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鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

三春城・後編~愛姫のご実家?

2019-05-01 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 9 月 1 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 5 6 分

福 島 県 田 村 郡 三 春 町

城 山 公 園 ・ 三 春 城 本 丸



この日の城攻め旅は、「白石リベンジ」
8年前に訪れたけど、まったく登城できなかった白石城を最終目的地としております。
そこでご覧いただきたい、1枚の画。



知る人ぞ知る、ナムコ「独眼竜政宗」
あの独眼竜政宗が、奥羽統一を目指して、頭と金と力を使う、実にわんだふるなゲーム!
そしてこの画は、年ごろになった政宗が嫁を選ぶというシーンです。
この中に、実在していた人物がふたりいます。

ひとりは、右下にいる「小十郎」・片倉小十郎景綱
伊達政宗の腹心で、のちに白石城の城主となります。
今回の旅は、片倉小十郎のお城をめぐっていく旅でもあるのです。

・・・では、小十郎と三春城との関係は?



同じくわんだふるなゲームより。
この画に登場している政宗さんと、下で激怒している秀吉さん。
三春城&小十郎をつないでいるのは、政宗さんではなく秀吉さんのほう。

豊臣秀吉奥州仕置により、小田原北条攻めで参陣しなかった奥州の大名たちは領土を没収されてしまいました。
三春城も没収の対象となったのですが、その三春を秀吉が小十郎に与えようとしたことがあったのです。
「伊達の知恵袋」として名高かった小十郎の才覚を秀吉は認め、大名に取り立てることにより政宗のもとから引き離してしまおうと企んだのですが、
「関白殿下(秀吉)に直接忠節を尽くすことと、政宗様への忠節を通じて関白殿下に忠節を尽くすことは同じ」
と断ったそうです。




そしてもうひとりが、小十郎の上にいる「めご」。
(めご)は、三春城主・田村清顕(きよあき)の一人娘です。
永禄11年(1568年)に生まれ、天正7年(1579年)数え年12歳で伊達政宗の正室となりました。


三春城を登城したこの日は、愛姫生誕450年の記念年・・・なのですが、愛姫の実家・三春ではあまり「愛姫推し」はしていない様子ですね。




さて私は、三春城の本丸にいました。
本丸ということで、スマホさんで「城攻め」を行います。



続日本100名城・第110番、三春城攻略!



ここでは片倉景綱には会えませんでした。
登用できた田村隆顕は、愛姫の祖父にあたります。



三春城の築城時期は不明ですが、16世紀初頭に田村義顕が本拠地として移ってきたことから、歴史の表舞台に上がります。
田村氏は分立割拠する小豪族のひとつで、婚姻政策により命脈を保ってきました。
義顕の孫・清顕は娘の愛姫伊達政宗に嫁がせました。
清顕は男子に恵まれずに死し、三春城は勢力拡大しつつあった伊達政宗の下に置かれ、清顕の甥・宗顕が城主となります。
しかし宗顕は、政宗の指示もあって豊臣秀吉小田原征伐に参陣しなかったため、領地を没収されてしまいました。

その後三春城は会津若松城の支城と位置付けられ、会津を領した蒲生氏郷上杉景勝蒲生秀行などの家臣が城代を務めました。
蒲生氏が改易となると、替わって会津に入った加藤嘉明の三男・明利、次いで松下長綱が城主となり、長綱のときに大改修が行われて現在残る姿となりました。
松下氏が改易されると、秋田俊季(としすえ)が三春藩主となり、秋田氏が明治維新まで三春を治めました。




いったん入口まで戻ります。



本丸を取り巻く石垣は、蒲生家臣・蒲生郷成の改修によるものだそうです。



帰りは階段ではなく、小道となっている坂を下りました。
こちらが本当の裏道だったところで、途中には搦手門が構えていました。



小道を下りきると・・・ここは進入禁止だったようです・・・。




二之門跡まで戻ってきました。
最後に、ここから本丸に続く大手道を上っていきましょう。



二之門跡の駐車場の先に、本丸へと続く大手道があります。



分かれ道は、城山を上っていきそうな左を進みます。
ちなみに右の道は、



竪堀跡、そして三の丸に続きます。



つづら折りの坂道、なかなかに急です。



カーブのところに門が構えられていたようです。
2番目のヘアピンカーブは、揚土門跡
愛姫の父・田村清顕死後の内紛では、この門を挟んで攻防戦が繰り広げられたそうです。
江戸時代の図面に揚土門はないので、改修時に撤去されたのかもしれません。



石垣?・・・ではなくて天然石のようです。



次のヘアピンカーブは、三之門跡
こちらは江戸時代の図面にも記載があります。
本丸まではあと少し。



石垣?・・・ではなく、こちらも天然石。



石垣かな~? 天然石かな~? 考えつつ階段を上りきると、

 

スタンプの絵柄になっている、大門跡から望む本丸に到達です。




午 前 1 1 時 2 4 分

城 山 公 園 を 出 る


二之門跡の駐車場に戻り、レンタサイクルを回収。
これよりJR三春駅に戻ります。



三春町役場の手前にある、三春町歴史民俗資料館自由民権記念館への入口。
入っていくと、



自由民権発祥の地の碑とともに、



河野広中像が立っています。
「自由民権」という言葉・・・・・・明治時代で自由民権運動といえば、連想するのは自由党板垣退助ですね。


明治維新後河野広中はイギリスの政治学者・ジョン・スチュアート・ミルの著書を読んで影響を受け、東北地方の自由民権運動の中心人物となりました。
土佐に下野していた板垣退助とともに国会開設運動をおこし、明治14年(1881年)には自由党の結成に参加しました。
明治15年(1882年)福島県令・三島通庸の圧政による福島事件で検挙され、禁固刑を受けることになってしまいます。
明治22年(1889年)明治憲法発布による特赦で出獄し、のちに開設された帝国議会で衆議院議員に選出されました。


その後自由党の内紛で脱党したり、桂内閣を糾弾する奉答文事件を起こして衆議院解散を招いたり、日露戦争の条約締結に反対する日比谷焼打ち事件を扇動したりと、なかなかのトラブルメーカーっぷり。
同じく対外強硬派であった大隈重信と行動を共にするようになり、大正時代の第2次大隈内閣では農商務大臣を務めました。




午 前 1 1 時 4 0 分

J R 三 春 駅


駅を下り立ってから約1時間半、再び三春駅へ。



駅に戻ってようやく、愛姫のご実家らしいものを見つけたのでした。





三春城・前編~福島なのに秋田さん

2019-05-01 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 9 月 1 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 0 8 分

福 島 県 田 村 郡 三 春 町

J R 三 春 駅



この旅最初に下車したのは、JR磐越東線・三春駅



阿武隈高地にあるこの町にも、続100名城に選定された三春城【三春町指定史跡】があるのです。
今回の「白石リベンジ」の旅にもほんのちょっと関わりのある三春城に、



レンタサイクルの力を借りて向かいます。
三春駅の中にあるばんとうプラザという土産物販売施設の、レジにいるお姉さんがエージェントとなって自転車を貸してくださいます。
自転車には普通のママチャリと電動アシスト付き自転車があり、料金はそれぞれ1日500円、1日1,000円となっています。
丘陵地にある三春を往くには電チャリの方が圧倒的に楽ですが、己の健脚を信じ、経費を節減すべく、ママチャリを借りることとしました。



三春駅を出たら、駅前を通る県道を右に進みます。
(画像のように、県道側から駅を見ている場合は左方向です)
とにかく東へ。



そのまま道なりに市街地方向に進んで、磐越東線の跨線橋を渡ります。
急なアップダウンは跨線橋くらいなものなのですが、地味~に緩やかな上り坂が終始続きます。



三春の市街地に入りました。
左に折れ曲がる急カーブに沿って進みます。つまりは道なりに行けばOK。


右手に三春郵便局が見えてくると、



左側には現在三春小学校の校門となっている藩講所表門【三春町指定文化財】が現れます。
三春藩の藩校・明徳堂の表門だったので、「明徳門」と呼ばれています。

18世紀末の藩主・秋田倩季(よしすえ)により、明徳堂が設置されました。
その表門であったのがこの明徳門で、扁額の揮毫は倩季本人によるものだそうです。
明徳堂は別の場所にあったそうですが、明徳門だけが現存し、三春小学校前に移築されています。

