【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

未知の世界へ 関野吉晴 =021=

2018-02-13 06:09:09 | 浪漫紀行・漫遊之譜

〇◎ 未知の世界へ飛び込んでいく関野吉晴 ◎〇

= ほぼ日刊イトイ新聞_2013-03-22-FRI “【グレートジャニー人類の旅】展開催時の対談”より転載・補講 =

☠ “人類の旅”に魅せられた関野の探求心はどこから来たのか  ☠

◇◆ 〝グレートジャニー“と言う壮大な旅  =1/2= ◆◇

約700万年前に生まれた原生人類は、およそ6万年前にアフリカを飛び出し、果てしなく長い時間をかけ、
世界のあちこちに拡散していった。 その壮大な人類拡散の過程をブライアン・M・フェイガンというイギリスの考古学者が、「グレートジャーニー」と名付けた。

基本的に「熱帯性の動物」であるヒトが、アフリカからユーラシア大陸を経て、広大な無人の新大陸(南北アメリカ大陸)へと旅していったこの過程「グレートジャーニー(The Great Journey)」は、人類の歴史のなかでも最大級の冒険、と位置づけられているものだ。

その「グレートジャーニー」のなかでも、もっとも長い距離を旅した人々の軌跡が、ベーリング海峡をわたって
(=ユーラシア大陸と北米大陸をつなぐ海峡です)南米最南端までたどりついた人々の旅路。

1993年、関野吉晴(せきのよしはる)という探検家が その、いちばん長い距離を旅した人々の来た道を、
逆向きにたどることをはじめた。 南米最南端のナバリーノ島から、アフリカ・タンザニアまで。 それが、関野の「グレートジャーニー」だ。

ウイキペディアには関野 吉晴(せきの よしはる、1949年1月20日- )は探検家・人類学者・外科医・武蔵野教授美術大学教授。 1999年植村直己冒険賞、2000年旅の文化賞(旅の文化研究所)。 と紹介し、東京都墨田区出身。 父は小学校教諭。 1975年一橋大学卒業、1976年一橋大学社会学部中退、1982年横浜市立大学医学部医学科卒業。

一橋大学在学中に自ら探検部を創設。大学3年次の1971年に1年間休学し、3人で部隊を組みアマゾン川」全流域を下る。その後南米中を旅行する。 早稲田大学探検部にも参加し、現在は早稲田大学探検部OB会の二木会会員。 留年、休学、編入と、7年間大学に在籍。

7年かけて法学部を卒業した後、一橋大学社会学部3年に編入して、探検家に必要な知識を身につけるため社会人類学のゼミを受講していた。 しかし、旅先で世話になる現地住民の足手まといなっているとの思いから、現地の人の役に立てるように医師になることを志し、夏頃から勉強を開始。 翌年、大学を中退し、横浜市立大学医学部に再入学。 医学部在学中も1年のうち4ヶ月は南米で暮らす。 横浜市立大学医学部卒業後は、外科医となり、病院勤務と探検を2、3年おきに繰り返す生活を続け南米に通う。

1978年ギアナ高地初訪問。 1981年にペルー・アマゾン川の源流地域パンチャコーヤでアンデス文明の遺跡を発見。 そして1993年から10年もの歳月をかけ、人類発祥の地アフリカから祖先の拡散の足取りを辿る旅、グレートジャーニーを開始する。 この旅行はフジテレビでシリーズ化され放送されている。 妻と長女がいる。

 前回まで≪未知の世界へ関野吉晴≫(001~020)でかれの〝グレートジャニー“の記録を綴ったが、今回から その彼の行動哲学を多彩な才能にあふれる糸井重里氏との対談からさぐって行こう。 この対談記録は、 ほぼ日刊イトイ新聞(ほぼにっかんイトイしんぶん)は、コピーライターの糸井重里(通称「darling(ダーリン)」)が主宰し、株式会社ほぼ日によって運営されているウエブサイトである。 記載は2013-03-22-FRIが第一回目である。

=補講・資料=

縄文人は高い航海術を持った海洋民族であった?(その二、2/2)

バヌアツ共和国(バヌアツきょうわこく)、通称バヌアツは、南太平洋のシェパード諸島の火山島上に位置する共和国国家である。西にオーストリア、北にソロモン諸島、東にフィジー、南にフランス海外領土のニューカレドニアがある。 イギリス連邦加盟国である。

土器を見つけたのはフランスの考古学のチームである。 しかしこの発見はあまり日本では放送されていないのだ。一部の人間達に都合は悪いことはマスメディアは一切放送しないためにミステリーさは加速する。 しかもその土器がいつごろ作られたかというとまさに縄文時代最中であった。

日本人は一体どこから来たのか?の紐解くことに繋がる

可能性としてあるのは2つだ。

  1. 縄文人が海洋技術を使ってバヌアツ共和国に行った
  2. バヌアツ民族が海洋技術を使って日本に来て、縄文文化を作り上げた

どちらなのかはまだはっきりとはわかっていない。 しかし間違いなく縄文人はただの狩猟・農耕民族なんかではないのだ。

農耕民族ではあり得ないほどの海洋技術があったことは間違いない。 この問題を考えることは日本人のルーツを考え、そして知ることでもあるのだ。 さらに縄文人の遺跡から見つかったのは中距離に生息する魚の骨であったために100kmくらいは海を渡る事が出来るほどの技術があったことも証明されている。

果たしてわたしたち日本人は一体どこから来たのか?そしてどのように発達して行ったのか? 本当のことはまだ解ってはいない。

・・・・・新節につづく・・・・・

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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