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空と無と仮と

沖縄・日本史・ミリタリーなど、拙筆ながら思ったことをつれづれと、時には無駄話、時にはアホ話ってなことで…

マウンテンバイクでほぼ縦断 その⑧ 荒崎海岸でのちょっとしたハプニング②

2019年02月12日 00時01分54秒 | 1990年代の沖縄旅行 マウンテンバイクでほぼ縦断編

女の先生が生き残っていた事実はない、

といったお話の続きです。

 

戦跡の説明について、

これまでは簡単にしかしませんでしたが、

この件については少し詳しく説明します。

ちょっとマウンテンバイクの旅からは脱線してしまいますが…

 

「ひめゆりの塔」という映画をご覧になったことはありませんか?

今までに何度も映画化されまして、

今回の旅行時(1990年代)はその最新作が公開された頃です。

ストーリー説明や役者の名前はともかく、

主人公の一人でひめゆりの女学生たちを引率していた先生は、

どの作品も女の先生でした。

ご存知の方もおありでしょうが、

これは実在の女性をモデルにしているのです。

 

その前に、なぜ教師が女学生たちを引率したか?

を簡単に説明しますと、

俗にいう「ひめゆり部隊」は沖縄女子師範学校と沖縄第一高等女学校が合同で、

しかも学校単位で参加したものだからです。

 

この学校単位で参加というのは、

沖縄女子師範学校と沖縄第一高等女学校だけなんですよね。

男子の学校も似たような状況でした。

 

他の女学校も「ひめゆり部隊」と同じような境遇で従軍いたしましたが、

学校単位ではなく、あくまで志願者だけ、

すなわち個人単位なのです。

例えば「白梅の塔」で有名な第二高等女学校も個人単位での志願となり、

いくら志願したいといっても、

軍から体力的に無理と判断された女学生は帰されたそうです。

 

それに対して沖縄女子師範学校と沖縄第一高等女学校は、

いわば学校全体で参加ですから、

校長をはじめ各学年の教師たちが引率していたということになります。

その中には唯一の女性教師がいたのです。

 

それは「親泊千代」という方です。

苗字をみれば沖縄出身だとわかる人もいるでしょう。

現に沖縄出身だそうです。

沖縄女子師範学校か沖縄第一高等女学校どちらかの先生なのですが、

手元に資料が見当たらないので確かめることができません。

興味のある方はご自分で検索なさってください。

 

その唯一の女性教師だった親泊先生は、

ひめゆりの塔や資料館が建てられている、

ひめゆり、

いや沖縄の観光スポットで一番有名な第三外科壕内で亡くなっているのです。

 

第三外科壕の状況をより詳しく知りたいと思った方は、

ググるなり図書館なりで調べてみてはいかがですか。

簡単に見つかるほど有名な話だと思いますので…

 

ちなみに男性教師は数名生存なさっており、

特に有名なのは仲宗根政善という方ですね。

映画の原作にもなり、ひめゆりに興味がある人は必ず読んでいるであろう、

「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」を書いた方です。

 

そうであるならば、

碑の前で取材を受けているあのおばあさんは、

いったい誰なんでしょう?

 

とはいっても、これはミステリー小説ではないので、

すぐに答えを書いちゃいますが、

要するに沖縄戦が始まる前に疎開した先生だったんですね。

そのことを運転手さんから聞きました。

 

沖縄戦における疎開の話で有名なのは「対馬丸事件」ですね。

現在でいう小学生たちがたくさん乗って疎開しようとしていた対馬丸が、

航海の途中で米軍の潜水艦から魚雷攻撃を受け撃沈されてしまいました。

 

そのような悲劇もありましたが、

子供たちだけではなく大人も疎開をしておりました。

特に県外出身者ですね。

県知事も勝手に疎開して帰ってこなかったらしいですが…

そういったなかで、

そのおばあさんも疎開していったと思われます。

沖縄女子師範学校や沖縄第一高等女学校の先生が疎開していた事実は、

今回初めて知りました。

 

「戦争が始まる前に逃げてったのに、今更ひめゆりだなんて言ってもさ!」

たしかこんなようなことを、

運転手さんが言っていました。

ただ、「逃げた」というキツい表現だけはハッキリと覚えています。

よほどインパクトが強かったのでしょうね。

 

