
前章【4】にて遊牧民社会を概略的に説明しました。 テムジンの行動は説明項目を遺脱したものは一つもありません。 例え一項の仔細な遺脱的行動を行なっていれば テムジンの成功はありえなかったでしょう。 1206年から テムジンはチンギス・カーンと呼ばれます。 命名は 彼の母・ホエルンが再婚したシャーマン(宗教司祭・巫者)イエスゲェー族のココチュが(海・烈しい・偉大な・神の子=ちんぎす)から附けるのです。カーン/カンは皇帝、ハーン/ハンは王と考えて良い冠位でしょう。 遊牧民社会は《1》徹底した実力主義ある。(イ)指導者は能力あるものが話し合いで選出される と説明しました。 遊牧民 特に蒙古系の遊牧民社会で“クリルタイ”中世から近世にかけて、開催されたモンゴルの最高意志決定機関があります。 機関の決議事項は 重要討議議題として 三っありました。(1);皇帝候補の選定とその即位承認 (2);諸外国への遠征計画とその履行承認 (3);法令制定とその履行承認 です。 最高権威者が王族、領土内の有力部族首長、重臣達を召集する いわば、国会に相当する機関です。 4・5年に一度開かれたもようですが、皇帝選出の折には“大クリルタイ”と呼ばれました。 1206年初春、オノン河川原で開かれたのが第一回大クリルタイです。 以降 第二回 1226年8月《チンギス・カーンの後継者にオコディが即位する;ケルレン河・オノン河合流点 ココ・ナウルにて》 第三回 1246年8月26日《摂政監国ドレゲイ招清で開催、グユクが即位 ココ・ナウルにて》 第四回 1249年夏《バトゥの召集でトゥルイ・ジュチ両家中心にて開催 *帝国解体に繋がる* イリの河上流にて》 第五回 1251年7月1日 《バトゥの召集・開催 モンケが即位 コデェ・アラルにて》 第六回 1260年4月 《クビライが自派を召集・開催 自ら即位 金蓮川の開平府にて》等が大クリルタイです。 さて、1206年2月 フフ・ノーロに近いオノン川上流の河源地において功臣や諸部族の指導者たちを集めて“クリルタイ”を開いた。 前年に 宿敵ジャムカを捕らえて処刑し、ナイマンを破り、ジュチ率いる部隊がメルキトを崩落させ、南方のオングトはテムジンの権威を認めている。 草原に憂いは無くなった。 もはや 力で統合する事業は草原には見当たらぬ。 諸部族の妃が幕営を楽しませてくれる。
テムジンは歓呼で迎える諸部族の群れを割り、進んだ。 九脚の白いトゥク*ヤクや馬の尾の毛で旗竿を飾った旗差物*が打ち立っ前を歩み 巨大なテントに入った。 それは 500人以上を収容できるのもであった。 義父 ココチュ・テブテングリ *ココチュは後年 チンギス・カーンと反目し、殺害される* がテムジンに跪き 草原の偉大な指導者、 白き雌鹿と蒼き狼の子孫、神がこの地に遣わした祝福されし者、大海を治める者、“チンギス・カーン”我々の上に立て。 と音声した。 テムジンは答えた“ここに集うは一族ぞ、 白きトゥクに心寄せる者は同じオルドに住む兄弟ぞ、兄弟が助け合うものぞ、白きトゥクが守る民をモンゴルと呼ぶ”天地を圧する大音声であった。 即位したチンギス・カーンは続いて、これまでの論功行賞を惜しみなく行なった。 それは、苦難の時代に助けてくれた一牧童や老女までをも大テントの中に導き入れて、褒賞を手渡したと史書に在る。 論功行賞は20日を要したとも記されている。1203年の敗戦“バルジュナ湖の誓い”の勇者には格別の褒賞を与えている。
チンギスの命運を左右したであろう些細な事への褒賞、凋落の淵に立たされた時に忠節を尽くしたネルゲたち チンギス・カーンは惜しみがなかった。 論功行賞は忠誠心の再確認であったろう。 チンギス・カーンは このクリルタイを機に組織を再編成している。 前に 遊牧騎馬民族の軍団組織は10進法で この単位が日常の生活の基本単位になっており、遊牧生活そのものが軍事訓練ですと書きました。 チンギス・カーンは腹心のネルケにノヤン(貴族)の位を与え 征服した遊牧民を領民として分け与えている。 オングトやコンギラトなどの同盟して服属した諸部族の指導者を加えた領主階層をノヤン(貴族)とし、最上級のノヤン88名を定めた。 このノヤン88名は千人隊長(千戸長)と言う官職に任命され、その配下の遊牧民は95の千人隊(千戸)と呼ばれる集団にへんせいされた。 また 千人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)の十進法で千人隊長は概ね85万人の遊牧民を管理する事になります。 各隊の長にもノヤン(貴族)がにんめいされた。 戦時においては、千人隊は1,000人、百人隊は100人、十人隊は10人の兵士の動員がする義務を負います。 よって 千人隊長は10,000人の兵団です。 驚くことに 遠征への動員発令が降ると、各隊の兵士は家族と馬を伴って移動します。 一人の乗り手に対して3,4頭の馬が必要ですから、常に消耗しない良馬を移動手段としていたのです。 後年の欧州はライン河まで侵略できた機動力とその兵站力の源泉が良くわかります。
チンギス・カーンは高原の中央部を直営の領民集団として領民を遊牧させます。 左右両翼(東西)に千人隊を配置し、左翼と右翼*匈奴 紀元前6世紀から紀元後5世紀まで草原を支配した大帝国が習慣で 南を見ての右・左です。 従って 興安嶺山脈側が左翼、ウラル山脈側が右翼です*均衡を取り 帝国を統治したのです。 統括の任は万人隊長です。 高原統一の功臣 ムカリが左翼 ボオルチェが右翼の任に就きます。 更に チンギス・カーンは左右両翼構造の中に実弟の領地を組み込んでいきます。 東部・左翼にジュチ・カザル、カチウン、テムゲ・オッチギンです。 西部・右翼に嗣子の三人 ジュチ、チャガタイ、オコディにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)分与します。 末子のトルイはチンギスの領地を継承します(遊牧民の風習は末子相続です)。 このチンギス・カーンの築き上げたモンゴル帝国は左右対称の軍政一致構造は匈奴以来の伝統とは言え、 恒常的な征服戦争を続ける事を可能にしました。 事実 その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定し、前章の不完結な社会を完結しようと遠征に続く遠征をせざるを得ない要因を内在させていたのです。 クリルタイはお祭りではなかった。 クリルタイが行なわれている時、 チンギス・カーンは最初の征服戦 “西夏王朝”と事を構えていた。