なお、明徳門のある場所は、追手門跡にあたります。
また、現在の三春小学校一帯に、秋田氏時代の御殿があったそうです。


明徳門を過ぎ、三春町役場も通過してしばらく進むと、



「←舞鶴城址入口」の看板が現れます。
「舞鶴城」は三春城の雅称ですので、ここで左に曲がりましょう。



三春城へ続く坂は、お城坂というそうです。



坂の途中から傾斜が急になっています!
つい最近も急な坂を上らされたばかりですが・・・



三春の坂もなかなか・・・ここを進むときだけは、レンタサイクルさんが足手まといになってしまいますね。



きつい坂を上った中腹にある二之門跡
ここから続く道が本丸へと続く正規のルート、すなわち大手道だったようです。
現在は駐車場が設けられており、私もここでレンタサイクルから下りることとしました。



【今回の移動記録】



JR三春駅 10時12分発
福島県道28号・本宮三春線、国道288号、福島県道40号・飯野三春石川線経由
三春小学校(明徳門) 10時22分着
城山公園(三春城址) 10時29分着

*移動距離 2.5km
*移動時間 17分
*速さ平均 8.8km/h  ※最後のお城坂で自転車を手押しした分、速さが伸びなかったですね。




二之門跡付近に立つ、江戸時代初期の三春城想定図。
このときの私は坂にやられていたため、「よくわかんねぇ図だな・・・」としか思わなかったのでした。
白字が江戸時代の三春城、緑色が現在の三春城を表しているようですね。
そして赤い点が現在地を表しているようですが、登城当時は「どれが現在位置だよ~???」と困惑していました。

この案内図をよく読むと、秋田氏入府時」とあります。
先ほどの明徳門のときといい、福島なのに秋田さんなんです。
秋田さん・・・その名のとおり、もとは秋田に住んでいた秋田さんなんです。


秋田さんの祖は、秋田地方に勢力を張っていた安東氏です。
現在の能代市にあった檜山城を居城とし、津軽半島西岸の十三湊を根拠地とする安東水軍、さらには蝦夷地の蠣崎氏とも連携していました。
8代当主の安東愛季(ちかすえ)は最大の版図を築き、「斗星の北天にあるにさも似たり」(北の空で輝く北斗七星のような、北国の名将だ)と謳われました。
愛季が壮年で急死し、子の実季(さねすえ)は若くして当主となると、お家騒動と周辺大名の侵攻の対応に追われますが、所領を守り抜いて豊臣秀吉奥州仕置を迎えます。
実季は秋田の所領を安堵され、秋田周辺の国司にあたる秋田城介(あきたじょうのすけ)にあやかり、秋田に改姓しました。

豊臣秀吉が亡くなり、天下分け目の関ヶ原へ。
出羽国(山形・秋田)では慶長出羽合戦が起こります。
安東改め秋田実季は東軍につきましたが、積極的な軍事行動を起こしませんでした。
西軍の上杉景勝と真っ向から戦う羽目になった最上義光が、戦後に実季の働きぶり(怠けぶり?)を徳川家康に報告したため、実季は常陸宍戸(茨城県笠間市)に移封されてしまいます。

実季の子・俊季(としすえ)の代に常陸宍戸から三春に移り、以降明治維新まで秋田氏が三春藩主を務めました。





レンタサイクルは二之門跡の駐車場に停めましたが、私はお城坂をもう少し進みます。
この日の天気予報は、気象庁によると曇り時々雨。
三春駅から三春城までは雨が降らなかったものの、城内に入って時折小雨がぱらついていました。



への入口。
「の」の字の色を変えて記述するのには理由がありますが、それはのちほど。



二の丸へと続く虎口?のような構造。
先の階段を上がると・・・



現在は児童公園となっている二の丸です。
三春城は、中央の城山に本丸、そこから西と南の尾根にそれぞれ二の丸と三の丸が造成されていて、空で鶴が舞うかのような縄張りを成していることから舞鶴城とも呼ばれています。

あと、ここで三の丸についても言及しているのは、時間の関係上三の丸に足を踏み入れることができなかったためです。あしからず。


二の丸から下りました。



本丸と二の丸を隔てる切通しです。
坂になっており、下れば二之門跡へたどり着きますが、ここは戻らずに上っていきます。



車も乗り入れることができる、山上へと続く道。
本丸へと続いているようなので、ここから上っていきます。



中腹の駐車場と分かれて続く、本丸への階段。
これらの通路や駐車場は江戸時代の縄張図には記載されておりません。
三春城が廃城となり、公園化したときに設置されたものなのでしょうか。



折れている「矢倉跡」の標柱。
このあたりに矢倉(櫓)があったと思っていたのですが、縄張図を参照するとそのような事実はなさそうです。
ただ単に折れた標柱が打ち捨てられているだけでしょうか???



本丸まではもう少し。
この階段もなかなか急ですが、これを上っていくと搦め手(裏道)に合流します。



搦め手に合流しました。
本丸を取り巻いている石垣が、わずかに残っています。
ここの石垣は蒲生氏郷が領主であったころに造成されたものだそうです。




「舞鶴城址」の標柱が立っているあたりに、搦め手を守る本丸裏門がありました。



これよりく本丸・・・



二之丸だと?!
丸はさっきあったじゃないか・・・ん? 二丸?
まぁいいでしょう、その四阿(あずまや)の横にあるのは・・・



100名城・・・じゃなくて続100名城スタンプです!
中にはスタンプに、三春城のパンフレットも入っています。



110番、三春城!
絵柄は・・・「大門跡」の標柱が立っているあたりのようですね、ゆっくり探してみるとしましょう。それにしても・・・

ここは本丸なのか、二之丸なのか?
二の丸はこっちなのか、あっちなのか?


手に入れたばかりのパンフレットを参照すると・・・四阿が建っている空間は「本丸」と明記されています。
そして先ほどの児童公園になっている空間が「二の丸」とあります。

う~~~ん、標柱よりもパンフのほうが新しい研究成果に基づいているだろうから・・・「二之丸」はガセなのかな?
この二の丸が表記ゆれ問題のおかげで、私は最後まで腑に落ちない登城を続けることになってしまいました。


じつはこの「二之丸」、間違いではありません。
現在までに「舞鶴城」と称される三春城は、江戸時代初期に松下長綱が三春藩主であったころに改修されてできあがったものなのです。
それまでは、城の主要部(江戸時代の「本丸」)が区分されており、「二之丸」はそのひとつだったわけです。

ちなみに松下長綱のお爺さん・松下之綱(ゆきつな)は、若かったころの木下藤吉郎(豊臣秀吉)織田信長に仕える以前に仕えていた人物といわれています。
三春城を改修した松下さんはその後改易されてしまい、秋田さんが三春藩を引き継ぐこととなります。



・・・というわけなので、松下氏以前の二之丸をここでは旧二之丸と表記することとします。





旧二之丸の南端から望む、城下町・三春。
三春城を翼広げる鶴になぞらえるならば、ちょうど鶴の頭にあるこの位置に御三階櫓が建っていたそうです。
先ほどの「矢倉跡」の標柱は、このあたりに立っていたのでしょうか。
城下から仰ぎ見ることができたであろう御三階櫓は、三春城にとっては事実上の天守だったのでしょうね。



旧二之丸にある、四阿付近にある礎石と標柱・・・。
気になりますが、それよりも草が深いです。
この日は小雨が降ったり止んだりだったので・・・私の大好きなスネークでも出そう・・・。


よし! ここは後で来よう。




虎口のような狭い構造を経て、



「本丸跡」の標柱が立つ曲輪へ。
この「本丸跡」も、江戸時代以前の本丸を示しています。ここでは旧本丸と表します。
江戸時代以降の本丸は、この旧本丸と旧二之丸の双方を含んでいます。
ここには本丸御殿が建っていたようで、



「奥跡」の標柱がある北側に、城主の住まう奥御殿があったそうです。

 

現在は秋田家祖先尊霊の碑が立っています。
石壇も据えられていてお墓のようなたたずまいなので、私も手を合わせましたが、お墓ではなく石碑なのだそうです。



尊霊の碑のそばには、明治戊辰役三春藩烈士碑が立っています。


幕末、勤皇(新政府)か佐幕(旧幕府)で揺れる中、三春藩の藩論は勤皇でした。
しかし小藩のため、周辺諸藩とともに佐幕派の奥羽越列藩同盟に加盟することを余儀なくされます。
新政府軍が列藩同盟軍の諸城を次々攻略し、次は三春城か・・・。
このとき下級武士であった河野広中は、新政府軍を率いる板垣退助美正(みしょう)貫一郎らと面会し、三春城の無血開城へと導いていきます。

列藩同盟軍はこの無血開城を「裏切り」と非難、同盟軍の陣に身を置いていた4人の三春藩士を死に追いやってしまいました。



三春の無血開城に尽力した美正貫一郎は、その後会津攻略のおりに戦死してしまいます。
板垣と河野のふたりは、後に明治の政界でその名を轟かせるのですが・・・それは後ほど。




奥跡の石壇から見た、旧本丸。



旧本丸の南側は、御殿の大広間があったそうです。



三春城の登城は、ここで折り返し点。
草地にあった礎石と標柱は? スタンプの絵柄の場所は?
板垣退助と河野広中の関係は?
あと、ここの城で生まれたというひとりの女性は?

