Nurseのホジキンリンパ腫闘病日記

現役看護師のホジキンリンパ腫の闘病日記です。
同じホジキンリンパ腫で苦しんでる人に役立てばと思い書くことにしました。

ABVD3クール目のいち

2012-06-19 12:42:22 | 日記
色々ありましたが、自分の家での治療生活が始まりました。生活の場所が変わっても襲ってくる副作用は一緒で、胃の不快感がしばらく続きました。まだ沢山は食べれませんでしたが、食べたいものや食べれそうなものを彼氏に作ってもらったり自分でもキッチンに立つようにしていました。また、夕方には散歩をするようにしました。初めは体力の回復を目指して毎日少しずつ散歩を始めましたが、歩いているともやもやしていた気持ちの整理がつき、また頑張ろうという気持ちになりました。
一日一日を大切に、今日出来ること、今日やろうと思ったことは明日に回さずにやりました。昨日やっとけば、と後悔はしたくありませんでした。今日を生きていることに感謝し、苦しみも悲しみも楽しみも嬉しさも生きているから感じれるものだと思い、精一杯生きるようにしました。
白血球が下がり、回復がゆっくりになっていましたので、主治医の先生は無理をせずに外来治療を継続していくように話してくれました。合併症が起こってしまっては元も子もないですから。

3週間あけて3クール目投与です。今回もワイパックスをのんでスタート。朝9時より投与開始となり投与中はうとうと眠り投与が終わるのが昼過ぎです。自宅へ帰ってからも眠たくて夕方までは眠ることが出来ました。しかし、辛いのは夜からです。夕方一度起きると吐き気に襲われました。また、病院にいるときは感じたことがなかったのですが、自分の体が抗がん剤のニオイなのでしょうか、なんとも言えないくらい臭くにおい、寝ていられませんでした。嗅覚がおかしかったのかもしれません。吐き気とにおいに苦しみ、ふらふらしながら夜中中眠れずに過ごしました。2日目には少しましにはなりましたが、2週間はいつもの関節痛、胃重感に苦しみました。病院にいるときは抑制されていた気持ちですが、自宅にいると感情がいっぱい溢れ出し、食べられない期間はテレビで芸能人が当たり前のようにご飯を食べているのを観るだけで、「なんで私がこんな苦しみを受けないといけないのか」と怒り泣きしていたことがよくありました。そんなことを聞いているだけで彼氏も苦しかっただろうに、そのたびに彼氏には慰められました。
今回は一週間すると白血球が1600まで下がり、2週間目には700まで低下。熱はでませんでしたが、扁桃腺が腫れて、しんどさが少しありました。さすがに白血球が700と聞くと、自宅安静をしていましたが、数日もすれば体調はよくなりましたので、毎日1時間の散歩で体力と食欲の回復も早かったように思います。

