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【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

チンギス統原理 【7】

2011-01-28 11:27:26 | 史蹟彷徨・紀行随筆


 前章【4】にて遊牧民社会を概略的に説明しました。 テムジンの行動は説明項目を遺脱したものは一つもありません。 例え一項の仔細な遺脱的行動を行なっていれば テムジンの成功はありえなかったでしょう。 1206年から テムジンはチンギス・カーンと呼ばれます。 命名は 彼の母・ホエルンが再婚したシャーマン(宗教司祭・巫者)イエスゲェー族のココチュが(海・烈しい・偉大な・神の子=ちんぎす)から附けるのです。カーン/カンは皇帝、ハーン/ハンは王と考えて良い冠位でしょう。 遊牧民社会は《1》徹底した実力主義ある。(イ)指導者は能力あるものが話し合いで選出される と説明しました。 遊牧民 特に蒙古系の遊牧民社会で“クリルタイ”中世から近世にかけて、開催されたモンゴルの最高意志決定機関があります。 機関の決議事項は 重要討議議題として 三っありました。(1);皇帝候補の選定とその即位承認 (2);諸外国への遠征計画とその履行承認 (3);法令制定とその履行承認 です。 最高権威者が王族、領土内の有力部族首長、重臣達を召集する いわば、国会に相当する機関です。 4・5年に一度開かれたもようですが、皇帝選出の折には“大クリルタイ”と呼ばれました。 1206年初春、オノン河川原で開かれたのが第一回大クリルタイです。 以降 第二回 1226年8月《チンギス・カーンの後継者にオコディが即位する;ケルレン河・オノン河合流点 ココ・ナウルにて》 第三回 1246年8月26日《摂政監国ドレゲイ招清で開催、グユクが即位 ココ・ナウルにて》 第四回 1249年夏《バトゥの召集でトゥルイ・ジュチ両家中心にて開催 *帝国解体に繋がる* イリの河上流にて》 第五回 1251年7月1日 《バトゥの召集・開催 モンケが即位 コデェ・アラルにて》 第六回 1260年4月 《クビライが自派を召集・開催 自ら即位 金蓮川の開平府にて》等が大クリルタイです。 さて、1206年2月 フフ・ノーロに近いオノン川上流の河源地において功臣や諸部族の指導者たちを集めて“クリルタイ”を開いた。 前年に 宿敵ジャムカを捕らえて処刑し、ナイマンを破り、ジュチ率いる部隊がメルキトを崩落させ、南方のオングトはテムジンの権威を認めている。 草原に憂いは無くなった。 もはや 力で統合する事業は草原には見当たらぬ。 諸部族の妃が幕営を楽しませてくれる。
 テムジンは歓呼で迎える諸部族の群れを割り、進んだ。 九脚の白いトゥク*ヤクや馬の尾の毛で旗竿を飾った旗差物*が打ち立っ前を歩み 巨大なテントに入った。 それは 500人以上を収容できるのもであった。 義父 ココチュ・テブテングリ *ココチュは後年 チンギス・カーンと反目し、殺害される* がテムジンに跪き 草原の偉大な指導者、 白き雌鹿と蒼き狼の子孫、神がこの地に遣わした祝福されし者、大海を治める者、“チンギス・カーン”我々の上に立て。 と音声した。 テムジンは答えた“ここに集うは一族ぞ、 白きトゥクに心寄せる者は同じオルドに住む兄弟ぞ、兄弟が助け合うものぞ、白きトゥクが守る民をモンゴルと呼ぶ”天地を圧する大音声であった。 即位したチンギス・カーンは続いて、これまでの論功行賞を惜しみなく行なった。 それは、苦難の時代に助けてくれた一牧童や老女までをも大テントの中に導き入れて、褒賞を手渡したと史書に在る。 論功行賞は20日を要したとも記されている。1203年の敗戦“バルジュナ湖の誓い”の勇者には格別の褒賞を与えている。
 チンギスの命運を左右したであろう些細な事への褒賞、凋落の淵に立たされた時に忠節を尽くしたネルゲたち チンギス・カーンは惜しみがなかった。 論功行賞は忠誠心の再確認であったろう。 チンギス・カーンは このクリルタイを機に組織を再編成している。 前に 遊牧騎馬民族の軍団組織は10進法で この単位が日常の生活の基本単位になっており、遊牧生活そのものが軍事訓練ですと書きました。 チンギス・カーンは腹心のネルケにノヤン(貴族)の位を与え 征服した遊牧民を領民として分け与えている。 オングトやコンギラトなどの同盟して服属した諸部族の指導者を加えた領主階層をノヤン(貴族)とし、最上級のノヤン88名を定めた。 このノヤン88名は千人隊長(千戸長)と言う官職に任命され、その配下の遊牧民は95の千人隊(千戸)と呼ばれる集団にへんせいされた。 また 千人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)の十進法で千人隊長は概ね85万人の遊牧民を管理する事になります。 各隊の長にもノヤン(貴族)がにんめいされた。 戦時においては、千人隊は1,000人、百人隊は100人、十人隊は10人の兵士の動員がする義務を負います。 よって 千人隊長は10,000人の兵団です。 驚くことに 遠征への動員発令が降ると、各隊の兵士は家族と馬を伴って移動します。 一人の乗り手に対して3,4頭の馬が必要ですから、常に消耗しない良馬を移動手段としていたのです。 後年の欧州はライン河まで侵略できた機動力とその兵站力の源泉が良くわかります。
 チンギス・カーンは高原の中央部を直営の領民集団として領民を遊牧させます。 左右両翼(東西)に千人隊を配置し、左翼と右翼*匈奴 紀元前6世紀から紀元後5世紀まで草原を支配した大帝国が習慣で 南を見ての右・左です。 従って 興安嶺山脈側が左翼、ウラル山脈側が右翼です*均衡を取り 帝国を統治したのです。 統括の任は万人隊長です。 高原統一の功臣 ムカリが左翼 ボオルチェが右翼の任に就きます。 更に チンギス・カーンは左右両翼構造の中に実弟の領地を組み込んでいきます。 東部・左翼にジュチ・カザル、カチウン、テムゲ・オッチギンです。 西部・右翼に嗣子の三人 ジュチ、チャガタイ、オコディにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)分与します。 末子のトルイはチンギスの領地を継承します(遊牧民の風習は末子相続です)。 このチンギス・カーンの築き上げたモンゴル帝国は左右対称の軍政一致構造は匈奴以来の伝統とは言え、 恒常的な征服戦争を続ける事を可能にしました。 事実 その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定し、前章の不完結な社会を完結しようと遠征に続く遠征をせざるを得ない要因を内在させていたのです。 クリルタイはお祭りではなかった。 クリルタイが行なわれている時、 チンギス・カーンは最初の征服戦 “西夏王朝”と事を構えていた。


  

チンギス統原理 【6】

2011-01-21 23:03:56 | 史蹟彷徨・紀行随筆
     一週間程 他のブログ【愚者憂患】にチンギス・カーンの末裔 バープル(ムガール帝国創建者)に集中していました。  薄学の素人、門外漢の小生 御寛大に・・・・・


