空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」⑥

造りたくても造れなかった?その②


 前回は「陣地構築」を中心として時系列順に列記してみました。今回も「鉄の暴風」に描写された「地下壕」が集団自決の前に構築されていたかを、第三戦隊や第三大隊の行動を考察することによって解明していきたいと思います。
 
 まず、最初に興味を引くのが1944年10月ごろに起こった出来事です。
 第三戦隊の「陣中日誌」から引用します。

 「第二中隊は留利加波基地に入り訓練を開始したが留利加波基地は外洋に近く断崖絶壁が多いため波高く舟艇の泛水揚陸作業は困難を極め秘匿壕の掘進も遅れ作戦に支障を来たす状態となった。戦隊長は急遽基地大隊と協議、留利加波基地を変更し渡嘉志久基地に移駐せしめたが之が為基地大隊と感情的なものがあったが全軍突貫作業を実施。」

 特に難解な文章ではありませんのでそのまま引用しましたが、要は構築途中で遅れがちでもあった基地の変更を要請したことによって、第三戦隊と第三大隊の間に感情的なもつれがあったということです。

 第三大隊の渡嘉敷上陸が1944年9月9日なのですが、一カ月後である10月の時点で、既に陣地構築の遅れが生じていることがわかります。
 なぜそのような遅延が発生したのかは、先述の通り第三大隊の「陣中日誌」等の資料が存在しませんので不明です。
 可能な限りの推測を列記するならば、重機といった工作機械がなく人力のみであったこと、資材の不足あるいは到着の遅れといったものがあると思います。そして意外と知られていないのが、陣地構築のスタート自体が遅かったのではないか、ということではないかと思います。
 
 陸軍の部隊全般に言えることですが、赴任地や目的地がどこなのかということは、防諜上の理由によって直前まで知らされません。現に第三戦隊は那覇に到着して、初めて目的地が渡嘉敷島であるということを知らされたように、輸送船に乗ってからといった状況が多かったようです。従って第三大隊もほぼ同様だと思われます。
 そういうわけで渡嘉敷島に上陸したからといって、すぐに陣地構築を始めることは到底無理な話です。まずは測量等といった実地調査からのスタートではないかと思われます。そういった様々な要因が、陣地構築を遅延させたということではないでしょうか。

 ただでさえ遅れている作業なのに、基地を変更してくれという第三戦隊の要請は、第三大隊にとって大いに不満であったはずです。今までの苦労が水の泡になり、新たな構築ということは、それだけでも更に遅れが出てしまうという結果にもなってしまいます。そういったものが「感情的なもつれ」となって表れてきたのではないかと思われます。
 

 次に興味を惹かれるのは、1945年2月中旬の出来事です。
 第三大隊は一部を残し、大隊長をはじめ沖縄本島の部隊に編入されました。その代わりとして特設水上勤務隊が第三戦隊へ編入され、渡嘉敷島に残った第三大隊の一部も第三戦隊の指揮下に入ります。今まで2つの部隊であったのが、この時点から第三戦隊のみとなりました。

 基地変更から4か月後になりますが、陣地構築におけるこの間の進捗状況は不明です。
 しかしながら、今まで作業に従事していた者がいなくなるということは、たとえ代替の者が補充されたとしても、引き継ぎ等の交代作業によって陣地構築そのものが停滞してしまうのは、軍隊だけにとどまらず現代でも当然のようにあり得る事象です。そういった点を考慮すれば、仮に順調に進んでいた作業であっても、そのペースは不明ですが遅れが生じる可能性が高いと思われます。
 
 また「陣中日誌」によりますと、
 
 「基地大隊の移動により残留した勤務隊、整備隊、水上勤務隊は勿論戦隊員も一体となり現地防衛招集兵、青年団、婦人会、女子青年団の協力を得て必死で日夜陣地構築、訓練を続行した」

 ということですから、やはり作業自体の遅延があったのだろうと思います。ちなみに、住民が手伝ったという証言は多数ありました。

 次回以降に続きます。


参考文献

別掲 『海上挺身第三戦隊 陣中日誌(複製版)』
別掲 『ある神話の背景』

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