続きは後編で。





名胡桃城・後編~天下統一の端緒

2019-04-13 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 0 5 分

群 馬 県 利 根 郡 み な か み 町

名 胡 桃 城 址 案 内 所



名胡桃城址案内所



通称「名胡桃倶楽部」の中でひとときの休息と、攻城の資料を得た私は、



いざ、名胡桃城址【群馬県指定史跡】へ。


まず私を迎え撃つのは、三郭(さんのくるわ)丸馬出です。



う~ん、脇に続く空堀が見事です。



じつはこのとき、すでに馬出に立っていたのです。
肌色の部分が馬出で、周囲は空堀
えんじ色の部分に木橋が架かっていたのだそうです。

名胡桃城は案内看板がかなり充実しているのですが、私のような文面をしっかり読まないおバカな旅人にかかっては形無しですね・・・。



少し先の三郭に進み、そこから振り返ったところ。
三郭丸馬出はこのようになっていました。
丸馬出の形式は武田軍の城郭でよく見られる構造で、かつては武田家臣だった真田家も武田流の築城術を承継していたんですね。


三郭に入ります。



三日月状の白いエリアは、丸馬出だったところです。
これを見て、私は「三郭丸馬出はここだ!」と誤解してしまったんですね。
ここは二郭南虎口丸馬出跡で、名胡桃城の増築の際に埋められてしまったそうです。
名胡桃城の増築前は二郭(にのくるわ)が前線にあった曲輪で、増築後に三郭ができたことが判明しています。
埋められた三日月堀の上には、なんらかの建物も設置されたそうです。



三郭と二郭をつなぐ二郭南虎口
通路を曲げることにより攻め手の勢いを削ぐ喰違い虎口の構造になっています。
二郭は周囲を土塁で囲われていて、虎口には櫓門が構えられていたそうです。

 

虎口両サイドの空堀もまた見事ですね。
この空堀は堀切、一枚の平地であったところを人工的に掘って空堀を造成して二枚に分けたものだそうです。
そのときの残土を土塁に用いたのでしょうね。
双方の空堀は幅が異なり、三郭から見て右側が広く掘られています。
これも喰違い虎口を形成するための工夫といえます。

 

二郭南側両サイドの土塁。
城の核心に近い二郭のほうが、傾斜が急になっていますね。
三郭から見て左側の土塁は見張台になっていて、上ることもできます。


沼田城を訪れたあとに名胡桃城を登城すると、「城に来た!」という感じをひしひしと覚えます。
復元された城ですが、なんとも気合の入った復元っぷり。
「来てよかったなぁ~」と思わせてくれる名城です。




二郭に入ります。



まずは見張台の土塁に上がってみます。



三郭の様子。
丸馬出跡の規模がなかなか大きく、出丸といっても差し支えないほどです。
虎口の通路が浅く土橋となっていて、その上に木橋を架けていたようです。



二郭左側に広がる、深い天然の空堀。
その向こうには般若郭が広がっています。
想像図では広い空間に建物が複数建っていることから、家臣の住居があった、あるいは平常時の生活の拠点だったのかもしれません。
現在は駐車場になっています。



二郭の様子。
3つのレンガ色のエリアは、奥から3号掘立5号掘立6号掘立を表しています。
名胡桃城の後期・・・北条が城を乗っ取った時期に存在したと思われる建物の位置を表しているそうです。
郭の中央には通路が整備され、郭の周囲と通路沿いには排水路が巡って、本郭側に排水される仕組みになっていたそうです。



二郭北虎口へ。
こちらは右側に見張台があります。



こちらも喰違い虎口になっています。
その先は本郭です。



こちらの見張台にも上ってみました。
通路沿いにや郭の周囲にあるくぼみは、排水設備を再現したものですね。



高いところから虎口を見ると、通路のカギ折れがよくわかります。
また両サイドに土塁が造成されていて、土塁と通路の交わる箇所には櫓門もあったそうです。
名称は「二郭」ですが、この郭が本丸の役割を担っていたように思えてきますね。



二郭・本郭間の堀切
三郭・二郭間のそれよりもさらに深いものになっています。



木橋からながめる堀切。
左の画像、二郭から見て左側の堀切は、その先で天然の空堀につながっています。
あんな谷に看板が立っていますが・・・誰か下りていく人がいるのでしょうか?
右を見ると、二郭側の堀の傾斜がかなり急峻なものであることがわかります。

なお、木橋を渡った先にも櫓門があったそうです。


いよいよ本郭(ほんぐるわ)へ。



本郭も周囲を土塁で囲われていたのですが、左側が大きく崩落していてコンクリートで補強されています。
こちらは大正から昭和初期にかけて史跡公園化が進んで、桜などの樹木が植えられたり石碑が立てられました。



「県指定史跡 名胡桃城址」の碑
こちらはもう少し時代が経過した昭和43年(1968年)、明治100年記念で立てられたものだそうです。
う~ん、とあるお方と同い年の石碑なんですねぇ~。



奥にある堂々とした石碑・・・



「名胡桃城址之碑」です。
地元で採石された一枚岩の安山岩が村人総出で運搬され、昭和2年(1927年)に立てられたものです。
碑文の揮毫は、戦前を代表する文筆家・徳富蘇峰によります。


名胡桃城は、入口から直線状に三郭、二郭、本郭と続いている連郭式縄張の配置となっています。
しかし・・・



本郭のさらに奥に、もうひとつの郭があります。



狭い空間と細い通路のみのささ郭です。
城の先が崖っぷちであるとはいえ、本郭が露出することを避けるために設けられたものだそうです。
両サイドに土塁が造成され、現在ももっこりとしたところがその名残となっています。
また、郭の先端には搦手門があったそうです。
背後を警戒するというのもありますが、もしものための退路を確保したのかもしれませんね。



ささ郭の先端部に、いつ建てられたかわからない小さなほこらがありました。
屋根のところに、真田のお城にあやかってか、五円玉が6枚並んでいました。



足元にある地図案内を参考に、ささ郭からJR後閑駅方向を眺めます。。
画像中央やや左にある大きな建物がみなかみ町役場です。
あのあたりからここまで、歩いてやってきたんだなぁ~という達成感に浸っていました。



沼田城の方向。
こちらからも沼田城はよくは見えませんが、沼田の城下町は見えるので、2つの城はそれほど遠くないことが実感できます。



ささ郭から戻り、恒例となりつつある、100名城スタンプの画角探しを行います。
二郭南側の見張台に立つと・・・

 

絵柄は「二郭南側見張台からの二郭」にちがいありません。
今回はわかりやすかったですね。



名胡桃城の検分を終え、ふたたび案内所で休息をとっていました。
その私に自然の脅威が迫っていることを、チキンな私は敏感に感じ取っていたのです。





名胡桃城・前編~目と鼻の先

2019-03-24 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 0 5 分

群 馬 県 沼 田 市

J R 沼 田 駅



沼田駅の待合室で、味噌パンバウムクーヘンを頬張りながら、電車を待っていました。



沼田駅はLED発車標がないのでわかりづらいですが・・・
こんどの電車は、11時12分発 上越線 普通電車 水上行きです。



電車は定刻どおりに発車し、



後閑駅で下車しました。
駅名標でもわかるとおり、沼田からたったの1駅。
沼田城から見ればまさに目と鼻の先のところに、今回登城する名胡桃城があったのです。



【今回の乗車記録】

JR東日本 沼田駅 3番線 11時12分発
上越線 普通 水上行き 4両
後閑駅 1番線 11時17分着

*所要時間 5分
*移動距離 5.2km
*運賃 18きっぷ使用(使用しない場合、190円)