 ナイマン王 タヤン・ハンは王位を実兄を殺害する事で手に入れるも、武勇の人ではなかった。 先王からナイマン国はネストリウス派のキリスト教徒であった。 彼も異母弟 西ナイマン王ブレイクも熱心なキリスト教徒であった。 皇后は草原一と諸部族長が認める美貌である。 二人の間には正嗣子・クチュルク王子一人と皇女が二人いた。 タヤン・ハンの王子への信任は厚かった。 彼は指導者として、敵の敵は味方とする遠交近抗策を常に用いていた。 ナイマン王国が東西に分裂した後も、高原中央部西域を支配する強大な国家だった。 タヤン・カンは異母弟の西ナイマンを西への守りだと考えていた。 東部で ケレイト部のワン・ハーンとテムジンが勢力を拡大すれば、メルキトと同盟《1902年》してケレイト部を牽制した。 ハン・カーンが凋落し、テムジンの勢いが増すとケレイト部南域のオングート部族長 *オングート族 中国北部・陰山山脈を中心に万里の長城以北 黄河が北に大きく逆Uの字型に湾曲するオルドス大草原地域の遊牧民 チンギス・カーンの大帝国が完成する前 チンギス・カーンとともに 金王朝や西夏王朝の攻略に協力し 領土の保全とカーン家の親族としての特典を許される* に同盟を申し込んだ。 ケレイト部の包囲網を形成しようと策謀したのです。 1203年の頃である。 オングート首長はテムジンに ナウマンの動きを内通した。 この内通をジャムカが知った。 ジャムカは西に走り、ナイマン国のクチュクル王子に面会し、嘘言を耳打ちする。 オングート部とケレイト部が同盟を結んだと・・・ 
 クチュルクは父・ナイマン王に諌言します。 メルキトを動かしテムジンを攻めさせろと・・・また 叔父のブレイクがテムジンと共謀してナイマン全域の支配力を確立しようしていると・・・また ジャムカは鬼才の武将であると・・・・・・申し立てた。 1204年春 タヤン・カーンはジャムカに会い、 メルキトへの使者に立てます。 同盟軍の使者として テムジン攻略への進軍を依頼させる。 連合軍作戦顧問ジャムカ、連合軍総司令官クチュルク、戦略はテムジンをオリオト河に誘導して東西から挟殺する 等がその内容でした。 あくまでも タヤン・カーンは戦場で指揮する意志はありませんでした。 メルキトが動きます。 1204年秋 メルキト軍五万有余が南西方向に進行した。 テムジンは直ちに軍を北上させる。 テムジンにはメルキトに対する遺恨がある。 ボルテが生んだ己が長子ジュチ誕生の九ヶ月前に誘拐されたことより、正嗣子ジュチの真の父親をめぐる不透明さが幕営地内で噂になって来た。 その噂がジュチの性格に影響し、四人の嗣子に不和を生んでいる。 部下達や従属する諸部族が息子達への対応への不自然さを生んでいる。 等々 苦慮する日々が続いてきた。 今 長子とジュチは成人しているも、ケレイト部の指導者としてのジュチを育てなければならぬ、 また ケレイト部を守らねば成らない。 テムジンは正嗣子・ジュチを呼び、部下のスグタイとクビライも呼んだ。 テムジンは南下する強敵メルキト軍にジュチをぶつけ ジュチが指導者としての自覚に覚醒することを期するジュチ軍団を進軍させた。 ジュチ軍約2万、そして 自らはナイマン攻略の軍編成を急いだ。 テムジン軍約2万であった。 ナイマンはケレイト部を遥かに凌駕する大国である。 親交を請うために 娘に持たした岳父が愛情 草原では五指に入る唯一の家宝“白毛のテン毛皮”を手土産にしたことも過去になった。 決別したアンダ・ジャムカが策動していることも知っていた。 タヤン・カーンが長子・クチュルクが総大将で指揮していることも知っていた。 西ナイマン王・ブレイクは動かぬ事を知っていた。 勝利のチャンスは速攻・機動力しかないとテムジンは分析していた。 ただ 出陣したジュチの幸運をブルガン岳の神に願った。 1204年冬 進軍中のテムジンは 何時もの如く 護衛者を身近に置かずに、隊列の先頭で馬を進めていた。 森の中であった。 繫みに潜むナイマンの偵察隊の一人が毒矢を放った。 テムジンの右の腿にその矢は立った。 テムジンは矢を引き抜き、鞍から降りた。 眩暈がした。 ムカリ、ボルチ、チラウン、ボロクル、のネルゲ達(後に“四駿”と呼ばれ、テムジンが親衛隊の中核をなす)が駆けつけた。 ジュペはテムジンを一瞥して、馬に鞭をあて 前方に突進した。 敵の斥候三名を馬上より射殺した。 テムジンはムカリに軍団を散在させ、身を隠し休めと命じた。 チラウンには水のある場所を探し小屋がけしろと命じ、散在する自軍の連絡を図れと命じた。 ジュペとボルチには森を進み 秘密裏にオリオト河へ抜ける道を探れと命じた。 クラウンをジュチへの連絡に走らした。 ジュチ軍にはスグタイとクビライが従軍していた。 ジュルメはテムジンを守る役に就いた。 斥候が使う矢には毒が塗られているのは 戦いの中で全員が知っていた。 ボロクロは敵状を探るため、牧童に成りすまして森をでた。(ジュペ、ジュルメ、スグタイ、クビライは後に“四匹”と敬称される個々の将軍に成長する) 命じ終えたテムジンの傷口をジュメルは切り裂き 口で血を吸った。 吸い続けた。 テムジンは意識を無くし 三日三晩 昏睡する。 傷が癒え、テムジンは10日ほど 森の中で猟を楽しんだ。 ジュチがメルキト軍を蹴散らし捕虜を伴って合流した。 テムジンは征圧した敵軍の将兵を殺す事を嫌った。 殺害するよりも その人的資源が遥かに利用価値があることを知っていた。 事実 ケレイト部にて王に値する支配力を持ちえたのはこれゆえであると自覚していた。 捕虜を自軍の兵士に徴用するこの方法をジュチが行なった事に満足した。 ジャムカがメルキト軍の参謀としてナイマン軍に合流した事も知った。 敵将・クチュクル王子がオリオト河方面で陣を敷ぃたのも判った。 後詰めはタヤン・ハン自らオリオト河後方の森にて陣を構えた情報も入手した。 テムジンは動いた。 ジュチを森から東方の草原に進軍させ、メルキト軍団をオリオト河のクチュルク本体に合流させるよう指示を出した。 メルキトを森に誘い込み寸断・壊滅する。 ジュべにはクチュクル本陣の後方に出て、ナイマン王の行動を阻止する策を命じた。 ジュメル・ムカリに大軍を与え、オリオト右岸を秘密裏に進軍しジュチ軍とメルキトを挟み打ちにする策を命じた。 テムジンはクチュルク本陣を突く作戦を披瀝して、各隊を進軍させた。 ジャムカの作戦の裏をかく布陣だと言えます。 テムジンの戦略眼でしょう  

