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【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

◎_今日の足跡が記録帖_◎ 2022/05/06/(金)

2022-05-06 05:35:15 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事= 平成4年05月06日 ⰧⰂⰧ

ゴムの日。ゆえにおそらくコンドームの日であろう。 「may(5)ロ(6)」の語呂合せから“迷路の日”でもある。いや、立夏である。

 聖徳太子が役人の体たらくに我慢出来ず、「十七条憲法」で生活習慣の改善を求めた(604年)。

英仏トンネルの完成により、イギリス国民は再びコルシカの山師やら逆卍の独裁者やらの脅威にさらされることになった日(1994年)。

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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550年後、目覚めた英国王=45=

2016-02-27 19:15:05 | 史蹟彷徨・紀行随筆

○◎ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ◎○

 ◇◆ ロンドン塔で発見された子供の骨 ◆◇ 

  ところで、トマス・モアの記述(『リチャード3世史』)によると、殺害された王子たちの遺体は、「最初はロンドン塔の階段の上り口の下に掘った穴に埋められたが、リチャードの指示で、ある司祭によって掘りだされ、べつのところに埋葬し直された」ことになっている。

 ところが191年経った1674年、チャールズ2世の時代に、ロンドン塔の改修工事中に、ホワイトタワーの階段の土台に下から子供のものとおぼしき骨が発見された。 その骨は、塔で消えた王子たちのものに違いないということになり、ウェストミンスター寺院の王室礼拝堂に埋葬されたという。
 さらに時がたった1933年、ウェストミンスター寺院の礼拝堂にあった壺を開けてみると、中から子供の骨が出てきたという。 ふたりの専門家によって骨の調査がおこなわれたところ、それはふたり分の子供の骨で、年齢はおよそ、10歳と12歳と推定された。そのことからその遺骨は、ほぼ王子たちのものに間違いないだろうということになった。

 だがしかし、これでは、「埋葬し直した」というモアの記述と矛盾してしまうことになる。 また、モアの記述では、埋めたところは「階段の上り口の下」となっているが、発見されたのは「階段の土台の下」で、ここにも食い違いがある。

「土台の下」に埋めたとしたら、「上り口の下」に埋めるよりもはるかに大仕事になる。 暗殺後の処理にそれが可能だったのか疑問である。 それとも、これは単なる表現の違いか記述の誤りで、同じ場所のことなのか。 もしそうだとなると、司祭はリチャードに「埋葬し直すように」と指示されたが、それをしなかったことになる。
 その後、壺に入っていた骨の再鑑定がおこなわれたところ、今度は年齢は9歳を超えていないだろうという結論がでた。 それが正しいとなると、階段の土台の下で発見された子供の骨は、ふたりの王子のものではない、ということになる。

 ところでモアの記述で、一つだけ真実を語っていると思われるところがある。 それは、「リチャードが王にふさわしい場所に埋葬し直すように指示した」というところである。 リチャードが極悪非道の王子殺しの犯人だとしたら、そのようなことは言わなかっただろう。 もし計画的に王子殺しを指示したとするならば、事後処理のことも前もって指図していただろう。そうでなかったとしても、一度、埋めてしまったものをわざわざ掘り返させるような危険は冒さなかっただろう。 そのままにしておけばよかったのである。 それよりも、埋葬場所を気にかけるくらいなら、最初から甥殺しなどは考えなかったと思えるのだが。

 やはり、王子たちを殺したのはバッキンガム公なのだろう。 彼が王子殺害をティレルに命じ、ティレルはふたりのならず者を使って、それを実行したのである。そのあと、ふたりの遺体を、まず掘り返される恐れのない階段の上り口の下に穴を掘って埋めた。 リチャードは、バッキンガム公を呼びつけたとき、彼からその場所を聞きだし、司祭に埋葬し直すように指示したのだろう。

 それにしても、ふたりの王子がどうなったのかは、いまもって謎のままである。

 さて、話を薔薇戦争に戻そう。 英国の王冠を誰が手中にしたかの話である。 1485年8月22日に、ヨーク派の国王リチャード3世と、対抗して王位を争ったランカスター派のリッチモンド伯(後のイングランド王ヘンリー7世)の間で行われた“ボズワースの戦い(Battle of Bosworth)”で、リチャード3世の戦死による敗北と、ヘンリーによるヂューダー朝樹立という結果で幕を閉じたのだが、 ランカスター派の中で王位争奪の内部闘争が始まる。 また、決着を見たはずの“ボズワースの戦い”の数年の後に、ヨーク派を自称して王位奪還を目論む勢力との戦闘が始まる。

 歴史的にはこの戦闘をもって「薔薇戦争の終結」とし、 ヘンリー・テューダー(リッチモンド伯/ヘンリー7世)は、これ以前の反逆罪によってリッチモンド伯の称号を剥奪される。 この結果、ランカスター派の内部抗争が始った。 

 ◇◆ ストーク・フィールドの戦い ◆◇ 

 ヘンリー7世はランカスター派の後継として王位を得て、リチャード3世の兄であるエドワード4世の娘エリザベス王女との結婚で旧ヨーク派の取り込みも進んでいた。 しかし、まだその支配は完全ではなかった。 生き残った中で最も有力なヨーク派の後継者は、エリザベスの従弟に当たるウォリック伯エドワード(クラレンス公ジョージの息子)だったが、この少年はロンドン塔に収監されていた。

 1485年にリチャード3世を倒してテューダー朝のヘンリー7世が即位した時点ではまだヘンリー7世の王権は確固たるものではなく、ヨーク派の後継者として王位継承権を持つウォリックは厳しくマークされていたのである。 特に、1487年にランバート・シムネルがウォリックの名を騙って反逆を企てると、より厳しく監禁されることとなった。 このウォリック伯エドワードの名前を騙るランバート・シムネルという少年が、リンカーン伯ジョンの目に留まった。 リンカーン伯としてはテューダー家のヘンリー7世と和解は可能だったが、彼は王位継承権を持っていた。 そこで、リンカーン伯はシムネルを利用することで、ヨーク派の復讐と王位継承という補償の機会を得たのである。

 リンカーン伯は1487年3月19日にイングランドの宮廷を出て、叔母のブルゴーニュ公妃マーガレットのいるメヘレンの宮廷に行った。 マーガレットは資金の他に老練なドイツの指揮官、連隊長マルティン・シュヴァルツの下に1,500人の一流のドイツ人・スイス人傭兵を揃える形で軍事援助も行った。 メヘレンのリンカーン伯に、テューダー朝に反感を持つ、リチャード3世の忠実な支援者だったラベル子爵、ジャージー島の前知事リチャード・ハールストン卿、英仏海峡のフランス側の要塞都市・カレー駐屯軍の司令官トマス・デイヴィッド、といった貴族たちがヨーク家再興を旗印に合流した。

 

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550年後、目覚めた英国王=16=

2015-12-31 17:12:08 | 史蹟彷徨・紀行随筆

○◎ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ◎○

◇◆ リチャードのクーデター / 敵役として稀代の奸物に描かれる遠因 ① ◆◇

 ノーサンプトンに到達したリチャード(後のリチャード3世)は翌日の早朝、エドワード5世一行はこの地で合流を約束していたにもかかわらず、この町を離れ12マイル先のストニー・ストラットフォードまで進んでいることを知る。 エドワード5世を取り巻く連中が約束を反古にしたことを知る。 事態の急変をリチャードは感じた。 リチャードは、ストーニー・ストラットフォードへ急いだ。 1483年4月28日、グロスター公リチャードとバッキンガム公ヘンリー・スタフォードは、エドワード5世を警護しつつロンドンに向かっていたリヴァース伯をストニー・ストラットフォードで拘束した。 リチャードらはリヴァース伯に争う意図はないと伝えていたものの、 リヴァーズ伯ら3人を謀反の疑いで逮捕し、拘束してしまう。 そして、翌日にはリヴァース伯と王の異父兄のリチャード・グレイらはリチャードの囚人としてリチャードの領地ヨークシャーのボンテクラフト城に送り、投獄する事を命じた。 因みに、彼らは6月末に処刑される。

  その一方で、リチャードはエドワード5世のそばに摂政として仕え、エドワード5世には国王の身を害そうとするウッドヴィル家による陰謀を妨ぐためにリヴァース伯らを行かせたと告げた。 また、ほかの者がかってに新国王に近づくことを禁じた。 この4月28日から29日にかけてのできごとについては、二つの異なった記録がある。

 一つは1483年、当時、たまたまイングランドに滞在していたイタリア人僧侶のドミニク・マンチーニが残した記録である。 そこには、次のように記されている。

・・・・・「リチャードとリヴァーズ伯らの会見はなごやかに進み、その日は何事もなく過ぎた。 ところが翌朝になると、リチャードはリヴァーズ伯らを逮捕した。 そのあと、バッキンガム公とともに大軍をひきいて新国王のところに駆けつけると、かれを側近たちから隔離した。 そして、先王が健康を害して死亡したのはリヴァーズ伯らの責任で、かれらはリチャードの暗殺もくわだてて待ち伏せをしていた、と リヴァーズ伯らを非難した。 それで新国王は、いやおうなくリチャードの保護下に入らざるを得なかった」・・・・・

 リチャード3世にかかわる最大の謎の一つに、かれが王位簒奪を考えたとしたら、それはいつだったかということがある。 マンチーニの記録から読み取れることは、リチャードはこのころすでに王位簒奪をくわだてていて、その機会を狙っていた。 それでリヴァーズ伯らがあいさつにきたとき、油断させておいてかれらを逮捕した。 そして新国王には「リヴァーズ伯らが謀反をくわだてた」と吹き込んだ――ということになる。

 このときのようすを伝えるもう一つの記録は、『クロイランド年代記』という、リンカンシャーの修道院の記録である。
 これによると、ノーサンプトンのリチャードのところにリヴァーズ伯らがあいさつにきて、友好的な雰囲気で会見が進み、夕食をともにした――というところまでは一致している。  しかし『クロイランド年代記』では、バッキンガム公はこの席に遅れてやってきたことになっている。 そしてそのあとには、次のようにある。

・・・・・「そのときは時間がもう遅かったので、皆、それぞれの宿所にさがることにした。 ところが翌朝になってみると、リヴァーズ伯らが宿所を抜け出していることがわかった。 リチャードとバッキンガム公は、すぐにかれらを追いかけ、ストーニー・ストラットフォードの町の入口で追いつき、かれらを逮捕した。 それから新国王の側近たち全員を町から追い出すと、新国王にかってに近づく者は死罪にすると命じ、新国王を掌中におさめた。 そしてこの事件は、4月30日に起きたことだった」・・・・・ この記録から想像できることは、あとからやってきたバッキンガム公が、リチャードの宿所に入り、かれに何かを話したことである。そして、ふたりが会談していることを知ったリヴァーズ伯らは、身の危険を感じたのか、夜が明ける前に逃げ出した――と推論できる。

 バッキンガム公は、このとき300人ほどの手勢を引き連れていたともいう。 そしてかれは、王母エリザベスらの不穏な動きやロンドンのようすなどをリチャードに知らせたのだろう。 そのこととリヴァーズ伯らが夜明け前に抜け出していたことを知ると、リチャードはかれらの陰謀を確信し、追跡してかれらを逮捕したのである。 こうしてみると、最初に不穏な動きをしたのはリヴァーズ伯らで、リチャードは、このときはまだ王位簒奪を考えていなかった――ということになる。

 リチャードは兄エドワード4世の忠実な右腕として、ヨーク家を軍事的にも政治的にも支えてきた。 そのことは、当時のさまざまな資料からも明白であるとされている。 兄からまかされていた北部の統治では、すぐれた行政手腕を発揮し、評判もよかった。 私生活でも避難されるようなことはなく、良き家庭人だった。 そう伝えられているリチャードのイメージからは、以前から「機会があれば王冠を手に入れてやろう」と思っていたと想像するには、無理が感じられる。

 かれは、政治的な権謀術数をめぐらすよりも、むしろ単純なほど実直であり、あくまでも兄の副官であることに満足していたのではないか。 リチャードは、兄から甥のエドワード5世の摂政に指名されたことを知ると、忠実にその職務に専念するつもりでいたにちがいない。 それ以上のことは考えてもいなかった。 ところが、兄が急死する前からヨークシャーの山のなかに伝えられてくることは、国王をないがしろにした、王妃エリザベスとその親族の横暴ぶりばかりだった。

 そんなときに、兄国王の死が伝えられた。 リチャードは、摂政として幼い甥を支えることに誇りをもって意気込んだ。 そして甥の一行と連絡を取りながらロンドンへ急ごうとした。  ところが、どうもようすがおかしかった。 かれが新国王の一行に合流しようとしているとき、その一行は先へ先へと進み、合流するどころか、リチャードよりも先にロンドンに入ろうとしていた。

