いま、書架から抜いてきた富山和子著『水と緑と土』(中公新書)は、1974年初版です。わたしは、おのれが排泄したものを菜園に埋める生活習慣を、このごろ誇らしく明かせるようになりました。わが小屋はノー・トイレ、などと。最終章に、次のようにあります。
「この社会が忘れているのは、土から得たものは土に返すという最も基本的な原則であろう。しかもこの原則ほどきびしく困難な課題もない。それは生産物の量と質とをその土地に拘束させ、廃棄物の量と質をもその土地に拘束させる。それは『時間』に対する考え方の問題でもある。大量の原料を海外から持ち込み、一方ではこの国土の上で過密と過疎を作り出し、さらにはまた有機物をいっさい海へ捨てて自ら表土を失わせている水洗便所を福祉の指標と信じて怪しまぬこの加速社会の現状からするなら、この課題へ向けての方向転換はいっそう困難といえよう」
帯の裏には、「土壌の生産力こそ真の資源であり、それを失った文明は必ず滅亡する」と。滅びつつある流れに抗するかのように、わが菜園は緑なり、ジャガイモとサツマイモと、キントキマメと大豆と、タマネギとニラと、トマトとカボチャと、キュウリとネギと、トウモメコシとフキか。まだ、あったかな、さて。ヒヨコは、9月にはトリになり、この飼い主に鶏卵を。ブックマークから、「そよ風がドアも」も、どうぞ。
「この社会が忘れているのは、土から得たものは土に返すという最も基本的な原則であろう。しかもこの原則ほどきびしく困難な課題もない。それは生産物の量と質とをその土地に拘束させ、廃棄物の量と質をもその土地に拘束させる。それは『時間』に対する考え方の問題でもある。大量の原料を海外から持ち込み、一方ではこの国土の上で過密と過疎を作り出し、さらにはまた有機物をいっさい海へ捨てて自ら表土を失わせている水洗便所を福祉の指標と信じて怪しまぬこの加速社会の現状からするなら、この課題へ向けての方向転換はいっそう困難といえよう」
帯の裏には、「土壌の生産力こそ真の資源であり、それを失った文明は必ず滅亡する」と。滅びつつある流れに抗するかのように、わが菜園は緑なり、ジャガイモとサツマイモと、キントキマメと大豆と、タマネギとニラと、トマトとカボチャと、キュウリとネギと、トウモメコシとフキか。まだ、あったかな、さて。ヒヨコは、9月にはトリになり、この飼い主に鶏卵を。ブックマークから、「そよ風がドアも」も、どうぞ。