鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

根城・第2章~複雑怪奇な南部一族

2016-10-25 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 6 年 9 月 1 5 日 ( 木 )

午 前 9 時 0 8 分

青 森 県 八 戸 市

八 戸 市 博 物 館





午前9時に開館する八戸市博物館



館前には南部師行(もろゆき)公騎馬像が立ちます。


南部師行は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に活躍した武将です。
甲斐国(山梨県)に所領を持っていた師行は、新田義貞の軍に加わり、鎌倉幕府の討幕に武勲を立てました。

後醍醐天皇による建武の新政が始まると、陸奥守・北畠顕家(あきいえ)に従い、義良(のりよし)親王(後村上天皇)を奉じて奥州へ下り、鎌倉方の残党を平定する任務に就きました。
このとき顕家の命により、糖部(ぬかのぶ)(青森県東部から岩手県北部一帯)を治め、根城を築城して拠点としました。

建武の新政が混乱をきたし足利尊氏が反旗を翻すと、北畠顕家は強行軍で上京し、ついには尊氏を九州へと敗走させました。
この間師行は、尊氏方の武将と戦いを繰り広げています。

尊氏が九州に逃亡したあと、顕家はふたたび奥州に下りましたが、尊氏が軍を立て直し京へと攻め上ります。
師行は顕家に従い上京、尊氏方の軍勢と連戦することになります。
度重なる戦の果て、石津の戦いでついに潰走、顕家・師行主従は奮戦の末討ち死にしたのでした。



そしてこの師行ですが・・・
盛岡城主となった南部氏とはまた別の家柄で、「根城南部氏」の祖と称されます。
盛岡城の南部氏は当初三戸を拠点としたので「三戸南部氏」と呼ばれます。



・・・・・・今話は登城記、というより複雑怪奇な南部家をなんとか文章にまとめてみたというような内容になりそうです。



入館料は大人250円で、史跡根城の広場との共通券が400円です。
共通券は100円お得となっているので、私も共通券を購入しました。

博物館入口の受付で、100名城スタンプをもらうことができます。



5番、根城!
根城をめぐるのは次話・・・この絵柄の光景はどこにあるのでしょうか???

さて館内へ。
展示物を鑑賞する前に、まずはコインロッカーへ。
なにを隠そう、博物館に入った主たる目的はコインロッカーで手荷物を保管することです。
展示の鑑賞はおまけ程度に考えていたのですが・・・南部家が複雑なのでしっかり展示を見てしまいました。



最初に目にするのは、「八戸を襲った津波の高さ」の表示です。
東日本大震災で八戸に襲来した津波の高さは、1階の床面を0メートルとしたときに2階の天井のさらに3メートル上にも及んだそうです。
我々の想像をはるかに超える災害だったと実感。



2階に上がり、展示室へ。
展示内容は大きく分けて、縄文時代の出土品などの考古展示、南部地方の生活習俗を取り扱う民俗展示と、南部家の行跡を扱う歴史展示に分かれます。
「信長の野望」好きの私は、考古展示をすっ飛ばして歴史展示に足を停めます。

・・・「信長の野望」では伊達政宗をプレイする私にとって、南部家(南部信直)は最初の方で滅ぼしてしまうことは秘密です。


まず「甲斐源氏から糠部南部氏へ」のパネル。



根城南部氏も三戸南部氏も、もとは同じ源氏(河内源氏)をルーツにしています。

河内源氏の2代棟梁・源頼義
その長男は源義家(八幡太郎)で、鎌倉幕府を開いた頼朝、「牛若丸」義経に続くのですが、南部氏の祖はこちらではなく三男の義光(新羅三郎)です。

新羅三郎義光の嫡男・義業(よしなり)は、常陸国(茨城県)に勢力を構え、のちの佐竹氏の祖となります。
義業の弟・義清(武田冠者)も常陸国那珂郡武田郷(現在のひたちなか市)に所領を得ますが、紛争を起こして甲斐国に追放となりました。
義清の一族は甲斐国で勢力を伸ばし、「甲斐源氏」と称されるようになります。

甲斐源氏からは、戦国大名武田信玄を輩出する武田氏をはじめとする諸氏に分かれます。
そのひとつ加賀美氏から出た光行が、その所領であった南部郷(現在は山梨県の最南端に位置する南部町)から南部姓を名乗ったのが、南部氏の発祥といわれています。



つぎは「南部氏の流れ」のパネル。



南部氏の祖・光行の孫・時実(ときざね)から、三戸南部氏と根城南部氏に分かれていきます。
南部家の宗家は三戸南部氏であるとされています。

光行は源頼朝に仕え、糠部の地に所領を得たようですが、実際に居を構えることはなかったようです。
(光行が糠部の地を所領として得たという記録は、後世に記された家伝にしかなく、また天文8年(1539年)の本三戸城の火災で大部分が燃えてしまったといいます)

鎌倉幕府の討幕のおり、根城南部氏の祖となる南部師行後醍醐天皇南朝に与し、北畠顕家とともに奥州に下って根城を築き、糠部郡を治めたのは前に述べたとおりです。
師行は顕家とともに戦死してしまいますが、弟の政長が跡を継ぎ、根城南部氏は南北朝時代を通じて南朝を支持しました。

