空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 前編⑤

沖縄戦に「神話」はない──「ある神話の背景」反論 第5回と第6回②


① 「ある神話の背景」は客観的真実性が証明されていない
② 「共犯者の立場」(駐在巡査と大尉の副官)は否定するほうが有利
③ 物的な状況証拠(手榴弾が住民に渡された)がある

 前回は①と②について考察いたしましたので、今回は③についてということになります。住民の集合や行き届いた手榴弾の入手経緯によって、赤松大尉の自決命令があったということを主張しております。その内容を箇条書きにて以下に引用・列記いたします。

(ア) 「手りゅう弾五十二発が住民に渡されたのだが、そのことがいちばん重要な意味」をもつ
(イ) 防衛隊員が非戦闘員である住民に手榴弾を渡す動機・理由が理解できない
(ウ) 「軍隊の指揮官が武器の取り扱いについての注意もなしに武器をあたえることは考えられない」
(エ) 防衛隊員が手榴弾を勝手に持ち出したという、赤松大尉の証言はデタラメである
(オ) 赤松大尉の命令・許可がない限り、住民が手榴弾を入手することはできない
(カ) 曽野氏は「女だから」軍隊の組織を知らない→だから赤松大尉の証言を信じている
(キ) 手榴弾は住民が求めたものではなく、与えられたもの
(ク) 追加された手榴弾→誰が不足だと判断したのか→判断したのは防衛隊員ではない
(ケ) 「防衛隊員は軍の完全な掌握下にあった」
(コ) 陣地付近へ住民が集合したのは軍に「かり出された」から
(サ) 「陣地付近への住民集結には、ある強い意志が働いていたと私は判断する」

 引用・列記が多くなりましたが、手榴弾の入手経路によって自決命令があったとする主張の核心部分ともいえますので、できるだけ詳細に掲示しました。従って出来るだけ詳しく解説・考察してまいります。

 (ア)についてですが、手榴弾は集団自決の前から既に持たされていて、最終的には52個が住民たちに渡されたということになります。その描写を「鉄の暴風」から引用しますと「住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。」ということですから、合計52個ということになります。

 既に渡されていた手榴弾と、不足を補うために追加された手榴弾の持つ意味が、太田氏にとって重要であるというのが主旨であると思います。ただし「鉄の暴風」には手榴弾がなぜ渡されていたのか、なぜ追加されたのかという理由は一切言及しておりません。
 その(ア)における「なぜ」に対して、(イ)の「手榴弾を渡す動機・理由が理解できない」といった疑問点から、(ウ)の指揮官(赤松大尉)が介在するゆえに、自決命令があったとするという展開ではないかと思われます。

 (エ)は「ある神話の背景」において、赤松氏が「手榴弾は配ってはおりません。只、防衛招集兵(防衛隊──引用者注)には、これは正規兵ですから一人一、二発ずつ渡しておりました。艦砲でやられて混乱に陥った時、彼らが勝手にそれを家族に渡したのです。」というようなことを証言しております。その証言に対して、上記の通り指揮官である赤松大尉が知らないはずがないということで、それが全くの「デタラメ」であると太田氏は反論しているということです。

 (オ)は赤松大尉が自決させる命令を下した、あるいはそういった意思があったことへの補完、または状況証拠と言えるべきものです。

 (カ)については「ある神話の背景」への正当な批判や反論ではなく、曽野綾子氏自身への不当な非難や批判と受け取らざるをえないものです。残念ながら「女性差別」や「女性蔑視」につながるようなものであると、個人的に判断いたしました。
 曽野氏に限らず女性が軍隊を経験したことがないというのは、自衛隊を除けば特に説明するまでもありません。また、太田氏の経歴を考慮すれば、戦闘経験は知りませんが軍隊経験はあるのではないでしょうか。

 「女だから」あるいは「軍隊経験がないから」といって旧日本軍を知らないとばかりに、軍隊経験のある太田氏は曽野氏を「見下している」ような気がしてなりません。
 「女でも」「経験がなくても」軍隊を考察・分析することは可能であるということは、敢えて説明するまでもないでしょう。もしそれがダメだというなら、天皇は天皇しか語ることができないと同時に、現在では誰も会ったことがない織田信長や源頼朝を考察・分析することすらできなくなってしまいます。

 当ブログは個人を糾弾するようなプロバガンダではないということ再三掲示しておりますが、上記の点については今風にいえば「ヘイト」になるような「いわれなき差別」ですから、根絶を願いあえて言及しておりますが、これ以上は割愛させていただきます。

 (キ)から(コ)までは手榴弾の事前配布と、移動した北山(ニシヤマ)の軍陣地付近に住民を集合させたことに対して、全てが赤松大尉、あるいは軍の命令として集団自決をさせたことを補完すると思われるものであります。そして「軍の同意、許可、あるいは命令があったとしかおもえない」とし、(サ)の「陣地付近への住民集結には、ある強い意志が働いていたと私は判断する」というような帰結となっていくのです。

 このように太田氏は、持っているはずのない手榴弾が事前に配布され、陣地付近の集合も自発的ではないことを理由として、一貫して赤松大尉の命令、あるいは軍の命令があったという主張をなされているのです。


 次回以降に続きます。

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