 テムジン手勢の約二千の将兵は一気呵成にクチュクルに迫った。 それは、右岸の森の中から 戦の狂騒が聞こえた すぐ後でであった。 ジュチが二万の騎馬でメルキト軍勢五万の背面から襲い襲い掛かっているサインであった。 後背を突かれたメルキト軍が クチュルク本体に合流しようと遮二無二に森に突進している狂騒であった。 森で隠れ待つ ジュメル・ムカリが、各所に伏兵させていた1万五千兵をして 慌てふためきながらクチュルクに合流しようとするメルキト軍に 壁を造り、寸断している鬨の声であった。 その狂騒の中でジュメル軍はオリオト河右岸で森を抜け出たメルキトの諸兵を殲滅していた。 ムカリ軍は 森に踏み込んでくるメルキト軍を寸断し 撃破していた。 メルキト軍は先を急ぐあまりに、後方から追い迫るジュチの軍団に対抗する事ができずに 闇雲に森に突き進んだ。 罠に落ちた。 高所で戦況を展望するムカリは 混乱するメルキト軍から離れ、北方に移行する騎馬の将兵に気がついた。 すばやく 単騎でこれを追った。 メルキト軍を森に追い込むジュチは 森と草原の際を北進する騎馬集団を認め、スブタイに騎兵の進路を断たせた。 西に急ぐ五万のメルキト軍は前方は森の伏兵 後方はジュチの勢いに指示系統がますます乱れ、個々に 四散していった。 クチュルクは対岸の狂騒・鬨の声に驚き かつ 迫り来る騎馬軍団二千の先頭を突き進む鬼神の姿がテムジンであると気づくや、二万有余の将兵を見捨てた。 少数の騎馬兵を従え、混乱する戦場を離脱した。 気づいたジュペが彼を追った。 テムジンは戦意を無くしたクチュルクが残兵を包囲し、武器を全て取り上げチラウン管理下に置いた。 そして ジュペ指揮下の兵5000に合流した。 休むことなく 直ちに 軍を整え右岸の森に進撃した。 クチィルクを追うジュペは 長期に渡ってテムジンと戦ってきたゆえテムジンの勝機を逃さぬ機敏な行動を熟知している。 テムジンの行動を察するや クチュルク追撃を諦め、森を突きぬけナイマン王が王城へと突進した。 テムジンはタヤン・ハンを追う。 森の中から 二万の将兵で囲まれたナイマン王 タヤン・ハンが退却するさまを遠望した。 その退路の先を疾走する騎馬集団を認めた。 ジュペの騎馬団であった。 テムジンは勝利を確信した。 テムジンは森を出ると遠矢を射させた。 騎馬軍団は馬上から矢を射る。 タヤン・ハン軍は歩兵が多かった。 数を頼りの軍団であった。 歩兵は矢の雨に戦意をなくしていった。 テムジンの騎兵は遠巻きに敵軍を包囲し その輪を縮めて行った。 騎射しながら。 ジュメル軍も加わった。
 タヤン・ハンの足元には多くに矢が立った。 いつしか 疾走する包囲陣にジュペの姿があった。 彼は馬をとめ、渾身の矢で射た。 矢はタヤン・カンの胸部に突き立った。 タヤン・カーンは落馬した。 多くの将兵は戦意を失った。 その虚を突いて騎馬百数頭がタヤン・カンをすくい上げ、狂走し、一丸を成して包囲網を破り、森に逃げ込んだ。 テムジンはそれを追撃させなかった。 ジュチが射た射た矢が王の命を確実に奪うであろうと確信していた。 今朝 ジュチ軍の鬨の声で始まったオリオト河の合戦は ナイマン・メルキト連合軍陣営九万人対テムジン陣営四万数余だが、メルキト軍をナイマン軍に合流させなかった事がテムジンの勝因であったと言える。 戦いが終わったのは昼過ぎだった。 夕刻まで テムジンはジュチの合流を待ち、轡を揃えてナイマン王城に迫った。 幕営地の中心に 木の矢倉で組む見事な城壁を備えた城塞は開門された。 翌日 クビライがメルキト軍は東方に去ったと報告にきた。 戦い四日後 テムジンはナイマン王 タヤン・カーンの死を知った。 確認の将兵を急行させ、幕臣の離散に伴う失意の中で、名も無き牧民に殺された事実を美貌の皇后に告げた。 皇后はテムジンの側室に成った。 カムリとスグタイが幼少期からの“アンダ/義兄弟”を捕らえて、帰還した。 テムジンはジャムカの縄を自ら解いて聞いた。 《アンダ どうする 草原に戻るか》ジャムカは一言《殺せ》と答えた。 テムジンは下を向いて 側にいる次男チャガタイに袋を と 小声で言った。 *蒙古草原では貴族への刑死執行は血を流させないのが貴種への礼儀でした 従って、袋に入れ 関節を外し 窒息死させる慣行がありました* メルキト軍は敗走して、ケレイト北西で孤立した。 戦場を脱した クチュクル王子は叔父である西ナイマン王・ブレイクが勢力範囲 アルタイ山脈北部まで逃走して、庇護を求めた。 ブレイク王は彼を匿つた。 愛する母がテムジンの妾に落とされたのを知ったのは 数日してからであった。 クチュルクはブレイク王に出陣を促したが西ナイマン王は動かなかった。 クチュルクは南に逃走した。 ブレイク王の財宝を盗みとって、逃亡した。 ブレイク王は財宝を盗む甥・クチュルク王子が挙動を偶然窓越しに見てたと話す愛娘・マリヤムの口を封じていた。 逃亡はマリヤムの話を聞いた二日後であった。 後日談ですが、このクチュルカは天山山脈は南トルファンを落ちぶれた姿で彷徨っている折、偶然からトルファン王室に登ります。 王女が彼をみそめ、カラ・キタイ帝国の娘婿に納まります。 カラ・キタイ帝国/西遼帝国は巨大な国です。 *西遼王朝は 金王朝が滅亡に追い込んだ中国・遼王朝の皇帝が弟が建国した* クチュルクは岳父の皇帝を幽閉し、カラ・キタイの支配権を掠奪する。 が、強権的な統治で家臣・住民は従わず また チンギス・カーンと成ったテムジンの大西征開始時に、ジュペ将軍に追われます。 天山山脈は山中で遊牧猟師に逃亡中、殺される。 