 正直「逃げた」っていう表現はちょっと、

おばあさんに対しては酷だと思います。

そもそも取材されるおばあさんの心情なんて全くわかりません。

第一、この場所で出会うことは意外で予想外でビックリしたし、

しかも会話なんかまったくもってしてませんから。

だからあくまでも自分の勝手な思い込みですが、

沖縄に残って一緒にいくことを拒否されたとか、

あるいは苦渋の選択を強いられて疎開した経緯があったかもしれません。

その人には、

その人なりのそれぞれの人生がありますからね。

 

それと同時に、

運転手さんの意見も一理あることは確かだと思います。

沖縄女子師範学校か沖縄第一高等女学校の先生ではあったけど、

「ひめゆり」が組織される前の先生なのだから、

必ずしも「ひめゆりの先生」とは言えないんじゃないの?…と思います。

厳密にいうと当事者ではありませんし、

沖縄の地上戦を経験していないことだけは確実なのですから。

 

ただし、ここで「逃げた」おばあさんを非難する気はありませんし、

逃げたと思ってもおりません。

また「逃げたことを非難するような」運転手さんを非難する気も一切ないです。

これだけは確実にご理解いただきたいです。

 

まるで誇大広告のようにおばあさんを、

いかにも「ひめゆりの先生」に仕立てあげたのは、

その企画を立ち上げた当の取材スタッフみたいな、

マスメディアなのではないですかね?

自分はそんな気がしてならないです。

こういったグレーゾーン的な演出を時々するんですよね、

マスメディアって…

 

疎開の話をちんたらブログに書いてますが、

とある悲しい現実も思い出しました。

 

沖縄女子師範学校と沖縄第一高等女学校は、

今でいうところのエリート校でもあったらしいです。

それゆえなのかは知りませんが、

沖縄県全体から女学生が集まります。

つまり、本島だけでなく離島出身者もいたわけですね。

 

沖縄本島の地上戦が始まる前から疎開していたり、

戦時下の交通事情で学校に戻れない女学生もいたようです。

 

沖縄女子師範学校と沖縄第一高等女学校が学校全体で陸軍、

厳密にいうと陸軍病院の組織内に入った時、

本島から離れていた女学生たちはどうしたのでしょうか?

実は半ば強制的に呼び戻されたのです。

 

学校に戻って参加しないと、

卒業証書を与えないという通知が来たといわれています。

戦争という非常事態なのは十分承知しておりますが、

いまでいうところの典型的なパワハラというか、

アカハラというか…

個人単位で参加の他校ではありえない通知ですね。

 

当然、女学生たちは三々五々、

様々な手段で学校に戻ってきたようです。

それで地上戦に巻き込まれ、

そのまま戦死してしまった女学生も中にはいたのです。

戦場にならなかった故郷の島に残っていれば、

生き残っていた可能性がすこぶる高かったでしょうに…

 

県外出身者だから疎開して生き残った先生と、

卒業させないという、

ほとんど脅し文句のようなもので学校に戻っていった女学生たち。

この対比を考えれば考えるほど、

本当に切なくなってしまうのです。

悲しい運命のいたずらですね…まったく…

 

というわけで、

元「ひめゆりの先生」や運転手さんの出会いは、

自分にとってはちょっとしたうれしいハプニングでしたね。

お互いのタイミングが少しでもズレていたら、

もう絶対に会うことのなかった人たちです。

畑の中でタクシーが迷わなかったり、

自分がマウンテンバイクで走っていなかったら、

一生出会わなかったことでしょう。

そう考えると感慨深いものがあります。

 

追伸

どなたか、

この時のテレビ番組をご覧になった方はおりませんでしょうか?

自分は今もって見たことがありません。

1995年6月下旬以降で、

前述したようにテレビ局は「読売テレビ」でした。

関西だけで放送されたのか全国放送なのかわかりませんし、

ドキュメンタリー番組なのか、

ニュース番組の中での一特集なのかも全然わかりません。

万が一憶えていらっしゃる方がおりましたら、

コメント欄にお書きくださるとうれしいです。

まぁ…ずいぶん昔の出来事だからいないだろうな…


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