午 前 1 1 時 1 9 分

群 馬 県 利 根 郡 み な か み 町

J R 後 閑 駅




無人駅のわりには駅舎が立派な後閑駅
1日平均乗車人数も785人(2017年度)もおり、後閑駅を管理しているはずの水上駅の2倍以上なのです。
(ちなみに水上駅の2017年度の1日平均乗車人数は、385人)

私以外にも、夏休み中の学生と思われる者どもが多く下りて行きましたが、それらは皆路線バスに乗って行ってしまいました。
どうやら、後閑駅から歩いて名胡桃城へ向かおうというのは私一人だけのようです。

後閑駅から名胡桃城へ行ける路線バスは存在しないようなので、意を決して足を踏み出します。





河岸段丘の高台にある後閑駅からの眺め。
ここからあっちへ向かうんだというのが一目でわかります。

駅ロータリーからの道路と、駅前を進む幹線道路・群馬県道61号との交差点には、みなかみ町役場があります。
この交差点を過ぎると、河岸段丘を下る坂へ。



後閑駅から約150メートル。
「月夜野」を示す青看が立っていますが・・・



小さいながらも存在感のある案内看板があります。
名胡桃城への道は、基本的にこの看板に従って進んでいきます。
なので青看を無視して、交差点を左へ曲がります。


しばらくは道なりです。



わき目を振ると、向かいの山肌に立っている看板が見えます。
ああ、あの山の方に向かっていくんだな・・・なかなかキツそうだ・・・。
それにしても、どこまでこの道を歩いていくんだろう・・・不案内な非地元民の私が不安を感じ始める頃、



あと1.9kmの案内看板が立っています。
不安を払しょくする、じつに絶妙なタイミングです。

看板は赤地に真田の六文銭
名胡桃城さんも、沼田城さんと同様、真田の城であることを前面にアピールしているようですね。

 

先ほどから見えていた高規格そうな道路が、眼前に現れます。
ここにもしっかり案内看板が立っているのでこれに従い、ガード下を通らずに右折します。



100メートルほどで、次の分かれ道。
案内看板を見てもちょっとばかり迷うかもしれませんが、細い上り坂の方を進んでいけば正解です。
名胡桃城まではあと1.4kmともう少しですが、ここからがちょっとキツいです。



国道17号月夜野大橋に合流します。
対岸の河岸段丘へと上っていくため、この橋は終始上り坂になっています。



向こうに見えるのは沼田の街と、赤城山



眼下には利根川が流れています。
道は上りでキツいですが、心地よい眺望を楽しむことができます。



対岸から見えていた看板、やはり名胡桃城のものだったようですね。



月夜野大橋を渡り終えても、上り坂は続きます。
道路は崖と森に挟まれ視界は不良、もうひと踏ん張りといったところです。
この日の気温は31℃、水分補給が欠かせませんね。
月夜野大橋から名胡桃城までは民家も自販機も一切ないため、夏場の水分は必ず確保しておきたいところです。



進行方向右側の森が開け、名胡桃城の曲輪と思われる空間が見えてきました。
向こう側には真田六文銭ののぼりも立っていますね。
あと少しです!




午 前 1 1 時 5 9 分

名 胡 桃 城 址


月夜野大橋から続く長い坂を歩くこと20分弱。



右手に、復元された名胡桃城址【群馬県指定史跡】が現れました。
そしてそのそばにある、なんだかモダンな建物・・・



名胡桃城址案内所に到着しました!



【今回の移動記録】



JR後閑駅 11時19分発
国道17号・月夜野大橋経由
名胡桃城址案内所 11時59分着

*所要時間 40分
*移動距離 2.7km
※GoogleMapさんは奇怪なルートを表示していますが、町道(白い道)から国道17号(黄色の道)へは直接進入できます。
 距離もそれほど大きくはないのですが・・・・おかしいですね~。



炎天下を40分近く歩いた私は、まずは涼を求めて案内所の中に入ります。

案内所は名胡桃城を「天下統一のきっかけとなった城」として紹介する資料館になっております。
名胡桃城自体はそれほど歴史の長くない、小城といっても差し支えないくらいのものなのですが、それでもコンテンツはなかなかに力が入っております。

100名城スタンプも案内所にあるので、まずは押印させていただきましょう。



115番、名胡桃城!
今回の絵柄はどの画角なのでしょうか、それを確かめながら登城するとしましょう。


名胡桃城は、天正7年(1579年)武田勝頼の家臣であった真田昌幸によって築城されました。
当時武田家は、内紛の末に家督を継いだ上杉景勝と同盟を組んだばかりであり、その過程で敵対関係となった北条氏政の領有する沼田城を攻略するための前線基地として名胡桃城は築かれたのです。
その後昌幸は、調略をもって沼田城の攻略に成功します。
武田家の滅亡後に独立した真田家は、沼田城奪還をめざす北条家の軍勢をことごとく退けていきました。

天正15年(1587年)関白となった豊臣秀吉は、大名間の私闘を禁ずる惣無事令を発布しました。
さらに天正17年(1589年)いわゆる沼田裁定がなされ、沼田城を含む沼田領の3分の2が北条家、名胡桃城を含む3分の1が真田家の所領とされました。

このとき真田昌幸は、「名胡桃が祖先墳墓の地であるから、せめてこの地だけでも真田に残してほしい」と偽りの主張をしたといいます。
そしてその狙いは、「沼田の者たちは、目の鼻の先にある名胡桃城を目障りに感じ必ず手を出してくるので、そこで堂々と戦を仕掛けて沼田ごと奪い返す」というものだったそうです。


裁定後、北条家は沼田城に猪俣邦憲を、真田家は名胡桃城に鈴木重則を、それぞれ城代として配置しました。
11月3日、猪俣は鈴木の配下を調略し、偽の伝令で鈴木をだまして上田城へと誘導し、その間に名胡桃城を占拠してしまう事件が起きました。
鈴木は岩櫃城に着いたところで計略にはまったことを覚り、恥じて自害してしまいました。
この名胡桃城占拠事件は、猪俣が独断で行ったといわれていましたが、最近では猪俣の上官にあたる北条氏邦の意向があったというのが有力となっています。

真田昌幸はただちに徳川家康を通じて豊臣秀吉に訴えました。
秀吉は天正18年(1590年)3月に軍勢を出立させ、北条家を降伏させました。
沼田領はすべて真田家のものとなったため、不必要となった名胡桃城は廃城となりました。



名胡桃城の資料、パンフレットなどもひと通り頂戴し、



小粋なクリアファイルもいただきました!
名胡桃城さんの好感度もググッと上がってきております!



名胡桃城攻略記念ということで、スタンプをおふたつ。
ちょっと薄くなってしまいましたが・・・ひとつは本郭にある名胡桃城址之碑
もうひとつは・・・ゆる~い真田六文銭ですねぇ。


最後に、涼しい案内所の中で・・・「城攻め」



名胡桃城攻略!
さらに小川城(みなかみ町)と、浅貝寄居城(新潟県南魚沼郡湯沢町)も攻略できました。



名胡桃城占拠事件の当事者、猪俣邦憲さんと鈴木重則さん。
あと、沼田城を築城した沼田顕泰(あきやす)さん。

・・・・・・沼田城で「城攻め」するの忘れてた!

ここまで来てようやく己のミスに気付いたのですが・・・それは置いといて、まずは名胡桃城をじっくりと検分しましょう。
この案内所にはコインロッカーはなかったのですが、係の紳士に尋ねたところ、手荷物を預かってくださいました。


名胡桃城さんの好感度がまたも上昇したところで、城址を検分すべく、暑い暑い外へと出ました。





沼田城・後編~争奪の的

2019-03-24 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 9 時 1 1 分

群 馬 県 沼 田 市

沼 田 公 園





沼田城址である沼田公園へ。



観光案内所で、早々にスタンプをゲットしました。
これで帰ることはなく、沼田城を本格的に登城していきます。




「本丸跡」の石標が立っています。
沼田公園は、かつての本丸を主として整備された公園なのです。
こちらはオミナエシの花壇になっているようですね。
園内は色とりどりの花々に囲まれていて、城址であることを忘れさせられますね。







沼田城のシンボルとなっている、本丸の鐘楼【復元】。
真田信幸(信之)の長男・信吉が城主のころに建てられ、鐘も鋳造されたそうです。
現在ここに吊り下げられている鐘はありません。
信吉が鋳造させた鐘は現存していて【群馬県指定文化財】、市内の中央公民館に保管されているそうです。


鐘楼からさらに進むと、



往時の石垣に囲まれた一画。



狭い通路に崖が迫っており、撮影するのもひと苦労です。



沼田城で石垣がよく残っているこの場所は、本丸西櫓台の跡だそうです。



櫓台の上に植わっているのは、樹齢400年以上の御殿桜と呼ばれているヒガンザクラ



鐘楼もチラ見できますよぉ。



先ほどのチラ見箇所から回り込んできました。
西櫓に上るための石段が備え付けられていたんですね。
これらの石垣や石段は、真田氏の時代から残っているものだそうです。

 

スタンプの画角は、間違いなくココです!