チンギス統原理 【5】

2011-01-20 21:31:16 | 史蹟彷徨・紀行随筆


 テムジン勝利の噂は草原を駆け巡った。 四散した氏族もテムジンの莫地に戻ってきた。 テムジンは彼らから草原の状況を知った。 西方の強力な部族・ナイマン部と父のアンダのトグリル・ケレイト部が覇権を争っている。 タタル・タイチュウト・メルキット等が割拠していて、 草原の部族組織は流動的である事を知った。 指導者として戦いに勝てば、民が集まり 領地が増える事を実感した。 状況は好都合だ。 遊牧戦士として また 指導者として 行動を開始した。  テムジンは父のアンダ・トグリルに同盟を申し仕込んだ。 トグリルはテムジンの豪胆な作戦と戦いの後の処理に満足していた。 同盟を結ぶ利を熟知していた。 さらに テムジンの魅力を知り 古き友の息子に傾斜していった。 
 テムジンの存在は草原にて一目置かれるようになった。 いまや ケレイト部のカンと呼ばれるに相応しいほど 部下も目に見えて増えていった。 母・ホエルンが敵の幼児を哀れみ育てたボロクルもネルケになっていた。 弟達三名にも所領を与えた。 テムジンの統治能力の非凡さは また 指導者の公平さが 更に磁力を増して  野心的な若き遊牧戦士を糾合していった。 この噂にアンダのジェムカ*幼馴染のアンダ 名門家の嗣子 後年テムジンと袂を分かち、テムジン草原支配の最大の敵・弊害となる 一匹の狼として テムジン陣営を錯乱し 敵陣営の謀略家として立ちはだかる*は ますます テムジンから離れていった。
 金朝政府は 彼らの庇護かにあるタタルが横暴と 力をつけ過ぎた と 感じ始めた。 慣例による手段を模索した。 力の拮抗する部族をタタルに向わせるのです。 トグリルに目を付け、使者を送った。 トグリルはテムジンの能力を頼って出陣した。 テムジンは怨念の敵・タタルを撃破し 凱旋した。 1185年頃である。 テムジン25歳前後か 勝利したトグリルは金王朝から“オン・ハーン(王の王)”の冠位を受拝した。 テムジンはその下位の“ジャウト・カリ”を授かった。 しかし テムジンの権力への道程は、この後も激しく揺れ 浮き沈みする。
 ある夜半 ジャムカの一氏族がテムジン配下の家畜を秘かに掠奪しようとして 逆に殺害された。 ジャムカは下手人をテムジンに要求、テムジンはそれを拒否した。 ジャムカはタイチュウトと同盟し、3万の兵でテムジン陣営に迫りきた。 テムジンは本家筋に援軍を求め、自軍・キヤト氏族で応戦にたった。 勢力は歴然としていた。 母・ホエルンすら戦場に立った。 ホルエンが率いる第一陣を先陣に以下13の部隊であった。 千人隊長*遊牧人軍団の編成法 10進法で行い 10人隊・100人隊・1000人隊となり 千人隊隊長には指揮権があったようだ 万人隊が師団で将軍職が指揮をとる*がいない陣容だから テムジン陣営多くて5000程度であろう。 ホエルンの第一陣が破れ テムジン陣営は次々と敗退する。  テムジン以下ホルエン、ボルチェ、チラウン、将兵は水なき荒野に脱出した。 圧倒的なジャムカの兵力に抗すべき策はなかった。 敗戦の苦しみを全員が味わった。 この時の敗戦処理がテムジンに更なる磁力を与える。 ジャムカ・タイチュウトは捕虜を必要以上の苛烈な処罰で殺害した。 その数100名弱であったが、以降 人望を失った。  結果 タイチュウトの陣営から テムジン側への逃亡が続き、タイチュウトは自滅していく。 テムジンとジャムカの決別が決定的に成った。 ジャムカはテムジンの盟友 オン・カーンの敵 ナイマンと同盟を結んでいく。 敗れたテムジンが更なる飛躍に結びついた。 この戦いを“十三翼の戦い 1193年と史書は記す。 
 同じ頃 ケレイト部で再び 内紛が起こり、オン・カーンは実弟 に追放される。 王庭を去ったオン・カーンは草原 西夏・西遼・ウイグル領を彷徨い、身一つでテムジンに救われる。 テムジンは同盟者であり 父のアンダを手厚く優遇し、義父の契りを交わして 再び 1195年 ケレイト王 オン・カーンの地位に復位させる。 また 助力も得る。1196年年 テムジンはケレイトとともにキヤト氏集団(テムジンも所属)の有力者・ジュルキン氏を打ち、キヤト集団を武力統一をはたす。 その頃、草原東部ではタタルが金王朝に背き、離反した。 オン・カーンに金王朝から出撃の依頼の使者が来る。 テムジンは軍勢を東部に向ける。 オン・カーンとテムジンの連合軍は大興安西部でタタルを壊滅的に破り、 タタルは消滅した。 1196年の事である。 その戦場はフルンブイル大草原と呼ばれ、世界一美しい草原と言われている。 (小生 二度 旅したが一望千里 二月はマイナス40度の雪原であったし、秋は枯れ行く草原であった)  1197年 テムジンは軍を発し、メルキットに遠征する。 1199年にはケレイトの援軍として 西方の雄・ナイマンを打つ。 1200年 ケレイトの援軍を得て、モンゴル部内の宿敵タイチュト氏とジャンジラト氏(ジャムカがカン)ろ破り、モンゴル部に基盤を確立する。 しかし 幼年時のアンダ・ジャムカは逃走して東に走る。 1201年 東方の諸部族は 反ケレイト・テムジン同盟を結び、ジャムカを盟主にする。 しかし 東方同盟に加わったコンギラト部族長 愛妻・ボルテの父 から 同盟結成の密報を受け、逆に攻撃を仕掛け 東方を従属させた。 ジャムカは西方に走り、ナイマン王を策動する。 1202年 ナイマン・メルキット・北西のオイラト・東方残党が大同盟して ケレイトに襲い掛かった。 テムジンとオン・カーンは苦戦を強いられるも、小差の勝利を掴む。 テムジンのキヤト氏族とオン・カーンのケレイトが 蒙古草原中央部の覇権を確立したのです。 しかし テムジンはオン・カーンの下位であった。 戦いの後、テムジンは末の弟 テルゲとボルチェ(一番目のネルゲ)をナイマン王国に派遣した。 妻・ボクテは婚礼の持参品 白貂の毛皮*シロテンの毛皮は蒙古草原で二つはないと言われた家宝の品*を献上品として彼らに持たせた。 テルゲはナイマンの王国内の権力動向を探り、ボルチェは戦闘力を探った。 若き戦士も成長していた。 ボルチェを筆頭にクラウン、ボロクル ジュメル*ジャムカに嫌気が差し、テムジンに臣下したタイチュウト氏族 テムジンの愛馬を射止め 戦況を反転させた事あり* ふとした事からテムジンとオン・カーンの嗣子の間に仲違いが起きていた。 1203年の頃 ジャムカはケレイトに亡命していた。 彼は嗣子を煽り、カーンに諌言した。 オン・カーンはその諌言に乗せられ、テムジンの牧地を襲った。 テムジンはオノン河の北部に逃げた。 バルハシ湖畔で体制を立て直し、オノン河沿いに沿って舞い戻り 計略と陽動作戦でケレイト本営を探り出し、本営を急襲 大勝利を得た。  ケレイトは崩壊し、高原中央部はテムジンの手中に落ちた。 またしても ジャムカは西に走った。  テムジンは義父 オン・カーンを手厚く遇し、彼の晩年を全うさせたという。 草原にはナイマン・メルキット大同盟勢力とテムジン勢力の直接対決の風雲が覆っていた。
 
 ナイマン勢力との戦いを記す前に テムジンが蒙古草原の中央部で覇権を確立できた背景を整理しておこう。 前章【4】にて 遊牧民社会を 徹底した実力主義の社会、人命(人材)尊重の社会、非完結の社会 と分析し(イ)項から(リ)項で簡単な説明を試みました。 テムジンの成功には幸運が確かに付きまとっています。 愛妻・ボルテ得たことが最大の幸運だったでしょう。 岳父の信義心は遊牧民の誠心です。 母・ホエルンの行動は遊牧民女性の主張でしょう。 徹底した実力主義の社会が生む・あればこその行動です。 また テムジンの磁力の源泉は人命・人材重視の履行から生まれたものです。 テムジンの孫・クビライが元王朝で王朝の経済を差配したのは胡人・ソグド人(パミール高原西部が故地)です。 テムジンはソグドの交易商人を幕営地に招き交易と情報収集に熱心でした。 *ソグドの交易網はウイグルに保護されて発展しました。 後年 チンギス・カーンが西方への大遠征を成功裏に成しえたのはウイグルの存在が非常に大きい* 熱心さの根幹は非完結の社会です。 非完結の社会であるが故に 草原の民は南下し、また 互いに領土拡大のために戦わざるを得ないのです。 日本や中国・欧州の覇権主義とは背景が全く異なると考えられます。 テムジンはここまで来ると 己が領地の民の為に更に拡大して、民の安全を図らなくては成らないでしょう。
 ナイマンへ派遣した弟からの情報で ナイマン王 タヤン・ハンが実兄を殺害して即位した事、それを嫌った異母弟のブイルク*陳 舜臣さんの長編『チンギス・カーンの一族』は彼の娘が主人公の話です*がアルタイ山脈方面で独立し ナイマン部が分裂している事、ブイルク(テムジンが派遣し先)はネストリウス派のキリスト教徒であり、テムジンはブイルクとは共存できると信じていました。 ブイルクがダヤン・ハンを牽制する以上、南攻策 即ち 南に拡大する戦略を常に練っていました。 しかし またもや ジャムカがナイマン王国をテムジン打倒に向わせるのです。 ジャムカがタヤン・カンを策動したのです。 
 上載の写真右に《チンギス・カーン 皇帝白旗と四駿四狗白旗》があります。 無論 これらは旗ではありません。 モンゴル帝国九白記紋章と呼ぶものです。 チンギス・カーンの莫帳前に常にあったと言います。 四駿四狗とはチンギス・カーンの軍隊組織を敬愛する呼称です。 四駿は親衛隊の指揮官四名、四狗は四名の将軍です。 親衛隊の四駿はネルゲです。 四狗は他氏族の出身者で敵対するうちに テムジンの磁力に引き付けられ・魅せられ 臣下した勇者達です。 紹介しておきましょう。
 四頭の駿馬; ムカリ、ボルチェ、チラウン、ボロクル
      ムカリ…テムジン所属のキヤト氏族の開祖直系の名門貴族 テムジンが同族を支配した折 首長から貰い受けネルゲとする。 金王朝打倒の最大貢献者クビライの元王朝創建にも献身する。
      ボルチェ…馬泥棒事件からのネルゲ テムジン苦難の時代からの貢献者 智謀・テムジン王国内の調和を図る 最高統治者としてテムジン一家を支える
      チラウン…テムジンをタイチュウトの獄舎から救ったソルカンシカ*タイチュウト族*の子 チンギス・カーンの遠征に常に従い、内務行政に貢献 大帝国成立後死亡
      ボロクル・・・テムジンの大祖父氏族の孤児 ホエルンが育てる 放浪のオン・カーンを助け、戦場では幾たびもテムジンの子息が窮地を助けた義侠の人 大帝国成立後北部の遠征にて戦死  
 四匹の猛狗; ジュペ、スグタイ、ジュルメ、クビライ
      ジュペ・・・タイチュト部の武将 名前はジルゴアダイであった 交戦の折、テムジンに矢を射て戦況を変える。 敗戦で捕獲くされ 死を決するもテムジンからジュペ(鏃・ヤジリ)と呼ぶ と 言明され従属を問われ、臣下に加わる。 大遠征で南部戦線の統括将軍として活躍する
      ジュルメ・・・ウリヤンハイ部族 スグタイの兄 ボルチェと伴に早くからテムジンに心頭し 臣下する。 テムジンがナイマン戦で毒矢の重症の折 助ける
      スグタイ・・・弟と伴に臣下する。 戦術はテムジンより優れ 自己を誇示せず人望あり、テムジンの孫・バトゥの主参謀として欧州戦線で活躍する
      クビライ・・・バルラス氏族 テムジン弱小の時 彼の磁力に打たれ、臣下する。 西アジアペルシャ戦線の総括将軍 後年、テムジンの庶子・コルゲンの王傅

