今日は、3年生がやまぶき(総合)の一環で「備後須賀稲荷神社」に行くというのでお邪魔させていただきました。
今日のこの気温です。
集合場所も日陰を選びます。
猛暑の中を行くということで、こまめな水分補給の時間確保と交通安全に気をつけながら出発しました。
北門から出発し、酒屋さんの横の道を武里小学校方面へまっすぐ歩いていきました。
武里小学校前です。
正門横にある石碑。
「あれって前の戦争で亡くなった人たちのでしょ」とある子どもが話してくれました。
お家の人に聞いたのでしょうか。
備後須賀稲荷神社に着きました。
鳥居を通って、中に入ると、高い杉が・・・。
そのお蔭でしょうか。
心なしか風が吹いて、少し涼しかったです。
先生から、備後須賀稲荷神社のことや「備後」の名前の由来を聞きました。
備後地区の「備後」は、備後の国(現・岡山県)から由来し、その備後から備後小の名前になっているということでした。
歴史の繋がりを感じ、何だか不思議…。
まさか、備後小と岡山県がそんなところで繋がっているとは思いもよりませんでした。
先生の説明のあとは、敷地内をそれぞれ見学しました。
鎌倉時代、1211年の創建とされている備後須賀稲荷神社。
この辺りの地域に利根川の中州があり、「須賀島」と村人から呼ばれていたそうです。
ある時、この島から光が射すという不思議な事件が起きました。
驚いた魚が逃げてしまい、漁師は仕事にならなかったそうです。
村人の訴えを聞いた領主が島を調べたところ、一本の朽ちかけた木の中に観音様の像を見つけました。
そして、数日後、屋敷にやってきた旅の僧が、観音像を見ると驚いたそうです。
実は、その観音像の正体が、かの有名な弘法大師が唐(中国)から持ち帰り、備後の国(岡山県)のお寺に安置したものだったからです。
その後、備後の国で戦さがおきた際、寺の人たちが船に像を積んで東の方へ逃げてきたのだとか。
しかも、多くの船が嵐で難破するなか、この船だけは無事に港に着くことができたうえ、人々が像を拝もうとすると、どこかへ飛び去ってしまったというのです。
領主は、備後の国から観音様が流れついたのも、ここに居たいということだろうと考え、以前にも増して、あつくお祀りしたそうです。
そして、現在、この観音様は、勝林寺というお寺に秘蔵されています。
このことから、この地域が後々に「備後」と呼ばれるようになったのですね。
現在の拝殿は、数年前に不審火により全焼してしまい、立て直したものです。
そのことが記してある石碑。
実は、この神社、王子稲荷神社・佐野稲荷神社とともに、関東三社稲荷のうちの一つだとか…。
何だか、すごいですね。
大正9年、まだ武里村だった頃に奉納されたというお稲荷様の使いとされる狐の像。
なんでも、この辺りの地域には、お稲荷様の使いとされる狐に犬が噛み殺されたことから、犬を飼ってはいけないという言い伝えがあるとか…。
信じるか信じないかは、あなた次第ですね。
ちなみに備後小には、狸は出ましたが、狐はまだ出ていません。
様々なところに興味をもって、見学する子ども達。
「こっちは、何があるんだろう?」
「あ、あんなところに○○がある!」
「先生!こっちにさっき教えてくれた石碑に書いてある名前と同じ名前の人がいます!!」
今日は暑い中でしたが、楽しく備後の名前の由来を知ることができました。