【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

小説・耶律大石=第二章_09節=

2015-04-18 15:39:21 | 歴史小説・躬行之譜

  鳥海の商人である忠弁亮が可敦城の兵糧を運び入れた日の夜。 大石は忠弁亮との対談で約束した明日からの行動を話し合うべく近親者を集めた。 楚詞が同席の対談であったとはいえ、明朝 北へ交易に向かう忠弁亮との約定を告げて行動を起こすには今夜しかなかった。 耶律大石は 曹舜、畢厳劉、何亨理、耶律楚詞、耶律遥と石チムギを部屋に呼び集め、明日からの行動を説明したのである。 

 「楚詞殿、 五名の兵を率いて、タタルの動きを探ってもらいたい。 耶律遥は苞力強が陣取る先発隊支援基地に向かい、ゴビ砂漠を南に渡り、張家口・長城大境門北側の基地にて燕雲十六州の動向や金の呉乞買(太宗)が政道の風聞を時より報告を受け、今後 執るべき行動兄弟で話し合った上で報告に立ち戻る事。 必要があれば、燕京に向かい安禄明に会ってくること。 楚詞に遥、適地への偵察、深くまで進まぬこと。 期日はひと月とする」 

 「石チムギ殿 西夏は鳥海に向かう事。 鳥海にて忠弁亮殿の屋敷にて 春まで過ごされたい。 ・・・・・チムギ殿は商家の生業は知られまい。 一つ、楚詞が居ぬ期日の間 知らぬ社会を見られるまたとない機会と 思うが・・・・・・」   「はい、西夏国とはいえ、 商家にて新しきことを学べるはうれしゅうございます。 楚詞さま、・・・・・ いえ、 鳥海の商家とあらば、 興慶のセデキさまはさておき、縁者の者には耳に入りますまい。 いつでも 喜んで 出立いたします。 ありがとうございます 」 

 「では、何亨理は再び 五名の兵を連れて、チムギ殿を鳥海まで護衛してもらおう。 石隻也が興慶に居るやも 知れぬが、 鳥海に長いは無用、直ちに帰還する事。 畢厳劉は兵10名を引率して、 明朝、北のメルキトの地に隊商を導く忠弁亮殿の隊を護衛する事。 道程は一月の予定。 北の地をよく観察して参る事。 尚 多勉は向学心に富む兵、少し年が上かもしれぬが、伴うが好い 」  

 「曹舜は 留守居だが、 10名の兵で この城の守りじゃ、 また、せねばならぬことが沢山ある。 遥を向かわせるが、未だ 耶律時からの連絡が入っておらず、 状況次第で 陰山南麓に向かってもらうかも知れぬ。 以上が 明日よりの行動じゃ ひと月後には この地に集結じゃ よろしいかな・・・・・・」 

 

  その頃、燕雲十六州を抜け、黄河を渡った石隻也は西夏の都・興慶(銀川市)に入っていた。 彼は黄河の鳥加河にて兵糧の手配と集積任務を終え、可敦城への運搬と搬入の任務を担う耶律磨魯古に全て移管したのちに、大石の命で燕京に入っていた。 燕京は金軍が我がもの顔で闊歩していた。 彼の旧主である安禄明へ耶律大石統師の委細報告を済ませた上で次なる伝令の途についていた。 チムギの父・石抹言のセデキ・ウルフへの親書と安禄明の父・安禄衝の文を油紙に慎重に包み、衣服の襟に縫込み込んだ服の上に 狼の毛皮の半衣着込む旅姿で 太行山脈を越えて来たのである。 

  他方、耶律時が率いる45名の若き精鋭である騎馬武者達は包頭・呼和浩特(フフホト市)方面で縦横に騎馬を駆けさせていた。 時・遥の兄弟が合流したのは蟠龍山長城と呼ばれる燕京北西にある万里の長城近くの村落であった。 この付近の長城は崩落箇所が多く、崩れかかった長城の上の歩哨歩道を管理する余裕は金軍になかった。 

  この蟠龍山から北にゴビ砂漠を四半日突き切れば陰山山麓に至りて、西に走れば“緑の杜の街”と蒙古族が呼ぶ呼和浩特である。 呼和浩特(帰綏)まだも四半日の旅程。 東行すれば、太祖・耶律阿保機が遼帝国を建国を宣言したウランハダ(赤峰市)へも四半日の旅程。 金軍の動向や情報がつぶさに把握出来うる場所である。 遥の合流で時の活動範囲は拡大し、陰山山麓の先遣隊支援基地との連携の密に成っていた。