チンギス統原理 【4】

2011-01-19 10:35:48 | 史蹟彷徨・紀行随筆


 タタルは草原で強力な部族であった。 金王朝の支援を受けていた。 モンゴル部族とは先祖代々の宿敵でもあった。 《後年 チンギス・カーンはタタル部族を殲滅する。*タタル族の一部は逃走し、東欧を侵略する。 ローマ・東欧を震撼させた また 未だに語り継がれている“タタルの軛”は時代的に矛盾しそうですね、しかし タタルが ユウラシア草原西部を狂騒・混乱させたのは想像できるますが*事実、タタル族は事実上、根絶やしになる。 部族としては消滅するのですが、テムジンの時代の話ですゆえ チンギス・カーンの母親・ホエルンが殺されようとするタタル族の一子をもらい受け、息子として育てる逸話だけを記しておきます》
 家長としてのテムジンは まだ幼かった。 父・イエスゲイは、高貴な血統の出であったが武将であって 自己の信ずる道を歩んだ。 カン位で人が呼び、追従しようともバートルであった。 近隣の揉め事に労を惜しまなかった。 ふとした事からタイチュウト氏族が敵意を抱いていた。 タタルは幼いテムジンを恐れていたが、イエスゲイ毒殺の“もののべ”らしからぬ振る舞いにテムジン一家の自滅を待った。 タイチュウトがテムジンを追い、捕らえた。 見せしめの為 手枷・足かせを厳重に施し 檻に入れた。 イエスゲイへの雪辱を晴らし、テムジンの衰弱死を待った。*遊牧人の風習として 血を流す殺害方法は忌み嫌われます  無論 戦闘は別ですが、特に貴種の血は祟りを恐れ 血を流さない方法を選びます。 例えば餓死、袋に入れての撲殺、絞殺、手枷・足かせの衰弱死です* テムジンは耐え、脱出する。 機転を利かして。 *テムジンの少年期に関しては『元朝秘史』や『集史』などの史書や小説家の表現には英雄のサクセス・ストリーに脚色がある* 死に直面したテムジンの脱出劇は 多くの人の犠牲と手助け そして 勇気・献身があって成功したのであろう。 それは 父・イエスゲイと母・ホエルンの徳であった と 小生 愚考する。 事実 チンギス・カーンとして即位の席にて この脱出に手を貸してくれた一人ひとりに過大の恩賞と地位を与えている。 テムジンは逃走する。 屈辱を晴らすには、タイチュウトと決戦せねばならぬ、父の復習をせねばならぬ、家族を守らなければならぬ、と 心魂に刻みながら  テムジンは聖山デリウン岳に身を隠した。

 テムジンの話から離れますが、チンギス・カーンとして即位し、巨大な帝国を創り上げることがなぜできたのか 日本に限らず、世界中 覇権を確立できるのは当然 その指導者の個人的な資質に拠るでしょう。 結果的に彼らの天才的戦略・能力に帰せられます。 しかし あらゆる戦略はその状況に最も適応したものであるがゆえに成功する。 前に 遊牧民社会において、実の母以外は父の死亡と伴に 財産として継承する風習を話した。 これはレビラト婚と言われるもので奇異な社会的習慣だと現代人は驚愕する。 だが 草原の中に取り残された寡婦が生きていくには最適な方法だったと考えらる。 テムジンは他の社会では受け入れられない社会的背景《文化と言ってもいい》を踏まえた戦略家だったと理解できる。 
 テムジンは十二世紀の人物。 紀元前四世紀に遊牧民帝国を確立した匈奴以来1600年、遊牧民の文化はほぼ確立し、チンギス・カーンが“ヤサ/ジャサ法典”で成文化している。 では 他の地域と異なる遊牧民の文化の特徴を理解しておかないと チンギス・カーンの成功や “アルタン・ウルク/黄金の氏族”が近世まで覇権を継承できた理由が理解できない。
 遊牧民社会は 1;徹底した実力主義の社会 2;人命(人材)尊重の社会 3;非完結の社会 だと言える。 徹底した実力主義の社会は イ-指導者は能力のある者が話し合いで選出される ロ-農耕民に比して女性の地位が高い ハ-能力があれば異民族でも厚遇する ニ-男女を問わず騎馬と騎射に優れている、必然的に機動性に富むあり様がそのまま武力に直結する / 人命(人材)尊重の社会は ホ-情報を重視し勝てない相手とは戦わない ヘ-実際の戦闘は行なわず指導者間の交渉で解決する ト-同盟者・義兄弟の契りを重視し、従属者に新旧の差別なく対等・公平である /  非完結の社会は チ-地域内の社会維持に非遊牧民世界の技術・製品・税(社会運営資金)を必要とするため、必然的に領域内に農耕都市を抱え込む リ-交易を重視し、農耕文化域からの生産品・情報が必要である 等々 (イ)から(リ)の諸項目に整理できるでしょう。 テムジンの行動は 全て これらに則していた。 彼は聖山デリウン岳の神に問い、決意新たに山麓に姿を現した。
 母・ホエルンが家長として小さな渓谷にて一家を支えた。 生活は苦しかった。 その苦しさと貧困さがテムジンをして 義理の兄 二人を射殺せねばならぬ状況まで追い詰めた。 また 唯一の馬を盗まれ、奪回に向う途中で ボオルチェにあった。 ボオルチェは義憤の若者であった。 二人して馬泥棒を追った。 馬の足跡を三日程追った。 馬を取り戻し帰路に就いた。 ボオルチェは父より数等の馬と羊を譲り受け 付いて来た。 後年 ボオルチェはモンゴル帝国創設期の殊勲第等の勲臣となる。 アルラト氏族でテムジンの“ネルケ*家族と血縁関係を切り、尊敬する人の従者になる関係*”第一号です。 テムジン一家は増えた馬・羊のために よりよい場所 草原に移動した。 テムジンは成人した。 母の勧めで ボオルチェとともに、許婚のボルテを迎えに旅に出た。 岳父は父との約束を守ってくれた。 テムジンの事情を全て知りながら。 
 ある夜 メルキット部族連合の王 トクトア・ベキの率いる軍勢に幕営地を襲われる。 これは、父・イエスゲイが母・ホエルンを奪った復讐です。 テムジン殺害の意図は薄かったでしょう。 ですが、愛妻のボルテが略奪された。 テムジンには兵力はない。 兵力が欲しい 一家は西に走った。 父の“アンダ” オン・カーンの援助を求めて。 ケレイト王国に走った。 トリグリ(オン・ハーン)は快諾した。 父のアンダ(同盟者)である。 トリグリは政治力で交渉に臨んだ、が 決裂した。  幼い頃 アンダを誓ったジャムカも兵力を連れて駆けつけた。  オン・カーンの兵力にジャムカの兵力が加わり、 トクトア・ベキとの戦いはテムジンの作戦で勝利した。 半年を費やした戦いであった。 ボルテを奪回した。 しかし アンダのジャムカはテムジンの采配に脅威を覚える。 次代の草原の覇者への自惚れがテムジンの資質に脅威の風圧を知ることに成った。 凱旋し、 戦い中に参戦していた恩人の息子がネルケになった。 テムジンがタイチュウトに囚われた折、脱出の手助けをした命の恩人 ソルカン・シラ親子である。 タイチュウト氏族である。 親子で参戦し、父はテムジンから拝領した土地の経営に戻った。 息子がチラウンが二番目のネルケである。 戦いは領土の奪い合いだ。 ジャムカやトリグリは同盟者として対等の立場である。 勝利を分配する義理はない。 それが“アンダ”である。
 ボルテは懐妊していた。 そして 出産した。 テムジンは“ジュチ”と名づけた。 《各人・異邦の人》の意味です。 ジュチはこの名前に悩む。 母・ボルテの懐妊初期からの長き時間をメルキットで過ごし、父がトクトア・ベキ王を意識してか命名したジュチの名に また 長兄でありながら、弟達と争えば彼らが“客人”と 囃し立てることに しかし テムジンはジュチを愛しみ、信頼していた。  後年の事だが、金帝国を崩壊させた折 従属を希望した耶律楚材が最高政治顧問として、チンギス・カーンの偉業を推し進めます。 耶律楚材とジュチの関係が深まれば深まるほどチンギス・カーンは両名に信頼を深めていくのです。 このことはジュチの“キプチャック・カン国”で話しましょう  

