【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールが夢見た大洋_30_

2015-10-06 17:57:41 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ ジュチ・ウルス旗の成立 ◎○

★= グユクの謎の急死とモンケの推戴 =★

 グユクは征西再開のため、1247年8月にイルジギデイを指揮官としたペルシア遠征軍先発隊をイランに派遣した。 続いてグユク自身もウルス(私領)であるエミル・コボク地方への巡幸を名目として、一軍を率いて西征へ出発した。 しかしグユクは1248年4月、遠征途上で自らの旧領であるビシュバリク方面=かつて天山山脈東部の北麓に存在した城郭都市。9世紀から13世紀にかけて繁栄した天山ウイグル王国の首都=で急死する。 グユクは父親オコデイに輪をかけたほどの酒色に溺れる性癖があり、この死は酒色でかねてから健康を害したための病死だと同行の諸将は信じ、カラコルムでも疑う者はいなかった。

 しかし、盟友・モンケの生母であり叔母に当たるトルイ家のソルコクタニ・ベキが、この巡幸はグユクによるバトゥへの討伐軍ではないかと危惧し、あらかじめバトゥに警戒するよう知らせていた。 バトウは領地南方のイラン高原に本拠を構えるイスラム暗殺教団の使者一名を密行させた。 アラル湖東岸からイリ渓谷を遡行、天山北麓に抜けジュンガール草原を東に向かえばビシュバリックである。 蒙古帝国の連絡網の全てを知るバトゥの指令があれば、巡幸中のグユクに近づくことは容易であった労。 犬猿の仲であるバトゥによる暗殺の可能性を疑った者はいなかったが・・・・・・・。

 グユクの死後、その皇后であったオルガイミシュが摂政監国として国政を代行した。 しかし、ジュチ家の当主バトゥとモンケらトルイ家の王族たちはオグルガイミシュの招請を拒否し、約4年の間モンゴル皇帝位は空席のまま決まらず、帝国全体の統治はまたしても混乱する事となった。 ばとうは、政治力を発揮して全蒙古王族・諸家に召集をかけた。 バトゥは独自にクリルタイを開催したのである。 オゴデイ家の王侯はこの動きに抵抗したが、ジュチ・カサル家=ジンギス・ハーンの次弟の王家=、カチウン家=ジンギス・ハーンの三弟の王家=、テムゲ・オッチギン家=ジンギス・ハーンの末弟の王家=の当主たちがバトゥとモンケの集会に参集した。 更に、オゴディ家から、第一皇后の孫・シレムンや前皇帝・グユクの子であるホージャ・オグルやナグの兄弟も参加を表明するに及ぶ。 大蒙古帝国の長老としてのバトゥが政治力に王族諸侯は震撼したが、バトゥは盟友モンケを新たな皇帝(ハーン/カアン)として推挙し、モンケを強行的に即位させた。

 このとき、バトゥが次代の皇帝になることを望む声もあった。 がしかし、バトゥはあくまで帝国の影の実力者に徹して、帝位に就く素振りすら見せず、ついにモンゴル皇帝になることはなかった。 その後はジョチ・ウルスの領土の統治に尽力し、ヴォルガ河下流域のかつてのイティル(カスピ海の北西岸、ヴォルガ川河口部のヴォルガ・デルタに位置した)の周辺に冬営地サライを首都として定め、国力をたかめる。 かれは、モンゴル高原よりも西方の大草原から大洋に続く大地を思っていたのであろうか。 バトゥの宮廷を訪れたウィリアム・ルブルックによると、バトゥの宮廷は季節によって南北に移動し、春にはヴォルガ河東岸を北上してブルガール方面に留まり、8月には南に戻っていたと言う。

 ジュチ・ウルスに於いて、バトゥが青帳汗(Blue Horde)、異母の長兄オルダ白帳汗(White Horde)を任じて、それぞれジョチ・ウルスの右翼(西部)・左翼(東部)の統治を分担する。 バトゥはあくまでも蒙古帝国内ではクリルタイで認証された封土以上の領地を求めなかった。 父から譲られた領地を兄弟べ分けて、蒙古帝国が与えた封土内を充実させる政治を実施していく。 そして、1257年、自ら建設したヴォルガ河畔のサライにおいて死去する。 享年48歳の若さで在った。

 バトゥが死去する前年の1256年は、春に皇帝モンケが第2回のクリルタイを開催していたため、嫡子のサルタクはこのクリルタイに派遣されていた。 バトゥの訃報はただちにモンケの宮廷に伝えられ、モンケはサルタクをバトゥの後継者に任命し、直ちに帰国を命じた。 しかしながらサルタクはジョチ・ウルスへ帰還中に病没し、さらにモンケがその後継者に追認した末弟ウラクチもその半年後に夭折したため、最終的にはバトゥの次弟であるベルケがジュチ・ウルスを継承していくのだが・・・・・・・。 バトゥの評価は、

 バトゥの遠征軍の直接的脅威にさらされたヨーロッパ諸国の記録や、特に16世紀後半に中央アジア進出を開始するまで、ジョチ・ウルスの服属支配を受けたロシアにおいては、バトゥの性格は極めて激しく、敵には容赦ない残虐性を持っていた人物とみなされていた。 政敵はことごとく暗殺、戦場では敵を皆殺し、降伏してきた敵方の貴婦人300人を素っ裸にして首を刎ねるなど数々の処刑も行ったいわゆる「タタールのくびき」を体現する人物として、バトゥは悪逆非道な暴君として書かれる傾向にある。 また、13世紀中頃にトランシルバニアからロシア草原に出てバトゥの宮廷および蒙古の帝都カラコルムを訪れたローマ教皇遣使プラノ・カルピニのジョヴァンニも「偉大なる君主であるが、都市を容赦なく破壊する暴君でもある」と評している。

 しかし、軍事においては、数々の困難な戦いに打ち勝ってきた。 モンゴル帝国が短期間でヨーロッパにまで勢力を拡大できたのは、バトゥの功績によるところが大きい。 バトゥは戦場では極めて果断かつ苛烈であるが、これは『元朝秘史』、『集史』などでチンギス・カンが説き求めているモンゴル帝国の君主の徳目として、同胞や味方に対しては極力寛大に振るまい物惜しみなく報賞を与えることを第一とし、かつ、降服を拒む民や反逆する民に対しては容赦無く殲滅すべく敵に対しては妥協のない処置に望むことが美徳とされていた。

 バトゥもまた「チンギス・カンの金言」に忠実な人物だったと言える。 これに優れた人物で、人民に対しては寛大で宗教に対しても融和的な政策を採用して国家の安定を図り、モンゴル人からは「サイン・ハン/偉大なる賢君」とまで称され、ジュチ・ウルスの充実に力を注いだ。 その結果が、ジンギス・ハーンの“黄金の家の血筋”が歴史の渦に消えていく中、バトウの末裔がロシア革命以降も人民に慕われる貴族として現在までも生き続き得たことで論証されることになる。 モンゴル人以外の歴史家からも、バトゥは軍人としても為政者としても高く評価されているが、ヨーロッパ遠征中にオゴディ家のグユクやチャガタイ家の諸子らと犬猿の仲になったことが、後のモンゴル帝国分裂の一因を成してしまった事は歪められない。


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