物資の供給を断つため 海上封鎖を行うために作られた船
  (今とはことなり 上町台地はもっと海路・水運と密着していた。)

 ・「厚さ3ミリの鉄板積んで沈むやろ?」という突っ込みもしばしばなされるが
  村上水軍の焙烙(ほうらく)攻撃をはねのける装甲を備えていたことは確かです。

 ・石山本願寺(旧勢力の代表:日本の経済と人心を実質的に握っていたお寺さん)と
 信長(新興勢力:武家が名実ともに政治・経済を支配しようとしている)の対決に当たっては、

 雑賀衆の鉄砲(最新の技術者集団であるとともに平安朝時代以前からある日本古来の一族・伝統を継ぐ紀州勢の一員)・
 村上水軍(平安朝より続く海運、和寇もこの系・瀬戸内海派)VS

 堺の町衆(新興勢力・最新技術輸入推進係)・九鬼水軍(紀伊半島派)の決戦として

 日本最大の海戦であったと同時に、世界的レベルでみても当時の最新海運・戦闘技術を導入した戦いであったともいえましょう。
 (国内戦でも最新の火器が使われたように)

 また その様子は 宣教師達によって、スペイン・ポルトガルへも随時報告されていたため、
 ヨーロッパ勢は最初から 日本に対しては対等の姿勢で国交に臨んだと考えられます。


7 コメント

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紫禁城の進み方+おまけ画像 (冒険者)
2009-11-06 04:23:22
・以前から、「紫禁城の扉が開けられない」という書き込みをよく目にします。
 同じ方なのか、それぞれ別の方が悩んでいらっしゃるのかよくわからないのですが・・・
 すでに 問題を解決してらっしゃるとよいのですが、もしまだ お困りなら・・と思い説明します。
  (ネタばれかも!)

① 1番単純な解決法
 遺跡に行く前に、セーブしておく。
 正しい答えが出るまで、何回でも繰り返す。
 必要ならメモをとって、同じ間違いを繰り返さないようにする。

②文学的解決法
 漢詩の押韻を勉強しなおす。(中学・高校の国語資料をみる)
     or
 漢字の後ろにアルファベットで書かれる文字の後ろ2つか3つの組み合わせが同じものを選ぶ
たとえば~ingのつく語には、別の~ingのつく語をあてはめる

③歴史的解決法
 中国全土を治めた古代王朝名を答える・・・秦とか唐とか
  答える順番は、歴史年表を見て考えてください。

・余談
 はじめて このゲームをやったとき、私は、解決法①を連用しました。
 ギルドと遺跡に行く前には必ずセーブ!

 だって、『三国志で好きな英雄は?』と聞かれて、「趙子竜の槍」の存在を知っていればともかく、なにもわからず主要人物名を答えて 「あっおじさんと趣味が違うんだね」で話を打ち切られたら、泣くに泣けないですよ。(過去の失敗談)

・ちなみに このゲームの場合、最初からやりなおすはめになっても、違う展開が楽しめるので、そんなに苦にすることないと思います。
 (どの主人公でも、最低2~3通りのストーリ展開がありそうな気がする。)
 そうこうしているうちに フェアデータでクリアしてしまうかもしれないし・・・
 
 (たとえ ずっこけるようなおまけ映像でも一度は見たいもの。
  でも頑張りがいのないおまけだというのは、大概の人の意見ではないでしょうか?)
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Unknown (sumou)
2013-04-30 19:56:52
>厚さ3ミリの鉄板で表面を多い
>乗員5千人
>村上水軍の焙烙(ほうらく)攻撃をはねのける装甲を備えていたことは確か
>世界的レベルでみても当時の最新海運・戦闘技術を導入した戦い

ここらへん、確かなんですか?
鉄甲船は詳細な記録どころか実在も不確実だったと思います。
乗員5千人が正しいなら、1平方メートルに2人、長さ20×幅10メートルとして12層以上の高層甲板になってしまいますが。
返信する
Unknown (国語力のない方へ)
2014-07-03 21:48:48
・引用文献についての論証なら引用文献に基づいておこないましょうね!sumouさん

・人のお楽しみブログにケチをつけるだけの人ってホント不快ですね!!

・炮烙攻撃をはねのけなければ 沈んでいるでしょう?
 沈んだら 沈んだと記述があるはず。

・それに このページ本文の趣旨は ヨーロッパ諸国が注目していた①技術力 ②その技術力を駆使した合戦 と言う点にあるのです。

・枝葉末節でのいちゃもんつけは ご遠慮ください。

・私個人の見解は 鉄鋼船というのは 海戦ではなく
海上封鎖 つまり 要塞として 浮かんでいればよかったんだろうと思ってますよ(笑)
 それに はりぼて築城は 羽柴・織田の得意技だしww
 場合によったら 浅瀬にど~んと底をつけて突っ立ってたとか(爆)
 なにしろ 濃尾平野を流れる3大河川は 毎年のように氾濫、輪中だけではなく 石船を沈めて護岸なんてのも日常的に用いていた技術ですから。
 (沈めた石の重量とそれを船で運んだというだけでもクラッとくる世界です)
 船は 移動手段だけではないのです。
 水上建造物として固定する手段にもなりうるのです。

・鉄板だって 攻撃を受ける所だけにはってあったのかも??ww
 (そこで 重心がとかって突っ込みだければ ちゃんと造船の知識に基づいて計算してねwwそれも 可能であるという仮定に基づいてシュミレーションして どうやっても不可能と説明しないとだめだよん!)