チンギス統原理 【3】

2011-01-17 11:13:52 | 史蹟彷徨・紀行随筆


 『元朝秘史』に テムジンの遠祖は天の命令を受けて バイカル湖の湖畔に降り立った。 蒼き狼と白き牝鹿である。 “蒼き狼”はボルテ・チノといい、“白き牝鹿はコアイ・マラル/マルテと呼ばれた。 いつしか “白い雌鹿”が子を産んだ。 ボルテ・チノの11代目の子孫がドブン・メルゲンである。 彼は早くみかまった。 彼の妻 アラン・コアは未亡人になった。 
 ある夜 天から使わされた“日と月の神・光の神人”と訪れ、アラン・コアと住まわった。 三人の息子を授かった。 長子は大きくなると西方に旅立った。 次子は成人後に西に向かい、家を建てた。 末子・ボドンチャルは成長し、ボルジギン氏の祖と成った。 ボルジギンの子孫は繁栄し、さまざまな氏族に分立した。 また、協力してウリヤンカイ氏族・ジャイラィル氏族と言った異属を服従させ 大きな勢力と成った。 やがて ボルジギンから七代目とされるカブリがモンゴル草原の諸部族のカブリ・カーン(カン・ハン・ハーン/王)の称号を名乗った。 カブリ・カーンの子孫はキヤト氏を称するモンゴル部の有力家系と成った。 カブリの孫 三代目カーンの甥子がテムジンの父 イエスゲィ・バートルである。 テムジンはこのイエスゲィの長男として生まれた。・・・・・と記されている。
 井上靖さんの名作“蒼き狼”と白き牝鹿の時代より 遡ること4・5百年 匈奴帝国が草原を支配していた。 モンゴル系かテュルク系かは判らないが、この帝国は紀元前三・二世紀に絶頂期を迎えた。 氏族連合国家だったと言われる。  四世紀まで永らえ、中国人の頭痛の種であった。 遊牧騎馬民族国家の典型であった。 4世紀には ユーラシア大草原の西端にまで姿を現すと史書にある。 匈奴・フン同族説なれば東欧を恐怖に貶めた侵略者が  匈奴帝国の崩壊後の西走グループに違いない。 蒙古草原の歴史はバイカル湖周辺で旗揚げした氏族が勢力の充実と伴に南下し、万里の長城は北面で帝国を建設する。 凡そ 2百年ぐらいで新しい氏族が南下し、前帝国を駆逐する。 前帝国の遊牧民は西に活路を求め西走する。 例えば、匈奴の崩壊後 柔然が建国し 高車に追われる。 高車は突厥に追放される。 柔然はハンガリーに侵攻し、現在のアブァル族として余命を保っている。 また 高車族はカザフスタンから黒海東方の草原にて他種族と融合して種族名はいつしか消えた。 突厥はトルコ系遊牧民である。 伝説上の始祖は匈奴の皇子が赤子の折、東天山山脈は雪嶺ボコタ峰山麓にて狼に育てられたと言う。 成人して狼との間に10人の子を授かる。 ここでも“狼”始祖伝承に登場する。 さしずめ この狼は黄金色だ。 匈奴の旗揚げはアルタイ〔黄金〕山脈であるがゆえに。 それにしても 遊牧民の始祖は狼である。 強さの象徴ではあろうが、シャーマンイズムが関係しているのではなかろうか。 この匈奴も大帝国を建設した。 ユーラシアの中央部草原地帯と南のオアシス地帯も併呑した。 六世紀から八世紀である。 八世紀の中頃、ウイグル族がバイカル湖南方のオルホン河渓谷に首都を構え南下した。 勢力を拡大して草原を支配した。 匈奴は西走した。 ちなみに トルコ共和国は匈奴の末裔の国です。 ウイグルも九世紀後半に西に移動した。 いうまでもない、バイカル湖西面のキルギス族の侵略に抗し切れなかったのです。 しかし、彼らは天山ウイグル王国と甘州ウイグル帝国を築いた。 キルギスは大興安山脈から南下した女真族に駆逐される。 再び 氏族の逃亡が始まった。 キルギスタンは彼らの子孫の国土です。 キルギスが去ると蒙古草原は群小遊牧氏族の割拠時代に突入する。 モンゴリアの東北 万里の長城の北部で居住する半遊牧民のキタイ族が満州の地を支配し 日本と関係の深かった渤海国を亡ぼし、長城の南に攻め入ります。 916年 遼王朝を黄河の北を封地として、打ちたて立てます。 キタイ王朝*なぜか キャセイ航空の名前はこのキタイ*です。 しかし  遼は 1115年 女真の阿骨打に滅亡させられます。 宋は揚子江を中心にした南宋王朝に継承され、黄河を中心にきん金王朝と並存したのです。 《滅亡した遼の皇帝の末子・耶律大石が西走して、西遼帝国を建設する。 西への脱出は たった200名弱の従者だったと史書に在りますゆえ 驚愕します。 誠に巨大な人物です。 また 耶律大石の兄の子孫・耶律楚材がチンギス・カーンの最高政治顧問として、大モンゴル帝国建設に驀進するのです。 この話はテムジン即位後の説話にしましょう。 司馬遼太郎さんが見事な作品にしています、ご一読ください 》
 女真族は狩猟遊牧民族です。 中華の富・文物に憧れがあった。 草原の支配より中国占領に力を注ぎ、金帝国を立ち上げ 王朝を開いたのは1127年頃です。 そして 万里の長城以北の遊牧民の性向を己が経緯より熟知する対策で遊牧民対策に乗り出した。 有力遊牧民の指導者に冠位を与える方策と相互に対立させて勢力を削ぐ計略です。 ゴビ砂漠周辺の支配者ケレイト氏族にはオン・ハーンの称号を与えた。 西方のナイマンにダヤン・ハーン*ネストリウス派キリスト教徒*の冠位をあたえ、東方のタタールには将軍位と報奨金を与えた。 北方のメルキットには策動を臭わせる。 中央部のモンゴル系諸部族は孤立していった。  
 テムジンの父 イエスゲィ・バートルはオン・ハーンの“アンダ”です。 バートルは遊牧民が勇者に送る称号です。 彼は有力な指導者だった。