西櫓台をひと回りしてきました。


沼田城の最奥、捨曲輪へ。
こちらは沼田氏時代の沼田城の本丸にあたります。



崖っぷちにあるひとつのいわくありげな石。
平八石といい、真田昌幸によって謀殺された沼田平八郎景義の首が据えられ、首実検が行われたそうです。



そのそばには、平八郎をワナにはめた真田昌幸その人が・・・。
今でこそ「真田の城」!と掲げる沼田城ですが、真田の城になるまでは山内上杉→北条→長尾・上杉→北条→武田(真田)→織田(滝川)→北条→真田→北条→豊臣(真田)と主が目まぐるしく変わっているのです。


沼田城は、天文元年(1532年)ごろに沼田顕泰(あきやす)により築城され、以後は北関東の要衝として上杉、北条、武田といった諸勢力の争奪の的となります。
顕泰は関東管領・上杉憲政の家臣でしたが、河越夜戦で上杉方が大敗したのを機に主家が没落していくと、沼田氏も北条氏康に飲み込まれてしまい、北条綱成の二男・康元が城主となります。
長尾景虎(上杉謙信)が関東に遠征してくると、沼田城は長尾軍が落とし、城代が置かれました。
天正6年(1578年)上杉謙信死後のお家騒動・御館の乱が起きると、北条氏政が沼田城を制圧、金子泰清らを城代としました。
このとき上杉は武田と同盟を結んだ(甲越同盟)ため、武田勝頼真田昌幸に沼田城攻略を命じます。
天正8年(1580年)真田昌幸は金子泰清を調略し、また叔父の矢沢頼綱の軍勢を遣わし、沼田城を無血で占拠しました。

このとき沼田氏の当主であった平八郎景義は、北条軍などの助勢を得て沼田城の奪還をめざして兵を挙げました。
情勢不利と見た真田昌幸は、景清の伯父であった金子泰清を遣わして、沼田城におびき寄せます。
城内に誘われてしまった景義は、泰清らによって殺害されてしまったのです。
こうして沼田氏は滅亡しました。


天正10年(1582年)甲州征伐で武田が滅亡すると、真田は織田信長に下り、沼田城は信長の重臣である滝川一益の臣・滝川益重のものとなります。
しかし本能寺の変で武田遺領が混乱すると、真田は北条氏政に下り、さらに徳川家康に鞍替えします。
北条と徳川が和睦し、その条件に沼田城の割譲を徳川が承諾すると、真田は徳川から離反し上杉景勝に鞍替え。
徳川の第1次上田合戦などの侵略をことごとく退けます。
天正17年(1589年)関白豊臣秀吉による沼田裁定で、沼田城は北条に属することとなったものの、北条の反豊臣姿勢が改まらなかったため、天正18年(1590年)小田原征伐により北条は滅亡。
沼田城は真田昌幸の嫡男・信幸に与えられました。
信幸は沼田城を大きく改修し、本丸には5層の天守が建てられたそうです。

秀吉死後に起きた関ヶ原の戦いで、真田昌幸・信繁は西軍に、真田信幸は東軍に分かれることとなります。
東軍が勝利し、昌幸・信繁父子が九度山に流されると、上田の所領が信幸に与えられました。
このとき上田城は徹底的に破壊されたため、信幸は沼田を本拠とし、名を「信之」に改めました。
信之が松代に加増移封となっても、沼田は真田家の所領のままに据え置かれました。

信之の長男・信吉は父に先だって死し、次男の信政が本家を継いで2代藩主となり、沼田領は信吉の子・信直が領有しました。
しかし信政が死ぬと、隠居していた信之の決定で、信政の子・幸道が継ぐこととなりました。
これに信直が異を唱えましたが、幕府の裁定で幸道が後継と定まり、また沼田藩が分離することとなりました。
沼田藩の藩主となった信直は、松代藩との対抗意識もあって、家格を高めるために石高を大きく見積もったのでした。
そのため沼田藩が課せられた賦役は重い負担となり、これを重税を課することで対応するなどの悪政を敷いたため、天和元年(1681年)には磔茂左衛門の直訴もあって、ついに沼田藩は取り潰されてしまいます。

天和2年(1682年)沼田城は幕命により破却されることとなり、堀も埋められてしまいました。

この後沼田藩は本多、黒田、土岐の各氏が治めることとなりますが、城の復興はなされないまま、明治を迎えたのでした。



捨曲輪の崖っぷちからの眺め。



標高1,123メートルの三峰山
その左後ろに見える・・・



この日は雲に隠れてしまいましたが、谷川岳がそびえています。



利根川が造り出した、河岸段丘の台地を見下ろします。
画像中央から少しだけ左上、対岸の丘陵地・・・



この丘に名胡桃城があります。
沼田城からは、直線距離で5kmも離れていない近さ。
沼田裁定では、名胡桃城は真田方とされており、沼田の北条方からすればさぞかし目障りな城だったことでしょう。
ときの城主もそう思ったのでしょう・・・これが大きな戦乱を招くことになるのですが、それはまた、別の話・・・。



本丸に戻ります。



かつては5層の天守があったこの場所には、真田信幸・小松姫夫妻像が置かれています。


徳川家康が関白・豊臣秀吉に帰順すると、秀吉は真田昌幸を家康の与力大名につけました。
これまでに度重なる抗争を繰り返してきた徳川・真田両家は、関係を緊密なものとすべく、真田信幸小松姫の婚姻を取り交わしました。
小松姫は、家康の重臣で猛将の本多忠勝の娘でしたが、これを家康の養女としたうえで信幸に娶せたのです。

関ヶ原の戦い前、真田家は昌幸と信繁が西軍に、信幸が東軍につくこととなりました。
昌幸の軍勢は居城の上田に戻る際、信幸の居城・沼田城に立ち寄って宿を求めました。

 昌幸「孫の顔を見たくなったので、沼田城に入れてくれんか」

これに対し城に留まっていた小松姫は、昌幸が沼田城を奪取する計略があると見てとって、

 小松「この城はわが夫の城、夫の許しがなければ、たとえ義父様といえどもお城に入れるわけには参りませぬ」

小松姫の抗戦の構えにさすがの昌幸も引き下がり、沼田城近くの正覚寺で軍勢を休ませることとしました。
その翌日、小松姫は護衛を引き連れて昌幸に面会し、孫の顔を見せたのでした。
これには昌幸も「さすがは本多忠勝の娘だ」と感心したのだそうです。





現代的によみがえった夫妻に別れを告げ・・・



本丸御門跡へ。



池ですか???

いえいえ、こちらは本丸堀の名残なのだそうです。
右側にはしっかり石垣が残っていますが、真田家が幕府に提出した城の絵図面によると、この本丸堀だけ石垣が施されていたのだそうです。



遺構はあまり残っていませんが、多くの物語に彩られた沼田城。
沼田城自体の登城はこのあたりで終了なのですが、沼田城を語る上でかかせないもうひとつの城・・・



そこまで行ってはじめて、沼田城・コンプリート!といえるでしょう。
次に向かうのはまさにこのお城なのですが、それは・・・もう少し先のお話です。





沼田城・前編~河岸段丘を登って

2019-02-17 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 8 時 3 8 分

群 馬 県 沼 田 市

J R 沼 田 駅





JR沼田駅を出て、



駅からのびる道を歩いていきます。
駅前は閑散としていて、とても沼田市の中心駅とは思えません。

そして、信号機のある交差点を過ぎた先にある坂・・・



この傾斜!



あっという間に、振り返ると絶景。



沼田駅から上る坂は、瀧坂というようです。



この曲がりっぷりもなかなかの「名坂」ですねぇ。
私はこの時すでに汗ダックダクだったのですが・・・。
左の階段が、沼田城へのショートカットとなっていますが、この階段もなかなか手ごわかったです・・・。

階段を抜けるとそこは・・・



さらなる急坂!
この坂は瀧坂の小径というそうです。



上り坂の左側には、滝のように流れ落ちるであろう水路がありました。
このときは水がかれていましたが、これがゆえに「瀧坂」という名がついているのでしょうか。



この傾斜!!