・大阪の古地図と当時の地形をリアルに思い浮かべる力があれば、鉄鋼船の配備状況もまざまざと思い浮かぶはずです。

・ようは ロマンですから。 このブログ全体が
 その点を お忘れなく。
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Unknown (「海戦」の補足)
2014-07-04 08:35:10
・コメント等で使っている「海戦」の意味がその時々で違っているので補足します。

・ゲーム大航海時代でいう海戦は 基本的に操船しながら切り込むだの砲撃だのですよね。
 そしてまた 映画等など西洋の帆船の海戦もそのイメージ

・一方 日本では 源平合戦の記述などをみていても
 どっちかといえば 船を浮かべて 矢を射かけたり切りあったり。戦っているときの船は あまり動いてなさそうな気がする。
 手漕ぎ船にしても 西洋のガレー船などに比べて小さい気がします。
 場所も瀬戸内海だし・・・
 壇ノ浦は 海峡なので波が高そうですが、瀬戸内海は海がおだやか。
 だいたい 船が停泊中かそれに近い状態でなければ 八双飛びなんて できないんじゃないかしら??

・そして 上町台地に立つ石山本願寺攻めのときの海運といえば・・大阪湾
 台風の直撃もめったになく 梅雨も従来はしとしとと雨が降る 穏やかな内海

 だから はでに操船しながら 船と船がわたりあう「海戦」というイメージよりは
 ようは 補給船・連絡船を本願寺に近づけなければいいやという
 要塞型の鉄鋼船がど~んと 要所要所に腰を据えていたんじゃないかというイメージで 上記のコメントを書きました。

・なにしろ 織田勢の戦い方って 「苛烈に皆殺し作戦」だけではなくて
 孫子も真っ青の兵糧攻め(水責め)もかなり多いですから。
 あれって 地の利(水利)を生かした土木工事と
あっちこっちに砦(要塞)築いて補給路・連絡網を断つという
 要は人海戦術土建屋さん戦法ではないでしょうか?
 だったら その海上版として 鉄鋼船もありかなぁ~と思うのです

・なにしろ奈良時代から連綿と続く、物流と人脈の主たる寺社勢力を一掃せん!というのが 信長の意図だったみたいなので。

 奈良・平安時代のお寺さんというのは イエズス会も真っ青の開拓集団だったことは「布教」の足跡が みごとに鉱山開発とむすびついているという事実からしてもあきらかです。
 荘園管理は鉱山開発よりも時代的にあとですね。
 なにしろ 荘園より先に ため池づくりをやってるからww
 修道士たちが 諜報機関の先駆的組織としての役割を背負っていたことは、西洋のゲームの常識ですが
 日本の仏教組織だって なかなかの開拓集団だったことは、(太閤検地の書付どころかそれ以前の文物だって持ってる)家の者にとっては、聞きなじんだ伝承からも あきらかです。
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Unknown (おまけ)
2014-07-04 09:22:04
・かつおきんや氏の著作に「安政5年7月11日」と言う作品があります。
 「卯辰山から人々が生活の苦しさを城主に訴えた」という歴史的事実をもとにした物語です。

・実際に卯辰山に登って驚いたのは、城の真上が卯辰山山腹。
 これ その気になれば 一気に城を落とせる!とおどろきました。
 そして 山全体が今や墓地・墓地・墓地
 きっと昔は 山全体が 寺の集合体だったのでしょう。

 なぜ 金沢藩主は 卯辰山に城をかまえることができなかったのか。
(実質的には 寺の勢力を立ち退かせることができなかったのではないでしょうか???)
 かつお氏のほかの作品でも お寺さんが逃散の手引きをしたり 独自の連絡網を駆使しいてる記述があります。
 それはまた 我が家の伝承と思い合わせればいろいろと思い当たることも多い。
 表面的には 押さえつけられても、 江戸時代にあってなお、お寺さんネットワークが存在したということは、それ以前の勢力がかなりのものであったという傍証になるのではないでしょうか?