 

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550年後、目覚めた英国王=09=

2015-12-17 16:36:45 | 史蹟彷徨・紀行随筆

○◎ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ◎○

◇◆ ランカスター家の断絶 ◆◇ 

 フランスのブルゴーニュ公シャルルの支援を受けて祖国イングランドのレイバンスバーに上陸したエドワード4世とグロスター公リチャードは、イングランド北部のヨークをまわり、ランカスター派をかわしながら進軍し、3月29日に中部のウォーリックにまで進んできた。 エドワード4世は、そこでヨーク派を前にしてふたたび王位を宣言した。 そして4月11日、かれはロンドンに入ると、ヘンリー6世を捕らえ、ロンドン塔に幽閉したのである。 このときウォーリック伯は逃亡していたが、クラレンス公は、弟のリチャードのとりなしで、ふたたびエドワード4世と和解することになった。

  一方、エドワード4世は、逃げたウォーリック伯にすぐに追手をかけた。 そして4月14日、ヨーク派とランカスター派はロンドンの北約16キロメートルのバーネットで、またや激突することになった。 「バーネットの戦い」である。 ヨーク軍の先陣の総司令官をつとめたのは、18歳のリチャード(後のリチャード3世)だった。 この戦いで、中世最大のキングメーカーだったウォーリック伯はついに討たれ、ヨーク軍が勝利したのである。 この戦いのとき、ヘンリー6世も戦場に連れだされたが、からはランカスター派の敗北を見せつけられただけで、そのままロンドン塔に戻されたという。

 ところがちょうどこの日、ヘンリー6世の王妃マーガレットと皇太子エドワード、その妻アン・ネヴィルらが、ドーセットのウェイマスに上陸していた。 彼女らは、ウェールズでヘンリー6世の異父弟となるジャスパー・テューダーと合流し、そこでランカスター勢力を結集しようとしていた。 エドワード4世はこれを粉砕すべく、急遽、軍をさし向けることにした。 ヨーク軍の先陣の総司令官は、今回もリチャードだった。 ランカスター派の軍隊は、ヘンリー6世の王妃マーガレットとその息子で17歳になる王太子エドワードによって指揮されていた。 

 もし マーガレットがウォリック伯の敗戦の時にイングランドに戻って来ていて、彼女と同盟を結んでいたベッドフォード公ジャスパー・テューダー(ヘンリー・テューダーの叔父)と組んで先刻のバーネットの戦いに参陣していたら、エドワード4世のヨーク派軍に対抗できる可能性も残っていただろう。 彼女の唯一の希望はグロスターでセヴァーン川を渡ることであったが、これはグロスターの町と城を治めるヨーク派のリチャード・ボーシャン卿に拒否されて失敗した。

 マーガレットは残っている指揮官の中でも経験豊かなサマセット公に大きく依存した。 だが、彼の能力は王朝を支えられるほどのものではなかった。 ヨーク派は大砲で優勢だったのだが、サマセット公はそこを読み違え、王弟リチャード(後の国王リチャード3世)がサマセット公の側面を充分攻撃できる位置に布陣してしまった。 後退するランカスター派の中でパニックが起こり、サマセット公は事態を収拾するために、戦闘の主導権を握れなかった罰を理由に、彼の部将であるウェンロック卿を処刑したと言われている。 ヨーク軍は、王妃マーガレットの軍をグロスターの北東約16キロメートルのテュークスベリーに追い詰めると、5月4日の「テュークスベリーの戦い」で皇太子エドワードを戦死にいたらしめ、マーガレットを捕らえたのである。

 5月21日、エドワード4世はリチャードをともなって、ロンドンに凱旋した。 ロンドン塔に幽閉されていたヘンリー6世は、皇太子の死を知ると、悲嘆にくれ、そのままその夜――11時から12時のあいだ――に死んでしまったという。 しかし、かれは殺害された可能性が高いとされている。 またこのとき、ロンドン塔にはリチャードがいたとも言われている。 そしてテューダー王朝の歴史家は、このヘンリー6世の死も、リチャードの仕業だと非難する。 しかし、ヘンリー6世がリチャードに殺害されたとすれば、それはエドワード4世に命令されたものにちがいないのである。 それはともかく、ヘンリー4世、5世、6世とつづいたランカスター家の本流は、これで断絶してしまったのである。 しかし、“ばら戦争”はまだ終わっていなかった。

 ところで、ヨーク家に捕らえられた王妃マーガレットはというと、1475年に釈放され、母国フランスへと帰っていった。 しかし、彼女は領地もなく、失意と孤独のうちに1482年、52歳で生涯を閉じたという。 ”ばら戦争”は、ヨーク家と王妃マーガレットとのあいだの戦いとも言えるもので、彼女はその一方の主役でもあった。

 

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タタールが夢見た大洋_14_

2015-09-05 17:58:43 | 史蹟彷徨・紀行随筆

○◎ 更なる西へ、バルト海へ、アドリア海へ ◎○

○◎ バトウの胎動 ◎○

 バトゥは、1236年春2月、モンゴルル帝国第2代ハーン・オゴディの命を受けて ヨーロッパ遠征軍の総司令官となった。四狗の一人であるスブタイやチンギス・ハーンの4男・トルイの長男であるモンケ、そして皇太子の立場を自慢するオゴデイイの長男・グユクらを副司令としてバトゥのヨーロッパ遠征軍は編成された。 大祖父が長男・ジュチに託した夢の体現である。 第2代ハーン・オドデイイはモンゴル帝国の領民に、皇族・貴族に、将軍・武官にさらなる西方・欧州゜遠征軍への参軍を布告している。

 『元朝秘史』には、各王家の長子クラスの皇子たち、また領民を持っていない皇子たち、さらに 「万(戸)の、千(戸)の、百(戸)の、十(戸)のノヤン(義兄弟)たち、 多くの人は誰であっても 己が子の兄たる者(長子)を出征させよ。 王女たち、その婿どのたちは 同じようにして 己が子の兄たる者(長子)を出征させよ」と 記している。 バトゥのヨーロッパ遠征軍は 皇帝・オゴディィが自らの布告とあって、帝国全土の王侯・部衆の長子たち、彼等は 次世代の蒙古帝国の中核を担う嗣子たちが出征するという甚だ大規模なものだった。

 バトゥは遠征軍に参軍する皇子たちを統括し、皇太子・グユクはそのもとで皇帝オゴディイの本営軍から選抜された部隊を統括するよう勅命がくだっていた。 『集史』によれば、チンギス・ハーンの功臣筆頭のボォルチェの世嗣ボロクダイが このバトゥの本営・中軍の宿将としてこれを率いていた。 この遠征では前述のとおり各王家の当主クラスの皇子たちが出征した。 ジュチ家からは総司令バトゥを筆頭に、その異母兄オルダ゛と異母弟ベルケ、シハン、タングトが参加。

 チャガタイ家からは、チャガタイの長子モェトウゲンの次男ブリ、その叔父にあたるチャガタイ6男のバイダル。 オゴディイ家からは長子グユンと彼の末弟カダアン・オグル。 トゥルイ家からは長子モンケと7男ボチェク。 そして チンギス・ハーンとその次席皇后クラウン・フジンとの子であるコルゲンが参戦した。 戦いにて勝ち取った新領土は参戦した武将に分け与えられるのである。 騎馬遊牧の民の掟に従って分与されて行くのである。 この結果、若い欧州遠征指揮官バトゥかこの時率いた兵力は、4個千戸隊(約1万人)だったと推定されている。

 遠征軍の征服目標はジュチチ家の所領西方の諸族=アス、ブルガルル、キプチャク=の諸勢力と、ルース、ポーランド゛、ハンガリー方面であり、“ケラル”と称される地方=おそらくさらに西方のドイツ、フランス方面=までも含まれていた大西洋に接する欧州西域をも含んでいたと思われる。 十字軍の脱落者が数名 バトウ将軍の参謀として従軍していた史書にある。  ドイツ人とイギリス人の将校ですが、彼らを十二分に活用しうる才覚がバトゥにはあった。

※ ボオルチュ ; アルラト部の人で、チンギス・ハーンの最初の側近。 少年時代のテムジン(チンギス・ハーン)が馬泥棒にあったとき、テムジンに馬を貸して 追跡を助けたとき以来の友人である。 チンギス・ハーンのモンゴル高原統一にも功績をあげ、右翼(西部)の万人隊長に任命された。 右翼を率いて主に中央アジア方面を担当し、金やホラズムへの遠征にも随行した。

 スブタイ ; ウリヤンハイ部の人。 ジュルメの弟で、兄に続いてチンギス・ハーンに仕えた。 兵数10分の1の完顔陳和尚の金軍に負けたこともあるが、数々の戦功をあげて勇士として知られ、ホラズム遠征ではジュベとともにルージで達する別働隊を率いた。 のちに バトゥのヨーロッパ遠征にも従軍する。

 

 1235年、ハンガリーのドミニコ会托鉢修道士ユリアヌスは、東方の故郷に残ったとされるマジャール人を探すためウラル山脈方面へと旅に出て、チュルク系遊牧民ブルガール人がヴァルガ゛川中流域に建てた国家ヴァルガ・ブルガールにたどり着いた。 彼はヴァルガ・ブルガールの首都から数日の場所にマジャール人らしき人々がいると教えられ、その人々と会い会話がかろうじて通じることを確認したという。 マジャールの故郷を確認したユリアヌスは、「タタール」という東方の恐ろしい民族の噂を聞きながらハンガリーへ戻り、2年後 ヴァルガ・ブルガールを再訪した。 しかし、そのときにはすでに廃墟しか残っていなかった。 ユリアヌスは、ハンガリーーに“タタール”の危機が迫っていることを知らせるために急いで戻ったという。

 12年前(1223年のこと)、ヴァルガ・ブルガールがモンゴル人の軍団と遭遇した。 スブタイおよびジュベ゛の率いるモンゴルル帝国軍は、ホルムズを出て カフカスを迂回し、キプチャック草原に入り、5月31日のカルカ河畔の戦い(現在のウクライナ東南部ドネッィク州付近)でルーシ諸国とキプチャクの連合軍を大敗させていた。 この時点で、チンギス・ハーンの軍は負け知らずで、中央アジアや北部の草原地帯を蒙古馬の馬蹄でけちらしていた。

 35,000人の弓騎兵からなるモンゴルの西征軍はヴォルガ川を越え、1223年の秋にヴォルガ・ブルガールへの侵略を開始した。 蒙古軍団は分隊をヴァルガ゛川を遡ったところにあるヴァルガ・ブルガールへと派遣したのである。 しかし、その年の秋、ヴァルガ・ブルガール南部のケルネク(現在のサマーラ州、ヴォルガガ川屈曲部付近)で、ヴァルガ・ブルガール軍はモンゴルル軍を大敗させた。=“ケルネクの戦い”という= 

 ブルガリアの王、カブドゥッラー・チェルビルル率いる軍は、モルドヴィン人の公であるブレッシュ 及び ビルガスの軍と連合し、スブタイ軍を待ち伏せしてさんざんに打ち破ったという。 この戦いの後、モンゴルル軍は中央アジアに戻り、ブルガールには戻らなかった。 ジンギス・ハーンの中央アジア遠征事業は、翌年の1224年に天山山脈北方の草原に各遠征軍の諸将軍を呼び集めて終局し、1225年に蒙古高原に凱旋している。

 蒙古高原に凱旋した蒙古軍団の一部は、1229年に、ククダイイとブベデ゛の指揮の下、再びブルガールに侵攻した。 この戦いでは、モンゴル軍は ウラル川のブルガールの前哨を破ってウラル上流の渓谷を占領している。 1232年には、モンゴルル騎兵軍が バシキリア南東部を征服し、ヴァルガ・ブルガールの南部をも手に入れた。 この危機にあたって内戦を続けていたヴァルガ・ブルガールの武将や首長たちは、共通の敵に対して連合を組むことに失敗していたのである。

 蒙古高原で戦略を練り直したジンギス・ハーンは、宿命的な課題である金帝国の征服に乗り出す。 金帝国の財貨は遊牧民族の垂下の的である。 蒙古馬の馬蹄で黄河一帯を蹂躙しようとするチンギス・カーンは、黄河の大屈曲部に目を付けた。 計略上の要路・西夏王国制圧を図る(1226年)。 中央アジアで経験した攻城戦法でチンギス・カーンは各城砦を落としていった。

 そして、西夏王国を手中にする瞬間に、西夏の王女が膣内に隠し持った劇薬で大ハーンはその生涯を終える(1227年8月25日)。 後継者の第2代ハーン・オゴディはユーラシア大陸の西部ではバトゥのヨーロッパ遠征軍を派遣するとともに東部では金帝国攻略のために、皇太子のクチュを南宋に送り込み、金を包囲する作戦を推し進めていた。 しかし、南宋作戦はクチュの陣中死で瓦解するが・・・・・ 