瀧坂の長さは約900メートル、標高差は約75メートルといわれているようです。
ということで、斜度は平均8.3%らしいのですが・・・実際はもっとキツイです。
ま、あくまで平均が8.3%ですからね。



ほうほうの体で、坂の上に到達。
ここでようやく沼田の市街地に入ります。



真っ赤な真田の自販機。
「戦国無双」真田信繁さんが描かれておりますなぁ。
沼田城さんは「真田の城」ってことで売り込んでいるようですね。


坂の上の道をそのまま進んでいくと、



沼田城址である沼田公園入口に着きました。



【今回の移動記録】



JR沼田駅 8時38分発
沼田公園入口(沼田観光案内所) 8時58分着

*所要時間 20分
*移動距離 1.1km(地図中の○2つの間に屋根つきの階段があります)




午 前 8 時 5 9 分

沼 田 公 園


沼田公園に入ってそのまま100メートルほど進み、



左手に沼田観光案内所が現れます。
100名城スタンプもこちらでもらえます。
沼田城の資料を入手するためにも、ここはぜひとも立ち寄ってきます。



116番、沼田城!
絵柄はどこなんでしょう・・・これは登城してからのお楽しみですね。



「真田の殿に大変身!」のコーナー・・・私はスルーしましたけどね。
左は、真田昌幸割天衝(わりてんつき)之兜皺革包昇梯子文仏(しぼかわづつみのぼりはしごもんぼとけ)二枚胴具足
次は、真田信繁鹿角脇立之兜赤備之具足
右ふたつは、真田信幸唐冠形(とうかんなり)&・・・何らかの具足。

さすがに沼田は信幸兄さんの居城だっただけあって、信幸の甲冑セットだけ2着ありましたが、具足が雑な気が・・・。



案内所に展示されている、往時の沼田城のジオラマ。
沼田城の遺構は、現在ほとんど残っていないのです。

 

 

このジオラマでも、河岸段丘のへりに築城されていることがよくわかります。




外に出ました。
ロータリーに立っているのは、どの真田さんだろう?
そしてひっそりと立っている胸像は、誰だろう???



近くに立っている碑文。
寿楽園碑というそうで、廃城となっていた沼田城が公園に整備された経緯が刻まれているそうです。
そしてこの公園を私費を投じて整備したのが、胸像にもなっている久米民之助です。
彼自身はこの公園を「寿楽園」と名付けたようですが、市民は「久米公園」と呼んでいたそうです。
その後この公園は「沼田公園」となり、現在に至ります。


荒廃していた沼田城は、久米の尽力で整備されたものの、遺構が保存されることとなったのですね。
先人の努力に感謝しつつ、沼田城へと参ります。





高島城~諏訪の浮城

2018-12-29 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 1 9 日 ( 日 )

午 前 9 時 3 2 分

長 野 県 諏 訪 市

J R 上 諏 訪 駅



早朝からの乗り鉄の末、私が下り立ったのはJR中央本線・上諏訪駅



上諏訪駅の周囲には、諏訪湖諏訪大社といった観光地が目白押し。
その中で私が訪れるのは、「諏訪の浮城」とも称される高島城です。

上諏訪駅から高島城までは、最短経路でだいたい1キロほど。
この日は最終的に千葉の柏に戻る日帰り旅なので、諏訪に滞在できる時間はわずか1時間半ほど。



そこで今回もレンタサイクルに頼ります。
国道20号線に面している上諏訪駅東口の近く、駅レンタカー 上諏訪事務所で自転車をゲット。
2時間で500円。やや割高な感じもしますが、文句は言ってられません。
この自転車にまたがって、高島城へ。




Google Map先生のご指導にしたがい、城下町の雰囲気ある小路に入りました。
おやおや、なんとも老舗感たっぷりの店構えですね・・・



この味噌蔵の脇にあった立て看板。
どうやらこのあたりが高島城の三之丸だったようです。



そしてこの丸高味噌蔵は、国の登録有形文化財とされています。
保有するのは神州一味噌株式会社
「シンシューイチ シンシューイチ おみおつけ♪」のCMでおなじみ?(最近はあまり耳にしませんが)の神州一味噌です。
最近まで、私は「シンシューイチ」=「信州一」だと思っていました。どうでもいいことですが。


小路を進んでいくと、



中門川三之丸橋がかかっています。
この先が二之丸ということになります。
その前に・・・



三之丸橋の脇にある三之丸湯跡
信州を代表する温泉地である諏訪、城内にも出湯があったのですね。


高島城は、三之丸・二之丸・本丸が一筋になっている連郭式の縄張りとなっていました。
連郭式の縄張りはその奥行きの深さから、大手(正面)からの攻撃には強いのですが、搦め手(裏手・脇)からの攻撃には本丸が顕わなため脆いのです。
ですが高島城は、曲輪の脇は河川と湿地で囲まれ、本丸が面する裏手は諏訪湖があったので、連郭式の弱点部分は補われていたのです。


さらに小路を進み・・・



見えてきました、復興天守です!



「きけん立入禁止」のテープがちょっと残念。



白いワンボックスがちょっと残念。



周囲に駐輪場が見当たらなかったので、天守そばの敷地を拝借させていただきました。



お濠を歩きながら、天守を仰ぎます。
本丸へは、冠木橋を渡って入ることができます。



冠木橋からの天守。
水濠に映る逆さ天守も見事です。



こちらは復興角櫓
ふつう「すみやぐら」は「隅櫓」と表記するのですが、高島城のそれは古図面にしたがって「角櫓」という表記になっています。
それよりも目を惹くのは、苔むした野面積みの石垣。
築城された江戸時代初頭当時のもので、水濠ともども諏訪市の文化財に指定されています。



それでは本丸へ。



復興された冠木門をくぐります。
形式はれっきとした櫓門ですが、名称は冠木門。
築城当初は、木を組んだだけの冠木門だったのですが、櫓門に改築された後も「冠木門」の名称は残ったそうです。

 

冠木門左右の野面積みの石垣が、また見事。




現在は高島公園として公園化した本丸。
往時には本丸の敷地の大部分を占めた御殿が建っていました。
そして泉水が流れるこのあたりには、御殿とは独立した能舞台が建っていたようです。



冠木門の左に位置する復興角櫓
現在はお茶屋として営業しているようです。
角櫓のそばに立つ高島城のキハダ【諏訪市指定天然記念物】。
この地方最大のキハダとされていて、樹齢は約130年だそうです。



特徴ある植込み。
城主を務めた日根野氏諏訪氏の家紋かとも思いましたが、どうやら違うようです。
何の紋様なんでしょう???



本丸の脇を守っていた持方月櫓の跡
現在は高島公園の裏口となっています。

 

こちらの石垣もまた、見事ですね。


再び本丸へ。



本丸の一角に鎮座する諏訪護国神社
その近くに・・・

 

三之丸御殿裏門【移築現存】があります。
高島城は、本丸だけでなく三之丸にも御殿が建っていたそうです。
現在はこの門が移築されていますが、かつては御川渡御門という門があったそうです。
ここはちょうど高島城の裏側、この門の先はかつては諏訪湖の湖面が広がっていました。




いよいよ天守へ。



天守内は資料館になっています・・・って、どこのお城もそうですね。
入場料は、大人300円です。


諏訪湖の湖畔に建ち「諏訪の浮城」の雅称をもつ高島城
その始まりは現在より北に位置する茶臼山にあった山城でした。
中世にこの地方を領有した諏訪氏によって築城されましたが、武田信玄が諏訪氏を滅ぼしたのちは、武田の重臣が城主を務めました。

天正18年(1590年)に豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると、諏訪地方には日根野高吉が領主ととして入りました。
高吉は元禄元年(1592年)から7年かけて湖畔に高島城を築き、諏訪の城下町を建設しました。
関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)日根野氏は下野国(栃木県)に移り、代わって諏訪頼水が2万7千石の石高で入り、諏訪氏がこの地に返り咲いたのです。
以降、明治維新まで諏訪氏が高島城の主としてこの地を治めたのです。







天守からの眺め。
近くに見える湖はもちろん諏訪湖です。
かつては湖面が天守の足元にまで迫っていたのですが、現在は湖の周囲に建物がひしめいているかのよう。
忍城ほどではないにせよ、高島城も「浮城」というには想像力が必要なようですね。

