きのう、むこうの集落まで、自転車でひとまわり。すると、知人のおじいちゃんと、ぱっり出会いました。自転車を降りて声をかけますと、お寄りなさい、ばあちゃんもいるから、と。そして、玄関の床にかけて、しばらく話しました。
おじいちゃんは89歳、おばあちゃんは86歳、といいます。もしかしたら、養子のかたと同居されているのかもしれませんが、なに不自由のない老夫婦のようで。このまえ、すぐむこうの通りでシルバー・カーを押して歩いていたおばあちゃんとも出会い、そこでも自転車を止めて。
そのかたも89歳といい、足は不自由でも、はっきりした口調で話されました。わたしの、八つ年上の兄も、いま89歳で。でも、22、3歳のときビルマで戦死してしまいました。あのおじいちゃん、兵役はどうだったのか、それをきくのを忘れていました。また、お寄りなさいといっていましたから、こんどはそのことをたずねてみましょう。
秋は、出会いのときでもあるような、別れのときでもあるような。老年を、実年とか熟年とかいい、どうなのか。それは若い方のいいぐさで、当のお年よりは「哀のとき」をしみじみと想い、悔いも、ということか。このわたし、あと2か月で、82歳なのです。
・23日の放射線量・前橋市=0・028マイクロシーベルト毎時
おじいちゃんは89歳、おばあちゃんは86歳、といいます。もしかしたら、養子のかたと同居されているのかもしれませんが、なに不自由のない老夫婦のようで。このまえ、すぐむこうの通りでシルバー・カーを押して歩いていたおばあちゃんとも出会い、そこでも自転車を止めて。
そのかたも89歳といい、足は不自由でも、はっきりした口調で話されました。わたしの、八つ年上の兄も、いま89歳で。でも、22、3歳のときビルマで戦死してしまいました。あのおじいちゃん、兵役はどうだったのか、それをきくのを忘れていました。また、お寄りなさいといっていましたから、こんどはそのことをたずねてみましょう。
秋は、出会いのときでもあるような、別れのときでもあるような。老年を、実年とか熟年とかいい、どうなのか。それは若い方のいいぐさで、当のお年よりは「哀のとき」をしみじみと想い、悔いも、ということか。このわたし、あと2か月で、82歳なのです。
・23日の放射線量・前橋市=0・028マイクロシーベルト毎時