鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

逆井城~これぞ戦国の城

2018-07-22 | 城郭【その他】


2 0 1 8 年 4 月 1 5 日 ( 日 )

午 後 2 時 5 0 分

茨 城 県 坂 東 市

逆 井 城 址 公 園



平成29年(2017年)4月6日。
私がまだ「日本100名城登城の旅・第15弾~北日本完全制覇!?」を執筆していたころ。
日本城郭協会は、続日本100名城を選定しました。

そして平成30年(2018年)4月9日。
続日本100名城のスタンプラリーが、満を持して開始されました。

私がダラダラと続けていた「100名城登城の旅」は、残すところ50城となっていたのですが・・・
続100名城の100城が上乗せされ、訪れるべき城は150箇所になってしまいました。

今回の「100名城登城の旅」・・・もとい「100名城・続100名城登城の旅」第16弾は、関東地方の続100名城をちまちま攻略する「ア・ラ・カルト」的な旅をしてまいります。



やってきましたのは、逆井城【茨城県指定史跡】です。
読みは「さかさいじょう」
柏市民のみなさんにはピンとくるかもしれませんが、逆井城は柏市内ではなく茨城県の坂東市内にあります。


柏から高速を使って、利根川を越えて茨城県へ。
高速を下りてからはアイフォンさんのナビゲーションにしたがって、車で約1時間。
逆井城址公園に到着したのは、午後3時前でした。


駐車場に車を停めて歩いていくと、





しょっぱなから現れた二層櫓【模擬】。
戦国末期から江戸時代にかけて登場する隅櫓天守のもとになった建物です。

さて今回の逆井城は急きょ登城することになったので、大した準備も予習もしていませんでした。
観光協会などの施設に行くこともなく、手元に案内のパンフレットもありません。
頼みの綱は園内にあるだろうガイドマップなのですが・・・



駐車場付近にあった案内看板。
園内の様子はこんな感じだよ~というイラストが描かれているだけ。
これはナントカ櫓で、これはナントカ池で、というような余計な文字は一切なし。
潔いといえば潔いのですが、私のような不勉強な人間にとってはちょっときびしいですね・・・。

イラストの脇には、逆井城の沿革が記載されています。


逆井城は、下野(栃木県)南部に勢力を構えていた小山義政の五男・常宗がこの地を領して逆井氏を名乗り、宝徳2年(1450年)ごろ築城されたといいます。
その孫・常繁のころ、関東では北条氏が台頭していましたが、常繁はこれと対立する古河公方方につきます。
そのため天文5年(1536年)北条方の大道寺盛昌率いる軍勢に攻められ、常繁は討ち死に、その妻も城内で自害したといいます。
(逆井城落城の時期は、北条氏の勢力拡大の時期との兼ね合いから、争いがあります)

天正5年(1577年)、北条氏繁「地黄八幡」北条綱成の嫡男)は、この地に新たに築城しました。
この城は「飯沼城」と呼ばれ、対佐竹・結城・多賀谷氏の最前線の拠点とされました。
翌年氏繁がこの城で死去、子の氏舜・氏勝兄弟が継ぎました。
記録によれば、風魔忍者300人がこの城に控えていたようです。

天正18年(1590年)豊臣秀吉小田原征伐により北条氏が没落し、逆井城も廃城になったといいます。





公園の正面玄関と思われる冠木門【模擬】から二の曲輪に入ります。
この日は、桜の木に葉が生い茂り、「桜まつり」のちょうちんが時節に取り残されているようでした。



冠木門側から見た、二層櫓薬医門木橋



石垣のない、顕わになっている土地にそびえ立つ二層櫓。
戦国時代の城であることを実感できます。
石垣が登場するのは戦国時代の末期であり、それまでは土造りの城郭が一般的だったのです。
また採石量の少なかった東日本では、江戸時代以降も土造りの城郭が多く存在していました。


