【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

チンギス統原理 【4】

2011-01-19 10:35:48 | 史蹟彷徨・紀行随筆


 タタルは草原で強力な部族であった。 金王朝の支援を受けていた。 モンゴル部族とは先祖代々の宿敵でもあった。 《後年 チンギス・カーンはタタル部族を殲滅する。*タタル族の一部は逃走し、東欧を侵略する。 ローマ・東欧を震撼させた また 未だに語り継がれている“タタルの軛”は時代的に矛盾しそうですね、しかし タタルが ユウラシア草原西部を狂騒・混乱させたのは想像できるますが*事実、タタル族は事実上、根絶やしになる。 部族としては消滅するのですが、テムジンの時代の話ですゆえ チンギス・カーンの母親・ホエルンが殺されようとするタタル族の一子をもらい受け、息子として育てる逸話だけを記しておきます》
 家長としてのテムジンは まだ幼かった。 父・イエスゲイは、高貴な血統の出であったが武将であって 自己の信ずる道を歩んだ。 カン位で人が呼び、追従しようともバートルであった。 近隣の揉め事に労を惜しまなかった。 ふとした事からタイチュウト氏族が敵意を抱いていた。 タタルは幼いテムジンを恐れていたが、イエスゲイ毒殺の“もののべ”らしからぬ振る舞いにテムジン一家の自滅を待った。 タイチュウトがテムジンを追い、捕らえた。 見せしめの為 手枷・足かせを厳重に施し 檻に入れた。 イエスゲイへの雪辱を晴らし、テムジンの衰弱死を待った。*遊牧人の風習として 血を流す殺害方法は忌み嫌われます  無論 戦闘は別ですが、特に貴種の血は祟りを恐れ 血を流さない方法を選びます。 例えば餓死、袋に入れての撲殺、絞殺、手枷・足かせの衰弱死です* テムジンは耐え、脱出する。 機転を利かして。 *テムジンの少年期に関しては『元朝秘史』や『集史』などの史書や小説家の表現には英雄のサクセス・ストリーに脚色がある* 死に直面したテムジンの脱出劇は 多くの人の犠牲と手助け そして 勇気・献身があって成功したのであろう。 それは 父・イエスゲイと母・ホエルンの徳であった と 小生 愚考する。 事実 チンギス・カーンとして即位の席にて この脱出に手を貸してくれた一人ひとりに過大の恩賞と地位を与えている。 テムジンは逃走する。 屈辱を晴らすには、タイチュウトと決戦せねばならぬ、父の復習をせねばならぬ、家族を守らなければならぬ、と 心魂に刻みながら  テムジンは聖山デリウン岳に身を隠した。