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タタールが夢見た大洋_11_

2015-08-30 16:20:03 | 史蹟彷徨・紀行随筆

○◎ 更なる西へ、バルト海へ、アドリア海へ ◎○

○◎ バトゥ、破竹の勢いで西に向かう ◎○

陳舜臣さんは『チンギス・ハーンの一族』に この遠征軍には 十字軍の脱落者が数名 バトゥの参謀として従軍していた と書かれている。 前節で触れたように、ドイツ騎士とイギリス将校です。 後に彼らにはとうじょうねがうとして、1235年、ハンガリーのドミニコ会托鉢修道士・ユリアヌスは、東方の故郷に残ったとされるマジャール人を探すためウラル山脈方面へと旅に出た。 チュルク系遊牧民ブルガール人がヴォルガ川中流域に建てた国家ヴォルガ・ブルガールにたどり着いた。

彼はヴォルガ・ブルガールの首都から数日の場所にマジャール人らしき人々がいると教えられ、その人々と会い会話がかろうじて通じることを確認したという。 マジャールの故郷を確認したユリアヌスは、「タタール」という東方の恐ろしい民族の噂を聞きながらハンガリーへ戻り、2年後 ヴォルガ・ブルガールを再訪した。 しかし、そのときにはすでに廃墟しか残っていなかった。 ユリアヌスは、ハンガリーに「タタール」の危機が迫っていることを知らせるために急いで戻ったという。

ヴォルガ・ブルガールが モンゴル人の軍団と遭遇したのは1223年のことであった。 スブタイおよびジュベ゛の率いるモンゴル帝国軍は、ホラズムムを出て カフカスを迂回し、キプチャック草原に入り、5月31日のカルカ河畔の戦い(現在のウクライナ東南部ドネッィク州付近)でルーシ諸国とキプチャックの連合軍を大敗させた。 この時点で、チンギス・ハーンの軍は負け知らずであった。

蒙古軍団は 分隊をヴォルガ川を遡ったところにあるヴォルガ・ブルガールへと派遣した。 しかし その年の秋、ヴォルガ・ブルガール南部のケルネク(現在のサマーラ州、ヴォルガガ川屈曲部付近)で、ヴォルガ・ブルガールはモンゴル軍を大敗させたケネクスの戦い)。 ブルガールの王、ガブドゥッラー・チェルビル率いる軍は、モルドヴィン人の公であるブレシュ 及び ブルガズの軍と連合し、スブタイ軍を待ち伏せして さんざんに打ち破ったという。

この戦いの後、モンゴルル軍は中央アジアに戻り、ブルガールには戻らなかった。 しかし モンゴルル軍は1229年、スクダイイとブペデデの指揮の下、再びブルガールに侵攻してきた。 この戦いでは、モンゴル軍は ウラル川沿いのブルガールの前哨を破ってウラル上流の渓谷を占領している。 そして、1232年には、モンゴルル騎兵軍が バシキリア南東部を征服し、ヴォルガ・ブルガールの南部をも手に入れた。

その後、ジェベ、スベエデイ両将軍率いるモンゴル軍の別働隊は、本隊の帰還に合流するためキプチャク草原から去っていくものの、一連のキプチャク草原の戦闘によって西ヨーロッパのキリスト教諸国の間に「タタール」の名が広まっていくこととなる。

このタタールの侵攻危機にあたって内戦を続けていたヴォルガ・ブルガールの武将や首長たちは、共通の敵に対して連合を組むことに失敗していた。 そこへ 1236年の大規模侵攻が起こる。 バトゥ率いるヨーロッパ遠征軍が イリ渓谷(新疆、天山山脈北部)を出てまずヴォルガ・ブルガールに襲い掛かり、首都ビリャルに45日間にわたる攻城戦を展開、これを陥落させ市民数万と守備軍を全員処刑した。 さらに ブルガール、スアル、ジュケタウをはじめ、主だった都市や要塞を陥落させた。

住民の多くは殺されるか奴隷に売られていった。 ブルガールの武将たちは次々とモンゴルル軍に帰順した。 托鉢修道士ユリアヌスが 再訪して 荒廃した国土に驚愕したのはこの頃であろう。 血潮で国土は一変していたのである。 死神・タタールの噂が独り歩きしだした。 史実に基づけば、この征服活動でヴォルガ・ブルガールの人口の8割が殺されたと研究者は言う。 残った人口の多くは北へ移動した。

モンゴル軍がヴォルガ・ブルガールを離れてルーシ侵攻に着手すると、帰順したはずのヴォルガ・ブルガールの武将らは反乱を起こした(例えばバヤンジクによる反乱 Rebellion of Bayan and Cik)。 またキプチャクのオルベルリ部Kimek Khanate)の首長バチュマン(Baçman)もヴォルガ流域で盛んに反乱を起こした。 しかし、ルーシ侵攻中のバトゥやモンケ、スブタイらがこれを制圧した。

ヴォルガ・ブルガールはジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国、金帳汗国)の一部に編入され、ジョチ・ウルス支配下でいくつもの公国に分割された。 これら小さな公国はおのおの自治を享受し、ジョチ・ウルスへの貢納を行う属国となった。 無論、モンゴル襲来=タタール=以前の都市のすべてが廃墟になったわけではなく、ブルガールやジュクタクなどの都市は 再建され交易の中心となったものの、往時の人口や繁栄は取り戻せなかった。 ブルガール人が住んでいたステップ゜地帯には、キプチャッコ人やモンゴルル人などの遊牧民が代わって移り住み、農地が放牧場に変えられ、農業は衰退した。 遊牧民の世界に一変したのである。

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タタールが夢見た大洋_10_ 

2015-08-28 16:44:02 | 史蹟彷徨・紀行随筆

○◎ 更なる西へ、バルト海へ、アドリア海へ ◎○

キプチャク・ハン国/バトゥの出現、その二

 バトゥ (Batu, 1207年-1256年) は、ジョチ家の2代目(ハン:在位1225年- 1256年)で、キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の実質的な創設者。 チンギス・カンの長男ジョチの次男である。 後年、モンゴル人からは「サイン・ハン(偉大なる賢君)」とよばれる優れたリーダーである。 バトゥの異母兄オルダは病弱がちだったため、次男で母の家柄もよかったバトゥが当主となった。 オルダの母もバトゥの母も同じコンギラト氏族の出自であったが、おそらくバトゥの家督継承には彼の母がコンギラト部族の宗主アルチ・ノヤンの娘であったことも大きく関係している。

バトゥには4人の息子たちがいた。 サルタク、トクカン、エブゲンン、ウラクチの4後嗣。 後年のことだが、長子サルタクは父・バトゥが死去したとき モンケ(チンギス・ハーンの末子・トルイの長男)の宮廷にいたため、モンケは彼にジュチ家の家督を認証したが、ジュチ・ウルスへ帰投する途中で病没した。 かわりに4男で幼少の末子のウラクチに家督を継がせるよう勅が下った。 しかし ウラクチも程なく夭折し、実質的にキプチャク・ハン国を統括していたバトゥの次弟ベルケへの家督継承が勅によって認証された。

以後のバトゥの血筋は次男トクカンと3男エブケンンに引継がれ、ベルケの死後にトクカンの次男モンケ・テルムがジュチ・ウルスを相続することとなっていく。 また、バトゥには 一人のハトゥンン(皇后妃)と妻妾がいた。 バトゥの正妃筆頭であったアルチ・タタル部族のボラクチン・ハトゥンがただ一人の皇后妃だが、他にオイラト部族の首長トレルチの娘であったベギ・ハトゥンがいたことが分かっているが、チンギス・ハーンの家としてその清楚ぶりは特異です。

○◎ バトゥの西方遠征 ◎○

1236年春2月、バトゥはモンゴル帝国第2代皇帝オゴデイの命を受けてヨーロッパ遠征軍の総司令官となった。 モンゴルの国事最高決議会議であるクリルタイは、四狗の一人であるスブタイやチンギスの4男トルイの長男であるモンケ、そしてオゴデイの長男であるグユクらを副司令として出征を命じた。 皇帝・オゴデイは出征の檄絵耶律大石統帥を発している。 『元朝秘史』によれば、各王家の長子クラスの皇子たち、また領民を持っていない皇子たち、さらに

≪ 万(戸)の、千(戸)の、百(戸)の、十(戸)のノヤンたち、多くの人は誰であっても、

己が子の兄たる者(長子)を出征させよ。王女たち、(その)婿どのたちは同じようにして

己が子の兄たる者(長子)を出征させよ ≫ 

と公示したと記す。 従って、帝国全土の王侯・部衆の長子たち、すなわち次世代のモンゴル帝国の中核を担う嗣子たちが出征するという甚だ大規模なものだった。

バトゥは遠征軍に参軍する皇子たちを統括し、グユクはそのもとで皇帝オゴデイの本営軍から選抜された部隊を統括するよう勅命によって定められていた。 加えて『集史』によれば、チンギス・ハンの功臣筆頭のボオルチュの世嗣ボロルタイがこのバトゥの本営・中軍の宿将としてこれを率いていたとある。

この遠征では前述のとおり各王家の当主クラスの皇子たちが出征したのである。すなわち、

  • ジョチ家からは総司令バトゥを筆頭に、その異母兄オルダと異母弟ベルケシバンタングト
  • チャガタイ家からはチャガタイの長子モエトゥケンの次男ブリ、その叔父にあたるチャガタイの6男ばバイダル
  • オゴデイ家からは長子グユク、その末弟カダアン・オグル
  • トゥルイ家からは長子モンケと7男ボチェク
  • そしてチンギス・ハンとその次席皇后クラン・フジンとの子であるコルゲン

などである。 この時バトゥが率いた兵力は、4個千戸隊(約1万人)だったと推定される。 遠征軍の征服目標はジョチ家の所領西方の諸族、アスブルガルキプチャクの諸勢力、ルーシ、ポーランド・ハンガリー方面であり、「ケラル」と称されるおそらくさらに西方のドイツ、フランス方面までも含まれていたと思われる。 なお、十字軍としてエルサレムに派遣されたフランスやドイツ、イギリスの騎士もバトゥの通訳として従軍していた。 彼らは十字軍の脱落者なのだろうが、未知の世界に遠征するモンゴル族の道先案内人として先導していく。 

 因みに、“四駿四狗”/チンギス・カンの優秀な以下の8人の最側近。 モンゴル帝国において、以降も何かと関わってくる。

4頭の駿馬;ムカリボオルチュチラウンボロクル

4匹の狗; ジェベジェルメスブタイクビライ (バルラス部)

 

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タタールが夢見た大洋_02_

2015-08-17 15:31:31 | 史蹟彷徨・紀行随筆

○◎ 更なる西へ、バルト海へ、アドリア海へ ◎○

テュルク系国家で最も早くイスラームを受容したのはカラハン朝であるが、オグズから分かれたセルジューク家率いる一派も早くからイスラームに改宗し、サーマーン朝の庇護を受けた。 彼らはやがてトゥルクマーン(イスラームに改宗したオグズ)と呼ばれ、中央アジア各地で略奪をはたらき、土地を荒廃させていったが、セルジューク家のトゥグリル・ベグによって統率されるようになると、1040年にガズナ朝を潰滅させ、ホラーサーンの支配権を握る。

そして、1055年、トゥグリル・ベクはバグダードに入城し、アッバース朝カリフから正式にスルターンの称号を授与されるとスンナ派の擁護者としての地位を確立する。 このセルジューク朝が中央アジアから西アジア、アナトリア半島にいたる広大な領土を支配したために、テュルク系ムスリムがこれらの地域に広く分布することとなった。 また、イスラーム世界において奴隷としてのテュルク(マムルーク)は重要な存在であり、イスラーム勢力が聖戦(ジハード)によって得たテュルク人捕虜は戦闘力に優れているということでサーマーン朝などで重宝され、時にはマムルーク自身の王朝(ホラズム・シャー朝、ガズナ朝、マムルーク朝奴隷王朝など)が各地に建てられることもあった。

こうした中でテュルク・イスラーム文化というものが開花し、数々のイスラーム書籍がテュルク語によって書かれることとなる。こうしたことによってイスラーム世界におけるテュルク語の位置はアラビア語、ペルシャ語に次ぐものとなり、テュルク人はその主要民族となった。 また、西域(トルファン、タリム盆地、ジュンガル盆地)もテュルク化していく。