 遼の天祚皇帝が五原に逃亡する前に、金の阿骨打皇帝は 臣下した耶律余睹を黄河の南に布陣させられていた。 もともと、耶律余睹は五原にて、いまだに 遼皇帝を自認する天祚帝とは相容れぬ遼王朝の皇族である。 阿骨打皇帝は余賭を遇するに将軍として南宋に当たらせ、天祚帝身辺から有力な武将を遠ざけ、孤立させる策を堅持していた。 しかし、阿骨打の崩御で即位した呉乞買(太宗)は、天祚帝を五原から燻り出す構え執り、時を待っていた。 それ故、燕雲十六州の要都・大原に耶律余睹を軍事節度使の任に就けていた。 耶律大石が五原から姿を消して居る事など、彼の関心事では無かった。 呉乞買の考えは、天祚帝を消し去った後に遼の血脈を断つことであった。 有力であるがゆえに、危険な存在である遼王朝の皇族である二人、耶律大石と耶律余睹を戦わせて 双方を葬る機会を待ち構えていたのかもしれない。  

 1125年1月末 石隻也は石抹言の説明で違えることなく興慶の街でウルフ・セデキ宅を見いだし、大門脇にて問われるままに石抹言の名を告げて邸内に入った。 西夏国重鎮のウルフ・セデキの邸宅は壮大であったが、通された書院に接する中庭は江南を思わせる南宋風であった。 さほど待たぬ内に、急ぎ足の音と共に何蕎が現れた。

 「燕京は如何でしたかな、長旅 ご苦労さん、北に向かわれ大石様一行は予定どうりに事を進めておられます。 さて、今宵は我家にてゆっくりと休めばいい」  「ありがとうございます。 しかし、燕京よりウルフ・セデキさまにと託された文が御座います」 

 「文は私が、直ちに手渡しましょう。今、宮中に登上しておられます。 二三時は掛かるでしょうから、とりあえず 拙宅へ・・・・・欽宇阮達は、しばらく当屋敷に滞在の後 今 旅にでていりますが、 明日にでもウルフさまのお時間を頂きます故 燕京の視て来たままをお話しなさい」 

  翌日の午後、暖かい茶が供された昨日の書院に石隻也は居た。 何蕎も同席の上、セデキは話の内容 その旨が耶律大石に伝わることを確信して石隻也に話し始めた。 石隻也は他国の重鎮に対座する卑屈さに身を固くし、傍にいる何蕎。 彼の目は弟を見るような暖かさで時折、隻也に向けるが無言でいた。 ウルフ・セデキは長身の体躯を小さく見せるような柔和さで、一言一言 明晰な声で断言して行った。 天祚帝の南宋亡命は 余賭の黄河南部の攻略が災いして挫折するだろう。 西夏は絶対に受け入れないし、今 皇帝を孤立させている状況を金の阿骨打が作り上げた。 また、康阮殿と康這殿からの連絡は未だにないが、二月中には90余名の兵士たちが ここ興慶に入るであろうとの間者の報告があった事。

  また、 欽宇阮は何蕎との相談の上、河西回廊から青海の方面に向かった隊商の護衛として旅に出て、二ヶ月の予定ゆえ、三月には北庭都護府・可敦城に向かう事が出来るだろう。 更に、南宋からの情報として 梁山泊の宋江殿が天魁星と名乗り、豪傑を引き連れてこの地に向かっているとのこと。 この行動は耶律大石殿との連携かも知れぬが・・・・と笑みを浮かべた後に、 ここ半年の内に 天祚帝はある行動を起こすであろうと言い切った。 そして最後に、鳥海の商人忠弁亮が統師依頼の駿馬二頭の世話をした上、兵糧を草原に運んだことを話して席を立った。  

  石隻也が耶律大石への報告に明日にでも旅立つと答礼すると、セデキ・ウルフは急ぐことはないであろうと、今夜 認める文を大石殿にと 二三日は逗留しろと 昵懇に話して出て行った。 その三日後、何蕎の家を出る 商人姿の石隻也が背負う袋の中に忠弁亮への馬の鞍への答礼の品が入っていた。 懐の奥にはウルフ・セデキからの耶律大石への親書と何蕎の報告書が油紙に包まれて納まっていた。

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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