そして、続100名城スタンプ・・・



いささか控えめながら、第1層にありました。



130番、高島城!
絵柄はおそらく冠木門から見た復興天守でしょうか。
そして「城攻め」も忘れずに・・・



高島城、攻略!
ついでに花岡城(長野県岡谷市)も攻略できたところで、高島城の登城はここまで。





忍城・後章~治部少輔の苦悩

2018-11-25 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 1 5 日 ( 水 )

午 後 4 時 3 8 分

埼 玉 県 行 田 市

秩 父 鉄 道 行 田 市 駅 前



行田の郷土料理・フライを食べたあとは、ひとまず行田市駅前にやってきました。
Google Map先生によると、駅前のロータリーに「埼玉県名発祥の地行田の碑」なるものがあるとか。
ちょいとばかりに興味を惹かれた私は、ママチャリを走らせてみると・・・



これ??
この柱時計が「埼玉県名発祥の地行田の碑」なのでしょうか?
たしかに「埼玉~」とは記されていますが、これは碑(いしぶみ)ではありません。
こっちは「なんで埼玉県というネーミングがされたのか」という由来を知りたかったのですが、そういった内容が記されているものは付近に見当たりません。



「さきたま古墳 2.6Km」
さきたま古墳・・・埼玉県というネーミングに深い関係がありそうなところですね。
そういえばこの古墳のあたりに、忍城水攻めの際に石田三成が本陣を構えたそうです。




「浮き城の街 行田」
・・・・・・私はまだ浮き城らしい場面をまったく見ていませんが・・・・・・。




午 後 4 時 5 1 分

水 城 公 園


行田市駅から1km強、水城公園



忍城は、付近の利根川から水を引いた沼沢地にありました。



天然の水濠を擁した堅城であり、「関東七名城」のひとつに数えられています。
(残りの6つは、河越城(川越城)、厩橋城(前橋城)、金山城、唐沢山城、宇都宮城、太田城。太田城の代わりに多気城が挙げられることも)



その沼沢地は、廃城後に多くが埋め立てられてしまいました。



水城公園は、かつての忍城を取り囲んでいた沼沢地の残存部分を公園化したものだそうです。





忍城の登城は、これにて終了~!




午 後 5 時 1 0 分

さ き た ま 古 墳


これからは、忍城を攻略しようとした石田三成の事蹟を追っていきます。



やってきたのは、水城公園から約2.5km離れたさきたま古墳公園





入口から桜並木が続いていますが・・・



この並木が石田堤の跡なのだそうな。



桜並木の先にある丸墓山古墳【国指定史跡】。
円墳の中では日本最大規模のもので、頂上まで登ることのできる数少ない古墳なのだとか。
この丸墓山古墳の頂上に石田三成は陣を張り、忍城を望みつつ堤防工事の指揮をとったのでした。


豊臣秀吉が20万超の軍勢をもって起こした小田原征伐
秀吉率いる本隊は小田原城へと進軍。
対する北条氏政・氏直は、諸将を小田原城に召集して防御を固めます。
上杉景勝真田昌幸ら近隣の諸将率いる別働隊は、八王子城鉢形城などの周辺を各個撃破していきました。
忍城も、城主・成田氏長は小田原へ参陣してしまい、叔父の泰季やすすえといとこの長親ながちかが留守を預かることとなりました。

天正18年(1590年)6月4日、石田三成・大谷吉継・長束なつか正家らの軍勢が忍城へと着陣しました。
また常陸国の大名・佐竹義宣らも加わります。
しかし忍城は天然の水濠を擁する堅城、大軍勢をもってしても攻め落とすことができませんでした。

三成は忍城を望める丸墓山に陣を張り、付近の地形を研究します。
そして、秀吉が行った天正10年(1582年)の備中高松城の水攻めを参考に、忍城を水攻めにすることを考案しました。


備中高松城は周辺が盆地であったのに対し、忍城は辺り一面が平野。
忍城が水攻めに適さないのは明らかなのに、水攻めを選ぶあたり三成は戦下手・・・

・・・というのはフィクションであり、三成も水攻めにはきわめて消極的であったようです。
水攻めにこだわったのは、三成でなく秀吉であったようです。



三成は、ここ丸墓山を拠点に工事を始めました。
私は、丸墓山で「城攻め」



遠くの羽生城を攻略できました・・・が、石田治部どのはいらっしゃいませんねぇ。


さきたま古墳公園に隣接するさきたま史跡の博物館にて。



本物の埼玉県名発祥之碑です。
このあたりは律令制が成立した時代から、「前玉さきたま郡」が置かれていたようです。
明治4年(1872年)11月14日の太政官布告により、入間県と埼玉県が置かれました。
「埼玉」の名称が採用されたのは、当時の埼玉郡が領域内で最も広かったからだそうです。




午 後 5 時 3 5 分

埼 玉 県 鴻 巣 市

石 田 堤 跡


さきたま古墳から約3kmほど進み、いつの間にか行田から鴻巣へ。







石田堤がよく残っています。


豊臣秀吉の強い意向を受け、不本意ながら水攻めにとりかかる石田三成
しかしそこは秀吉配下随一のスーパー官僚というだけあって、28kmもの堤防をわずか一週間で築き上げたといいます。
堤防といっても、小高い地形を巧みにつなぎ合わせたものだったようです。





反対側からの画。
堤防の感じがよく出ています・・・?
このあたりの堤は、もとの地形に1~2メートルほどの盛り土を加えたものだそうです。


こうして完成した、長大な堤防。
あとは付近の利根川荒川から水を引くだけ。
しかし水を引いても、忍城の本丸は水没しません。
このことより、「忍の浮き城」の異名が出たといいます。





石田堤のそばを流れている忍川



かかっている橋は堀切橋です。
このあたりで石田堤が崩壊して水が流れ込み、豊臣方に多くの死者が出てしまったそうです。
一説では籠城方がひそかに仕掛けをし、堤防を破ったともいいます。


忍城の水攻めは開始されたものの、目覚ましい効果は上がりませんでした。
また、堤防の決壊で豊臣軍に死者が出る始末。
こうして水攻めは失敗に終わった・・・のではなく、豊臣軍はこの後も継続して堤防工事を行っていたようです。

忍城攻防戦の後半は、浅野長吉(長政)、上杉景勝、真田昌幸らの援軍も加わります。
指揮者は三成から長吉に代わり、一度力攻めを行い成果を上げます。
しかし秀吉はその成果を賞賛しつつもあくまで水攻めを厳命、大軍勢も引き続き堤防工事に従事しました。
秀吉は「武蔵一帯を視察に赴く。その際に水攻めの堤防も見に行くから、しっかり工事しとけよ」なんて文を送っています。



史跡として残っている石田堤の見学は、ひとまず終了。
この場にて「城攻め」してみると・・・・・・石田さんはいらっしゃいませんでした。




午 後 6 時 0 9 分

埼 玉 県 行 田 市

J R 行 田 駅




約5km弱移動し、JR行田駅に戻ってきました。
忍城の登城旅も、終焉に近づいてきています。


攻略開始から1ヶ月経過し、なおも陥落しなかった忍城。
その戦いにも、終焉の時が訪れます。
北条家の棟梁・北条氏直は、秀吉の軍師・黒田官兵衛の説得に応じ、小田原城を開城して降伏します。
忍城は、小田原に詰めていた当主・成田氏長の命により開城することとなりました。

小田原開城まで落城しなかった、唯一の城・忍城。
この戦いにより石田三成は、世間より「戦下手」の烙印を押されてしまいます。
しかし、忍城水攻めに協力した上杉景勝、真田昌幸、佐竹義宣ら多くの大名が、のちの関ヶ原の戦いでは石田方に味方しているのです。



石田治部の苦悩を偲びつつ、レンタサイクルを返却。



「返却時刻の午後4時を大幅に過ぎまして、どうもすみませんでした」
自転車を所定の場所に戻し、カギを案内所のポストに投函し、忍城の旅は終幕。





忍城・前章~のぼう様の浮城

2018-11-25 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 1 5 日 ( 水 )

午 後 2 時 5 0 分

埼 玉 県 行 田 市

J R 行 田 駅



この日ラストの続日本100名城は、第118番・忍城おしじょう

忍城の最寄駅は、秩父鉄道線行田です。
私が下り立ったJR行田駅は行田市の南西部のはずれにあって、忍城までの道のりは4kmほどあります。
しかし行田市駅までは、いったん行田駅をスルーして熊谷駅まで進み、そこから秩父鉄道線に乗り換えなければなりません。
スマホさんで時刻表検索をしてみても、行田市駅に向かうのは少なからぬ時間のロスを招いてしまいます。



