【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

550年後、目覚めた英国王=43=

2016-02-23 18:23:21 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ◎○

 ◇◆ 残された謎/ 消えたふたりの王子 ④ ◆◇  = 第3の容疑者バッキンガム公 =

※ 千葉 茂著『ヨークシャーの丘からイングランドを眺めれば』より

 次に、王子殺しの犯人がリチャードでもヘンリーでもないとしたら、それはいったい誰なのか、ということになる。
 ここで、第3の容疑者の名前が浮上してくる。 リチャードの盟友だったバッキンガム公ヘンリー・スタフォードである。 彼の性格には、どこか屈折したところがあり、表面だけでは捉えられないところがある。
 バッキンガム公の先祖は、ヘンリー7世と同じ、エドワード3世の四男ランカスター公ジョン・オヴ・ゴーントである。 バッキンガム公は、ランカスター公の3度目の妻とのあいだにできたサマーセット伯ジョン・ボーフォートの曾孫になる。 ヘンリー7世もサマーセット伯の曾孫になるので、ランカスター家の家系から見たかれとバッキンガム公の立場は、まったく同じである。 さらに、バッキンガム公の父スタフォード伯ハンフリー・スタフィードの家系は、エドワード3世の七男グロスター公トマス・オヴ・ウッドストックにつながっている。

 バッキンガム公の家系には王位継承権はなかったが、かれは王家の血をひいていることを自負し、自尊心がたかかった。 だからこそ、エドワード4世の王妃エリザベス・ウッドヴィルから彼女の妹を妻として押しつけられたとき、それに憤慨し、その後も王妃を恨んでいたのである。 彼から見れば、ウッドヴィル一族は、貴族でもなんでもないただの成り上がりだったからである。 そしてバッキンガム公は、エドワード4世を篭絡させていた王妃を同じように快く思っていなかったリチャードに接近していったのである。

 リチャードは、もともと戦場にあっては果敢な戦士であり、戦いのないときは実務的な行政官だった。誠実な性格で、宮廷で権謀術数をあやつるのは苦手なほうだったと考えられている。 それが、兄の国王が急死してから、かれの運命は大きく変化していった。そのとき、かれのそばにいつもいたのがバッキンガム公だった。

 ウッドヴィル一族とグレイ一族のたくらみをいち早くリチャードに知らせ、それを阻止させたのはバッキンガム公だった。 ヘイスティングズ卿らの陰謀を未然にふせいだときも、かれがリチャードのそばにいた。 エドワード5世の私生児説が飛び出したとき、いち早くリチャード支持を表明し、かれを王位につけたのもバッキンガム公だった。 バッキンガム公は、みごとにキングメーカーの役を演じてのけたのである。

 ヘンリー7世とバッキンガム公ヘンリー・スタフォードとの関係

 ところが2、3カ月もすると、かれは突然、リチャードに反旗をひるがえし、ヘンリー・テューダー擁立の反乱に加わっていった。 あれほどリチャードを国王にと強力に推していながら、それが成就したとたん、なぜかれはリチャードから離れていったのか。 リチャードが国王になったとき、かれはバッキンガム公の労に報いて領地と館をあたえたとされている。 その報酬が、バッキンガム公にとって少なかったのか。 それともキングメーカーになったものの、リチャードがかれの思い通りにならなかった、それでかれを見限ってヘンリーに寝返った、とでもいうのか。 リチャードは兄のエドワード4世とはちがって生真面目だったというから、そういうこともありうる。

 それともバッキンガム公は、もっとほかのものを望んでいたのか。 大それた望み、たとえば、リチャードの息子の次の王位継承権とか。 かつてクラレンス公ジョージが、敵方のヘンリー6世の息子の次の王位継承権を条件に、兄エドワード4世にたいして謀反を起こしたときのように。

 バッキンガム公は、王位継承権を条件にリチャードを支持してきたのか。 リチャードがそれを表明しようとしないから王子たちを殺し、その罪をリチャードに着せようとしたのか。 しかしそのような約束は、リチャードなら最初からしなかったと思われる。 バッキンガム公とリチャードとのあいだに、いったい何があったのか。 また、彼がなぜ簡単にヘンリー側に寝返っていったのか。 バッキンガム公は、リチャードよりもヘンリーのほうが操りやすいとみたのか。 それとも、リチャードから王位継承権をとりつけることができなかったので、ヘンリーに寝返って密約でも結ぼうとしたのか。