840年にモンゴル高原南部で覇を唱えていたウイグル可汗国がキルギス族に追われて崩壊すると、その一部は天山山脈山中のユルドゥズ地方の広大な牧草地を確保してこれを本拠地とし、天山ウイグル王国を形成した。 天山ウイグル王国はタリム盆地トルファン盆地、ジュンガル盆地の東半分を占領し、マニ教仏教、景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰した。 一方、東トルキスタンの西半分はイスラームを受容したカラハン朝の領土となったため、カシュガルを中心にホータンクチャもイスラーム圏となる。 これら2国によって西域はテュルク語化が進み、古代から印欧系の言語(北東イラン語派トカラ語)であったオアシス住民も11世紀後半にはテュルク語化した。

 他方、中央アジアの草原地帯にはカルルク、テュルギシュ、キメク、オグズといった西突厥系の諸族が割拠しており、オアシス地帯ではイラン系の定住民がすでにイスラーム教を信仰していた。 北上地帯の草原地域では、イラン系遊牧民が急速にテュルク語化した。 一方のオアシス地帯では、口語は12世紀頃までに概ねテュルク語化したものの、行政文書や司法文書などには専らアラビア文字による文書(ペルシャ語など)が用いられ、継続性が必要とされる特性上テュルク語への置換はゆっくりとしたものであった。 トルキスタンに於ける最終的なテュルク語化は、ホラズム・シャー朝カラキタイ(西遼)、ティムール朝シャイバーニー朝といった王朝の下でゆっくりと進行したのである。

モンゴル帝国の拡大とモンゴルの支配の確立

古代からモンゴル高原には絶えず統一遊牧国家が存在してきたが、840年のウイグル可汗国(回鶻)の崩壊後は360年の長期にわたって統一政権が存在しない空白の時代が続いた。 これはゴビ砂漠の南(漠南)を支配した契丹)や女真)といった王朝が、巧みに干渉して漠北に強力な遊牧政権が出現しないよう、政治工作をしていたためであった。 当時、モンゴル高原にはケレイトナイマンメルキトモンゴルタタルオングトコンギラトといったテュルク・モンゴル系の諸部族が割拠していたが、13世紀初頭にモンゴル出身のテムジンがその諸部族を統一して新たな政治集団を結成し、チンギス・カン(在位: 1206年 – 1227年)として大モンゴル・ウルス(モンゴル帝国)を建国した。

チンギス・カンはさらに周辺の諸民族・国家に侵攻し、北のバルグトオイラトキルギス、西のタングート西夏)、天山ウイグル王国、カルルク、カラキタイ(西遼)、ホラズム・シャー朝をその支配下に置き、短期間のうちに大帝国を築き上げた。 チンギス・カンの後を継いだオゴデイ・カアン(在位: 1229年 – 1241年)も南の金朝を滅ぼして北中国を占領し、征西軍を派遣してカスピ海以西のキプチャク、ヴォルガ・ブルガール、ルーシ諸公国を支配下に置いてヨーロッパ諸国にも侵攻した。

こうしてユーラシア大陸を覆い尽くすほどの大帝国となったモンゴルであったが、第4代モンケ・カアン(在位: 1251年 -1259年)の死後に後継争いが起きたため、帝国は4つの国に分裂してしまう。 この史上最大の帝国に吸収されたテュルク系諸民族であったが、支配層のモンゴル人に比べてその人口が圧倒的多数であったため、また文化的にテュルク語が普及していたため、テュルクのモンゴル語化はあまり起きなかった。 

むしろイスラーム圏に領地を持ったチャガタイ・ウルス(チャガタイ汗国)、フレグ・ウルス(イル汗国)、ジョチ・ウルス(キプチャク汗国)ではイスラームに改宗するとともにテュルク語を話すモンゴル人が現れた。 こうしてモンゴル諸王朝のテュルク・イスラーム化が進んだために、モンゴル諸王朝の解体後はテュルク系の国家が次々と建設され、今日に至るのだが、その概略を記しておく。

チンギス政権以来、天山ウイグル王国はモンゴル帝国の庇護を受け、14世紀後半にいたるまでその王権が保たれた。 それはウイグル人が高度な知識を持ち、モンゴル帝国の官僚として活躍したことや、モンゴルにウイグル文字を伝えてモンゴル文字の基礎になったこと、オアシス定住民の統治に長けていたことが挙げられる。 モンゴルの内紛が起きると天山ウイグル政権はトルファン地域を放棄したが、その精神を受け継いだウイグル定住民たちは現在もウイグル人として生き続けている。

一方、カラハン朝以来イスラーム圏となっていたタリム盆地西部以西にはモンゴル時代にチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)が形成され、天山ウイグル領で仏教圏であった東部もその版図となり、イスラーム圏となる。 やがてチャガタイ・ハン国はパミール高原を境に東西に分裂するが、この要因の一つにモンゴル人のテュルク化が挙げられる。 マー・ワラー・アンナフル(トランスオクシアナ)を中心とする西側のモンゴル人はイスラームを受容してテュルク語を話し、オアシス定住民の生活に溶け込んでいった。 彼ら自身は「チャガタイ」と称したが、モンゴルの伝統を重んじる東側のモンゴル人は彼らを「カラウナス(混血児)」と蔑み、自身を「モグール」と称した。 そのためしばらく東トルキスタンは「モグーリスタン」と呼ばれることとなる。

西チャガタイ・ハン国から台頭したティムールは西トルキスタンとイラン方面(旧フレグ・ウルス)を占領し、モグーリスタンとジョチ・ウルスをその影響下に入れて大帝国を築き上げた。 彼自身がテュルク系ムスリムであったため、また西トルキスタンにテュルク人が多かったため、ティムール朝の武官たちはテュルク系で占められていた。 しかし、文官にいたっては知識人であるイラン系のターズィーク人が担っていた。 こうしたことでティムール朝の公用語はイラン系であるペルシア語と、テュルク系であるチャガタイ語が使われ、都市部においては二言語併用が一般化した。 

ちなみに、ティムール朝の王族(四代目) ウマル・シャイフを父、チンギス・ハーンの二男チャガタイを祖とするモグーリスターン・ハン家ユーヌスの娘クトルグ・ニガール・ハーニムを母とするテュルクモンゴル系の遊牧貴族バーブルが、現在のアフガニスタンからインドに移って建国したのが、ティムール王朝から数えて約500年続いたムガール王朝である。 だが、1857年に大規模な反英闘争、いわゆるインド大反乱(シパーヒーの乱、第一次インド独立戦争とも)が起こると、82歳の老皇帝バハードゥル・シャー2世が反乱軍の最高指導者として担ぎだされるほどの威光を保っていたが、大反乱を鎮圧したイギリスは彼を裁判にかけて有罪とし、ビルマへと流刑に処して退位させた。

キプチャク草原を根拠地としたジョチ・ウルスは比較的早い段階でイスラームを受容し、多くのテュルク系民族を抱えていたためにテュルク化も進展した。 15世紀になると、カザン・ハン国アストラハン・ハン国クリミア・ハン国シャイバーニー朝カザフ・ハン国シビル・ハン国といったテュルク系の王朝が次々と独立したため、ジョチ・ウルスの政治的統一は完全に失われた。 現在、中央アジアのテュルク系民族で上位を占めるのがウズベク人とカザフ人である。 これらの祖先はジョチ・ウルス東部から独立したシバン家のアブル=ハイル・ハン(在位:1426年 -1468年)に率いられた集団であった。

彼らはウズベクと呼ばれ、キプチャク草原東部の統一後、シル川中流域に根拠地を遷したが、ジャニベク・ハンケレイ・ハンがアブル=ハイル・ハンに背いてモグーリスタン辺境へ移住したため、ウズベクは2つに分離することとなり、前者をウズベク、後者をウズベク・カザフもしくはカザフと呼んで区別するようになった。 アブル=ハイル・ハンの没後、ウズベク集団は分裂し、その多くは先に分離していたカザフ集団に合流した。 勢力を増したカザフはキプチャク草原の遊牧民をも吸収し、強力な遊牧国家であるカザフ・ハン国を形成した。 やがてウズベクの集団もムハンマド・シャイバーニー・ハンのもとで再統合し、マー・ワラー・アンナフル、フェルガナ、ホラズム、ホラーサーンといった各地域を占領してシャイバーニー朝と呼ばれる王朝を築いた。

1599年にシャイバーニー朝が滅亡した後、マー・ワラー・アンナフルの政権はジャーン朝(アストラハン朝)に移行した。 ジャーン朝は1756年にマンギト朝によって滅ぼされるが、シャイバーニー朝からマンギト朝に至るまでの首都がブハラに置かれたため、この3王朝をあわせてブハラ・ハン国と呼ぶ。 また、ホラズム地方のウルゲンチを拠点とした政権(これもシャイバーニー朝)は17世紀末にヒヴァに遷都したため、次のイナク朝(1804年 – 1920年)とともにヒヴァ・ハン国と呼ばれる。 そして、18世紀にウズベクのミング部族によってフェルガナ地方に建てられた政権はコーカンドを首都としたため、コーカンド・ハン国と呼ばれる。 これらウズベク人によって西トルキスタンに建てられた3つの国家を3ハン国と称する。

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チンギス統原理 【13】

2011-02-12 17:13:03 | 史蹟彷徨・紀行随筆
 ジュチの系列《三》


 1242年 オゴデイ・ハーンの訃報を受けて引き返したバトゥは モンゴル高原はカラコルムでの後継者が決定できずに、紛糾するさまを見て、嫌気が差した。 彼は信頼する叔父・チャガタイに全て一任するつもりでヴォルガ河下流に留まった。 都・サライの建設に傾注しつつ、拡大した領土を諸兄弟に分封して自立政権を確立した。 即ち ジュチ・ウルスの西半分はバトゥ・ウルス(右翼ウルス/金帳ウルス)として、宗主・バトゥが総括した。 東半分はオルダ・ウルス(左翼ウルス/白帳ウルス)と決め、あにオルダが宗主として総括した。 中軍(軍組織の中核)にジュチの三男・ベルケにベルケの堂母弟、四男・ベルケチュル、十一男・ムハンマド・ボラを配し、右翼諸軍は五男・シバンを司令に六男・タングト、七男・ボアル、八男・チラウカン、十男・チンバイら八人を翼下に配した中軍と右翼軍が右翼ウルスを形成した。 他方 左翼ウルスは九男・ソンコル、十二男・ウドゥル、十三男・トカ・テルム、十四男・セングムの四皇子が左翼軍を形成した。 さらに属国として、ルーシの諸国が従属し、従属諸侯・諸国はサライのハン/王に対して納税の義務を負うとともに、しばしばサライへの出頭を命ぜられ、公の任免や殺生与奪をハンに握られた。 従属した諸侯・諸公はハンとの血縁関係を持とうと奔走したと言う。 ルーシの人々はジュチ・ウルスの蒙古人を“タタール”と呼び、鬼神のようにおそれた。 近代まで、その恐怖は“タタールのくびき”として記憶されていた。 



 南シベリヤのステップ地帯を領土にする事はジュチがチンギス・カーンから命ぜられていた課題をバトゥが履行した事実はチンギス家中でバトゥの存在を大きくしていった。 が、バトゥは奢る事はなかった。 叔父・チャガタイを尊敬し 耶律楚材に相談していた。 蒙古高原・カラコラムでは次期の皇帝結体が難航していた。 チンギス家の次期世代の最有力者はジュチ家のバトゥに次する者は、トルイ家のモンケ、その次がチャガタイ家のブりの世評であった。 生前のオゴデイ・ハーンは 長子・グユン(第六皇后・ドレゲネとの正嗣)を 他の兄弟はじめ、従兄弟とも仲が悪く、他の王族とも常に対立する性癖から後継者の候補から外していた。 ヨーロッパ遠征中も大ハーンの長子ではあるが、酒の席でブリがジュチ家の王子達と口論になった折、仲裁どころか 総司令官であるバトゥを面罵し、父・大ハーンから召還命令を受けている。 モンケは召還されるグユンに随伴して帰還の途についた。 グユンは旅程を意識的に遅延させた。 これが幸いした。 帰還途上でオゴデイ・ハーンの訃報に接するや、グユンを抱き込んだ。 また、生母ドレゲネが摂政として政治工作を行い、バトゥを抑えて第三代モンゴル帝国の皇帝になった。 時は1246年8月24日 場所は祖父チンギう・カーンが即位したココ・ナウルであった。 オコデイ・ハーンは生前、第一皇后・ボラクチンとの間でもうけた三男のクチュを後継者に定めていたが、クチュは湖南方面(南宋遠征)で陣死した。 しかし オゴデイはクチュの長男シレムンを寵愛し、自らの後継者として宮中で帝王学を教えていたのだが。 グユンの即位はオゴデイ・ハーンの他界ご四年目であった。 クチュはクチュ・カァンと呼ばせた。 クチュ・カァンはチャガタイ家の全権をモンケに委譲させ、欧州への再遠征を考えるのだが・・・【オゴデイ家の系列で詳細を書きます】・・・
 バトゥは仲の良くないグユンが政権を握り、敬愛する叔父・チャガタイもオゴデイ・ハーンのあとを追うように鬼籍に入ってしまった意向・・・・・・・・・
    