そこで今回もレンタサイクルを利用します。
行田市の観光案内所がJR行田駅のそばにあって、そこで自転車を借りることができるのです。しかも無料!
ただ利用できる時間が夕方4時まで・・・なのですが、忍城に行ってとんぼ返りしてもギリギリの時刻。
観光案内所の淑女は言いました。

「万が一(←ここ重要)夕方4時を過ぎましたら、自転車はもとの場所に返して、カギはポストに入れてください」

というわけで、午後4時に自転車を返却できるよう努力することとして(←ここ重要)、忍城に向けて出発します。



まず、JR行田駅のロータリーからのびる道路をひたすら進んでいきます。
駅前の国道17号・中山道をスルー。
そのまま進むと、今度は道幅がとても広い国道17号バイパスに当たりますが、ここもスルー。
そして、バイパスの次の信号を左折します。
あまり目立たないのですが、忍城の方向を示す案内看板もあります。

駅から続く幹線道路から住宅街を通る生活道路に入ったら、あとはそのまま直進するだけ。
すると・・・



忍城のシンボル・模擬三階櫓が突如現れたのでした。




午 後 3 時 1 2 分

行 田 市 郷 土 博 物 館


模擬三階櫓がある行田市郷土博物館へ。



画になりますなぁ~。



こちらが郷土博物館の入口、三階櫓へはこちらから入ります。


その前に博物館前で「城攻め」を・・・



忍城の攻略、成れり!



成田氏館も攻略できました・・・おやおや、誰がいるのか?



「のぼうの城」御一行様、推参!
石田三成率いる豊臣軍2万に徹底抗戦した者たちだけあって、なかなかの能力値を誇りますね。


それでは館内へ。
展示は、江戸時代までの忍城にまつわる歴史と、明治以降のたび(足袋)生産地となった行田の2つのテーマが中心となっていました。
忍城の歴史では、忍城水攻めがクローズアップされていました。

・・・残念ながら撮影禁止のため、画像はありません。


忍城は、文明10年(1478年)ごろに山内上杉氏配下の豪族・成田正等しょうとう顕泰あきやす父子によって築城されました。

永禄2年(1559年)上杉謙信が関東に遠征してくると、成田氏の当主・長泰はこれに従いましたが、謙信によって鶴岡八幡宮で恥辱を受けたために北条氏康に鞍替えしました。
永禄6年(1563年)長泰は謙信の猛攻に屈し、家督を嫡男の氏長に譲ります。
氏長も当初は上杉方でしたが、やがて北条氏が関東に勢力を拡大してくると、北条氏に鞍替えしました。

天正18年(1590年)豊臣秀吉が関東に攻め込んでくると、城主であった氏長は小田原城にて籠城することとなります。
忍城は叔父の泰季やすすえといとこの長親ながちかが守ることとなり、石田三成率いる2万の大軍に対し2,000の兵で籠城。
三成は忍城を水攻めにすべく長大な堤防を造成しましたが、忍城は落城せず、小田原城の降伏の後に開城することとなりました。
このことが「忍の浮き城」という別名の由来になっています。
忍城攻防戦の後、成田氏は下野国(栃木県)烏山へと移ることとなり、忍城を含む関東一帯は徳川家康の領国となりました。

以後松平氏を経て阿部氏が城主となり、184年にわたり忍10万石を支配しました。

明治維新においても戦火を免れ、明治6年(1873年)の廃藩置県の後は忍県の庁舎がおかれました。
しかし同年競売にかけられて、忍城は解体されてしまったのです。



別棟の三階櫓へ。
「忍城鳥瞰図」という史料をもとに、鉄筋コンクリート造で外観復興されました。
しかし建てられた位置は史実とは異なっているため、お城業界では「模擬櫓」ということになります。



三階櫓の最上階から、北を眺めます。
遠くには群馬県の名山・赤城山がそびえています。



西には、秩父連峰
天気が良ければ富士山も見えるようですが、この日は雲が多かったため見えませんでした。



南側。一軒家の住宅がぎっしり。



東側。行田の中心街が見渡せます。
かつての忍城の面影は、このようにほとんど消えてしまっています。
行田の街が発展してきたために、三階櫓を史実とは異なる場所に復興せざるを得なかったのかもしれませんね。



残るは100名城スタンプ。
公式ガイドによると、この郷土博物館の中にあるとのことですが・・・



スタンプは入口にある2枚の自動ドアの間にありました。
意外と見落としがちな場所ですね。



118番、忍城!



絵柄はおそらくこちらでしょうか。
一番画になりそうな画角を、スタンプも採用しているようです。



忍城の登城はいちおう達成したし、スタンプも回収しましたが、はっきりいって消化不良。
「忍の浮き城」だって? ぜんぜん浮いてないじゃないか!
そういうわけで、行田の街をもうひと回りすることとしました。





笠間城・後章~天敵多数!

2018-09-17 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 1 5 日 ( 水 )

午 前 1 1 時 2 9 分

茨 城 県 笠 間 市

笠 間 藩 城 主 下 屋 敷 跡



この日訪れるお城、2ヶ所目は笠間城です。
笠間城は、標高約200メートルの佐白山に築かれた山城。



佐白山の山麓にある城主下屋敷跡
ここから本丸への登山道が続いていると、井筒屋のおじさまがおっしゃっていました。

しかし観光案内所のおばさまは、先に進んだところにある駐車場からの道を推奨していました。
そこで・・・・・・



きつい山道をちゃりんこで進んでいきます。
その途中にあるのが九ちゃんの家



今にもつぶれてしまいそうな廃墟ですが、この家はかつて坂本九の一家が川崎から戦時疎開して住んでいたそうです。



すぐ近くには「上を向いて歩こう」の歌碑も立っています。


さらにきつい山道を進んでいくと、



路上に落っこっている巨石、大黒石です。
伝承では、鎌倉時代に佐白山の僧兵が攻め込まれたとき、この石を転がして難を逃れたといいます。
しかし・・・

・・・・・・ぶ~~ん・・・・・・


立ち止まってたったの2秒、蚊の羽音が耳に入ってきたのです。
これから登るのは山城、そして私の手持ちの荷物に虫よけスプレーはありません。


大黒石から少し進み、千人溜駐車場に着きました。



落ち葉や枯れ枝がそのままになっていて、あまりきれいな駐車場ではありません。
もう少し清掃なり手入れをした方がいいんですけどね・・・。

それよりも、登山道の入口を阻んでいるバリケード!
これって、ここからは入れないということでしょうか・・・?
城攻め旅で私の行く手を幾たびも塞いできた天敵・「立入禁止」。
観光案内所の職員どもは、こんなところを勧めてきたのか?!

・・・いやいや、そんなはずはない。
よくよく見れば「車両進入禁止」とあるではないか。
「立入禁止」のバリケードは、車両進入禁止をさらに強調するために置かれているのだ、そうにちがいない。
だいいち、観光案内所の職員さんが、立入禁止の場所を案内するのはおかしいし、立入禁止の事実を把握していないのもおかしい。
ということは、車両は入っちゃいけないが、歩行者は入っても構わないということになるんじゃないか?

そう解釈して、強行突入。




ほどなく、大手門跡に到着。

・・・・・・ぶ~~ん・・・・・・


立ち止まって2秒も立たないうちに、耳に入ってくる不快な羽音。



大手門から続く道を阻むかのように造営されている石垣
大手門を突破した敵軍勢は、この石垣の出っ張りのために曲がって進むことを余儀なくされ、進軍の勢いを削がれてしまうという仕掛けです。

・・・・・・ぶ~~ん・・・・・・




笠間城は、関東では珍しく石垣をふんだんに用いた城郭であります。
笠間の地は、現在でも御影石の採石が行われているくらい、採石に適した地。
江戸城のように、他の地域から石を取り寄せることもなく、石垣を造成することができたのでしょう。

・・・・・・ぶ~~ん・・・・・・


もうガマンならん! ヤブ蚊の大群め!!




午 前 1 1 時 5 8 分

笠 間 稲 荷 神 社




せっかく笠間に来たので、笠間稲荷神社でお参りをすることにしました。



楼門をくぐり、



右側にある立派な藤棚は八重の藤【茨城県指定天然記念物】で、樹齢は400年なのだとか。



拝殿の裏に回り込んで、本殿【国指定重要文化財】。



この日は暑く、境内ではミンミンゼミが盛んに鳴いていました。



・・・・・・笠間城にはヤブ蚊がいなくなる冬に登るとしましょう。