一方三戸南部氏は、南部守行北朝方につきました。
元中9年・明徳3年(1392年)の南北朝合一では、守行が政長の子・信政を説得して室町幕府に帰順させました。
時の将軍・足利義満は、守行の忠節と政長の篤実を称賛したといいます。

これまで活躍してきた根城南部氏は、このときより表舞台から退き、代わって三戸南部氏が出てきます。
根城南部氏は以後姓を「八戸」と名乗っていくこととなります。
一説によると、実は根城南部氏が南部宗家だったところ、このとき入れ替わって三戸南部氏が宗家となったともいいます。
それでも南部一族の間に明確な上下関係はなく、三戸南部氏を盟主とする同盟、連合のようなものでした。

その関係が変化するのが戦国時代の末期、三戸南部氏の当主はのちの盛岡藩の藩祖となる南部信直のころです。
豊臣秀吉による天下統一事業が進み、惣無事令(私闘禁止令)が発布されました。
そして南部信直は南部家を代表して秀吉に帰順したため、秀吉は信直を大名と認めたのでした。
これは、他の南部一族は信直の臣下に組み込まれることを意味し、さらに信直に背くことは惣無事令に反するため秀吉政権に背くことを意味しました。
実際に、信直からの独立を図った一族の九戸政実らは豊臣の大軍に攻められて滅ぼされました。

こうして南部家は三戸南部氏を頂点とする組織に生まれ変わり、江戸時代になると盛岡城に居を移し盛岡藩が成立しました。
三戸南部氏は「盛岡南部氏」と改称されます。
一方根城南部氏は、江戸時代初頭に居城を根城から遠野の鍋倉館に移ることとなりました。
のち姓が「八戸」から「南部」に戻ることを許され、「遠野南部氏」と称されています。





時は江戸時代に入り、展示の内容は八戸藩に関わるものが中心となります。
まずは八戸城御殿模型

八戸藩の成立は盛岡南部氏の分割相続によるもので、三八城公園の段で記述しているのでここでは割愛します。
「八戸南部氏」というと、江戸時代に成立した八戸藩の家系を表します。



八戸藩領地目録(写し)
許可証にあたる朱印状に添えてある書状で、将軍が藩主に認めた領地のリストです。
この写しは貞享元年(1684年)5代将軍徳川綱吉より与えられたものを、八戸藩の控えとして書き写したものだそうです。



将軍家に認められた八戸藩の版図はこんな具合です。
八戸藩の母体ともいえる盛岡藩の版図がなんとも広大です。
同じ青森県ということで、仇敵?ともいえる弘前藩と黒石藩の版図も載っています。
かつてはこれらすべてが南部家の版図であり、「三日月の 丸くなるまで 南部領」という歌(南部領を旅すると、領内に入る頃は三日月だったのに、抜ける頃には満月になるくらい広大だ、という意味)もありました。

肝心の石高はというと、江戸時代後期になると 盛岡+八戸≒弘前+黒石 といったところ。
岩手県は広大な割には平地が狭く、津軽平野を抑えた弘前藩の方が経済力があったようです。



博物館でもひときわ目を惹く調度品、八戸南部家旧蔵・大名婚礼調度【青森県指定文化財】です。
調度品に描かれる蒔絵の家紋は2種類あって、



ひとつは鶴が向き合って翼を広げる「南部鶴」



もうひとつは薩摩藩島津家(くつわ)十字」です。
八戸藩9代藩主(最後の藩主)南部信順(のぶゆき)は、薩摩藩主島津重豪(しげひで)の十四男で、天保9年(1839年)八戸南部家に婿養子として迎えられました。
このときの調度品が、現在も保存されているというわけです。
信順は天保13年(1842年)に家督を継ぎ、明治維新まで藩主を務めました。

幕末の戊辰戦争では、盛岡藩の南部宗家をはじめ東北諸藩は奥羽列列藩同盟を締結し、薩長が主導する新政府軍に抵抗しました。
薩摩出身の信順は列藩同盟の圧力を直に受けることとなりましたが、同盟に列しながらも新政府軍と誼を通じ、八戸藩領を戦火の手から守り抜きました。



明治2年(1869年)の版籍奉還で、信順は藩主の座を下り八戸藩知事に任ぜられました。
正式な官名は「知藩事」ですが、画像のとおり地名が冠となる場合は「●●藩知事」というそうです。ややこしい。

明治4年(1871年)の廃藩置県により、八戸藩はその幕を閉じることとなります。



最後に、民俗展示を少しだけ。



なんとなく気になった「猫イラズ」の看板。

 

食用菊の王様・「阿房宮」のコーナー。
八戸は食用菊の栽培が盛んで、味噌汁の具やおひたしなどにして食べたり、干し菊にして保存するのだそうです。
お造りに添えてある菊も「阿房宮」という種なのだそうです。



博物館の外に出ました。



移築されている旧八戸城東門【八戸市指定文化財】。
ようやくながら根城の登城にまいります。



100名城登城の旅・第15弾「北日本完全制覇!」第13話へ続く。



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