チンギス統原理 【12】

2011-02-09 20:37:15 | 史蹟彷徨・紀行随筆
 ジュチ家の系図《二》

 
 蒙古軍が東欧に進撃するの目標は ジュチ家の所領西方の諸部族、アス・ブルガル・キプチャク(クマン)を征圧することが主ではない。 ルースを殲滅し、カフカスを落とし、ポーランド・ハンガリーに進撃し、更に ドナウ河の西 ドイツ・フランスまで攻略して人頭税を取ることであった。 当時 キエフに居城を構えるキエフ大公国はルース(ロシア)諸国・諸部族の盟主であった。 モスクワは小さな砦に過ぎなかった。 キエフ大公国はスェーデン系の侵略国家である。 十一世紀頃から内紛で分裂の兆しが見え、十二世紀には首都・キエフは荒廃し ドニエブル河流域に及ぼす権勢は衰えていた。 しかし、 ルーシ地域の諸侯を支配し、ウラル山脈を中心に勢力を持つヴォルガ・ブルガール人 また カスピ海北東部のアラン人やキプチャクのクマン人と友好関係を維持していた。 キエフ大公国の北東にラップ人のスーズーダリ大公国、南西にはハールィチ・ウルィーニ大公国が覇を誇示していた。 東欧侵略に関する諸種の情報はモンゴル入手していた。
 1236年 二月 ヴォルガ・ブルガル人を制圧するたねに、スブテイ将軍がウラル山脈南麓のブルガル市攻略に北上した。 ブルガル首長・バヤ、ジグらは抵抗空しく、服属した。 1227年に従属したキプチャクのクマン人は有力首長・パチュマンに率いられ、カスピ海西北辺のアス人の首長・カチャル・オグラと同盟し抗戦に転じていた。 モンゴル軍団・左翼軍のモンケはカスピ海沿岸を進撃し、キプチャク草原全体を囲い込む作戦を展開した。 この戦術で 左翼軍・モンケはパチョマン・カチャルを捕殺した。 この年 蒙古軍はカスピ海北岸域で夏営している。 カスピ海からカフカス北方までの地域にはブルタス族、チュルケス族、サクスィーン人(アストラハン周辺)などが居住していた。 が、これらの諸族はこの夏までに帰順・征服された。 後背の憂いを全てなくしたモンゴル軍は 1237年秋 ルーシ方面に侵攻する。 12月下旬にはリャザン、コロムナが攻略され、翌年2月 ウラジミール大公国の征圧・攻略の成功、そして ルーシ北部諸国の多くが征服された。 また 自ら帰順する諸国もあった。 しかし コロナム包囲戦でチンギス・カーンの庶子・コルゲンが戦死した。 その後、遠征軍は南に転進し コゼリスクを陥落させる。 カフカスの北部方面に一時の撤退で諸軍を休ませている余裕すらあった。 1238年から翌39年にかけては、カフカス北部域を侵攻して カフカス北部地帯の諸部族を征圧している。 が、モンゴル軍団内部は齟齬をかんでいる。 論功行賞にてつき、皇子軍のバトゥとグユク・モンケで激しく対立してしまったのです。 オコデイ・ハーンはこの報に接するや、激怒してグユク・モンケに帰還命令を出ています。 1239年秋 両皇子はモンゴル本土へ出立つしています。 1240年初春 ルーシ南部に進撃するや、キエフを包囲して同地を攻略・破壊した。 当時 キエフは大公位を巡り ルーシ諸国全体が争奪を激しくしており、モンゴル軍の侵略に対処できぬ状況であった。 バトゥは広範なルーシのステップ地帯で敵の組織的な反撃がないと知ると 蒙古軍団をより小さい分隊に分け 機動性を活かし ルーシ国土を略奪し荒廃させている。 キーテンの町などは モンゴル兵を避けるため 住民全てが湖に投身したと言う。 ルーシ諸国を制圧・支配したモンゴル軍は 次の目標 中欧に 軍を進めていく。 1236年冬 初春にイリを出陣し4年の歳月ですから快進の速さです。


 1240年内にルーシ諸国をほぼ破壊した。 ごく一部の残留部隊を残し、バトゥは大きく軍団を3っに分けて中欧に進撃した。 バイダル、コデン、オルダ・ハーンの3将軍はポーランドに侵攻した。 バトゥは中軍を率いて カルパチヤ山脈中央部を横断 ハンガリーに軍を進めた。 ハダン・オウル率いる左翼はクロマチア方面へ南下した。 キエフ攻略の期間に偵察は十分おこなっいた。 右翼・ポーランド軍団、及び左翼クロマチヤ・セビリヤ軍団は中央ハンガリー軍団とセイヌ河で合流し オーストラリア・ドイツに侵攻する計画であった。 ポーランド北部と中部を進撃する、オルダ将軍は41年2月14日にルブリンに続きサンドミュシュをも陥落させている。 ポーランドはボヘミヤに援軍を依頼したが、 ポーランドの南部地帯を侵略するバイダルがボヘミヤ・ポーランド・ドイツ騎士軍団を撃破した。 ポーランド国土内はパニックに陥り、指示系統は混乱し、蒙古騎兵に蹂躙される。 右翼・ポーランド軍団は4月9日の大戦(ワールシュミットの戦い ポーランド王・ヘンリケ二世は敗死する)以降 ポーランドを占拠し、ハンガリーに進軍していく。 他方 バトゥはカラパチヤ山脈を抜け、トランシルヴェニア経由で正面から ハンガリー王国に侵攻した。 進入と同時に バトゥはハンガリー王・ベーラ四世に降伏勧告を行なっている。 やがて モラヴィヤからバイダル・スブタイ・カダアンの諸将が合流して来て、ベシュト市を陥落させている。 モンゴル軍は戦線を広げず、ハンガリーの城市を集中的に進撃して行った。 時、1241年4月11日 ハンガリー軍の総力を挙げた“モヒの戦い”が始まった。 蒙古軍バトゥ以下1万弱余の兵力、他の諸将はいない。 ハンガリー軍ベーラ四世以下、テンプル騎士団、ドイツ騎士団の1万5千の兵力が激突しのです。 ベーラ4世は蒙古軍の侵入を知ると、10万の将兵を戦場に送っていた。 他方 蒙古軍はスブタイ将軍等が分散してハンガリー領内を侵略していた。 バトゥはドナウ河にまで進軍した時、ハンガリー軍と遭遇し、数倍の敵兵力に後退してきてモヒ平原にはいったのです。 スブタイ将軍はモヒ平原の近くにいた。 ベーラ4世はバトゥがモヒ平原に入ったと知るや、騎士団を率いて モンゴル軍の前衛部隊を撃破し、サヨ川の石橋を奪い右岸に橋頭塁を確保したのです。 数に勝るベーラ4世は石橋を使い 何度もに騎兵をバトゥ軍に突撃させるが、左岸で陣を固めているバトゥが投石機と弓矢で激しく応戦する。 戦いのさなか スブタイ率いる別働隊が戦場に駆けつけた。 スブタイ将軍は、サナ川を南側から迂回渡河して 右岸のベーラ4世本陣を襲った。 機動力を活かしハンガリー軍を包囲しながら攻撃する。 左岸のバトゥは陣を水際まで進め、投石・弓矢をハンガリー本陣に集中攻撃させた。 ベーラ4世が優勢な兵力を動かすには モヒ平原は狭すぎた。 有利な体制で戦うべき戦場を誤ったのです。 ハンガリー軍は大量の石弾と矢弾で壊滅的打撃をうける。 攻防さなかで、スブタイは包囲の西方の一部のみを解いた。 意図的にハンガリー軍の退路を作った。 誘導されるように ハンガリー軍はわれがちに逃走した。ベーラ4世軍も包囲網から脱出することができた。 が、モンゴル軍には代え馬が十分にあった。 追撃され、援軍も撃破される。 この“モヒの戦闘”でハンガリー軍はほとんど壊滅してしまった。 ベーラ4世は追撃を逃れ、ダルマチア沖の孤島に避難したが ハンガリー全体はモンゴルの占領下にはいった。
 一方 ハダン・オウル率いる左翼軍団はクロアティアを南下してクロアティア国を従属させ、アドリア海岸に達し セルビア国を横断する進撃を重ねていた。 


 ドナウ河を遡れば、オーストラリアに入る。 ハンガリーを蹂躙したモンゴル軍は南方セビリヤを進軍中のハダン・オウル将軍の動静を集め、オーストラリア侵攻への準備を進めた。 オーストラリア王国・フリードリヒ公は隣国ハンガリーの戦況に心胆を凍らせていた。 ドイツとの連合、兵団の補強 対抗策に日々 席が温まらない。 フリードリヒ公は騎士であった。 1218年 第四回十字軍に加わり、自軍を率いてパレスチナに上陸している。 モンゴル遠征軍は 指呼のウィーナー・ノイシュタットに現れた。 1242年の初春である。 負け戦を知らぬモンゴル軍は活気に満ちていた。 バトゥの本営に独りの伝令がわき目も振らずに駆け込んできた。 見れば、腹部は服の上にきつく晒を巻き、顔は蒼白で死相が現れていた。 背には皮袋が結わえ付けられていた。 伝令は息絶え絶えにそれを開きバトゥに差し出した。 バトゥは無言で受け取り、玉書を開いた。 オコデイ・ハーンの死の知らせる文面であった。 退席した伝令はまもなく血を吐いて死んだ。 彼は蒙古高原・カラコルムから日夜走り続け、60数日で7000有余キロの道を駆け抜けて着たのです。 馬を90数頭乗り潰して、 バトゥは無言で莫舎を出ていた。
 1242年3月 モンゴル軍はウィナー・ノイシュタットから撤退した報がオーストラリアに入った。 フリードリヒ公は勇んで追撃軍を出した。 バトゥの退却は見事であったが、八人の将校が捕らえたと史書は記す。

 逸話を一つ追記します。 捕らえられた将校の中にイギリス人がいた。 名前は記録されていない。 1215年にイングランドのジョン王に迫って[マグナ・カルタ/大憲章]を認めさせた貴族の一人らしい。 マグナ・カルタ推進者は 翌年 ジョン王の死後、ヘンリー3世の即位に反対してフランスの王子・ルイを迎え王位に就かせようと画策した。 が、失敗してローマ教皇に破門される。 囚われたイギリス将校は贖罪のために第四回十字軍に加わり、パレスチナに赴いた。 アークルに上陸し、彼が戦いよりも語学に没頭している。 この地でフリードヒ公は彼に会っていたのです。 しかし このイギリスの貴族は十字軍から脱落し、苦労を重ね、放浪・流浪の果てにバクダットでたどり着き、語学の研鑽をしています。 もともとの教養とあらゆる国の言葉の読み書きができる才人の噂に モゴル貴族が興味をもち、彼を召抱えます。 忠節を誓わせ、語学の研鑽をさせたたのでしょう。 その後 バトゥの遠征に従軍し、ハンガリー王・ベーラ4世に無条件降伏の交渉などで従軍の勤めを果たしたのです。 バトゥがこの貴族を従軍させている事実は チンギス・カーンが有能な技術者や工芸家を虐殺せずに活用した遊牧民の伝統でしょうが、モンゴル軍団が大西洋まで進軍する構想を裏付けていると考えるのは浅はかでしょうか ・・・・・ 尚 このイギリス将校の話は 陳舜臣さんの『チンギス・カーンの一族』に登場しますが小説では従軍していません。 ナイマンの皇女とキリスト教の布教で各地を旅します。 また バトゥに玉書を渡した伝令は司馬遼太郎の初期の作品にあります。 題は忘れました。 ご一読ください。 大変 面白い小説でした・・・・・

チンギス統原理 【11】

2011-02-07 12:07:37 | 史蹟彷徨・紀行随筆
 ジュチ家の系譜 《一》

 チンギス・カーンのモンゴル帝国は正嗣4皇子が連合する体制に成る。 皇帝位は連合国家の指導者として、機能してゆく。 時代が進み、世代交代とともに 利害が対立して行く。

 1224年 ジュチはチンギス・カーンのイスラム世界への大遠征の凱旋帰国前、遠くヴォルガ河近隣なで遠征していた。 チンギスの帰還命令で 轡をかえし、カスピ海東方からの帰路途中病死する。 チンギスの落胆は激しかった。 生前の封地の約束はジュチの正嗣子たちに履行した。 その言質には西方域で征服した領土の全てを与える も含まれていた。 アルタイ山脈以西・バルハシ湖北部よりヴォルガ河までの広大なステップ地帯であった。 
 
