順風ESSAYS

日々の生活で感じたことを綴っていきます

敏感な人の鈍感力

2010年05月27日 | essay
今は神経質な人、感覚が鋭敏な人にとって辛い時代である。その理由を挙げれば、(1)取り組む問題が高度に複雑化しており、注意すべきことの絶対量が増えている、(2)時代の流れが速く、すぐ次の問題が生じ、こだわっていると取り残される、(3)時間的効率性が重視されるようになってきている、(4)情報過多で、調べるにしても材料が大変多い、(5)社会の動きが不安定化し、人生設計のリスクが高まり、私生活での心配事も増えている、(6)居酒屋で話されるような陰口がネットで自分も見られるようになり評判が垣間見える、といったものがある。これでは色々なことが気になる人は心身が疲れても仕方がない。「鈍感力」という言葉が流行するのも頷ける。

このような時代の下では、神経質であるが故に不適応を感じてしまう場合があるだろう。このとき、通常は神経質であることを治そうとする。「くよくよ気にしないことにしよう」「考えすぎないようしよう」「切り替えて別のことを考えよう」「もっと気分転換をしよう」「おおざっぱに考えよう」…こんなことを自分にも言い聞かせるし、他人からも助言されることとなる。しかし、これで上手くいくことはあまりないのではないか。無知から知にはなれるが知から無知にはなれないように、自然と色々と気がついてしまう人に気がつかないようにしようというのは困難なことである。無理に抑えこんでも頭の奥では気がかりな状態が続き、心身に負担がかかるのである。

それではどうすべきなのだろうか。「いっそ気になることにとことんこだわってしまえ」というのが今回の提案である。気になったところは満足のいくまで突き詰めてしまうのである。こうすると、最初に挙げたようなマイナス面が出てくるのでは、という疑問が生じよう。非効率になるし、すぐには十分な成果は出ない。器用な人たちは先に行ってしまうように見える。しかし、ここで諦めないことが肝心である。本気でこだわった経験というのは身体に残るもので、次の気がついたことに対してだんだん応用が利くようになってくるものである。そうすると、最初は「あれもこれも気になるから全部やらなきゃ」という状態だったのが、「あれもこれも問題となるが重要なのはこれ」と選別できるようになってくる。深い分析をしながら効率性も確保できるようになるのである。そして最終的には、様々な問題について鈍感な人と同様に泰然自若とした態度をとれるようになる。不適応なのは「神経質すぎる」のではなく「神経質さが足りない」からなのである。

私自身法学の学修において、細かい点に気を配り自分の視点を加えて論じるという点から大学でそれなりに好ましい評価をもらっていたのだが、資格試験のような「色々と問題点はあるが全部取り組むと時間が足りなくなる」ような問題に対しての取り組みに大変苦労した。最初は細かい点までこだわりすぎるのが問題だと捉えて軽めに論じるにはどうしたらいいか様々試みた。しかし最終的には、こだわる経験が少ないが故に対応できていないのではないか、という考えに行き着いた。とにかく沢山の問題について徹底的に取り組む経験を積むことが結局近道になるである。

神経質である、感覚が鋭敏であることはひとつの長所でもある。それを抑えるより伸ばすことのほうが上手くいくだろう。そして、最終的に大きな大きな成果を出せるのは、こうして色々なことにこだわって突き詰める経験をした人である。最初は歩みが遅くても、準備期間が長いのだと信じて、とにかく取り組むことが大切である。経験を積み重ねて、一見新しい問題で周りが慌てる中で余裕をもって「想定の範囲内です」と以前よくきいた言葉を連発できるようになろう。


【参考】今回の記事の基本的なアイデアは泉谷閑示「普通がいい」という病(講談社現代新書・2006年)177頁以下の「螺旋的思考」から来ています。この本を題材にして以前も記事を書いたことがあり、様々な影響を受けています。これらの記事に共感してくださる方は読んでみるといいと思います。


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