 十二世紀中頃 蒙古草原では、カブリ・カーンが死ぬ。 タイチュウトのアンバガイがハーン位に就く。 彼の死後、バルタイ・バートルの弟でイエスゲイの叔父・クトラがハーン位に昇る。 アンバガイ・ハーンの死は タタル族の謀略により、彼が金王朝に表敬訪問した折に捕獲され 悲惨な拷問の上 刑死されたものであった。 クトラ・ハーンは彼の遺児建ちと伴に復習に出る。 有力部族・タイチュトと協力してタタールとの戦闘を繰り返していく。 クロラ・ハーン傘下のキトラ氏族・首長 イエスゲイもこの戦争に加わり頭角を現す。 西方のケレイト王国で内紛起きる。1150年頃である。 王・トリグルは反乱軍(実弟)に破れ、放逐される。 トリグルは東に逃亡した。 イエスゲイは彼を匿い “アンダ”(義兄弟)に成ると西のケレイト王国に攻め込みトリグルを復位させる。 トリグルはオン・ハーンを名乗るが 後年 再び内紛で失脚する。 テムジンが彼の残る半生を世話するが、ケレイト王国を壊滅に追い込むのもテムジンである。
 草原北方に 有力部族連合メルキトがいた。 メルキト王の・トタドア・ベキの弟、イエケ・チェレンがキヤト氏族*前記 カリブ・カーン/テムジンの4代前 初代蒙古草原の覇者*と姻戚関係のある強力な蒙古部族の一派である、コンギラト部族のオルクタウト氏族は首長の娘・ホエルンとの婚儀が成立した。 彼女は草原一の美貌であった。 キヤト氏族の世嗣 ネクン・タイン イエスゲイ・バートル ダリタイ・オッチギン*オッチギンは遊牧社会で末子の呼称。 遊牧民は末子相続、父が死ぬと父の財産の全てを継承する。 妾も含めてである)の三兄弟は イエク・チェレンの嫁入り行列がメルキトの本拠地に帰還する旅中で襲撃する。 美貌のホエルンを掠奪したのです。 この事件が 後年 テムジンに災いするとは神のみぞ知るです。 イエスゲイには正妻がなく、ホエルンを娶る。 蜜月の後 イエスゲイはタタル戦に出陣し タタル氏族と交戦する。 テムジン・ウゲ首長とユリ・ブカを捕虜にして凱旋する。 時に ホルエンは身をもであった。 イエスゲイの長男が生まれた。 彼は長子に戦勝を記念する名前”テムジン/鉄を造る人”を与えた。 史書には1155年・1162年・1167年の三説あり、未だに明確ではない。 ホエルンは その後 カサル、カチウン、テムグ・オッチギンとテムルン含め女子を五人生む。 イエスゲイは妾との間にベルグティと他に四人の子をもうけた。 ・・・・・・・・だが テムジンが13歳のとき
 テムジンの婚儀の為に 北方のコントラギ部族の部族長は娘・ボルテ/テムジンの婚約に向かい快諾を得るも、 その帰路途中 道中で同席を誘ったタタル部族の者に毒殺されてしまう。  有力指導者の死は哀れである。 彼の死亡によって キヤト氏族の遊牧民集団は分裂・瓦解し テムジン一家は極めて微小・微弱な勢力に立たされる。 タタルはテムジン抹殺に来る。 メルキトは母を追う。  全てを失ったテムジン一家は逃げ、隠れ、野鼠を食べ、草の根で飢えをしのぐ生活に耐えていく。 義弟達とのいがみ合い。 年上のベルグティとベルグタイ(イエスゲイの第二婦人の子供)が実弟への虐めに絶えかねて、テムジンが矢で射殺したのはこの頃である。 ”ネルケ”を得るのも この頃です。 

チンギス統原理 【2】

2011-01-16 22:41:14 | 史蹟彷徨・紀行随筆
    【 テムジンの家系 ・ テムジン生誕地 】


テムジン(後のチンギス・カーン/カン/ハン/ハーン;Chinggis Qan/Qa'an)の語る前に、草原社会を話そう。 東は満州の大興安山脈から西の東欧の森林地帯・ドナウ河まで ユウラシア大陸の北側に永延と広がる草原地帯、しかし 北側にツンドラ地帯 南側は砂漠地帯が緯度に沿うように帯状にある。 そして その草原地帯は平坦ではない。 いくつかの山域があり、地域性がある。 草原地帯の北西部にバイカル湖がある。 最も透明度が高い湖で、最低温度が記録された場所です。 このバイカル湖周辺が遊牧民 特に 世界史にその名を留める騎馬遊牧民族の故郷です。
 テムジンもこの地で生を受けた。 草原地帯と農耕には不向きな地帯であり、羊や牛の放牧には理想的な地域です。 羊の飼育することで生活の糧を得る技術習得した民は草を求めて遊牧した。 地域差を また 高低さを利用して 草を求めて移動した。 冬は保身が容易な渓谷で過ごし、夏は平原に出た。 また よりよい環境を求めて移動した。 しかし 最適地には先人がいる。 既得権獲得の争いは当然発生する。 争いは武力が解決する。 武力は集団の総合力、因って 団結意識が争いの勝敗を分ける。 遊牧民は血族以外とも団結を求めた。 最適な牧草地を確保する また 安住のために。
 ”アンダ(義兄弟・盟友)”はこの意識の中から生まれた。 アンダは血族関係以上の団結力・相互扶助の特典を与えた。 アンダの契りは対等者同士が結ぶ、血族以上の政治的契約であった。 争いに勝つために 保身の為に 遊牧民は優秀な人物と”アンダ”の関係を結んだ。 事実 テムジンは父の"アンダ”によって窮地を救われ、己が"アンダ”ジャムカを最大の好敵手にせねばならなくなるが ジャムカの存在がなければチンギス・カーンは生まれなかったかも知れない。
 さらに 草原の遊牧社会には"ネルケ(ある人物に帰属する)”と呼ばれる精神的な人間関係の絆があった。 自分の意思で選んだ指導者に帰属・拝命する行為です。 それをするためには 自らの氏族に対する血の忠誠を断ち切り、選んだ指導者に従属するという契約行為です。 小さなグループであれば そのリーダーが選んだ指導者にグループ全体が新しい指導者に帰属することに成ります。 ですから 天分には恵まれたものの。政治的には地位のない戦士でも、指導者の資質と人間的な磁力を備えていれば また 説得する理想があれば 自己の旗の下に他の戦士やグループを増やすことができたのです。 若きテムジンが苦闘の時期に多くのネルケを得、ネルケの中から優秀な将軍が育ち かつ 己が旗に集う民が増えていったのです。 従って、 遊牧民社会における氏族意識は現代の我々が考えるほどの重さがなかったのではないだろうか 史実 テムジンがチンギス・カーンとして蒙古草原の指導者に成る時(1206年)、自らが宣言している "このチンギスの旗に集う民をモンゴルと呼ぶ”・・・・・・・・ 従って 私達のモンゴル族と言う概念は新たねなければならない。
 遊牧民社会に対する誤解があるような気がする。 それは 女性の社会的な地位です。 確かに 紀元前三世紀から紀元後二世紀頃までの草原の支配者 匈奴は女性の人権を無視している。 例えば、文字を持たぬ民とはいえ 巨大な帝国の歴代皇帝は伝承されているも皇后・皇女の名前は判らない。 また 父が死ねば、実母以外の女性は実子が側妻として引き継ぐ風習 などで例証できる。 しかし、この慣習は三世紀以降の遊牧民にはないようである。 少なくとも 四世紀の柔然、五世紀-七世紀の突厥帝国 八世紀-九世紀のウイグル帝国 等の時代にはない。 テムジンの時代の女性の社会的的地位は非常に高かった事実は忘れてはいけない。 では なぜ女性の社会的な発言力が向上して言ったのでしょうか
 遊牧の仕事は 自然を刻々に判断し 状況を判断し 常に移動せねばならぬ肉体労働です。 男が決断を迫れれる厳しい環境です。 しかし 羊が産むもの(燃料・乳製品・肉・住居用フェルト・衣料用繊維・等)のみでは生活は完結しません。 植物性食物(麦・米)、趣向品(茶・絹・装飾品)、加工備品(鍋・磁器)、等々が必要です。 これらは 南方の農耕定着民の産物です。 遊牧民の生活は農耕民の産物が必要なのです。 必要なものは交易で手に入れるか、強奪するしかないでしょう。 突厥帝国は強力なる軍事国家でした。 遊牧生活は軍事訓練そのものですから。 当然 農耕定着国家の歴代中国王朝は遊牧国家から掠奪されます。 漢帝国のように毎年、皇女・貢物を匈奴に献上して体制を維持するしか掠奪を防ぐ政治的な方策はなかったのです。 皇女・貢物に伴い 人の交流が行なわれます。 知識が 風習が 草原社会に流入します。 農耕社会の労働は男女平等です。 その男女の風俗が草原社会を変えていったのでしょう。 環境が異なっても
 しかし、北方の遊牧民社会と南方の定着農耕社会が歩み寄ることはできなかった。 その証拠が万里の長城です。
 歴代の中国王朝は万里の長城を補強しつつ、積極的に遊牧民対策を実行します。 漢王朝の従属型から 武力排斥型 懐柔・友好型 共存・妥協型 そして テムジンが生まれた1162年頃の時代は 逆に支配を受ける乗っ取られ型 です。 東北のツングース系狩猟遊牧民・女真族に農耕社会が支配されていた。 この金王朝がテムジンの運命を決定するのです。 