衝突

2012-06-18 00:41:52 | 日記
病気がわかってから抗がん剤治療を始めるまでは実家で過ごしました。私は看護学校は実家から離れたところに行きましたので、18歳から実家を出て一人で暮らしていました。悪性リンパ腫ははっきりした原因がまだわかっていない病気ですが、娘が癌となれば、なぜ自分の娘がそんな病気になったのか、原因を身近に見つけると言いますか、怒りのやり場がないと言いますか、、、18歳で実家を出したのが悪かった、看護師になって不規則な生活が悪かった、食生活が乱れていたのが悪かった、などと両親や兄からは私の生活を責めている発言が多かったです。そして、療養は実家で過ごすように家族から言われました。こんな病気になって申し訳ない気持ちでいっぱいだった上に家族からは私の今までの人生すべてを否定されているように聞こえていました。病気になった当初は家族に従うしかなく、自分も家族も私が病気と向き合うのに一番何が大事かわかっていなかったのです。
抗がん剤の入院中も私の気持ちの拠り所は彼氏だけでした。副作用に苦しみながら毎日自分を責めて、気持ちのコントロールがつかずに過ごしていた時間も長かった上に、両親はと言えば面会にきても30分もしたら帰ってしまって。自分たちがいたって何も出来ないから、と言われたりして、家族と自分との気持ちが遠く離れているようでとても悲しい気持ちでした。孤独を感じました。なにも話さなくてもいいから、ただそばにいて欲しかっただけなのに・・・でも私もそんな気持ちを正直に伝えることも出来ず。結局、今まで家族と私ってお互いに思っていることを話して、ぶつかったり、喧嘩したりがなかったように思いました。だからこんな困難な壁に当たったときにお互いに気持ちのやり場がなく同じ空間に長く居ることもしんどく思えたりして。娘にどんな言葉をかけたらいいのかもわからなかったのでしょうね。家族との溝がどんどん深くなっていくようでした。
抗がん剤を2クール終えて、退院が許可されました。私は残りの治療を受けながら療養する生活の場所は、絶対に実家ではなく自分の家と心に固く決めていました。この苦しい治療を続けて受けていくためには、自分の心が一番休まる場所で生活することが一番だと思いました。入院している間に何度か外泊をしていましたが、自分の家に帰ってくるとなんとも言えない癒しがあり、心が無になる場所がありました。外泊中には「こんな苦しい治療ならもういやだ。病院に帰ったら先生にもう次の治療は受けませんと言う。治療をしなければあとどのくらい生きられるか先生に聞くから。」と彼氏の前で発狂したこともありました。色々なことがあった中で、絶対に自分の家で治療を続けようと思いました。私の苦しみと一番わかってくれている彼氏の近くで、ゆっくり自分のペースで療養したい、そう思いました。
しかし、両親からしたら絶対実家に帰ってこいの一転張りです。自分の家で過ごすなんて断固反対の姿勢でした。生きるために必死なのになぜ私の気持ちを優先にして支えてくれないのか、私のやりたいようにやらせてくれないのか疑問でした。退院した日、険悪なムードで迎えに来てくれた両親とまずは実家に帰りました。しばらくして実家に彼氏が迎えに来てくれましたので、自分の気持ちを貫き、もう自分の家へ帰るという私の主張。でも、両親はすぐに実家に帰ってくるんでしょ、という主張。玄関先で今までで初めての大喧嘩です。外にいた彼氏にも聞こえるくらい大声と大泣きの私。喧嘩別れのように、突っぱねて自分の家に帰りました。
病気の私の気持ちが両親にはわからないように、私にも娘が病気になった親の気持ちがわかっていなかったのです。お互いにわかろうとしていなかったと言うか、そこまで気持ちの整理がついていなかったのだと思います。両親はまだ私が癌であることを受け入れられずにいたんだとも思います。そんな私たちの救世主は兄でした。しばらく連絡がなかったのですが、その間に癌患者のことを人から話を聞いたり本を読んだりして勉強していたそうです。また、彼氏も兄に病気の私になにが必要かを伝えていたそうです。兄からの「両親のことはゆっくり説得するから、何も心配せずに、思うように過ごしなさい」という連絡に救われました。

その後もお互いの思いがぶつかることが何度かありましたが、時間とともに私と両親との壁が崩れていったように思います。それには兄や彼氏が中間を取り持ってくれたことが多く、お互いの思いを時間をかけて話したことも貴重な時間でした。いろんなことがあった結果、今では両親、兄と新しい家族、彼氏ともどもみんな仲良くなり、いい距離を保ちながら、本当の意味で家族になれたように感じています。


今回家族との衝突を書こうか迷いましたが、癌という病気が家族や周りの人間関係を壊すものだということは、私だけの体験じゃないのだと感じていました。癌は今までの人生を狂わすものです。それが現実です。でも、それだけじゃないです。癌と向き合うことを恐れず、みんなで向き合えば、なににも変えられない絆ができるとも思います。私はそれが伝えたく、この事実を綴ることにしました。