冠木門から中へ。



内側からの薬医門二層櫓

 

二層櫓の中へ。
戦国時代の城を再現するというテーマは、櫓の内部でも徹底されているようです。



二層櫓の先には、井楼櫓【模擬】。



模擬の櫓、つまりはこんな感じのものがあったんだろう・・・というもので、史実には基づいていないのですが、それでも戦乱の世の雰囲気を醸しだすには十分です。



井楼櫓からの眺め。
矢楯がちょっと邪魔ですね・・・



井楼櫓のそびえ立つあたりに、かつての飯沼があったそうです。

 

飯沼に沿って造成されていたであろう土塁
現在は干拓によって縮小してしまいましたが、往時はこの飯沼を挟んで反対側が多賀谷氏の所領で、逆井城(飯沼城)は北条氏にとっての最前線の拠点だったんですね。


曲輪の内側へ。



まずは観音堂【坂東市指定文化財】。
大安寺というお寺にあったものを移築したものだそうです。
その棟板から、建立は天正16年(1588年)で弘化2年(1845年)に改築されていることがわかっています。



その隣り、土塀と共に屋敷を囲っているのが関宿城薬医門です。
こちらも関宿城の城門を移築したものだといいます。



門をくぐると、模擬主殿枯山水
主殿は牛堀(現・潮来市)にあった大台城の主殿遺構を参考に復元したものだそうです。
この主殿も、靴を脱いで中に入れます。



主殿は、右半分が主室で左半分が控室というシンプルな構成。
さすがにこのあたりで戦国の再現するのに手を抜いたのかな~と思っていたら、案内文によるとこれがメジャーな構造だったそうな。



城門から出ます。



さらに内側の一の曲輪へ進みます。
普通城郭の場合、「本丸」「二の丸」などと言い表しますが、逆井城は本丸の場所がよくわかっていないため、便宜的に「一の曲輪」「二の・・・」と呼ぶようです。











複雑に入り組んだ空堀。
通過するものを側面から射撃できる横矢掛りの構造です。

 

一の曲輪と二の曲輪の間で水をたたえているのが、鐘掘池です。

逆井城が北条軍に攻め込まれ落城すると、城主・逆井常繁は戦死。
その妻(娘とも?)・智姫は、代々伝わる釣鐘をかぶって入水し、城の落城と運命を共にしたそうです。
後世の者がその釣鐘を捜そうと池を掘り返してみましたが、釣鐘は結局見つからなかったそうな。

湧水が豊かで、干ばつの時期であっても水が枯れたことはないそうです。
城の生活用水に用いられていたとされています。



二の曲輪から一の曲輪へ。
曲輪の淵に造られている土塁は、どちらかといえば奥にある一の曲輪のものの方が高いように見えます。
この構造は比高二重土塁と呼ばれ、北条家の城郭に見られる特徴的なものなのだそうです。





一の曲輪に入りました。



一の曲輪には、城山大権現がお祀りされています。




一の曲輪に構える櫓門【復元】から、ふたたび二の曲輪へ。



両曲輪をつなぐ木橋と、一の曲輪を守る櫓門
これらは発掘調査で礎石や柱穴が確認されています。
史跡保護のため、これらの礎石などからは少しだけずらした位置にて復元されているそうです。



木橋から眺める空堀、なかなかの深さです。
そして左の二の曲輪と右の一の曲輪とで、土塁に高低差があります。
比高二重土塁の好例といえるでしょう。




空堀に下りてみました。



高い!



この空堀は、鐘掘池のところまで続いています。



空堀から、二の曲輪へ上がりました。



茨城県指定史跡「逆井城跡」の石碑です。
刻字の隷書体と相まって、なかなかに味のある石碑ですね。



二の曲輪をぐるりと回り、



横矢掛りを見つつ、駐車場へと戻っていきました。




最後にちょっとだけ、青空が顔を出してくれました。






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