 ジュチの正嗣王子は14名であり、その皇子・庶子の数は40人近いとされている。 1224年のジュチの死によりバトゥがジュチ家の当主となった。 異母兄・オルダは病弱であったと史書は記すが、オルダの母もバトゥの母もチンギス家が代々婚儀を交わす姻戚関係のコンギラト部族の出目(上記図 ジュチ家の系図参照)です。 しかし バトゥの母は コンギラト部族の宗主・アルチ・ノヤンの息女であったことを考えるべきでしょう。 ジュチ・ウルス(領土)は これらの子孫によって分封支配が行なわれて行った。 ヴォルガ河下流域に都市・サライを建設して、中央集権で統治した。 この地域はキプチャック草原と呼ばれていたゆえ キプチャック王国/カン国と呼ばる。 また 君主の帳幕/パオ/ゲルが黄金で飾られていた事より 金帳ハン国とも呼ばれた。 1206年 チンギス・カーンが即位の折、ジュチに四個の千人隊からなるウルス(領土)をイルティシュ側領域にあたえた。 大西征で領土は拡大した。 そのウルスを次男バトゥが総括として統治し、長男オルダが東方域を支配する旨をチンギス・カーンは承諾していた。 左右両翼体制は遊牧民の伝統であった。 以降 ヴォルガ川流域が宗主バトゥの王統(金帳カン国)、イルティシュ河流域はオルダの王統(白帳カン国)としてキプチャツク王国を統治して行きます。 史書はジュチの正嗣子を折半して、それぞれの統治下に置いた と記す。 即ち バトゥはジュチの三男・ベルケ、四男・ベルケチュル、五男・シバン、六男・タングト、七男・ボアル、八男・チラウカン、十男・チンバイの八名を翼下に配して右翼諸軍とした。 一方 オルダの左翼諸軍は 東方の兄弟国家(ジュチの実弟王国)と接し 防衛対策等の配慮は無用が故 九男・ソンクル 他 ボラ・ムハンマド、ウドゥル、トカ・テムル、セングム等六名の構成であった。


バトゥ率いる蒙古軍が東欧州に侵攻しヨーロッパを恐怖に落とし込む事件が起きます。 近世まで”タタルのくぶき”として東欧人に遊牧民を悪魔と記憶させた侵略戦争です。 これの背景を時代を戻して説明しよう。 1219年に開始したチンギス・カーンの西征は整然と 且つ 急速にホラズム・シャー朝を追い詰めた。 国王アラーウッディーン・ムハンマドはアム河を超えて西へと逃走した。 ジュチは彼を追った。 チンギスは“四狗”*チンギス・カーンが最も信任するテムジン時代からの猛将軍四名 ジュペ、スグタイ、ジュルメ、クビライの諸将*の内、ジュペとスグタイに各々1万人の将兵を率いさせて ジュチの援軍に差し向けた。 ジュチはムハンマドを見失い、ヴォルガ河方面に進撃する。 ジュペ・スグタイお両将軍はカスピ海の西部を北上し、1221年にはグルジアなで侵攻していた。 ムハンマドは1220年にカスピ海の孤島で客死していたが。 ジュチ・ジュペ・スグタイは更に進撃を続け、諸族を撃破し キプチャク草原に侵攻した。 キプチャク草原の遊牧民・クマン人は強力な勢力を有していた。 また ルーシ(ロシア)とも友好関係にあった。 1223年5月31日 カルカ河畔の戦いが始まった。 キプチャク連合軍にルーシ連合軍が加わった五万の軍が スグタイの息子・ウランが率いる蒙古軍に襲い掛かった。 チンギス・カーン軍は負け知らずであった。 ジュチ・ジュベ・スグタイが蒙古軍二万有余は 連合軍を大破した。 敗退する連合軍を追って、蒙古軍の分隊はヴォルガ流域に達した。 同年の秋 ルーシ連合軍に加担したブルガール王軍とヴォルガ流域部族の連合軍が蒙古軍をケネスクの戦いで勝利を収めた。 この頃 チンギス・カーンの帰還命令が発令された。 蒙古軍は馬首を東に向けて、運を引いた。 帰還途上 ジュチは病死した。 以来 蒙古軍に屈したキプチャクの諸部族は、自治は認められるもモンゴル帝国の属民となったのです。 1229年 スグタイとブベデ率いる蒙古軍が再びヴォルガ域に攻め込み、ブルガール連合軍と抗戦 これを破る。 よって ヴォルガ河で東欧州諸国と蒙古帝国が境を形成するようになった。 ジュチ同様に ジュペ将軍は帰還の折に 熱病にかかり、病死した。 尚 前記載【9】のチンギス・カーン遠征・侵攻図を御参照、 最上段右側です   
        
 金帝国の征服が完了せしめた モンゴル帝国第2代ハーン・オゴデイは、モンゴル高原のダラン・ダーバスの地にて大会議・クリルタイ折を招聘した。 1234年の夏であった。 決議事項の最重点項目には 高原中央部はオルホン河畔に行政・交易・兵站の中心都市、カラコラムの建設する事であった。 遊牧民が都市を建設すると言う偉業であった。 無論 皇族・貴族たちはその周辺でゲル/パオの生活を継続・維持するのだが、 チンギス西征の時から、イスラム世界の技術者・工芸家は殺害することなく、このカラコラムに集められていた。 遊牧生活を営むには 農耕製品が不可欠である。 交易・商業の大都市を草原に出現させる事業である。 交通網の整備、 駅伝システム 等 平行事業として オコデイ・ハーンは推進した。 耶律楚材は片時もフビライ・ハーンの側を離れず 皇帝に献策し続ける。 宰相として 大モンゴル帝国を堅牢なものに作りあげていった。 翌年 1235年 このカラコルムのクリルタイで本格的な世界遠征計画が討議され決定された。 ヨーロッパ、インド、華中・華南の南宋、韓半島の高麗を征服する巨大なプロジェクトが生み出された。 布告が示す《万戸の、千戸の、百戸の、十戸のノヤン(貴族)たち、多くの人は誰であっても 己が子の兄たる者(長子)を出征させよ。 王女たち、その婿殿たちは同じようにして己が子の兄たる者を出征させよ》と 貴賎を問わず、社会組織の末端までもの官吏に直接出征を指示する命令です。 よって 帝国全土の王侯・部族の長子たち、即ち 次世代のモンゴル帝国の中核を担う嗣子が全員出征すると言う 甚だ大規模なものでした。 大会議・クリスタルは このヨーロッパ遠征軍に参軍する皇子たち・諸族の正嗣子たちを総括する任をバトゥに命じています。 1235年夏 蒙古軍は動くのです。
 では なぜ クリルタイの決議が すぐ 行動に移せるのでしょうか? 幾度となく、遊牧民はその生活が軍事訓練であると書いてきました。 更に 諸種の理由を追記しましょう。 まず 新しく手に入れる征服地の全ての住民と戦利品は その作戦に参加した部隊の頭割りで均等に分配すると言うヤサ法*チンギス・カーンが編成・制定した規律/憲法です。 違反者への懲罰責任者 即ち 最高裁判所の最高判事長がチャガタイです*があったこと。 次に 東欧のヴォルガ河以西な豊潤な草原です、遊牧民の世界が広大な地の果てまで続いていたこと。 そして その豊潤な平原がドニブロ河に至り、その先の先まで豊かな都市が散在し、富が集積していること。 更には、平原の民・ルーシ氏族をしているウラジミール大公国の皇族・貴族たちは西方のフィンランドからの征服者が子孫であって ウラジミール大公国は征服王朝であり 住民とは隔離していること。 等々でしょう。
 1236年の冬までに東部のモンゴル軍は粛々と また 悠々と天山山脈北部のイリ渓谷に集結した。 当時 イリ盆地にはジュチ家のオルド・幕営地であった。 【イリ渓谷は地政学上の重要地域です。 古来 幾多の政権・王朝がその覇を競った。 20世紀初頭には ロシア帝国・大英帝国・清朝がその覇権確立に血みどろの戦いを演じた場所です。 このブログは前記載の “天山山脈 北部の旅”にて その詳細を書いている。 ぜひ 一読してください】  ジュチ家を中心に情報を集め、作戦を練って 春を待った。 その陣容は八万有余の将兵であった。 モンゴル兵・約3万5千人以上、テュルク兵(非モンゴル系遊牧民族)四万以上であり、諸皇子は ジュチ家の総司令バトゥを筆頭に 長男・オユダ、五男・シバン、六男・タングトが出陣した。 チャガタイ家は長子・モエトゥケンの次男・ブリと六男・バイダルが参加した。 オコデイ家は長男・グユク(後、大ハーン)と庶子の弟・ハダンオウルが派遣させた。 史書には夏のクリルタイの折、皇帝・オゴデイ・ハーンが自ら親征して このチンギス家が総力結集する大作戦での 陣頭指揮を取るつもりの意を示そうとするも、実弟・トルイの長男・モンケ(後、大ハーン)に諌言されたと記す。 トルイ家からは長子・モンケと七男・ボチェクが参陣した。 それに、チンギスの次席皇后・クラン・フジン/ハトンの子・コルゲンもさんかしている。 また チンギス・カーンの功臣筆頭・ボルチュの世嗣・ボロタイが本営・中軍の総司令バトゥの宿将として従軍し、チンギス“四狗”のスブタイが万騎を率いて参戦していた。 スブタイとモンケ・グユンは副司令として右翼・左翼を固めていた。 騎馬遊牧民の伝統的な布陣であった。 1236年 早春二月 蒙古軍はイリ河を降り、バルハシ湖の南方からウラル山脈は南の山麓平原に兵馬を進めた。  

チンギス統原理 【10】

2011-02-05 13:36:13 | 史蹟彷徨・紀行随筆

 イスラム世界への大親征、西征から帰ったチンギスは広大になった領地を皇子に分割した。 長子・ジュチは南西シベリヤから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地を拝領した。 次男・チャガタイは中央アジアのカラ・キタイ全域と西部ホラサン地域を、三男・オゴデイは西モンゴルとアルタイ山脈南部・ジュンガールの支配権を、末子トルイには言明を避けた。 遊牧民の風習は末子相続であり、チンギスの本拠地モンゴル高原はトルイが継承することになっていた。 しかし、後継者問題は別である。 耶律楚材にチンギスは《正嗣子に能力が無いと判断すれば、直ちに この帝国の指導者に就いてもらいたい》と相談していた。 その折、耶律楚材は ためらいも無く即答した《臣、次期皇帝に誠心尽くしましょう》チンギスは《神が 我が家に使わした人よ》と 言ったと記されている。 チンギス・カーンは 耶律楚材の助言で 温厚な三男・オゴデイを後継者に指名していた。 西征の際、ジュチは壮麗な城市を破壊する事を拒む戦術で攻略が長引いた。 チャガタイは抵抗するものは徹底的に殺戮・破壊した。 戦術の実践で二人は何時も対立してきた。 オコデイがジュチ・チャガタイの間を調整してたのです。 チンギス・カーンが西征で知ったウイグル文字を 縦書きに変化させ 完成した蒙古文字を部下に収得させようと布告した折に、一番優秀だったのがオコデイであった。
 凱戦の後 しばらくしてから、チンギス・カーンは 以前 臣下した西夏王国が金と同盟を結んだ事を知った。 ホラズム遠征に対する援軍派兵の依頼を西夏の皇帝は拒否してきた事実もチンギスの逆鱗に触れた。 チンギスは懲罰遠征を決意した。 1226年初頭 西夏の諸城を攻略、凍結する黄河を渡り。首都興慶(現在の銀川市)を包囲した。 西夏王国は諸域からの援軍30万余で蒙古軍に抗戦するが敗れて、四散する。 ここに西夏王国は壊滅した。 国王は娘を人質に包囲網を解かせた。 翌年6月 チンギスはオゴデイを陜西・河南の金領に侵略させ、自ら西夏の未だ好戦的な諸城を攻略しつつ 夏季の避暑のためにオルドスの六盤山に本営を設けた。 莫舎の中には人質の妃が独り居た。 身には寸鉄だに おびていなかった。 ただ、西夏には西方のイスラム神秘主義者が暗殺に使う秘法が伝わっていた。 女体に隠し持ち、秘所にて用いる秘法の劇薬である。 1227年8月18日未明 チンギス・カーンは他界した。 遺体は北の高原へ運ばれた。 その北帰行 途上 見かけた住民はすべて殺害された また 埋葬の痕跡を消すために 一千頭の馬を走らせた と史書は記す。 悲報を知ったオゴデイは 西夏王国の皇族・重臣の全てを殺戮した。*小生 オルドス地方を二度訪れている。 南に明の長城や始皇帝が築かせた長城があり、オルドスのほぼ中央にチンギス・カーン陵がある。 これは大興安嶺山脈南西部ホインバル大草原に日本帝国陸軍が建立した陵を中国・共産党が移設したのもです。 しかし 紅衛兵が文化革命で内部の遺品をことごとく破壊した。 訪問時、建家のみが 寂しげに虚空に孤立していた。 因みに チンギス・カーンの埋葬地は未だ不明です 2004年 日本の調査隊がヘルレン河・ウランバートル東方250kmのアウラガ遺跡で発掘調査を実施、チンギス・カーンのオルド跡と立証したが、モンゴル族の心情を配慮して墓の調査は行なっていない 歴代のモンゴル帝国・皇帝はチンギス・カーンのそばで永眠していると言う*
   