 テムジンの話から離れますが、チンギス・カーンとして即位し、巨大な帝国を創り上げることがなぜできたのか 日本に限らず、世界中 覇権を確立できるのは当然 その指導者の個人的な資質に拠るでしょう。 結果的に彼らの天才的戦略・能力に帰せられます。 しかし あらゆる戦略はその状況に最も適応したものであるがゆえに成功する。 前に 遊牧民社会において、実の母以外は父の死亡と伴に 財産として継承する風習を話した。 これはレビラト婚と言われるもので奇異な社会的習慣だと現代人は驚愕する。 だが 草原の中に取り残された寡婦が生きていくには最適な方法だったと考えらる。 テムジンは他の社会では受け入れられない社会的背景《文化と言ってもいい》を踏まえた戦略家だったと理解できる。 
 テムジンは十二世紀の人物。 紀元前四世紀に遊牧民帝国を確立した匈奴以来1600年、遊牧民の文化はほぼ確立し、チンギス・カーンが“ヤサ/ジャサ法典”で成文化している。 では 他の地域と異なる遊牧民の文化の特徴を理解しておかないと チンギス・カーンの成功や “アルタン・ウルク/黄金の氏族”が近世まで覇権を継承できた理由が理解できない。
 遊牧民社会は 1;徹底した実力主義の社会 2;人命(人材)尊重の社会 3;非完結の社会 だと言える。 徹底した実力主義の社会は イ-指導者は能力のある者が話し合いで選出される ロ-農耕民に比して女性の地位が高い ハ-能力があれば異民族でも厚遇する ニ-男女を問わず騎馬と騎射に優れている、必然的に機動性に富むあり様がそのまま武力に直結する / 人命(人材)尊重の社会は ホ-情報を重視し勝てない相手とは戦わない ヘ-実際の戦闘は行なわず指導者間の交渉で解決する ト-同盟者・義兄弟の契りを重視し、従属者に新旧の差別なく対等・公平である /  非完結の社会は チ-地域内の社会維持に非遊牧民世界の技術・製品・税(社会運営資金)を必要とするため、必然的に領域内に農耕都市を抱え込む リ-交易を重視し、農耕文化域からの生産品・情報が必要である 等々 (イ)から(リ)の諸項目に整理できるでしょう。 テムジンの行動は 全て これらに則していた。 彼は聖山デリウン岳の神に問い、決意新たに山麓に姿を現した。
 母・ホエルンが家長として小さな渓谷にて一家を支えた。 生活は苦しかった。 その苦しさと貧困さがテムジンをして 義理の兄 二人を射殺せねばならぬ状況まで追い詰めた。 また 唯一の馬を盗まれ、奪回に向う途中で ボオルチェにあった。 ボオルチェは義憤の若者であった。 二人して馬泥棒を追った。 馬の足跡を三日程追った。 馬を取り戻し帰路に就いた。 ボオルチェは父より数等の馬と羊を譲り受け 付いて来た。 後年 ボオルチェはモンゴル帝国創設期の殊勲第等の勲臣となる。 アルラト氏族でテムジンの“ネルケ*家族と血縁関係を切り、尊敬する人の従者になる関係*”第一号です。 テムジン一家は増えた馬・羊のために よりよい場所 草原に移動した。 テムジンは成人した。 母の勧めで ボオルチェとともに、許婚のボルテを迎えに旅に出た。 岳父は父との約束を守ってくれた。 テムジンの事情を全て知りながら。 
 ある夜 メルキット部族連合の王 トクトア・ベキの率いる軍勢に幕営地を襲われる。 これは、父・イエスゲイが母・ホエルンを奪った復讐です。 テムジン殺害の意図は薄かったでしょう。 ですが、愛妻のボルテが略奪された。 テムジンには兵力はない。 兵力が欲しい 一家は西に走った。 父の“アンダ” オン・カーンの援助を求めて。 ケレイト王国に走った。 トリグリ(オン・ハーン)は快諾した。 父のアンダ(同盟者)である。 トリグリは政治力で交渉に臨んだ、が 決裂した。  幼い頃 アンダを誓ったジャムカも兵力を連れて駆けつけた。  オン・カーンの兵力にジャムカの兵力が加わり、 トクトア・ベキとの戦いはテムジンの作戦で勝利した。 半年を費やした戦いであった。 ボルテを奪回した。 しかし アンダのジャムカはテムジンの采配に脅威を覚える。 次代の草原の覇者への自惚れがテムジンの資質に脅威の風圧を知ることに成った。 凱旋し、 戦い中に参戦していた恩人の息子がネルケになった。 テムジンがタイチュウトに囚われた折、脱出の手助けをした命の恩人 ソルカン・シラ親子である。 タイチュウト氏族である。 親子で参戦し、父はテムジンから拝領した土地の経営に戻った。 息子がチラウンが二番目のネルケである。 戦いは領土の奪い合いだ。 ジャムカやトリグリは同盟者として対等の立場である。 勝利を分配する義理はない。 それが“アンダ”である。
 ボルテは懐妊していた。 そして 出産した。 テムジンは“ジュチ”と名づけた。 《各人・異邦の人》の意味です。 ジュチはこの名前に悩む。 母・ボルテの懐妊初期からの長き時間をメルキットで過ごし、父がトクトア・ベキ王を意識してか命名したジュチの名に また 長兄でありながら、弟達と争えば彼らが“客人”と 囃し立てることに しかし テムジンはジュチを愛しみ、信頼していた。  後年の事だが、金帝国を崩壊させた折 従属を希望した耶律楚材が最高政治顧問として、チンギス・カーンの偉業を推し進めます。 耶律楚材とジュチの関係が深まれば深まるほどチンギス・カーンは両名に信頼を深めていくのです。 このことはジュチの“キプチャック・カン国”で話しましょう  
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