【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールの軛( 追稿 )= 16 =

2015-11-23 18:16:06 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ ルーシ諸侯の反撃 ◎○

★= 「タタールのくびき」からの脱却 =★

 イギリスを出港して中国への北極海航路開拓を求めるエドワード・ボナベリンジャー号が1553年8月、白海に到達し、交易の利を知ったイヴァン4世は1555年にイギリスとの通商条約を結んで交易を推し進めていた。 開始以来、イギリスとの武器弾薬の交易は戦争の継続のため必要不可欠なものとなっていた。 また外交的にもオスマン帝国、クリミア・ハン国、ポーランド・リトアニア同君連合と対立し、スウェーデン、デンマークには国交の悪化の度にバルト海の海上封鎖を受けることがしばしばあった。 そのため、リヴォニアから奪ったナルヴァ港(“バルト海の真珠”と呼ばれる良港)を利用したイギリスとの交易が生命線となっていた。

 イヴァン4世は便宜をはかり、イギリス商人にはあらゆる特権が与えられ、またロシアの産物がイギリスの需要を満たす水準でないために膨大な不均衡貿易を余儀なくされていた。 代わりにイギリスは外交における「全ルーシのツァーリ」の称号をいち早く認めていた。 一方、イヴァン4世の敵は外国だけではなく、国内においても存在していた。 親衛隊と化したオプリーチニキによって国内のあらゆる者を抹殺できる権限と手法を手にしたイヴァン4世だが、大貴族たちの勢力は依然として保たれており、ポーランド・リトアニアの誘いでしばしば不穏な動きをみせた。

 熱狂的にツァーリを支持した民衆も皇帝からの重税を課せられた上にオプリーチニキの略奪と殺戮を目の当たりにして皇帝への敬慕は次第に色を失いつつあった。 殺害を続ける程に生まれる内外の敵に、イヴァン4世は不信感を抱えて孤立する。 イヴァン4世はこの現状から脱却すべく、イギリスとの同盟を切望した。

 1567年、イヴァン4世はイギリスの使節を通じて相互亡命受け入れ条約と、エリザベス1世と自身との婚姻を申し入れた。 だが、イヴァン4世の思惑と異なり、イギリスにとってそれは無意味な提案だった。 相互亡命受け入れについてはイギリスが亡命先にロシアを選ぶ理由はなく、婚姻に関してはイヴァン4世はこの時点でマリヤ・テムリュコヴナと再婚していた。 また例え離縁が成立しても、イギリスにとってエリザベス1世が結婚してまでも貧しく国際社会から孤立したロシアを重視する理由がどこにもなかった。 また、エリザベス1世はザ・ヴァージン・クイーンThe Virgin Queen、意味「処女王」)と呼ばれる陰湿さを秘める女王であった。 

 結果、イギリスはこの提案を黙殺する。 しかし、イヴァン4世はこの提案を妥当だと思い込んでおり、返答をよこさないイギリスに激怒し、ナルヴァ港のイギリス独占契約の破棄を宣言した。 ここにおいてイギリスもようやくイヴァン4世が本気であることを理解し、1568年に全権トマス・ランドルフを派遣して契約の順守を求めようとした。 こうして使者が派遣されたもののイヴァン4世の怒りは静まらず、ランドルフを四ヶ月も軟禁して放置した上で、雪降り積もる中をクレムリン宮殿まで歩かせ、交渉に入ると言う有様であった。 ランドルフはロシアの実情を知り尽くしており、イギリスはナルヴァ港の独占利用を取り戻しただけではなく、ロシアが影響力を持つペルシャ地方との独占交渉権とロシア国内の鉄鉱の採掘権を手にし、ロシアは何一つランドルフに要求を通すことができなかった。

 1569年には「ツァーリが亡命するならばイギリスは受け入れる」、「共通の敵に対してのみ軍事行動を行う」と一方的に条件を変更したイギリスの親書が届き、イヴァン4世もイギリスが交易にしか関心がない事実を知るところとなった。 このため、イヴァン4世は激情のままエリザベス1世に「汝の国は卑しい商人に支配されており、そなたはその中で何も知らない初心な生娘のままだ」と非難し、1570年にはイギリスとの交易禁止を宣言した。 しかし露土戦争の最中であり、たちまちロシアの武器弾薬物資が欠乏する結果になり、ロシアはさらにイギリスへロシア全土での免税権、外国銀貨のロシアでの鋳造許可、ロープ工場の設置許可などの特権を与えなくてはならなくなった。 またこの一連の外交の敗北は、イヴァン4世の暴挙にも唯々諾々として従ったオプリーチニナ政府の限界をも示すものだった。

 1568年にオスマン帝国ソコルル・メフメト・パシャがクリミヤ・ハン国を支援して露土戦争が勃発。 また、翌年の1569年7月1日、ポーランドとリトアニアが連合体制に入ってポーランド・リトアニア共和国となり強大化、戦争はモスクワに不利な方向へ向かう。 この戦争でロシアはトルコの失策によりかろうじて領土への浸透を免れたが、戦争が終結してもトルコ(オスマン帝国)・タタール(クリミア・ハン国)の脅威はなくならなかった。 翌1571年にはクリミア・ハン国のデウレト・ギレイが軍勢を率い、後のロシア・クリミア戦争を引き起こし、同年9月1日、二人目の皇后であるマリヤ・テムリュコヴナ死去する。 彼女はアレクサンドロフの離宮で病に倒れ他界するのだが、イヴァン4世による毒殺が囁かれたが、ツァーリはこの噂に怒り、暗殺を疑う者の多くを拷問にかけたと言う。

 

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