    

 チンギス・カーンの遠征は非常な成功を収めている。 その理由は抵抗する者を決してゆるさず、最後の一人まで殺し尽くすが、抵抗せず降伏する者は、 人頭税を払わせるだけで決して殺戮を許さなかった。 自治を与え、開放した。 自軍への懲罰は厳格だった。 例えば、 メルブィ攻略の折、町の守備隊は 二度 城外に出て、激しく抗戦した。 末子トルイは7万余の軍を率いて応戦 城市を包囲した。 町の知事以下幹部がトルイの幕営に赴き、降伏した。 トルイは彼らを捕縛し、町の富豪二百名と工芸家・職人四百名が幕営に呼びつけた。 ついで、モンゴル軍が入城し 全住民に貴重な財産を持たせて城外に出させた。 そして 幼児・老人を問わず 全員を虐殺した。 以前 トルイが温情で、チンギスの甥を戦死させていたがゆえのトルイへの厳命であった。 また ホラズム帝国の都・ウルゲンチを長男ジュチと次男チャガタイに包囲攻略させていた時。 6ヶ月を経過するも落城の報告はない。 チンギスはその原因が兄弟の不和であり、軍規が緩んでいる為と知ると 直ちに 三男オゴデイを派遣した。 ジュチ・チャガタイの指揮権を剥奪し、オゴデイに総指揮をとらせている。 
 チンギス・カーンは自軍にも敵軍にも 判りやすい原則を貫いて成功を勝ち取った。 前節でホラズム帝国崩壊の理由を述べました。 更に 追記するなら、 モンゴル兵団は 事前に情報をよく集め、地理を調査し、綿密な作戦予定表を作成して、全軍がそれに従った侵略を履行した事。 第二に、作戦中は規律が徹底し、指揮官の命令を厳守した事。 第三に、兵士はそれぞれの変え馬を準備し、機動力が大きかった事。 第四に、蒙古兵の弓は張り合わせ弓で、矢の速力が速く射程が長かった事。 また 遊牧の生活で騎馬・馬射の技術は城下の兵士の比ではなかった事。 第五に、進軍途上の他の諸部族が われもわれもと従軍し、目的地に至った折には 雪だるま式に巨大な軍団に成長した事。 第六に、おおむね 蒙古軍の敵は農耕・封建社会で、統一行動の習慣がなく、ややもすれば抜け駆けの保身や分裂を起こしやすく、各個撃破が容易であった事。 等々でしょう。
 
 さて チンギス・カーンの死後、そのオルド/ウルスを相続した末子・トルイがとりあえず監国(摂政)となり、左翼万人隊・ムカリ将軍の金王朝に対する作戦を続行した。 左翼のモンゴル高原は叔父達が安定させていた。 一方 右翼方面は長兄ジュチは病死 *チンギス・カーン西征の1224年頃 ジュチはカスピ海西岸よりモスクワ近辺まで侵攻していた。チンギスが帰還命令をだす。 ジュチは轡を返し、カスピ海東岸を回り、帰幕を急ぐが途上 病にたをれた。 馬車に横たわり、父のもとに急ぐ。 チンギス・カーンはジュチの出生の虚言でジュチは離反したかと自問しつつ、命令違反の懲罰軍を出そうかと自責する。 二百数余の白馬(白馬一頭は十二匹の馬に相当する)に囲まれたジュチのむくろが帰還した* で ジュチの子息 オルダ・バトたちはシル河以北の所領を相続していたから、自然と右翼右翼万人隊はチャガタイの命令を仰ぎ、耶律楚材に何かと相談をする。 耶律楚材は大局からチンギス家を見る人であった。 チンギス・カーンにオゴデイを次期の支配者に推した人でもある。 チンギスの希望も後継者はオゴデイであった。 ただ、チンギスはオゴデイに酒を慎めと苦言していた。 遊牧帝国は部族、氏族の連合体である。 その君主は選挙制で決める。 だれを君主/指導者するか、遠征は何時・何処に・目的は・期間は等 クリスタル(大会議・国会に相当)が決めるのです。 クリスタルは最有力部族の長が招聘するのです。 皇族の最年長者である次男・チャガタイが このクリスタルを招聘 挙行した。 時は1229年、場所はケルレン河畔のコデエ・アラルです。 諸王・万人隊長・千人隊長・チンギスの皇族・諸部族氏族の長・チンギスの重鎮 が集まった。 オコデイは右翼に属していた。 右翼の支配者にはチャガタイが戦歴からして誰もが適当と認める状況である。 チャガタイが招聘したクリスタルでもあった。 左翼のトルイは執政の立場である。 右翼のトルイと右翼のチャガタイが最終の候補に選ばれた。 オゴデイはトルイと仲がよく、トルイの長男・モンケを養子してたほどの関係にあり、温厚にして聡明であった。 耶律楚材は動いた。 チンギスの希望をチャガタイに語り、オゴデイの跡は ジュチなき今、 チャガタイ家から皇帝を出す条件でトルイと話し合い、オコデイをチンギスの後継者に推薦しろと。
 春から行なわれたコデエ・アラルのクリスタルは1229年九月十三日にオゴデイをチンギス・カーンの後継者 大モンゴル帝国の二代目皇帝に推挙し 決議した。
 
   

チンギス統原理 【9】

2011-01-30 13:28:12 | 史蹟彷徨・紀行随筆


 黄河の北部は草原地帯ではない。 騎馬軍団がその機動力が十二分に発揮できる場所ではない。黄河に近づけば近づくほど地形は複雑になり水路が障害になった。 有効な攻城方法も見出せなかった。 チンギス・カーンは親征当初より華北を占拠し、この地に定着する意思はなかった。 カムリ将軍に管理させ、定期的に農耕産物が入手できればよい と考えていた。 他方、広大な華北地方の農民・有力者はキタイ(遼)王朝であろうとも金王朝であろうとも外来者でしかない と考えていた。 マンチュリアから侵略した野蛮人の征服者に過ぎない とも考えていた。 自己の封地を持つ有力郷士は宋であれ金であれ、皇室が南に去っても封地を去ることはできない。 一方 カムリ将軍は限られた将兵では 騎馬戦にやや有利な土地柄とは言え、金王朝勢力の黄河は南、開封には攻め込めない状況にある。 黄河を渡れば、騎馬を従網に走らすことが困難である。 
 華北から金朝が去ると、金に追われたキタイ また 金朝に見切りをつけた有力郷士がカムリ将軍の部隊に現地人部隊として参加する流れが生まれてきた。 耶律楚材の戦略どうりである。 この動きに呼応するが如く、征服王朝である金朝は南宋を侵略し始める。 カムリ将軍は南宋と手を組み(1232年)金を挟撃する。 1233年 カムリ将軍は開封を落とし、后妃を捕らえる。 1334年 満州からの侵略王朝 金は滅亡する。 この折、カムリ将軍が 后妃・皇女や金朝重鎮を殺害しなかったことで、“将軍は皇帝になり、新王朝を開きますぞ”とチンギス・カーンに具申した者いた。 “将軍は そのような男ではない 我がネルゲぞ” と答え 笑ったと言う。       ****** 話を 1215年 草原のジンギスに戻します *****
 チンギス・カーンは西方の事に関心を抱いていた。 天山ウイグルが来降(1211年)以来 西夏を服属させ、金朝を追い詰めた。 南方の事は成った。 天山ウイグルが莫舎に来て従属の意を示したのは 10年前 ナイマン王 タヤン・カーンを追い詰め 葬った折、取り逃がした王子・クチュルクがカラ・キタイ(西遼)王を幽閉して乗っ取り、悪政を敷き、国を蹂躙しているが故であった。 以来 カラ・キタイの動向を探らせていた。  偶然にも 無駄口を言わぬ“髭の楚材”が身近に居る師に成った。 聞けば 彼の縁者*西遼は遼王朝が金に亡ぼされた時、 梁王朝の開祖 太祖・耶律アボキが8世代目の直系子孫である、耶律大石が200有余の部下とともに西走して建てた(1132年)帝国だと言う。 天山ウイグル王国(856年-1211年)は耶律大石に臣下し、天山ウイグル王は娘を耶律大石に嫁がせたと言う。 耶律楚材は遼王朝・太祖が直系10世代目の子孫* が開いた国だと言う。 カラ・キタイ東部は天山ウイグル族を中心とする豊潤な地域。 今は モンゴルに帰属する領土である。 トランス・オクシアナ地方を基盤にクチュルクが天山地域を蹂躙している。 当時 ウイグル族はマニ教徒であった。 クチュルクはキリスト教から仏教に転向し、カラ・キタイを強制的な手段で仏教に変えた。 非転向者を 虐待・殺害していた。 クチュルクの生母はオルドにいるチンギス妃の一人であるが、1218年 チンギス・カーンはジュベ・ノヤン将軍をカラ・キタイに進軍させる決断を下した。 クチュルクを永久に駆逐するためである。 ジュべ将軍は速やかに天山地域に進軍し、クチュルクの宗教迫害からカラ・キタイ東部地区を開放した。 そして トランス・オクシアナ(マーワラーアンナフル)地区に進軍した。 信仰の自由を取り戻し領民は、クチュルク軍に背を向けた。 クチュルクは追い詰められ 天山山脈に逃亡する。 もはや 従う者はいない。 カラ・キタイ全域を開放したジュペ将軍のもとに 猟民に殺されたクチュルクの生首が届けられた。 時 1219年 カラ・キタイ領はほとんど戦いのないまま また 抵抗のないまま モンゴル帝国に吸収された。
 
 モンゴル帝国は西の強国ホラズム・シャー朝と境を接することになった。 ホラズム・シャー帝国はアッラー・ウッディーン・ムハマド皇帝が率いるも、統治の実権は彼の生母が握っていた。 チンギス・カーンは この明らかに強力な隣人に対して、 『自分は東方の支配者であるようにアッラー・ウッディーン・ムハマドを西方の支配者とみなしている』と書簡を送り、《平和を維持し、二つの帝国の間で交易を促進したい》と表明している。 耶律楚材の遠謀な戦略が覗える。 事実、ジンギス即位以来 西方に逃亡したメルキト族の残余軍団を追跡するモンゴル軍を 幾たびか ホラズム軍が攻撃する偶発事件が起きていた。 以降 12年 わだかまりと不信が両者の間にあった。 その両者が豊潤なトランス・オクシアナで接したのです。
*上記右図参照 小生 この地を旅した。 張騫が漢の武帝の命で汗血馬を求め、月氏に使いした場所/ 玄奘が旅程を楽しんだ場所/ ソグドの故地です* 
   