 草原社会を俯瞰し、草原の遊牧民社会(対外的に騎馬遊牧民社会)と農耕の定着民社会の必然的な対立性を簡単に記しました。 チンギス・カーンの行動原理をこの概要が説明してくると考えます。 また チンギス統原理の裏付ともなり、結果的には 現代に繋がっている【黄金の氏族/アルタン・ウルク】成立の謎を解き明かしてくれるでしょう。

 でわ テムジンの話にかかりましょう・・・・・

チンギス統原理 【1】

2011-01-16 19:56:46 | 史蹟彷徨・紀行随筆


 中央ユーラシアの遊牧国家では、同一の男系に属する氏族のみしか君主に成る事ができない とする血統原理がある。 また 末子 相続でもある。 紀元前の巨大帝国 匈奴の頃からである。 中央ユウラシアのモンゴル・テュルク系遊牧民の社会においても、王権の正当性はこの原則を貫いてきた。 13世紀初頭テムジンがチンギス・カーンと名乗り蒙古草原の覇者となり、大モンゴル帝国の皇帝になりえたのもこの轍である。 20世紀中葉までチンギス・カーンの王位継承の血脈は続く。 内蒙古は徳王がそれであり、徳王の血は日本人にも流れている。 また 14世紀 歴史上の奇跡とまで言われるティムール王朝の創始者ティムールは それゆえ 王位を求めず、チンギス・カーン一族の娘婿”アミール”で生涯を閉じた。 けだし ティムールの末裔が印度・ムガール帝国を築き 19世紀中頃までチンギス・カーンの血筋は王権を維持するのです。 この民衆の支配者たるハーン(皇帝・王)の正当性がチンギス統原理です。
 では テムジンにこの正当性が在ったのでしょうか・・・・・・ テムジンはボルジギン氏族の族長 イエスゲイ・バートルの長子として生を受けます。 イエスギ・バートルはモンゴル部族*モンゴル族とはチンギス・カーンが即位のとき、我々の国に住む住民はモンゴルとする と 各部族を統一するための自称*の有力家系です。 蒼き狼/ボルテと白き雌鹿/ホレイ・マラルが伝説上の始祖です。 ”神の光”と交わったドブソ・メルゲン*テムジンの12代前の部族長の娘*の直系の家系です。 ドブン・メルゲンからは ユルシン氏族・キヤン氏族・タイチュウト氏族・チノス氏族 等 枝分かれして行きます。 テムジン時代の宿敵に成る氏族です。 宿敵を駆逐すれば テムジンがハーン位に推戴されるのは当然でしょう。 また 彼は”神の光”はケルレン河・オルホン河の源 聖山ウティケン岳の使者だと信じ 困窮の時にはこの山麓に潜みます。 また 死ねばこの地に葬れられることを希望したのは 彼の血が言わしめたのでしょう。 魂はオルドスの民に守られ 未だに遊牧しております。 そして 20世紀初頭まで チンギス・カーンの兄弟とその子孫は”黄金の氏族(アルタン・ウルク)”と呼ばれて来ました。
 以前 チンギス・カーンの血は現代 欧州の貴族・皇族に流れている実証論文を紹介しました。  今 インドのマハラジャ(現代に繋がる王族家)、ユウラシア大陸中央部のモンゴル・カザフの貴族、内外蒙古の有力者、はたまた 京都在住の某氏はアルタン・ウルクなのです。 また 内蒙古はフフホト市在住の小生が友人・知人達も”黄金の氏族”の一員です。しかし 現代 チンギス統原理をうんぬんするのは 滑稽でしょう。 が、NHK大河ドラマ”北条時宗”にてフビライ役の男優がチャガタイ*チンギス・カーンの次男*の末裔であるように 私達の目の前に”アルタン・ウルフ”の一員が現われてきます。
 
 14世紀までのチンギス統原理 継承の様を話しましょう。 すなわち テムジンの家系とその末裔の史実を開帳しよう。

遊牧騎馬民族資料【七】

2011-01-15 18:19:18 | 史蹟彷徨・紀行随筆






     (左図をクリックすれば 拡大します。 チンギス・カーンの遠征記録/1219-25年 です)

 さて、退屈な資料を開帳しました。紀元前五世紀から十二世紀、チンギス・カーンが巨大な 大蒙古帝国を創り上げました。
紀元前二世紀の匈奴帝国のあり様は中国の文献で歴史を学べば 匈奴帝国は欠落します。
 中国の歴史資料は全て、中華思想に基ずく記述の蓄積なのですから。  文字を持たなかった遊牧騎馬民族を ”胡・夷・戎”と卑下したのは 劣等意識の裏返しでしょう。 蒙古大帝国と比して遜色なく、帝国継承の時間的長さ また その政治的結束力 そして 歴代の中国王朝を威圧し、恐怖に貶めた民族は遊牧騎馬民族なのです。 唐王朝がある期間 遊牧騎馬民族に対し、優位な立場を築きますが 唐王朝そのものが胡族の王朝ですから 中国史を紐解くには これらの遊牧騎馬民族の動向が歴史の底流にあり、歴史を創り上げてきたことを念頭にしなければなりません。 
                    中国の歴史小説を読まれる折の参考資料にして頂ければ 幸いです。

 なお、約束の ゴビ砂漠放浪の紀行随筆は チンギス・カーンやその血脈に関係する箇所が多く、巨大なジャングルですが チンギス・カーン一族とその末裔達を開帳しよう。
 小説家の労作が非常に多いのですが、読書の資料にでもしてください・・・・・・


遊牧騎馬民族資料【一】

2011-01-11 13:05:29 | 史蹟彷徨・紀行随筆
*****ジンキス・カーンで代表される 遊牧騎馬人族の歴史勢力分布資料******

*****騎馬遊牧民族の故地 バイカル湖周辺地域******


 遊牧民が南下して 中国・中央ユウラシアの歴史を作って行った。 文献・資料等未だ学究の手元には揃っておらず、 不詳・不明な部分が多い。 遊牧民が記録を残さなかった事が原因であるも周辺資料の整理が やっと緒に就いた段階ではいたし方がない。 シルクロード学は実証考古学や言語学者の努力で不明な箇所が究明されて行くでしょう。
 このシリーズで歴史的な勢力民族の動向や成立国家の地図上に示す資料を開帳しよう。