【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

宇宙での観測機器開発リーダー / 岡田達明(05/15)_学究達=367

2023-01-09 05:35:10 | 冒険記譜・挑戦者達

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成5年01月09日<ⰧⰊⰧ

☆★ 内村鑑三が教育勅語のバカらしさに呆れて型通りの礼をしたところ、礼の角度が足りない!とブーイングの嵐を浴びる(1891年=内村鑑三不敬事件)。☆★ 時計代わりに発破をやったら、雪崩で村一つが消えて無くなったでござる(1918年)。☆★ 百合な女子校生のカップルが三原山からエクストリーム・自殺、これを切っ掛けに三原山でのエクストリーム・自殺が大流行(1933年)。 大流行を飛び越えた携帯品/Appleのスティーブ・ジョブズ、初代iPhoneを発表(2007年)。

本日記載附録(ブログ)

小惑星イトカワのサンプルを地球に持ち帰った「はやぶさ」

太陽系の形成や進化の謎を探るため、「はやぶさ2」の開発がいま急ピッチで進行中だ

探査機に搭載する観測機器のスペシャリスト、岡田達明教授……

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

=太陽系の進化の謎を探るため、探査機に搭載する観測機器のスペシャリスト= 

岡田達明(05) ◇◆ 第2回 宇宙と「地形」への興味から「はやぶさ」の研究へ=2/2= ◆◇

    パイオニア、ボイジャーといった、外惑星に向かう探査機が「外へ外へ」と視野を広げていく時代に、岡田さんはあくまで、きちんと「地形」のある内側の惑星に関心があると自覚したというのだから、かなり根源的な興味なのだろう。

 テレビ番組の「コスモス」の放映時点で、岡田さんは小学6年生。さらに中学時代に、日本の啓蒙的科学雑誌のさきがけ『ニュートン』が創刊されたことも大きい。

「初代の編集者は日本の惑星科学の草分け、竹内均先生(当時・東京大学名誉教授)で、2代目が弟子の水谷仁先生(宇宙航空研究機構名誉教授)。私の指導教官です。もう1人、竹内研究室の出身者で松井孝典先生(東京大学名誉教授)なども、よく『ニュートン』に書かれていました。特に松井先生は、NHKの『地球大紀行』というテレビ番組で、地球の初期の進化過程を、詳しくわかりやすく説明してくれていましたね。それがちょうど大学に入ったぐらいですかね」

「地球大紀行」は、日本のテレビの科学番組史に残る大作で、今でもDVDや関連書籍が手に入るほどだ。岡田さんは、「コスモス」『ニュートン』「地球大紀行」と、ある意味、当時の科学啓蒙メディアの王道に接しつつ惑星科学へとどんどん引き寄せられていったことになる。惑星科学を世界に発信したカール・セーガンにしても、『ニュートン』を創刊したスタッフにしても、まさに仕掛けがぴたっとはまった快心の人材だったかもしれない。

    岡田さんは大学3年生で志望学科を決める段階で、地球物理学科を選んだ。

「実は、私が大学院に進んだちょっと後ぐらいから、大学の学科の名前が『地球物理学』から『地球惑星何とか』に変わるところが増えました。その方が学生に人気があったというのもあるんですが(笑)。でも、私としては、地球というのは、他の惑星と置きかえても変わらない、単に太陽系の内側から3番目の惑星だと、そういう感覚でしたので、特に違和感はなかったんです」

 そして大学院生の時に、宇宙機に搭載するX線分光計の研究開発を始め、これが「はやぶさ」に搭載された。日本の宇宙探査史上、最も一般社会に浸透する「ドラマ」の一翼を担うことになった。

「私が声をかけてもらった時には、小惑星探査ミッションとして1997年ぐらいの打ち上げを目指していました。私が大学院に入ったのは91年ですので学位取得には間に合わないんですけど、そのまま研究を続けるとなると、それは結構面白いなと始めたんです。実際は聞くたびに打ち上げは遅れてゆく一方で、打ち上がったのは2003年です」

 これが結果的には素晴らしいタイミングだったようなのである。観測機器の開発で学位をとり、さらには開発・搭載・運用・観測の成功・サンプルリターンの成功、そして、あれやこれやのドラマチックなイベント、それらの全てを体験できたのだから。

次回は“第3回 太陽系の初期の情報を求めてイトカワへ”に続く

…… 参考資料: はやぶさ 2 (2/2) ……

2005年の第5回宇宙科学シンポジウムの時点では、次期小惑星サンプルリターンの構想として3つの候補が考えられていた。そのうちの1つは2012年にC型小惑星である 1998 KY26 に向けて打ち上げ、2017年の地球帰還時のスイングバイでさらに 2003 YN107 へ向かい、2019年に2個目のカプセルが地球帰還という計画案だった。しかし2006年初、後にリュウグウと命名される 1999 JU3 が探査目標に選定された。

はやぶさは当時、様々な故障を抱えていて地球へ帰還できる可能性は決して高くない状態にあり、アメリカ航空宇宙局 (NASA) が検討を開始したOSIRISミッションなど他国の追い上げも厳しい中、小惑星探査の分野での世界トップを維持できなくなるという危機感から、はやぶさ関係者からは後継機の早期の打ち上げが切望されていた。そこで、「はやぶさ」の再挑戦ミッションとして「はやぶさ2」の計画が立てられ、それまで検討されてきた「ポストはやぶさ」は「はやぶさMk2」と改称して区別することとなった。

2007年に計画は月・惑星探査推進グループ (JSPEC) に引き継がれ、2010年から2012年の打ち上げを目標に検討が進められたものの、JAXA全体でプロジェクトを積極的に推進するとの意思統一はなされず、計画は遅々として進まなかった。2007年度の予算折衝では、「はやぶさ2」計画側は5億円を要求し、財務省や文科省も数億円程度の予算をつけることを提案したが、JAXAはこれを退け予算は5000万円に留まった。これは情報収集衛星計画やISSきぼうの打ち上げ、運用、物資補給などの負担も従来の予算内で行っており、予算の都合から太陽系探査は後回しにされている現状を示している。

研究フェーズ移行

はやぶさ2に関する開発費は国民世論の大きな盛り上がりもあり、WGを作って数年かけて提案していくという通常の手順とは異なる方法で提案をしていくこととなった。その後、宇宙開発委員会による一連の審査により「JAXAが早急に行うべきミッション」との判定を得て、2007年6月にはプリプロジェクト(「研究」フェーズ)となった。しかし、既存の計画の間に後から入ることとなったため予算上の制約は大きく、その後の進捗は思うようには進まなかった。

打ち上げと、リュウグウ到着まで

2014年11月30日に打ち上げ予定が設定されたものの、天候不良によって12月1日に延期され、さらに12月3日に再延期された。 / 2014年12月3日13時22分 (JST) 頃、H-IIAロケット26号機により打ち上げ。その後、イオンエンジンやKaバンド通信系などの初期のチェックアウトを順調に終了。 / 2014年12月5日、本体および地上系一連の健全性を確立するクリティカル運用終了。 / 2015年3月3日、巡航フェーズへ移行。 / 2015年12月3日、地球スイングバイを実施。 / 2018年2月26日、小惑星リュウグウの点像を、距離約130万 kmからの撮影に成功した。 / 2018年6月3日、往路のイオンエンジン運転を終了。

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発進!はやぶさ2 宇宙大航海時代へ

https://youtu.be/yoo58xjVSsc

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森のなかえ

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