 もし、バッキンガム公とヘンリー・テューダーとのあいだに密約があったとしたら、バッキンガム公はそれをどうやって結んだのか。 ここで登場してくるのが、またしてもイーリー司教ジョン・モートン(前節参照)である。 彼を介してバッキンガム公とヘンリーは密約を結んだ、と想像できるのである。

 リチャードが王子たちを殺したという説の延長上には、「それを知ったバッキンガム公が義憤にかられ、反旗をひるがえしてヘンリー支持にまわった」という説がある。 しかしこれはあまりにも単純で、きれいごとすぎる話である。 それよりも、リチャードとバッキンガム公とのあいだに、決定的な亀裂を生じさせたものがあった、とみるのが自然である。 それはいったい何だったのか。

 記録によると、リチャードが即位して国内巡幸に出かけたとき、首都はバッキンガム公にまかされていた。 ところが、1カ月後にふたりが会ったとき、彼等のあいだに激しい口論があった、と記されている。  リチャードは7月6日の戴冠式を終えると、すぐに国内巡幸に出かけたというから、その口論は、8月の中旬前にあったということになる。 リチャードは8月2日にはグロスター、18日にはレスターにいたという記録があるので、レスターの前に滞在したウォーリックかウースターでのことになる。 7月29日にミンスター・ラヴェルでリチャードが、大法官のリンカン司教ジョン・ラッセルに「大胆な企てをおこなった者たちについては、法にしたがって処理するようにと」という意味の手紙を書いた。

 ところがこの手紙には、大胆な企てとは何のことか、誰が何をしたのかについては、まったく触れていなかった。 関係者だけがわかる内容の手紙だったのである。 極秘扱いにされていた事件があり、この手紙も極秘扱いだったのではないか、ということである。 それが、1984年に発表されたローズマリー・ハロックスの研究によって、「大胆な企て」とは王子殺しのことである、と推論されるようになったのである。 それも、バッキンガム公がティレルに命じておこなったのではないかと。 

 推定は、リチャードが巡幸に出かけたあと、ロンドンに残っていたバッキンガム公に命じられたティレルが、ふたりの王子を殺害した。 その「大胆な企て」を知ったリチャードは、7月29日、大法官に殺人の「実行犯を法にしたがって処罰するように」と手紙を書いた。 そして、リチャードが8月の中旬ごろ――おそらくウォーリックに滞在していたとき――バッキンガム公を呼びつけて事件についての説明を求めた。 そのとき、ふたりのあいだに激しい口論があった、ということになる。

 推論は、リチャードの巡幸中にロンドンをまかされていたのはバッキンガム公だった。 ロンドン塔の鍵を管理していたのは、リチャードの忠実な部下で塔の長官であるサー・ロバート・ブラッケンベリーだった。 国王の右腕ともいうべきバッキンガム公のような大物が関与していなければ、ロンドン塔で大胆な犯行をおこすことは、まず困難だっただろう。 こう考えてくると、王子殺しの陰謀には、バッキンガム公が深くかかわっていた可能性が濃厚になる。 いや彼は、首謀者だったかもしれないのである。

 リチャードに呼びつけられて事件のことを問い詰められたとき、バッキンガム公はリチャードと激しく口論し、彼のもとを去っていった。 そして、秋の反乱へと走ったのだろう。 では、リチャードはバッキンガム公を呼びつけたとき、なぜ彼をその場で逮捕しなかったのか。 バッキンガム公はその場をうまく言い逃れ、逮捕されずにすんだのか。 ここにも、まだ解明されていない謎がある。 また、手紙にある「大胆な企て」が王子殺しのことであるとすると、ロンドン塔のふたりの王子は、1483年の夏、リチャードが王位について間もないころに殺されていたことになる。 ということは、王子殺しの噂は本当だったのか。 ここで湧いてくる疑問は、リチャードはなぜこの事件を公表しなかったのかということである。

 理由として考えられることは、リチャードの側近中の側近だったバッキンガム公がからんだ事件だったので、外部に漏れるのを恐れたということである。 体制を揺るがし、王権の崩壊につながりかねないと考えたのだろう。 リチャード擁護派は、この夏に宮廷で異変や騒ぎがあったことが記録されていないことを、王子たちは殺されていなかったことの根拠にしている。

 しかし、権力の中枢にいた者――この場合リチャードも排除できないのだが――のからんだ事件であれば、それが極秘扱いにされ、箝口令がしかれていたことも考えられる。 そうだとすれば、記録されることもなかっただろう。 したがって、記録にないからといって異変がなかった、とは言えないのである。 ところがじつは、唯一、異変があったことを示唆しているものがあった。 それが、リチャードがミンスター・ラヴェルで書いたという、先に記した例の手紙である。

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森のなかえ

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