・大阪泉州の祭り 岸和田祭り
 この祭りの発端は 「年貢高すぎるぞ!」と岸和田の人々が だんじり担いで城にのりこんだことにあります。
 だから 今も 城入りの先頭のだんじりは 沼町(城に乗り込んだ人の出身町)と決まっています。
 今や たんなる観光行事ですが、実は江戸時代においては 「あんたら好き勝手したら いつでもわしらがのりこんだるで!」と毎年 地元の人が城内まで入ってお殿様を恫喝(訓示)してたんですよねww

 奈良時代より連綿と続く仏教徒をあなどるなかれの事例が 金沢にも大阪にもありましたとさ(笑)

・というわけで 比叡山焼き討ちの話ほどには
 決着がはっきりとしない 石山本願寺攻め
 でも けっきょく 大阪城が築かれたのだから
 本願寺瓦解はまちがいないんだろうけど
 信長勢がいかに大坂を攻略したかについて聞くことがあまりなく
 しかし 戦のあと織田方の中からも多くの者が次々と腹を切り首を落とされているというあいまいさと
 鉄鋼船のあいまいさ
 なんだか 意味深だと思いませんか??

(「勝った 勝った」と言えば 寝首をかかれるから
 戦いについてはあいまいに言葉を濁し
 治世だけは強硬に
 それが あの大阪城石垣の大きさが意味するところではないかしらん・・??
 はったり(威光)の象徴=大阪城!(爆)

(さらに脱線)
 大阪市内というのは 歴史的に見て 戦により人が総入れ替えに近い状態になることがくりかえされてきている。
 畿内の地の人というのは 奈良・和歌山・大阪府下で大阪市外に住んでいる人たち
 この人たちにとっては 奈良時代はついきのうのことのように語られているのです^^
 そして平安時代は京の都のちょっと遠い話
 奈良・室町が今日につながる生活の話なんですよねw
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Unknown (蛇足)
2014-07-04 10:10:09
・憶測ばかりを書き連ねて申し訳ないですが
 紀伊半島 大阪湾をのぞむ山間部を歩いていると
 けっこう 要所・要所がスカッと見渡せる地に遺跡があることが多いのです。
 良港への侵入路とかが丸見えになるところに 石積土塁のあとがある。

・そこでまた 夢想に浸るわけです。
 水軍の戦ぶりを

   敵軍の船影をみて 激を飛ばし 迎え撃つ・あるいは 自船を別の場所に隠してやりすごす 等々の戦術を

・大西洋を渡る船での海戦ばかりが海戦じゃない
 紀伊水道 紀淡海峡をめぐる戦いも 海戦
 
・そして 本願寺(上町台地)前の海というのは 
 紀淡海峡だけでなく
 須磨からも淡路島からも 明石海峡の向こうの瀬戸内海がわからも船がやってくるから
 いたちごっこのように船をおいかけまわすより
 波止場の前をど~んとふさいじゃったほうが効果的という考え方もなりたつのではないかしらん?

・水の都大坂をめぐる海上戦も いろんな戦い方をくみあわせていたのかいないのか??
 そもそも どの程度 海上戦をやっていたのやら??

・明治以後の堡塁あとは 興ざめだけど
 だから 石組 土塁をみても これって 100年前か?
 300年以上前のものか?と慎重に観察し 記録を調べなければ とんでもない誤解に行きつくのだけど
 夢想している分には 自由なのでありました。
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石船のおまけ (Unknown)
2022-06-10 15:53:30
輪中の石船や、鉄鋼船が実は 船の応用形としての海上要塞だったのではという推測を以前書きましたが、最近(といっても何年か前、このブログに最後に投降してから後) 伊豆半島に旅行した折、たまたま旅館にあった地方紙の記事から宿の亭主といろいろ話していて、地元の有名な石を近畿の有名な建物に船で移送する方法=船底に石をつるして運んだという話を聞きました。
 浮力を利用した運送、すげー、と思いました。

そこから、房総半島で行われた南極探検隊関連の催しに参加した時に、そこから会場に見えた見慣れない建造物だか船だかについて 施設関係者に質問して、それは海中トンネル(青函トンネルなど)のパーツで、それを船につるして現地まで輸送して 海底に埋め込むのだと教えていただいたことを思い出しました。

何トン?もの個体も 船から海中につるして移送する日本の伝統の技!すごい!

というわけで 以前ここのブログに鉄鋼船についていちゃもうをつけた野郎には 土下座して謝れと言いたい。

なぜ?どうやるの?のと不思議に思って好奇心をもって追及するのは学問の道。

たとえ その方面に進まずとも 情報の共有を重んじる共同体である日本人なら、真摯に問えば 必ず いつかどこかから答えが帰ってくる。

子供のうちなら専門の大学院進学を目指して研究者や開発員になるという道もある。
大人なら 旅先で教えを受けることだってある。

しかし 敵意と悪意にまみれて、己の卑賎浅学をもって なんでも日本の文化と歴史と日本人の足跡にいちゃもんつけて 日本人を嘘つき呼ばわりする民族出身者は、存在そのものが害悪だと言いたい。
たとえ日本国籍とっても 政治的背景はごまかせるものではない!!

寄生虫は害悪でしかない駆除対象なのでは?
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