鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

小机城・前章~竹寺ならぬ竹林?

2018-08-12 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 5 月 6 日 ( 日 )

午 前 1 0 時 3 4 分

J R 新 横 浜 駅



GW麻雀大会が終わり、会員諸兄が横浜を後にしていきます。
千葉県民の私もそのひとりなのですが、このまままっすぐ家に帰るような私ではありません。



やってきたのは、新横浜駅
東海道新幹線の全列車が停車する一大ターミナルです。

ここから目指すのは・・・西です!





新横浜駅から乗車する電車は、



JR横浜線 各駅停車 橋本行きです。
進む方向は、一応西です。



新横浜駅から西へ1駅、小机駅で下車しました。


【今回の乗車記録】

JR東日本 [JH16]新横浜駅 6番線 10時40分発
[JH]横浜線 各駅停車 橋本行き
[JH17]小机駅 1番線 10時43分着

*移動距離 1.7km
*運賃 133円(IC運賃)



小机駅の改札を出たところ、



改札口のほぼ正面に「小机城址までのご案内」が掲示してあります。
なるほど、小机城までのアクセスは容易なようですね。



小机駅の南口に出ました。
駐車場のとなりに城郷小机地区センターがあります。
100名城スタンプ・・・じゃなくて続100名城スタンプは地区センター内にあるということで、



入口ロビーの片隅にて、



祝・続100名城、初スタンプ!
125番、小机城!

スタンプの絵柄が、なかなか繊細に描かれているようですね。
100名城から続100名城になって、スタンプにも進化が見受けられます??

「小机城址ガイドマップ」という冊子をゲットして、地区センターを後にしました。





「ご案内」のルートにしたがって、小机城址市民の森に向かいます。
大通りを離れ、横浜線の踏切を渡ると、



こんな案内が現れるので、これにしたがって左へ。
第三京浜道路のガードの手前で曲がって、



人の家の横を通るのでちょっぴり不安になりますが、この道が小机城に続いています。
ここいらの人家が建っている場所は根古谷といい、城主の館や家臣の屋敷が建っていたそうです。
平時はふもとの屋敷に住まい、戦時になると城に登るというスタイルだったようです。

城内の立派な竹林が、住宅地のすぐ近くまで繁茂しているのがわかります。




小机城址市民の森の入口。これより登城開始!
脇には公衆トイレがあります。非常時の際はこちらへ。



小机城の縄張りです。
城域はそれほど広くはなく、1時間ほどもあれば全体を見て回ることができそうです。
城域の西側を第三京浜が貫いているため、一部の遺構は失われています。



それにしても立派な竹林です。
鎌倉にあるミシュラン★★★のお寺さんにも引けを取らない、幽玄な雰囲気??
これだけ竹が生えていると、タケノコの収穫もなかなかのものだろうな・・・



ここでタケノコ掘りをやったら、警察に通報されるそうです。



急な勾配の遊歩道を上っていくと、空堀に挟まれた土橋があります。



土橋右側の空堀。なかなかに深いです。



模擬冠木門をくぐると、西郭(本丸)です。



冠木門の脇にちょこんと立っている「小机城址」の碑



西郭(本丸)は、地域住民の憩いの場になっているようです。
この日は少年野球の練習場になっていました。
普段から野球の練習場になっているようで、バックネットも備え付けられています。


西郭にあった立看板。



小机城の築城年代は明らかになっていませんが、おそらくこの地域が拓けた12世紀以降と考えられています。
当時この地は上杉氏の勢力下にあったので、上杉氏によって築城されたのではないかと考えられています。
文明7年(1475年)山内上杉家の家臣・長尾景春が上杉家の家宰の地位をめぐって反乱を起こすと(長尾景春の乱)、景春方だった小机城は扇谷上杉家の家宰・太田道灌に攻められて落城しました。
道灌は小机城を拠点にして、江戸城の攻略を図ったといいます。
やがて関東は北条氏の勢力下に入っていくと、小机城はしばらく放棄されていたようですが、大永4年(1524年)北条氏堯(うじたか)北条氏康の弟)が城主となり、城代・笠原信為により再興されます。
小机は江戸城玉縄城などの城を結ぶ位置にあったため、内政軍事の両面で重要な役割を果たしたそうです。
天正18年(1590年)の小田原征伐では北条家の諸城が攻撃されましたが、小机城は攻撃を受けることはなかったようです。
北条氏が滅亡し徳川家康が関東に入ると、小机城は放棄されて廃城になったようです。




立看板をもうひとつ。往時の小机城の縄張想定図です。
西郭(本丸)は土橋部分を除いて空堀で囲まれ、また本丸自体も土塁で囲まれています。
そして土橋の反対側の空堀は土塁で挟まれたかたちとなっていて、北条家特有の二重土塁の構造になっています。

・・・・・・が、少年野球軍団に阻まれて、土橋の反対側の空堀は見られませんでした。残念・・・。



土橋側の土塁。思ったほどに高くは積み上がっていないようですね。
空堀の淵にあるので高く積み上げる必要がないからなのか、あるいは公園化のために遺構が毀損しているためなのか・・・?

小机城の縄張想定図を見ると、主要な曲輪がふたつ存在することがわかります。
西側が本丸、東側が二の丸とされています。
しかしながら、北条家の支配下になる前は東の二の丸しか存在しなかったそうです。
北条家によって小机城が西郭が増築されて本丸となった、とされています。



本丸と二の丸を結ぶつなぎの郭を経由して、二の丸へと向かいます。







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