 1218年 モンゴル領を出立した450名のソグド商人*トランス・オクシアナを故地とする シルクロードで交易をする商業中心の民 現代のユダヤ的存在 アレクザンダー大王の遠征に激しく抵抗し、国土を追われた 以降 シルクロード沿線にコロニーを築き、歴代中国王朝の経済顧問を務める人材を輩出する*で構成された長蛇のキャラバン隊がホラズム・シャー国の国境都市・オトラルの城門を潜った。 城壁で囲まれた街である。 キャラバン隊はチンギス・カーンが派遣した。 交易とホラズム・シャー皇帝への表敬の意を託されていた。 オトラルの知事・イネルチュクはこの交易使節をスパイだと断定し、殺害する。 更に 交易用の物資・皇帝への献上品も押収した。 が、一人の使者が逃れチンギス・カーンに委細を報告した。 チンギス・カーンは直ちにイネルチュクの懲罰と賠償を求める三人の使者をホラムズ・シャーのもとに派遣するも、一人は殺害され二人は髭を剃られて送還されてきた。 激怒したチンギス・カーンが報復の軍団を1219年に発する。 東方はムカリ将軍に任せ、草原の留守部隊は末弟テルゲを総括に兄弟で固めて、ジュペ将軍を天山方面から進軍させた。 皇子団ジュチ・チャガタイ・オゴディ・トルイを草原ルートより西進させ、自らはアルタイ山脈東方からシルクロードのハミに向かい、イリ渓谷沿いに進軍し トランス・オクサニナに進撃した。 ホラムズ・シャー皇帝はジュチが指揮する蒙古皇子軍団になすすべも無く逃走した。 彼はジュチの追撃から逃れ、カスピ海の孤島に従者もなく身を隠した。 王子ジャラールッディーン一人だったと言う。 この孤島で ホラムズ・シャーは死亡する。 以降 ジャラールッディーン王子は激しく蒙古軍と戦うも、矢尽き アフガニスタン方面に後退する。 インダス河にてチンギス・カーンと最後の一戦をみまえる。 武運尽き、単身 騎馬のまま 激流止まぬインダス河へ 20m有余の断崖を飛翔して逃れた。 それを見たチンギスが 矢を射る将兵を制した。“彼は勇者ぞ、逃がしてやれ”と史書にある。 ウッディーンはインドの奴隷王国に逃亡した後、再建すべくイランに戻りますが寂しく亡くなります。 
 チンギス・カーンの侵攻は その殺戮と破壊は まさにすさまじいものであった。 さらに 末子トルイは東イランのホラーサーン地方を軒並み破壊しつくしてしまう。 チンギス・カーンはホラズム・シャー帝国を滅亡させれば 西方の巨大な勢力が失墜すれば 目的を果たせたのです。 彼には金帝国・宋王朝の中国地方での覇権が急務であった。 凱旋帰還する。 1219年から1223年までの親征であった。 帰還途上 アルタイ山脈東方で 孫達が迎えに来ていた。 元朝を開くクビライも居たと言う。 他方 ホラズム・シャーの敗北はカラ・キタイから奪ったトランス・オクサニア地方での統治が 生母が操る権力機構との狭間で、己が集握する軍事力が即応できなかったからでしょう。 更に 兵站が伸びきると考えた蒙古軍の戦闘能力を当初から誤算していたからでしょう。 蛇足ですが、オトラルのイネルチュクの行動や使節を殺害したシャーの行動は 後年の日本は鎌倉時代 中国・クビライ皇帝が使わした元の使節を鎌倉幕府は 幽閉し、頭髪を剃り殺害した事例からも言証できるように、覇権主義の膨張が生ましめたことでしょう。

 エピソードを追記します。 この異文化のイスラーム世界に滞在するチンギス・カーンは 破壊と殺戮の中で、不老不死の疑念に取り付かれます。 秦の始皇帝が福徐を遣わし、妙薬を探し求めさしたように。 山東半島に長春真人が居りました。 有名な道教の老師です。 宋や金王朝の招聘にも靡かず、幾多の師弟を育てた人です。 チンギスは彼を呼びます。 6000有余の旅を終えた老師は弟子と伴にチンギス・カーンの面前に現れました。 馬上から チンギスは彼に問います。  … 『老師、遠路来たからには土産は何か』/『何も無い』 / 『では、問う 不老長寿の妙薬はあるか』 / 『古来 不老長寿の薬は存在せぬ、ただ 狩を止めて、女性/ニョショウと戯れずにときどきは独り寝るのが肝要 ある程度は 寿命を延ばせるかも知れぬ』……  チンギス・カーンはこの老人に感銘を受けました。 駆けつけた耶律楚材に応接を命じ、長春が率いる《全真教》に特典を与えています。

チンギス統原理 【8】

2011-01-29 02:34:38 | 史蹟彷徨・紀行随筆


 即位後のチンギス・カーンの関係年表を確かめると、1207年 ジュチ オイラート族・キルギス族を征討、 1209年 チンギス・カーン 西夏に親征、 1211年 チンギス・カーン 金朝に親征、西ウイグル王国の来降 とあり。
 中国の資料には 1208年頃より 蒙古族しばしば長城を越える、1211年 金の西京を取り、居庸関をおかす。 と記され また 日本国内では 源頼家 修善寺でれ殺さる。 等々が歴史上の出来事として、記載されています。
 
 誠に短い年表から チンギス・カーンが草原を新体制で統治しているさまが浮かんできます。 諸部族を糾合したとは言え、反抗勢力、恨みを持ちつずけ抵抗する部族は各地に潜んでいたでしょう。 忠誠心を再確認した武将たちを思うがままに動かし 鎮圧・懐柔に派遣しているさまが 容易に想起できる。 他方、ジュチの活躍が強調されている。 服属したメルキト部族の北方域、バイカル湖東方地域の遊牧部族がオイラートです。 後年、ジンギスの家系と強く結びつきます。 16世紀以降、チンギス・カーンの“黄金の氏族が衰退した後、蒙古族を牽引するのがジンギスの血が流れるオイラートの貴族です。 また、キルギス族は六世紀に後述するウイグル族の帝国を解体せしめ、天山方面に追放した有力部族です。 バイカル湖西面にて遊牧しているトルコ系部族。 尚武の気風が強く、現代のキルギスタンはこの部族の末裔です。 勿論 キルギス族の貴族階級にもチンギスの血は色濃く流れいます。 チンギス・カーン帝国の外周域の部族統合や征服を 次期政権委譲の第一候補者 正嗣子ジュチとその兄弟に実行させ 帝国内は実弟と重鎮の奮闘で統治を固めてしまう。 北の憂いを取り除いてから、 南部そして西部の豊潤な地域への侵攻を図る着実な戦略が覗える。 チンギス・カーン42歳 ジュチ20歳の頃です。
 西夏王朝はタングート系の王朝です。 唐の時代 “黄巣の乱”の平定に大きな功績を上げ、封領された地に王権を確立した国です。 十二世紀が全盛期でした。 13世紀初頭 凋落する国勢の中、政変が起き 李安全が帝位を筅奪する。 新政権・李安全は旧来の遼王朝との誼が強く、金王朝に敵害する政策を進める。 戦略的に草原の有力部族とは友好関係を結んぶ政策をとる。 即位以来の金王朝への軍事行動が国勢を傾け、皇帝は酒色に溺れように成った。 飢餓状態が恒常化した。 チンギス・カーンは農耕社会の生産物の安全な確保が必要であった。*小生 二度ほど オルドスから北方域を旅行した。 西安から北北西に直進すれば、ゴビ砂漠の西端部を容易に抜け陰山山脈縦断する事なしに北方草原に出られた。また 二月の折、逆U字型に湾曲する黄河がオルドス大草原を囲んでいるのですが 北部域の黄河は凍結していた。 車で走行可能と聞いた。 オルドス草原の四分の一の南部域には秦時代からの長城があり、最も北側に明時代の長城があった。 西安はこれらの長城 約200km 南にある。 騎馬なら 冬季には黄河は障害にならぬと この旅行で知った * 西夏王朝の凋落は草原に入り来る物資を停滞させた。 南方の物資を入手する交易路は 西夏領内を通過する街道が最短にして最良であった。 1207年 チンギス・カーンは親征した。 従軍の中心はオングートであった。 オングート部族は幾度となく西夏王国を侵略していたが、小規模な掠奪行為の繰り返しであった。 チンギス・カーンは城壁に囲まれた城市を攻略するのは初めてであった。 彼はその困難さを知った。 この時点までの 北方遊牧民の侵略は 収穫期直後か必要に迫られた折に侵略し 略奪すればことは足りていた。 しかし ジンギス・カーンは長期的な交易路の確保が遠征の目的です。 思わぬ城攻めの困難さに直面したチンギス・カーンは兵を引き、翌年 再び軍を南下させる。 蒙古軍団の侵略と金王朝への軍事行動で国力の限界に至った西夏王朝は 1209年 チンギス・カーンの軍門にくだり、臣下する。 *後年 西夏王朝は再び宮廷クーデターで政権が変わり*1211年*チンギス・カーンの出兵要請を拒否し、自滅して行く。 1226年の事です。 チンギス・カーンの逝去と重大に絡みますから、詳細は後ほど* チンギス・カーンは知っていた。 東部・左翼のムカリ万人隊長が居庸関近辺は万里の長城を超え、権王朝領内で略奪行為(上記、年表記載の中国資料)を行なっている事を。 西夏帝国が 今 服属した以上 西夏経由の侵攻で金王朝を追い詰められる事を。 また 彼は知っていた。 城市の攻略は容易でないことを。 《この時点では、黄河地帯を直接支配し 居住する とは 蒙古族は考えだにしなかった。 チンギス・カーンは金王朝を屈服させ、定期的に朝貢物資と人頭税が入入れんば善し と考えていた》
  
 北からの憂いをなくし、側面の西夏は従臣した。 1211年 チンギス・カーンは金への進軍を決意した。 彼は慎重であった。 三軍に分けた進軍であった。 東部渤海湾方面からの侵攻・ムカリを総司令に左翼の子飼いの諸将で編成した。 中央部・ゴビ砂漠を縦断して大同方面に侵攻するジュチ・カサルを総司令とする実弟軍団を南下させた。 西部・西夏経由の自軍はジュチ・チャガタイ・オコデイに従軍させ自ら総司令として南下した。 末子・テルゲは留守部隊の統括である。 モンゴル軍はそれぞれ野戦では圧倒的に勝ち進んだ。 西夏への侵攻と同じ展開になった。 強固な城壁に阻まれ、主要な都市の攻略には失敗した。 しかし 騎馬遊牧民は戦いの日常から学んでゆく、戦士である。 攻城技術を苦戦の中から学んでいった。 後年 ペルシャ方面で圧倒的な破壊力で 短期間にて巨大なモンゴル大帝国を建設する都市征服者 チンギス・カーンの戦術は この金王朝攻略の経験が土台となって開化したと言明できる。 チンギス・カーンは全軍に指示をあたえる。 降伏しない城市は周囲を徹底的に破壊しろと。 黄河の北部域はモンゴル軍団の馬蹄で踏みにじられた。 事実 当時五千万人ほどいた華北の中国人の人口が三十年後の調査資料によると約九百万人に激減している。 黄河以南への逃散・流民化があったにしてもモンゴル侵略にともなう虐殺の規模は想像を絶する。 野戦の勝利と若干の城市攻略に成功したチンギス・カーンは 1213年には万里の長城のはるか南まだ、金帝国の領土を征服・併呑していた。 モンゴル軍の侵略は止まらない。 黄河方面に侵攻する。 1214年春 金王朝政府はチンギス・カーンと和議を結び、戦局収拾する。 テムジンは勝利した。 勝利の証は 膨大な戦利品と金朝皇帝・衛紹皇帝の娘 岐国公主がチンギス・カーンの妃に召されたことであった。 戦利品を運ぶ長蛇の列が一ヶ月以上続いたと言う。 岐国公主は草原の生活を始めてから 生きることの楽しさを知ったと周囲のものに話している。 また ジュチを筆頭に義理の子供の良き相談役になっているから 幸せな人生を送られたのであろう。 さて、金王朝は和睦後 モンゴルの勢力を恐れ、黄河の南 現在の開封市に首都を移した。 チンギス・カーンはこの事実は背信行為であると いや これを口実に 再び 金を攻撃した。 1215年 モンゴル軍は燕京(現在の北京市、金帝国の王都)を包囲し、陥落せしめた。 このとき チンギス・カーンをして“神が我が家に使わされた人”と言わしめる人物・“耶律楚材”をみいだす。 耶律楚材は美太夫であった。 身の丈180以上、顎鬚は黒々と1,0mと史書にある。 金に亡ぼされた“遼”王朝の皇族が末裔である。 実兄が金王朝政府の重鎮であった。 チンギス・カーンが聞く、 《なぜ、開封に行かぬ?》 《兄は兄、金に臣下したのは兄、私は今日まで金の禄は頂いたことはない 兄とて ひとたび 臣下の礼をとった以上 最後まで誠を貫きましょう》 《余が 金を亡ぼした、そなたに代わって仇を打った事になる、礼を言わぬか?》 《国を興せば、誰かが倒すのは道理、家の血筋を残すのが肝要と考える》 《そなたに なにができる?》 《なにも ただ 殿下に 知恵はあげられましう》との逸話が残されています。 耶律素材の存在がなければ、チンギス・カーンの偉業は成らなかったと史書は評価してる。
 この耶律素材の助言(早急にこの地を復旧し、租税を徴収するのが得策)を受け入れたチンギス・カーンは これ以上の破壊行為を禁止した上 左翼万人隊長・ムカリを将軍に任命し、華北の経営を一任して草原に引き上げる。 後を追うように 耶律素材がチンギス・カーンの草原のオルドに現れ、以降 “髭の知者”と呼び、生涯 彼を身近に置く。 政務だけではなく家族のことまで相談するのです。